月に吼える   作:maisen

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第参拾陸話。

「ふぅああぁぁぁあああぁぁぁぁ・・・あ?」

 

 大きな大きな欠伸をしながら体を起こした忠夫は、テープで貼り付けてでもあるかのように重い瞼を擦り擦り、動かす度にゴキゴキと気持ち良さを伴って音を立てる体をゆっくり伸ばしていった。

 

 開いた視界に写るのは、機械の群と幾つかのモニター類。

 

 鼻をツンと突くのは消毒液の匂いであろうか。

 

 ふらふらとする頭で見渡してみる。

 

 横たわっていたのは端々に解れが見えながらもパリッと糊の利いたシーツ、そして天井の近くで音を立てて暖気を吐き出す空調用の穴らしき物。

 

 そして。

 

「ぬ、起きたか小僧」

 

 見覚えが在るけどいつもなら一緒にいる筈のもう1人はともかく、寝起きにはあんまり見たくない顔だった。

 

「何でじゃぁぁぁっ! 寝起きが爺の顔とか最悪やないかぁぁ! やり直しを要求する! 俺は意地でも寝直すぞ! ・・・ぐー、すぴー」

 

「・・・α、目覚ましを」

 

 寝台の上で手足をばたばたと駄々っ子のように振り回した挙句、あからさまに狸寝入りと分かる鼾を上げ始めた忠夫に対して額に血管を浮かべた老人が取った行動は、只一言を放つだけである。

 

 そしてその言葉に答える者が居る訳で、うつ伏せになって薄くて堅い枕を抱え込んだ忠夫の後頭部に、ゴリッと物騒な音を立てて何かを押し付ける。

 

「いえす・ドクター・カオス。サウンド・データ・ロード完了。ベル音・スタート――ちり・りりりん・ちり・りりりん」

 

「あびゃびゃびゃびゃびゃびゃびゃびゃっ!!」

 

 鈴を転がしたような、軽やかな声とは裏腹に、押し当てられた物体からは部屋を蒼白く染める程のスパークが踊り狂う。

 

 放電が走るのと全く同じタイミングで体を跳ねさせながら忠夫が見たものは、マリアに良く似た、いつか見た小さなマリアの後継機。

 

 彼女曰く、「娘達」らしいが。

 

 そしてそこまで見て、そのまま入眠せずに昏倒した。

 

 マリアと同じ色、しかし真っ直ぐな長い髪を持った少女はたっぷり10秒近くスイッチを入れ続けた後、おもむろにそのスイッチから細い指を離してスタンガンを不思議そうに小首を傾げてしげしげと見つめた。

 

「ドクター・カオス。効果が・ありませんでした」

 

「かっかっか。まだまだ経験が足りんのぅ」

 

 やれやれ、と言った風情で溜め息をつく己の製作者の態度を、期待に応えられなかったが故、と結論を下したαは、ほんの少しだけ残念そうな表情を作ると、寂しげに一言呟いた。

 

「ちり・りりん・・・」

 

「もーえーから。大人しくスイッチから指を離せ」

 

 寂しげな呟きとは裏腹に、その手元からは少々焦り気味にぱたぱたと手を振るカオスの髪を余波で逆立たせながら、凶悪な電光が何も無い空間に向けて放たれつづけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・なんでいきなり焦げてんのよ」

 

「俺が聞きたいっす・・・」

 

 たっぷり10秒は高電圧にさらされたにもかかわらず、何故か青いジージャン、ジーパンバンダナに僅かに焦げ目を付けただけの忠夫は納得いかなそうな目を向けてくるカオスの「付いて来い」の一言に従って暫く歩かされた。

 

 着いた所はなにやら騒がしげな格納庫、そして迎えたのは見慣れぬゴテゴテとした白い服――所謂宇宙服を着た美神の呆れた視線であった。

 

「ほら、これ着て来なさい」

 

「えー、やっぱ俺も行くんすか?」

 

 事此処にいたって諦めの悪い言葉を吐く忠夫に対し、背中と首筋に押し当てられる固くて冷たい金属の感触。

 

 ギチリ、と動きを止めた忠夫がゆっくりと顔だけ動かして後方を振り向けば、そこにいたのは額に井桁を浮かべた戦乙女と女神様。

 

「緊急事態だ、と言った筈だが?」

 

「これ以上手間取らせるようなら・・・叩き落しますよ?」

 

「サーイエッサー! 直ちに着替えてきますサー!」

 

 如何にもこうにも急いでいるというのに、飛行機以来空を飛ぶ乗り物が駄目になった忠夫を追い掛け回して余計な時間を取られた事に大分ご立腹の様である。

 

 宇宙服を小脇に抱えて駆け出した忠夫の後頭部に、今度逃げたら酷いぞ、と言う意思の篭められた視線が3対突き刺さりまくる。

 

 年上のお姉さま方に見つめられて、状況も原因も忘れてちょっとドキドキしたのは秘密である。

 

「やれやれ。本当にあの調子で大丈夫なのやら」

 

「それはこっちの台詞よ、カオス。そっちの方も手抜かりは無いんでしょうね」

 

 尻に帆を掛けて疾走していった忠夫と、それを見送った美女達の傍らから苦笑いが零れる。

 

 相も変わらず真っ黒なコートに身を包んだカオスは、美神の言葉に笑いの表情を消した後、少々眉根を寄せて不愉快の意思を示した。

 

「わしを誰だと思っとる。この「ヨーロッパの魔王」に不可能な事などそうそう無いわい。α達はメインコントロールルームで待機、状況開始と共にオペレーティングの補佐に回るように指示しとるし――」

 

 カオスの視線がふっと上を向く。その視線の先に在るのは巨大な、まるでライフルの弾丸のような形をした鉄の筒。

 

 一本の巨大な円筒を囲むように4本の筒が添えられており、その全体から氷結した白い霧を僅かに零し始めている。

 

 それをなぞるようにして視線は更に上に向かい、天頂部付近を少しだけ心配そうな色を篭めた、しかし誇らしげな目で眺めている。

 

「マリアも『完全に』スタンバイ済みじゃ」

 

「しっかし、これだけでかい図体なのに行けるのが私と横島君、それにマリアだけってのがねー」

 

 頭をぽりぽりと人差し指で掻きつつ不満げに愚痴を零す美神に対し、ワルキューレと小龍姫から諭すような言葉が掛けられた。

 

「確かに戦力的にはもう少し欲しい所ですが・・・その代わり、神族と魔族から道具を貸し出していますし」

 

「ドクターカオスの最高傑作とヒャクメの千里眼を利用したサポートも付ける。と、言うかそれが限界なのだが、な」

 

 そう声を掛けながらも、2人の表情にも不安の色は隠せない。

 

 月と言う、これまで隔絶されていた場所に、いくら実績があると言っても只の人間と半人狼、そしてたった一体のアンドロイドを送り込み、そこに居る魔族を退けると言うなんともインポッシボーなミッションをやって貰おうというのだ。

 

 とは言え憂鬱な表情をしているのは3人だけで、カオスはと言うと普段に無く高揚した雰囲気である。

 

「月か・・・流石のわしも興味を引かれる場所だわい。後1人乗れればわしが行くんじゃがなー」

 

「なら爺が行けば良いじゃねーか」

 

 不貞腐れたような声で、通路の向こうから美神と同じ宇宙服、男性用のそれを着込んだ忠夫がぶちぶちと呟きながら歩み寄る。

 

 その言葉に対して目を輝かせたカオスは、しかし一転渋面を作って首を振る。

 

 溜め息をつきながらおもむろに懐を探り出したカオスに怪訝そうな目を向けながら、忠夫は足を引き摺り引き摺り嫌そうな顔で美神の隣に肩を落として立ち止まった。

 

「わしもそうしたいのは山々じゃが、なぁ。・・・全く、最近は笑顔で凄みを効かしよる。ますます姫に似てきおったわい」

 

「は?」

 

「あー、マリア。調子はどうじゃ?」

 

 取り出されたのは小さな通信機。

 

 それに向かって声を掛けるカオスの目には、疲れた色がふんだんにあったりする。

 

『イエス・ドクター・カオス。全計器・全系統に異常・在りません』

 

「小僧が行きたくないと駄々をこね取るんじゃが」

 

『横島・さん・が?』

 

 通信機の向こうから聞こえてきたのは、平坦な筈なのに酷く落ち込んだようにも聞こえる、忠夫にとっては久し振りに聞いた声。

 

 素早く反応してカオスの手から通信機をもぎ取り、忠夫は目一杯元気良くその通信機に向かって言葉を放った。

 

「マリアかっ?! 嫁に来ないかっ?!」

 

『イエ「第一声がそれかぁっ!!」』

 

 横合いからかっとんできた拳が、忠夫の問いに寸暇の間もおかずに何かを答えようとしたマリアの声を遮って忠夫の意識を刈り取った。

 

 冷たい床の上を滑走する忠夫を見送りながら、拳の主である美神が忠夫の手から離れた通信機をキャッチしてそれに話し掛ける。

 

「あー、マリア? うちの所員が迷惑を掛けたわね」

 

『・・・ノー・プロブレム。問題は・無いと・判断します』

 

「そう? なら良いけど」

 

 カオスが苦々しげな、まるで娘を取られる父親のような表情で昏倒した忠夫をロケットの入り口まで引き摺っていくのを横目に見ながら美神は通信機越しの声を聞いた。

 

その声に残念そうな響きを聞いてしまったような気がして、なんとなく面白く無さげな表情を作るった美神は簡単にこれからそちらに行く事だけを伝えてスイッチを切る。

 

 少し苛ついた表情で踵を返した美神の目には、笑いを堪える神族と魔族の震える肩が写って見えたり。

 

「何よっ?!」

 

「くっくっ・・・いや、いい加減素直になってもいいと思うのだがな。如何だろうか、解説の小龍姫」

 

「ぷっ・・・こ、こっちに振らないで下さいよ。で、でも私は可愛いと思いますけどね・・・クスクスクス」

 

 目の端に涙さえ浮かべて互いの肩を叩く2人に対し、耳まで真っ赤に染めあげた美神が吼えたり表情を見れば説得力皆無の言い訳を延々と並べたりもしたが、二人の肩の震えが大きくなったりした以外は大した効果は見られなかったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・はっ?! ここは誰? 私は何処っ?!」

 

「ベタベタ過ぎて駄目。0点」

 

「いきなり駄目出し喰らったっ?!」

 

 目を覚ました忠夫がきょときょとと辺りを見回す。

 

 隣にごっつい椅子に座って計器類のチェックを行なっている美神の横顔、そして正面に複雑且つ何の役割を持っているのかさえ分からないような計器とスイッチの群。

 

 体を起こそうにもシートベルトでがっちりと固定され、首と肩から先、足くらいしか動かす事は出来そうに無い。

 

「特殊なプレイか!」

 

「違うわっ!!」

 

 ごきん、と音を立てて吹っ飛んだ顔が、何時もなら体ごと吹っ飛ぶようなその衝撃を動かせない為まともに喰らってダメージ全開。

 

 とは言え意識が刈り取られたのも僅かの間、拳を繰り出した美神も体を固定されている為何時もほどの威力は無く、結局あっさりと意識も元に戻る。

 

『ふっふっふ、準備はええかの?』

 

「OKよ。カウント始めちゃって」

 

「え? え?」

 

 小さなモニターの向こうにはやたら溌剌としたドクターカオスと心配そうなおキヌ達が居る。

 

 状況を把握できないまま進む会話に忠夫が質問の声を上げる暇も無く。

 

『カウント――面倒くさいの、省略。発射!』

 

『「こらぁぁぁっ?!」』

 

 多数の抗議の声も何のその、カオスは手元のコンソールに一際大きく目立つ位置に設置されたボタンをうきうき全開で押し込んだ。

 

 途端に美神達の体を強烈な振動が揺さぶり始め、忠夫の混乱が最高潮に達すると同時に加速開始。

 

 天に向かって一気に駆け上がる。

 

「ぎゃーっ! ぎゃーっ! 飛んでるーっ?!」

 

「こ、この馬鹿オス! 帰ったら覚えてなさいよぉぉっ!!」

 

 呆然とその様を眺める小龍姫達。

 

 その横で傍らのモニターに映し出されたマリアと交信しながら、眉根も動かさず淡々とお仕事をするマリアの娘達。

 

 そこからなんら異常を訴える報告が上がってこない事に1人満足げに頷くカオス。

 

 名前の通り、たった一人で混沌と困惑と混乱を作り上げたヨーロッパの魔王は、1人楽しげな笑みを崩さないまま呟いた。

 

「遠足は帰ってくるまでが遠足じゃ」

 

 この天才にかかってしまえば、月旅行は遠足と大差ないようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「い・・・ったぁ」

 

「うごごごご・・・」

 

「ほら、いい加減起きなさい横島君」

 

 地球の重力の頚木から逃れ、人類でもほんの一握りしか存在した事の無い宇宙空間に到達したロケットの中で。

 

 緊張感と恐怖と強烈なGのため意識を飛ばしていた横島の耳に、体から力を抜きながら美神が声を掛ける。

 

 耳を擽る心地良い声に意識を覚醒させた忠夫の目に入ったのは、目をパチパチさせながらこちらを見やる美女の顔。

 

 混濁していた意識が一気に覚醒レベルまで達し、しかしぎりぎりまで張り詰められていた緊張感が解けた事で少々混乱気味の忠夫は唐突に未だベルトにその見を拘束されたままの美神に向かって飛び上がる。

 

 不思議な事に、今の今まで忠夫をシートに固定していた筈のベルトは噛み合わさったままふわふわと空間を漂っている。

 

「美人のおねーさまの目覚ましー! これやー! これが欲しかったんやぁぁっ!! 嫁にこーい、ばっちこーい!!」」

 

「てかベルトはどうしたのよっ?!」

 

 慌てて迎撃の拳を振りかぶる美神。

 

 しかし一瞬ベルトを解くべきか、それとも不自由な体勢のまま拳を振るうべきか迷ってしまい、そしてその一瞬で忠夫には十分だった。

 

「しまっ――」

 

 既にその距離は至近。

 

 拳を振るっても勢いをつけて飛び込んできた馬鹿を迎撃するには少し空間が足りない。

 

 そこまで判断した美神は、直ぐそこまで迫った未来予想図を思い浮かべて、一気に顔を赤くして動きが鈍る。

 

 脳裏に先程散々笑ってくれやがった神族と魔族の2人に対する恨み言と、ほんの少し、本当に少しだけ何かを期待して体を固くした美神に――

 

『あ・姿勢制御・失敗しました』

 

「おごっ?!」

 

「・・・へ?」

 

 ロケットの外装に程近い場所に固定されていたマリアの声が割り込み、それと同時に機体が70度ほど傾いた。

 

 重力があればそれでも放物線を描いて美神の胸にダイビングしていたであろうが、ここは既にその頚木の無い宇宙空間。

 

 慣性の法則にしたがってそのまま直進した忠夫の行き着く先は、柔らかい天然物のクッションなどではなく固い固い内装部分。

 

 重い音を響かせて、しばし壁に突き刺さったままの忠夫がゆっくりと浮き上がる。

 

 すっかり白目をむいて、水死体のように仰向けになったまま気絶していた。

 

『ソーリー・ミス・美神。お怪我は・ありませんか?』

 

「だ、大丈夫よ」

 

『体温の上昇・発汗・血圧・脈拍共に上昇』

 

「・・・何よ」

 

 マリアの顔が映し出されたモニターに向かって、僅かに赤みの残る頬をさらしたまま半眼で睨み付ける美神。

 

 しかしマリアもマリアで何故か無表情の中に不機嫌そうな色を隠せない。

 

『ミス・美神』

 

「だから何よ」

 

『マリアは・ミス・美神がそのままの方が・有利と・判断します』

 

「何がっ?!」

 

『しかし・今のミス・美神も・魅力的ではないか・と。以上の理由から・マリアはとても・・・困ります』

 

「知らんわぁぁっ!!」

 

 本当に困ったように言うマリアに対し、美神は手近なそこそこ柔らかい物に八つ当たりしながら吼えるのだった。

 

 ちなみに、その後、何故か壁に衝突した時よりもボロボロになった忠夫が目覚めないように、例の睡眠薬を打ったりしたのは秘密である。

 マリアも反対はしなかった。

 

 何故か、と聞いても判断不可、としか答えを返さないであろうが。

 

 判断不能、でないのが味噌である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大分近づいてきたわね・・・」

 

『予定ポイント・到着まで・後・1時間・15分・42秒01』

 

 睡眠薬が切れたのと空腹でゾンビの如く起き上がった忠夫と簡単な食事を済ませ、窓の外に見える月を眺めながらトランクを開ける美神。

 

 中に詰められていたのは竜神族御用達である竜神の装具と魔界軍の武器の数々。

 

 それを満足げな表情でお腹を撫でている忠夫に幾つか投げ渡し、美神もまた竜神の装具を身に付け始める。

 

「げぷ・・・んで、どうするつもりなんすか?」

 

「そうね・・・正直、情報が欲しい所なんだけど。マリア、月神族からの通信はまだ無いの?」

 

『イエス・ミス・美神。こちらからの・連絡用周波数での・発信にも・反応無し』

 

 月神族からの連絡が無い。

 

 最後に入った物が、あの緊急の援助を求める通信であると言うのがこれ以上なく不安を掻き立てる。

 

 額と腕に竜神の装具を付け終えた美神は宇宙服付属のヘルメットをかぶって一呼吸。

 

 酸素の循環と呼吸に不備が無い事を確認してヘルメットを外し、魔界軍の武器の中に在ったライフルに弾を篭め始めた。

 

「――最悪、月神族全滅ってのも考えておかなきゃね」

 

 弾丸と銃に集中している表情に陰りの色が濃く写る。

 

 

 しかし、その事について考えをめぐらせる間も、対策を立てる間も無く。

 

 

 船内が、一瞬にして甲高い音と赤い光で満たされた。

 

『・・・っ! ミス・美神! 前方に・異常な・エネルギー偏差!』

 

「なっ?!」

 

 マリアの警告に慌てて月の見えていた窓に視点を飛ばす美神と忠夫。

 

 2人で張り付くようにして窓から覗き見た先に見えたのは、先程よりも輝きを増したように見える、巨大な月。

 

 いや、輝きが増しているのではなく、その表面を走る光が一点に、こちらに向かって突き進んでくるのだ。

 

 それは、巨大な漏斗のようにも、穴に吸い込まれる大量の水にも見えた。

 

 無理矢理引き剥がされるようにして月の放つ光が収束し、全体の輝きを捩り合わせながら迫る。

 

「マリア、緊急回避っ!!」

 

『イエス・ミス・美神!』

 

「のわぁぁあぁっ?!」

 

 船体を轟音と強烈な振動が襲う。

 

 船体の彼方此方に設置された補助ブースタと後部のメインブースタを全開で吹かしながら最大加速、蹴飛ばされるようにして斜め前方にすっ飛んでいく。

 

 帰りの燃料の事など考えていないその機動は、大気圏の突破・突入にさえ耐え切る筈の外殻を揺るがし、計器のあちらこちらに赤をともしながらの決死の疾走。

 

 正体不明の、攻撃なのかどうかさえも判然としないその現象は、しかしその内に秘めるエネルギーだけでも考えたくなくなるほど膨大な物。

 

 それの最初の接触を、全開に吹かした勢いで左に擦り抜ける。

 

 しかし、そのエネルギーはまるで意思を持っているかのように、そして何かに引き付けられているかのように濁流さながらの動きで追撃する。

 

 だが、ドクターカオスの手が入った機体が、マリアの手によって思う存分にその性能を発揮する。

 

 設定されている筈の、機体保護の為のリミッターを全て停止させ、内部の者達の事も最低限度しか考えていないその速度。

 

 しかし、そうでもしなければ。

 

 もし、目の前のこれが、攻撃だとするならば。

 

 完全に、完璧に、一切の誤差無く、回避し切れなければ。

 

 落ちる。

 

「もーいやぁぁっ! お家帰るー!」

 

「やかましいっ! 黙っとれぇっ!!」

 

 これだけ振り回されて尚元気だけはある内部の者達の喧騒に安堵の思いを持ちながら、マリアはひたすら操船を続ける。

 

 捻り落し、急上昇し、急旋回を繰り返し――。

 

『・・・! 第三・第五補助ブースタ・停止・メインブースタ・出力・低下!』

 

 しかし、いかに天才の手が入っていると言えど、いかにその最高傑作の操船と言えど。

 

 それが存在している以上、そして物理法則に乗っ取って構築された物である以上、限界は、ある。

 

『乗員保護の為・緊急脱出を・提案!』

 

「・・・くっ! 了解、行くわよ横島君!」

 

「う、ういっすっ!!」

 

 始めの接触を、左前方に擦り抜ける事を選択した為、また逃げ切れないときの事を考えた為でもあるが、月の表面は既に程近い所、視界を全ての大地が埋める程度の距離にある。

 

 生身の人体ならばいかに地球に比べて小さいとはいえ、月の引力に引かれて激突、原型が残れば恩の字だったであろうが、今は乗員が2人とも竜神の装具を装着済み。

 

 そしてマリアにも、この程度の高さならば問題無く着陸できるだけの装置がある。

 

 だが、同時にこれは賭けでも、ある。

 

 もし、これが本当に攻撃だったのならば、最低1人は着陸する前に追撃を喰らうだろう。

 

 狙う対象を放棄した宇宙船に変えてくれなければ、そして脱出が間に合わなければ、もしも散開が間に合わなければ、全員が――。

 

 分の悪すぎる駆けである。しかし、選択の余地が無い事も確か。

 

 そこまで考えて、美神は宇宙船のハッチから飛び出した。

 

 続けて飛び出す忠夫と、船体下部からコードを引きちぎりつつバーニアを吹かすマリアが左右に分かれて加速する。

 

 そして、追撃を掛けたエネルギーは。

 

『――!』

 

「横島くんっ!!」

 

「なんでじゃぁぁぁっ?!」

 

 地面に向かって最後の足掻きとばかりにブースタを吹かしながら落下していく船体にも、頭だけで後方を振り向いた美神にも、センサーでその動きを捉えていたマリアでもなく。

 

 忠夫を直撃し、その奔流に飲み込みながら月の大地へと突き進んでいった。

 

『マリア・行きます!』

 

「ちょっと待ちなさいっ!」

 

 そして、その光跡を追いかける二人の前で、無音の、巨大な光の爆発が発生し、次の瞬間には全て消滅していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――渦巻いていた。

 

 ――轟々と、音を立てながら。

 

 ――暗い天を覆い隠すようにして、月の光が渦を巻く。

 

「・・・で、今度はなんだっちゅーねん」

 

 前に視線をやれば、そこには相変わらずの大きな狼頭の侍の姿。

 

 直にどっかと腰を下ろし、釣り糸を垂れながら片手の上で小さな玉をからころと転がしている。

 

 もう片方の手は服の中なのであろうか、中身の無い袖だけがふらふらと頼りなさげに動いている。

 

 よくよく見れば、その手の中の玉には何か文字が入っているのが見えた。

 

「『集』『光』? ・・・何のこっちゃ」

 

 狼頭の侍が、その玉を持った手を振り上げ、まるで撒き餌でもするようにそれを――釣り糸を垂れていた水面に投げ入れた。

 

 その玉は、何時か見たままに渦巻いている水面の流れに乗って、渦の中心へと流れていく。

 

 そして、それを追いかけるように上で渦巻いていた光が動き始めた。

 

「ほ~」

 

 感嘆の溜め息を付く忠夫の前で、光の渦が水の渦の中心に流れ込んでいく。

 

 それを眺めていた狼頭の侍は、こちらから見える横顔を厳しく顰めると、口元に手を当てて何かを吐き出した。

 

 それは、小さな玉だった。

 

 先程投げ入れた物と同じ。

 

 違いと言えば、何も文字が浮かんでいない事。

 

 そこまで見て、意識がすっと薄くなっていった。

 

 視界に写ったのは、光が全て吸い込まれて消えるシーン。

 

 そして――

 

 からころ、からころ。

 

 そんな軽い音だけが、最後まで耳に残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『けっけっけっ・・・ほら、行けよ』

 

「五月蝿いねぇ・・・あんたに指図されなくても行くよ」

 

 先端が二つに分かれ、互いに左右を指している槍――刺叉と呼ばれるその武器を手に持った女が、声の主を睨み付ける。

 

 おどけた調子で肩を竦めたそれを、苛立たしげに舌打ちしながら視界から外した。

 

『分かっているだろう? お前には』

 

「ああ。もう後が無いって言いたいんだろう?」

 

『なら――』

 

「五月蝿い、と言った筈だ。私は私の好きなようにやる。結果を出せば文句は無いだろ」

 

 背中越しの声に対し忌々しげに答えを返し、視線を少し上に向ける。

 

 見えるのは、四角く区切られたモニターの上に映し出された、ヘルメットを被った男の姿。

 

 光を反射しているせいかその顔は見えないが、女にはその顔が簡単に思い出された。

 

「もう、会いたくない・・・って言ったんだがねぇ」

 

 小さな、本当に小さな、声にもならないそんな言葉を紡ぎながら、目の前に開いたゲートに向かって歩みを進める。

 

 突然の魔力の奔流。

 

 それによるエネルギー収束の遅滞。

 

 そして、たまたまその現象を見ていた監視網に引っかかった、半人狼の青年。

 

 

「・・・ああ、でも――」

 

 

 ゲートを潜り抜けながら、その先で眠る馬鹿の顔が浮かび、そして消せない。

 

 

「――はっ、戯言か」

 

 

 己を嘲笑うように唇を歪めながら、最後の1歩を踏み出す。

 

 何を言いかけて止めたのか。

 

 何を思い歩みを進めるのか。

 

 何が、欲しいのか。

 

 

「くだらない」

 

 

 奥歯を食いしばり、背後に感じる嘲笑の篭った視線を鬱陶しく思いながら。

 

 

「くだらない・・・筈、だ」

 

 

 メドーサは、眠る忠夫の前に行く。

 

 ――そして、四度目の衝突の幕が上がる。


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