月に吼える   作:maisen

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第参拾漆話。

 太陽の光を受け鈍く輝きを放つ月の大地の上を、後方に光の糸を引きながら矢の如く加速していく存在と、そのやや後方をロケットもプロペラも羽根も無く、ただ意思と竜神の力で疾走する存在がある。

 

 一点を目指して突き進む二人の前には、人間の存在を許さない、呼吸も、体温の維持も、身体機能の活動さえも許さない冷たく暗い空間が、ただ敷き詰められていた。

 

『――! ミス・美神! 横島・さんの発信機・反応・途絶!』

 

「・・・っ! 大丈夫、まだ生きてるわっ!」

 

 一瞬、絶望に染まりかけたアンドロイドの表情に希望の色と疑念の色が浮かび上がる。

 

 希望の元は美神の言葉のみ。

 

 だが、事、こう言う場合と状況では嘘を言わない人物である、とマリアは判断する(しんじた)

 

 疑念の元も美神の言葉。

 

 忠夫のバンダナに仕込まれている筈の発信機、そこからの信号の途絶。

 

 普通に考えれば、耐火、耐水、対衝撃、六道家の十二神将の殺到にさえ耐え切った実績のあるそれが壊れるほどの事態の発生を意味する。

 

 ――はたして、それはこの環境の中ではどれだけ致命的な事か。

 

 だが、速度を落として並んだ美神の手の中にある機械は、そのモニターは、確かに動く点を表示している。

 

「周波数はコレ。バンダナが取れたか発信機が壊れたか知らないけど、竜神の装具が暫くの間は横島君を守るわ。でも――」

 

『・・・該当周波数に・動的反応・有り。宇宙服に・該当する装備・無し』

 

「厄珍堂の発信機。見舞いのフライドチキンと一緒にお腹の中、1ヶ月は持つって話よ? 万が一、六道学院の強化合宿に付いて来られた時用だったんだけど、塞翁が馬ってやつね!」

 

 何処か冷たい半眼で美神を見ているマリアはさて置き、得意げに受信機のスイッチを幾つか弄る美神。

 

 モニターの表示が何度か切り替わり、そして求める距離単位の映像が写った。

 

 手の届く距離まで接近し、美神の横から受信機を覗き込むマリア。

 

 その光学センサーに映し出されたのは、高速で、こちらから離れるように動きつづける光点。

 

 直線的な動きでなく、まるで何かを追いかけているようなその動き。

 

『即時の・救援を・提案!』

 

「駄目よ。多分、あんたじゃ相手が悪すぎる。私に任せて、あんたは――」

 

 停止し、美神が指差したのは、後方。

 

 振り向いたマリアのセンサーが感じ取ったのは、先程脱出した、宇宙船。

 

「あれを、何とか確保しておいて。竜神の装具のエネルギーが切れたり酸素が無くなったりしたら、私も横島君も死ぬわ」

 

 高速で演算。

 

 提案の妥当性・合理性を確認。

 

 想定外のエラー、発生。

 

 再起動、再確認――認証。

 

 想定外のエラー。

 

 原因不明、対処不可。

 

 要再起動。

 

 再起動――

 

「迷ってる時間はないわ。頼んだわよっ!」

 

 動きを止めたマリアの横を、最大加速で美神がすっ飛んでいく。 

 

 それを押し留め様とした手を、困惑の目で見つめながら。

 

 マリアは、その手を胸元に当て、もう片方の手できゅ、と握り締めた。

 

『・・・機械でも・迷う事が・出来るのですね』

 

 感慨深げに、だが未練をふんだんに塗した表情を、誰も見る者のいない虚空に残しながら。

 

 マリアは、月面に荒く着陸した船に向かって全力で加速した。

 

 プログラムではなく、ただ、己の思いを判断基準に置いて、たった一つの答えを胸に。

 

『確保後・直ぐに・貴方の・元へ――!!』

 

 アンドロイドの少女は、迷いの全てを振り切った、凛とした表情で虚空を駆ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――数分前。

 

 冷たい月の砂漠の上に、大の字で寝転がる忠夫が居た。

 

 そして、そこからほんの数歩の距離を保って、刺叉を地面に突き刺して、それを背もたれ代わりに肩膝を立てて座る魔族の女が1人。

 

 名を、メドーサ。

 

 振り仰いだ、何も無いが故に黒く見える空に浮かぶ青い星で、3度、忠夫と争った敵対関係にある筈の、蛇の性を持った魔族である。

 

 初めは、日本。

 

 竜神族の王女を狙った作戦で、最後の最後で邪魔をしてくれた厄介者。

 

 次も、日本。

 

 GS協会に浸透する為の作戦で、マリアと言う機械の少女と共に邪魔をしてくれた敵。

 

 そして、香港。

 

 原始風水盤の一件で、こちらのココロを揺るがしてくれた・・・何なのだろうか?

 

 答えは出ない。

 

 今この場で出す気も無い。

 

 目前の男の為に、最早この身に利用価値など見出されていないに等しい。

 

 こんな、上手くいけば幸運な、程度の。

 

 しかし、無事に帰れるかどうかは未知数の、こんな作戦に駆り出され、あまつさえ、おそらく本命であろうもう一つの目的にもまともに係わってはいない。

 

 利用価値の無い者に対する強者の態度など、神話の時代よりも昔から代わり映えしない。

 

 捨て駒ぐらいに扱われ、最後にゴミのように捨てられるか。

 

 若しくは、この作戦で――

 

「・・・くだらない」

 

 馬鹿馬鹿しい。

 

 だからどうした。

 

 元より道を外れた外道の身。

 

 今まで同じようにやってきた事を、同じようにやられるだけの事。

 

 ならば、その策を食い破って、必ず逃げ延びてやる――そんな考えさえも浮かばないほど、メドーサは何かに疲れていた。

 

「――ああ、何もかもがくだらないねぇ。くだらな過ぎて・・・笑う気も起きない」

 

 神に、神族に疎まれたあの日から。

 

 道を外れたあの瞬間から。

 

 もしかすると、そのずっと前から。

 

 逃げた所で、逃げ延びた所で――帰る場所など、在りはしない。

 

「だから、さ」

 

 忠夫を見る目には、疲れた色の中にも燃え盛るような色がある。

 

「ちょっとだけ、さ」

 

 そして、その何分の一かだけ、何かを求める色がある。

 

「・・・迷ったんだ」

 

 目を瞑り、息を整え、己のコンディションを調整する。

 

 最も強く、最も誇り高き己を見せつける為に。

 

「・・・ふん。悪党は悪党らしく、何処までも行かなきゃならないのさ。降りる事なんて、ハナから無理だ」

 

 時を待つ。

 

「迷ってるあたしなんざ、あたしじゃないんだ。だから・・・」

 

 男が、微かに動いた。

 

「これ以上、迷わせて、くれるな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 狼頭の侍が、張り詰めた空気の中、月光を吸い込み巨大な輝く渦へと変化した水面を凝視する。

 

 地面にその尻を突き刺した釣竿の柄を柔らかく握り、新たに口を膨らませると幾つかの小さな玉を足元に吐き出した。

 

 唾液に濡れている訳でも無いそれは、柔らかく光りながらその表面に同じ文字を浮かべている。

 

 無言のまま、瞬きすらする事無く渦の中心を見つめる目が、何かを見つけて一気に集中の度合いを跳ね上げた。

 

 月の色に、蒼白く輝く渦の中心から。

 

 

――真っ黒な手袋を付けた手が生えていた。

 

 

 両足を地面に思い切りめり込ませ、釣竿を握る手に力を篭めて電光石火の速度で振り上げる。

 

 先端についている釣り針が、重りのようにその手の周りをくるくると回って、それを追いかける釣り針が絡みつく。

 

 そして、次の瞬間。

 

 手から、漆黒の力が溢れ出す。

 

 それはまるで触手のように蠢きながら、何本も、何十本も、何百本もの大木がいきなり出現したように吹き上がる。

 

 どれほど渦が荒れ狂おうと、月光が降り注ごうと、小揺るぎだにしなかった空間が、唸りを上げて軋み出す。

 

 しかし、今にも砕け散りそうなその場所は、まるで触手を受け止めるようにその先端と溶け込み始める。

 

 それに舌打ちしながら、狼頭の侍は足元の玉を渦に向かって蹴り飛ばした。

 

 何時の間にか表面に浮かんでいた文字は、『封』。

 

 幾つも幾つも、水面に浮かび上がり、時には沈みながら渦の中心へと流れていく。

 

 中心部の水面は、徐々に蒼白い輝きを失って黒い輝きを放ち始めている。

 

 そして、最初の一個が辿り着く。

 

 手が、ぴくん、と小さく震えたかと思うと、突然ばたばたと慌てたように動き出した。

 

 その手から溢れる奔流も勢いを増し、全身の力を振り絞って耐える狼頭の侍にも余波が襲い掛かる。

 

 牙をさらけ出し、両足を更に地面に喰い込ませながら、それは最後に転がっていた2個を、手に持った竿に叩き付けた。

 

『迷』『彩』と書かれたそれを。

 

 釣竿と針、そして糸が色を失い消え始める。

 

 そこまでを確認した狼頭の侍は、見えなくなりつつある竿を口に咥えて地面に伏せた。

 

 その頭上を、凄まじい勢いで切り裂きながら奔流が走る。

 

 そうしている間にも、次々と玉が逆巻く渦の中心に飛び込み、そして徐々にその流れを小さくしている。

 

 やがて最後の一つが辿り着き、手が徐々に沈み始め、そしてその中指の先端が消え、侍が溜め息を付いて立ち上がった瞬間に。

 

 最後の衝撃が、空間を揺るがした。

 

 無形の衝撃波が水面をしぶかせながら走り抜け、片手で防御体勢を取った狼を直撃する。

 

 その衝撃が突き抜けた瞬間、忠夫からは見えなかった顔の半面、罅割れたその半面が砕け散り、その破片が辺りに散っていた黒色のオーラに染まりながら後方に飛んでいく。

 

 それを見送る事無く衝撃をやり過ごした狼は、今度こそ油断する事無く状況を見守り、そして何事も無い事を確認すると、全身の力を抜いて座り込んだ。

 

 暫く呆然とした雰囲気を醸し出していたその顔が、少し考える表情になると、再び、今度も半分砕けた狼面の口元に手を当て玉をいくつか吐き出す。

 

『同』

『伸』

『着』

『納』『豆』

『粘』『着』等々。

 

 それはもう様々な文字を浮かべた玉を次々叩きつけ、そして漸く落ち着いたように大きな溜め息を吐いた。

 

 最後に、欠片の飛び去った方角を見送って、「あちゃー」という感じで額に手を当てる。

 

 その隙間から見える、砕けた半面にある筈の無い瞳は。

 

 まるで。

 

 それまでの狼の物ではなく、獣の物でもなく、人間の――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぴくり、と宇宙服に包まれた腕が動く。

 

 ゆっくりと持ち上がったそれは、何かを掴むように天を突き、だが何も掴まずに己の頭部を保護するヘルメットへと辿り着く。

 

「起きたのかい?」

 

 メドーサの声に、返答する気配は無い。

 

 ただ、ゆっくりと忠夫は己の頭部を包むそれを握り締め。

 

 がしゃん、と。

 

 卵の殻でも握り潰すように破壊した。

 

「・・・っ?!」

 

 ヘルメットの残骸を投げ捨て、頭部に巻かれていた赤いバンダナを引き千切る。

 

 その瞳に輝きは無く、虚ろな眼球が焦点の合わないままふらふらと中を彷徨っている。

 

 そして、なんの反動も付けずに体を起こし、一瞬で背中を丸めた状態で直立した忠夫は。

 

「ウ――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!」

 

 肺の中に残る全ての気体を搾り出すように、周囲に『魔力』を振りまきながら、その体を白ではなく、灰色の獣毛で包ませながら、狂ったように、吼えた。

 

「・・・な、んだってんだいっ!」

 

「グ、ルゥ」

 

 戸惑いを多分に乗せた声色で、顔を顰めながらメドーサが刺叉を構える。

 

「月の魔力に――当てられたかぁっ!!」

 

「ガオッ!」

 

 警戒と言う意味である程度の距離を取っていた筈なのに、一瞬にしてそれがゼロになった。

 

 刺叉を斜めに構えたメドーサに、その頭に狼頭の侍の頭部を微かにダブらせた忠夫の爪が降り注ぐ。

 

 足を踏ん張り、真正面からの一撃を、構えた刺叉で受け止め、そしてそのまま返しの一撃を喰らわせる。

 

 筈、だった。

 

 受け止めた衝撃が、刺叉を持った手ごと、メドーサの体を後方に吹き飛ばす。

 

 堪えるとか、受け流すとか。

 

 そう言うレベルの力ではなく。

 

 純粋な膂力の差と、異常な速度に対応し切れなかったが故の、単純な力負け。

 

 異質な筈の魔力と、月に満ち溢れたエネルギー。

 

 それを背景にした、ただの暴力。

 

 吹っ飛んだメドーサは背後の岩を砕きながらそれに埋まり、忠夫はそれを見て歯を剥き出しにして愉悦の表情を浮かべる。

 

 喉を限界まで仰け反らし、高らかに勝利の凱歌を歌った。 

 

「アオオオオオオオオン!!」

 

 

――その胴体に、巨大な魔力砲が突き刺さる。

 

 鳩尾を中心に無理矢理にくの字に曲げられた体が、先程のメドーサと同じく後方にすっ飛んで岩を砕いて粉塵を撒き散らした。

 

「・・・ったく。馬鹿力が」

 

 濛々と吹き上がる砂塵の隙間から見えるのは、忌々しげに口元の血を親指で拭うメドーサの姿。

 

 口の中を切っただけか、特に外傷を負った様子も無く、表情に苦痛の陰も無い。

 

「グル、グルルルっ!」

 

「だが、馬鹿だ」

 

 砂塵が収まるよりも早く、己を噛みとめた岩を砕きながら忠夫が走る。

 

 そのまま余裕の笑みを浮かべるメドーサに向かって、刃の如く伸びた爪を振り下ろし、そしてそれは彼女に掠る事すらなく無為に月の大地を抉る。

 

 数十メートルは吹き上がった砂塵の向こうから、メドーサの嘲笑が響いた。

 

「クックックッ。知恵も無く」

 

「グルァッ?!」

 

 その笑い声の方角に向かい、砂塵ごと切り払うようにして爪が走る。

 

 しかし、切り払われた砂塵の向こうには何も無い。

 

「罠も無く、策も無く」

 

「ガアアアアアッ?!」

 

 前後左右に向かって、地面を抉りながら、岩石を薄くスライスしながら、生み出した砂塵を更に細かく切り砕きながら、しかし本来の目的を果たす事など一度も無い。

 

「ただ、力任せに暴れる・・・獣だねぇ」

 

 メドーサの嘲笑が、目の前に出現した。

 

「超加速。お前なら、横島忠夫なら、知っている筈だ」

 

「グルッ!!」

 

 目標を、獲物を見つけた獣が襲い掛かるように、左右の爪が一瞬のタイムラグを付けながら振るわれる。

 

 それを、刺叉を僅かに傾け、更に忠夫の懐に潜り込みながら、完璧に、完全に、無傷で、この上なく問答無用に擦り抜けたメドーサの拳が、忠夫の顎をカチ上げた。

 

「魔力砲も、私が飛べる事も、しぶとさも、あの程度の一撃で落ちるような雑魚じゃない事も」

 

「グガッ?!」

 

 その瞳が、刺叉を体ごと捻って全身の力を乗せたままのメドーサの瞳が、全くの無関心を示したその瞳が、忠夫の頭部を包む狼の頭に向けられた。

 

 

「――お前は、要らないな」

 

 

 顎を跳ね上げられて完全に無防備となったそのどてっ腹に、真横から刺叉の柄が打ちつけられた。

 

 狼は、顎を限界まで広げ、そしてそこから赤い液体を僅かに吐き出しながら、最早言葉も発せずに吹き飛ぶ。

 

 勢いのまま進行方向の岩に突き刺さり、それを砕いても勢いは衰えず更に吹き飛ぶ。

 

 1km近くも地面と平行に吹き飛んだ忠夫は、最後に地面に頭から突き刺さって漸くその生身での短時間飛行を終えたのだった。

 

 そして、うつ伏せに倒れこんだその頭に、ダブった狼の影すらも無いその頭に、太陽の光を受けて出来たメドーサの影がかかる。

 

「あいつを出しな。弱くて、ゴキブリみたいに動き回って、悪知恵が回る、しぶとい、お前の数十倍も手強い――横島忠夫をっ!」

 

 殺気を視線に篭めながら、刺叉が忠夫の首に当てられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ヒィィィッ?! なんやぁっ!? 何でこーなっとるんやぁぁっ?!)

 

 以上、現在の忠夫の脳裏を占める思考である。

 

 一瞬の意識の混濁から目覚めてみれば、体中はとんでもなく痛むわ、何故か後頭部にとんでもない殺気が叩きつけられているわ、何故かとんでもなくライブでピンチー、もうお腹一杯なんです勘弁してくださいな状況だわと、中々にイヤーンな状態であった。

 

(しかもこの声はメドーサやないかぁっ! 神様、俺何か悪い事したっすかぁっ?!)

 

 強いて言えば覗きとか十字架を切り倒そうとしたりとか。

 

 まぁ、それを上回るトラブル磁石の性であろうが。

 

 とりあえず、このまま寝た振りでもしながら美神かマリアが来てくれるのを待とう、と決めて必死で目を瞑って死んだ振り。

 

 だがしかし、メドーサの刺叉が軽い音を立てて握りなおされ、先端がちょっと項に突き刺さる。

 

「・・・何時まで寝た振りしてる気だい?」

 

 うわーい、ばれてーら。

 

「ぐ、ぐー」

 

「このまま死にたいか?」

 

 1オクターブ下がった声に慌てて両手を振り、伏せていた頭を上げてみる。

 

 中々に、壮大な光景であった。

 

 それは、言うなれば山脈であった。

 

 チョモランマであった。

 

 エベレストであった。

 

 同じであるが、まぁ、要するにド迫力なのだ。

 

 おキヌや小龍姫は言うまでもなく、そして美神でさえも勝てないであろう、漢の夢。

 

 それは巨大な――

 

「し、下から眺めると凄い迫力やぁ~!」

 

「ふんっ!!」

 

 掬い上げるような爪先が、サッカーボールか何かの如く忠夫の頭を蹴り飛ばした。

 

 縦に数回、綺麗に回転しながら後方に吹き飛ぶ忠夫。

 

 潰れた蛙そっくりの声を出して再びうつ伏せになった忠夫は、地面に叩きつけられた反動で起き上がり――

 

「チャンス! すたこらさっさだぜぇー!」

 

 脇目も振らずに後方に向かって逃走した。

 

「・・・ちっ! 抜かった、この狸っ!」

 

「誤解だが結果オーライっ! そんでもって狼じゃぁぁっ!!」

 

 灰色でなく、魔力でなく、白い狼の耳を後方に向けながら全速で逃げ出す。

 

 それはどれほどみっともなかろうと、どれだけ力が弱くても、いかに頼りなく見えようとも、メドーサが知る横島忠夫の姿であった。

 

「このっ!」

 

「うどわぁぁっ?!」

 

 飛び上がり、空中から魔力砲を連打し始めたメドーサに対し、うろちょろとまさに台所の黒い悪魔の如く驚異的な動きで逃げ回る忠夫。

 

 まるでこちらの狙いを見切っているかのようなその動きに、メドーサの魔力砲は幾度となく余波で吹き飛ばしながらも一度足りとも直撃を与えられていない。

 

「ふははははっ! なんかしらんけど今日の俺は絶好調だぜっ!」

 

「ちっ! なら――」

 

「うおおおおっ?! そう言えばヘルメットが無いっ、さ、酸素ーっ!!」

 

「今更かいっ?!」

 

「死ぬのは嫌やぁぁっ! まだ嫁さんも貰ってないのに、こんな寂しい場所で死にたくないー!」

 

 どばどばと涙を撒き散らしながら、それでも足を止める事無く逃走を続ける忠夫にちょっと早まったかねぇ、などと後悔を浮かべたメドーサの前から、忠夫がいきなり忽然と消えた。

 

「――っ! 超加速っ?! しまった、竜神の装具「嫁に来ないかぁぁっ?!」うわぁっ!!」

 

 折角の超加速も、竜神の装具も、月の恩恵も何もかも、自分の生命のピンチに動揺してとり合えず状況を弁えずトチ狂いました、な忠夫には無力であった。

 

 視界から消えたと思った次の瞬間、何時の間にかこちらの手を握っていた忠夫を、反射的に真上から肘で殴り落としたメドーサは、荒い息を付きながら地面に着弾した忠夫の所へ降りていく。

 

 勿論刺叉はいつでも繰り出せるように、全身全霊で集中していつでも超加速状態に入れるようにしながら、だ。

 

「真面目にやる気は無いのかいっ!」

 

「失礼なッ! 俺はいつでも本気で求婚しとるわいっ!!」

 

 時と場所と立場と相手を弁えないのが玉に瑕。

 

 叩き落された忠夫はがばっ、と跳ね起き、目の前に突き出された刺叉の不穏な輝きに顔を引き攣らせる。

 

「全く・・・なんでこんなのがわたしの最後の相手なんだろうねぇ」

 

「さ、最後?」

 

 溜め息と共に、疲れたような視線でこちらを見てくるメドーサの瞳を見返す忠夫。

 

 メドーサは、何でもないさ、と小さな声で呟くと、刺叉を更に突き出して弄ぶように忠夫の喉をその先端で突っついた。

 

「さぁ・・・最後の質問だ。この期に及んで、これだけ危機的な状況で――あんたは、まだわたしを仲間に誘えるかい?」

 

 嘲笑を浮かべたメドーサの顔。

 

 何処までも悪役な、何処までも甚振るような、そんな歪んだ喜悦を浮かべた、そんな表情を目の前にしながら。

 

 忠夫は、心底不思議そうな顔で聞き返した。

 

「当たり前だろ? 何で今更聞くんだ?」

 

「い――命乞いかい。そんな事言っても、安全な所まで行ったらあっさりと手の平を返すんだろう?」

 

 僅かに、ほんの少しだけ。

 

 メドーサの声が、躊躇った。

 

「いんや。美人のおねーさんと喧嘩するのは嫌やしなー。それに、最後っちゅー事は・・・もしかして、ヤバイ立場にでもなってる?」

 

「・・・ああ。多分、この作戦が上手くいこうが失敗しようが、もうわたしに帰る所は・・・あんたに言ってもしょうがない、か」

 

「マジでっ?! やほーいっ! なら嫁にならんかぁっ?! 大歓迎、もう忠夫、土下座でもなんでもしまっせぇっ!」

 

 心底から喜んでいる目の前の馬鹿に、なんだか体中から真剣身とかやる気とかがごっそり奪われていく感触を感じながら。

 

 それでも、自分の事を、喜んで受け入れてくれると言うその言葉に。

 

 嘘でも、真実でも構わない、そんな感慨さえ思い浮かべながら。

 

 メドーサは、本当に、久し振りに――微笑んだ。

 

「ああ・・・考えてやっても、良いかも知れないね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『聞いたぞ・・・。その言葉、確かに聞いたぞっ!』

 

「――ッ?! ベルゼバブっ!!」

 

「へ?」

 

 忠夫の目に写ったのは、小さな、本当に小さな穴だった。

 

 それは、驚いたように虚空を見上げたメドーサの脇腹の直ぐ横の空間に開き、そこから小さな弾丸を、ベルゼバブを吐き出した。

 

 重々しい音が響いた。

 

 メドーサの脇腹に突き刺さった弾丸は、液体を撒き散らしながら反対側に突き抜け、そして再び開いた穴に消えていった。

 

 彼女は、その己に開いた大きな穴に手を当て、至極残念そうな表情を浮かべ。

 

 

――そして、ゆっくりと、倒れた。

 

 

「メ、メドーサ? メドーサっ?!」

 

「・・・五月蝿いねぇ。一々騒ぐんじゃないよ・・・。分かってた事さ。ああ、分かってた事だ」

 

 慌ててその体を支える忠夫の目前で、メドーサの体が力を失っていく。

 

「馬鹿野郎っ! お前、俺の嫁になるって言ったじゃねぇかっ!!」

 

「・・・魔族が嘘をつかない訳が無いだろう?」

 

「それこそ嘘だろうがっ!!」

 

 急速に熱を失う体と、押さえても止まらない暖かい液体。

 

 そして、意外なほどに軽い身体。

 

 目が焦点を失い、段々とその瞳に宿る輝きも薄れていく。

 

「・・・クックックッ。さ、て。何処から何処までが嘘なのか――嘘塗れの生き方だよ」

 

「何とかしろよ! 何か無いのかっ?!」

 

「あるよ」

 

 簡単に、簡潔に述べられたその言葉を、忠夫はあまりの都合の良さに一瞬理解する事ができなかった。

 

 だが、理解してしまえば話は早い。

 

 希望の色を濃くした忠夫の瞳が、早く言えと叫んでいる。

 

 薄れ行く視界の中で、何でこいつはこんなに馬鹿なんだろう、と取りとめの無い事を考えつつ。

 

 メドーサは、それを舌に乗せた。

 

「・・・あんたの命、賭けられるかい?」

 

 どうせ、戸惑うのだろう。

 

 一瞬でも迷う様子が見えたのなら、それこそ魔族の嘘だ、と言って目を瞑る。

 

 だが、だがもしも、もしも――。

 

「さっさとしろぉっ!!!」

 

 

 

 ――迷う事無く、答えてくれるのなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それは、血の味のするキスだった――


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