月に吼える   作:maisen

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第参拾話。

「よし、これで大丈夫だろ」

 

 湿った土がこびり付き、すっかりと冷たくなってしまった両の手に息を吹きかける。

 

 湿り気を帯びた暖かい吐息は、掌に僅かな熱を残して冬の空気に溶けて消えていった。

 

「横島ぁー! 置いてくぞーっ!」

 

「おー! わりぃ、今行くー!」

 

 掘り返した地面から跳ねて抜け出し、開いた穴の隣に盛り上げてある土を後ろ足で蹴落とすと、たちまちの内に中に赤い布を放り込んだビニール袋は埋まってしまった。

 

 満足げに頷き、傍らに放り投げてあったリュックを背負う。

 

 とっとと先に行ってしまった同行者達を追って、忠夫は狼の耳を出したまま、寒風吹き荒ぶ中を駆け出した。

 

「ったく、何やってんだよ? 耳出てんぞ」

 

「横島サン、何時ものバンダナはどうしたんですカイノー?」

 

「ああ、あれにゃあ発信機が仕込んであるからな。埋めてきた」

 

 少し行った先で不機嫌そうに立つ小柄な男性と、その横で巨体を寒げに震わせている男性が声を掛けてくる。

 

 それに軽く答えを返しながら、忠夫は地面の匂いを嗅ぎ始めた。

 

「・・・ん、こっちだ!」

 

「便利だな、お前」

 

「流石は人狼といった所ですノー」

 

 びしっと欠片の迷いも無く、忠夫は東の方向を指差した。

 

 此処は人里離れた――と言ってもアスファルトで舗装され、充分に管理がされている道路が通る程度の距離でしかないが――山中の一角、細い道路が前後左右に別れた交差点のど真ん中である。

 

 既に日は落ち始め、いよいよ寒さは厳しくなり始めているがジージャン、ジーパンと軽装の忠夫と、脛まで覆う黒いコートを羽織った雪之丞は全く寒そうに見えない。

 

 防寒着をびっちりと着込んでいても、そもそも南国――と言うか、ジャングルで育ったタイガーにとっては辛い物があるようだ。

 

 この、珍しい取り合わせが生まれた原因、なんて物は無い。

 

 あえてそれをあげるとすれば、巡り合わせとか運命の悪戯とか言う物くらいしか当てはまらないだろう。

 

 要するに、偶然である。

 

 美神達の車を追跡していた忠夫が、大きなリュックを背負って、それよりも巨大な影を背負って泣いていたタイガーに出会った――行く気満々で準備していたのに、エミは一言も残さず当然のようにとっととバイクで出発していった――のも偶然なら、鬱陶しくなっていい加減拳で黙らそうとした時に何処からとも無く雪之丞が出現し――財布をこれまた一人で行った勘九郎が持っていた為、飯を集れる知り合いを探してうろついていた。すきっ腹を抱えながら――全員が全員とも留守番と言うか置いてけぼりを食らった事が判明。

 

 迷わず手を組んだ彼らを、一体誰が責める事が出来ようか・・・!

 

 保護者とか雇い主とか兄弟子とかはいともあっさり地獄の責めを喰らわせるであろうが。

 

 ともかく、嫌な想像を同時に浮かべた3人は、全く同じタイミングで頭を高速で振った後おもむろに互いの手を固く握り合ったのである。

 

――嫁っ! 多分同い年の女の子っ! 沢山居れば一人くらいはOKかもしれんっ!

 

――ここであのオカマを亡き者に・・・ついでに彼女が欲しい。優しくて大人しい感じの子が良いぜっ!

 

――出番・・・久し振りの出番ですジャー! 何とか活躍してレギュラー、いやせめて準レギュラーの座をワッシのものにー!

 

 もんもんと涌き上がる黒い何かを背負った3人に、通りすがりの母子連れの娘が指を指して母に何かを問い掛け、母は細い涙を流して彼らを生温かい視線と笑顔で見送った。

 

 そんな心温まるシーンを挟みつつ、彼らは街を駆け抜けた。

 

 忠夫は半人狼の身体能力任せに殆ど音も立てずに疾走し。

 

 雪之丞は魔装術を展開してその横を併走、瞬発力では劣れども、最高速なら互角か上。

 

 タイガーはそんな二人にロープで縛られて引き摺られつつ、段差で打ってあちらこちらに打撲の痕を作りながら。

 

 どんどんとぼろぼろになって行くタイガーの断末魔の痙攣を背後に背負いつつ、欲望塗れの3人は、一路、六道女学院へと向かって風を突き破りながら駆けて行った。

 

「しょっぱなからこれは酷くないですカイノーっ!?」

 

「「文句があるなら自分で走れっ!」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「冗談じゃないわよ、ったく」

 

 苛立たしげに荷物を車の後部座席から引き摺り落としながら、美神は毒づいた。

 

「あら、だって貴方達じゃ純粋な徒手空拳での霊的格闘、道具を使わない戦闘は教えられないでしょ? 向き不向きって奴よ」

 

「そりゃ分かるしあんたの腕も知ってるけど。でも何であんたがおば様とコネ持ってるわけ?」

 

 その荷物を片手で軽く担ぎ上げた偉丈夫、鎌田勘九郎は美神にウインクしながら立てた人差し指を左右に振る。

 

「この業界、そんなに広くは無いのよね。ましてや名家、六道家よ? 私たちの事情を考えたら大木に寄るのは悪くない選択だし、そもそも受け入れてくれた恩を忘れるほど恩知らずな渡り鳥でもないわ」

 

 要するに、六道家の下に付く代わりに仕事を紹介してもらう、と言う事である。

 

 六道家は大きな戦力を有する手札を、多少の対価で保持できる。

 

 勘九郎達は六道家に回ってきた仕事を――例外なく厳しい物ばかりだが、雪之丞辺りは望む所。しかも白竜道場出身と言うのは聞こえが悪いので、それ以前の彼らが依頼を受けられる頻度は多くなかった――回してもらえる。

 

 霊能の大家と言う物も、その維持やら発展やらしがらみやらで中々に厳しい物があると言う事だろう。

 

 しかし、まぁ、互いに理想的といえば理想的な環境なのだろう。

 

 少なくとも、それを言った勘九郎の目に鬱屈した物は無い。むしろ満足げな色がはっきりと見えている。

 

「渡り鳥ぃ? 見た目はカブトムシが良い所でしょうが。まぁ、確かに実力って言う事なら問題は無いでしょうけど」

 

 ふと、それまで半眼であった美神の目が訝しげな色を帯びた。

 

 あたりをきょろきょろと見回しつつ、美神のスーツケースを肩に担いだまま小揺るぎもしない勘九郎に問い掛ける。

 

「あれ? 雪之丞は?」

 

「ああ・・・冥子ちゃんがね・・・顔が怖いって泣いちゃって」

 

「OK。把握」

 

 遠くを見る目になった美神と、疲れた表情で胃の辺りを擦る勘九郎は、そのまま暫し無言のままで佇んでいた。

 

 が、左程の間も置かず小雪の混じり始めた冬の風に押されるようにして、旅館の中に入っていった。

 

「あ、美神さーん!」

 

「あら、おキヌちゃん。早かったわね」

 

「・・・へ?」

 

 ガラス張りの玄関に手を掛けた美神が彼女を呼ぶ声に振り向けば、そこにはこちらに向かって手を振りながら駆けて来るおキヌの姿。

 

 合宿の説明会に参加していた筈であるが、どうやら早々に終わったようである。

 

 その姿を見て目を丸くしている勘九郎に、詳しい事情を省いて簡単に説明する。

 

 この前見た時には幽霊だった少女が、見た目そのままに生きた肉体を持っている事にかなり驚いた様子であった物の、勘九郎は肩を竦めながらではあるが祝福してくれた。

 

「良かったわねぇ。これで心置きなく行けるじゃない」

 

「はいっ!」

 

「何がよ・・・?」

 

 何処に、では無い辺り美神も何となく意味は掴んでいるようだ。

 

 目付きがうろんげな物になっているし。

 

「あ、そうだ美神さん! こっち、こっちに来て下さいっ!」

 

「ちょ、ちょっとおキヌちゃんっ?」

 

 見た目に寄らず強引にずりずりと美神を引き摺って行くおキヌを見送りながら、勘九郎は苦笑いを浮かべて一言。

 

「・・・ま、幸せそうなのは何よりよねー」

 

 ドアを開いた勘九郎は、スーツケースを担ぎなおすと鼻歌交じりに暖かい空気に満たされたロビーを歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほ、本当に美神お姉さまだわ・・・」

 

「スゲェ・・・」

 

「で、この人達が今回チームを組む事になった弓かおりさんと一文字魔理さんです」

 

 美神を引っ張ったおキヌが到着した時、その場は妙な緊張感に包まれた。

 

 現在地は別館の大広間、学校指定のジャージに身を包んだ女学院生達が各々の部屋に戻ろうとしていたその時であった

 

 そこに、美神令子、現役の中でも超一流と言われ、またその莫大な収入、美貌、そして華麗と称される除霊スタイルからGSを目指す者達、特に女性GS志望者の中では圧倒的な人気を誇るカリスマの登場である。

 

 先程まで行なわれていた実習直前の説明会も終わった為に、既に割り当てられた部屋に帰った者も少なくは無いが、それでも広間のあちらこちらから飛んでくる憧憬の篭められた視線の数に、美神は何となく気疲れに近いものを感じていた。

 

「あ、あー。うちのおキヌちゃんがお世話になるわね、よろしく」

 

「もう、美神さんったら! そんな言い方しなくても良いじゃないですかー!」

 

 拗ねたような、照れたような顔で美神に詰め寄るおキヌを片手で押し留めながらそう言った美神の前では、紹介された弓と一文字が硬直したまま動きを止めている。

 

 それにちょっと困惑しつつも、握手を求めて手を差し出す美神。

 

「い、いえっ! こちらこそよろしくお願いしますっ!」

 

 その手を数瞬見つめた後、漸く再起動に成功した弓は慌ててジャージで手を擦ると、感極まったように頬を染めながらその手を握り返した。

 

 それに営業用に近い笑顔を返しながら、美神はその隣で同様に硬直していた一文字にも握手を求める。

 

 こちらは緊張でガチガチになりながらも、ようやっと、と言った感じで握り返してきた。

 

「よ、よろしくお願いしますっ!!」

 

「そんなに緊張しなくても良いわ。それじゃ、おキヌちゃん、私はおば様の所に行くから、あんまり――まぁ、心配する事も無いわね」

 

「はいっ」

 

 元気良く返事を返してきたおキヌに微笑を返しながら、あくまでも優雅に余裕を持って、しかしかなりの早足で美神は去って行った。

 

 どうやら、突き刺さる視線の圧力が、握手を境に増した事に耐え切れなかったようである。

 

「氷室さんっ!」

 

「おキヌちゃんっ!」

 

「はい?」

 

 暫し感動の面持ちで握手を交わした手を見つめていた二人は、やおらとてつもなく真剣な表情になるとおキヌに詰め寄る。

 

 その迫力に押されながら、おキヌは二人が同時に差し出してきた、美神と握手を交わした手とは反対側の手を不思議そうに眺めている。

 

「「ぜひっ! お友達にっ!!」」

 

「え? 良いんですか?」

 

「「勿論っ!!」」

 

「わぁっ! ありがとうございますっ!」

 

 おキヌとしてはこれから実習に向かう上で、チームとして身近になるであろう2人を、実はさりげに心配しているであろう美神に紹介して安心してもらう、ぐらいの気持ちだったのであるが、意外な効果も現れたようである。

 

 こうして、出会ったばかりのおキヌと弓、一文字の3人は、周囲の心底羨ましげな視線の中で、互いにしっかりと友情の握手を交わすことになったのであった。

 

 勿論、二人に打算が無いとは言わない。

 

 むしろ、有名人にお近づきになるチャンスとばかりに行ったのは間違いないであろう。

 

 しかし、である。

 

 切欠は何であろうと、おキヌという娘は端的に言って「とても良い子」であるので、逆に言ってしまえば切欠さえありさえすれば、以外に何とかなるであろう。

 

「氷室さん、美神さんとはどんな関係なんですの?」

 

「あの、美神さんの事務所に住まわせてもらってて、そこでお食事を作ったり除霊に参加したりしてるんです。えっと、お姉さんみたいな感じかな?」

 

「あれが美神令子さんかぁ。凄いな、なんつーか、気合が違うよなぁ」

 

「もう、他に言い方はありませんの?」

 

「あはは・・・まぁまぁ」

 

 そんなこんなで美神とおキヌの事を話の種にしつつ、3人は連れ立って広間を出て行く。

 

 弓と一文字の間に少々しこりはありそうな物の、おキヌと言う潤滑油を挟む事で、会話自体は段々と朗らかな物になっていった。

 

 そして、広間には残念そうな表情をした者や、指をくわえている者、何とかしてお近づきになれないかと試行錯誤するもの達が、暫し沈黙の中で佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはさて置き、今回の合宿の計画であるが、今回の課題は悪環境の中での除霊である。

 

 雪山で、目的の式神を探してそれを除霊すればノルマクリア。

 

 流石に本物の悪霊は危険と言う事で、今回の目標は悪霊ではなく式神符と言う簡易な術を掛けられた符を式神として構成した物で、六道女学院では実技の際に良く使用される物である。

 

 ある程度の力を持たせる事が可能ではあるものの、今回はそこまで強くない式神を使用。

 

 更に生徒達には発信機を持たせ、必ず3人組での行動を義務付ける。

 

 そしてスタート地点と山の彼方此方に教員と協力してくれるGS達を配置。

 

 救助用のヘリコプターも3台配備すると言う念の入れようである。

 

 とは言え、今回の目標の中には「命懸け」という概念が含まれていない以上、これが当然といえば当然な所だろう。

 

 あくまでも、まだまだヒヨッコも良いところの殻付きの雛鳥達、段階を踏んで除霊に慣れていく事が必要なのであるから。

 

 当然、今回のこの山も厳重な選択の元に選ばれた場所である。

 

 魑魅魍魎の類が少なく、更に霊的環境がある程度整っていて、意外な程に安全な山である。

 

 実は、人狼の里が近くにある為、たまにそこから鍛錬とか修行とか称して人狼達が出てくるのである。

 

 当然、その際には食糧を自給したりするのであるが、何せ強者揃いの里である。

 

 トチ狂った悪霊なんぞは目じゃないし、ある程度の知恵と知識をもった妖怪ならば、此処には近寄ったりしない。

 

 ――仲間を傷付けられた人狼が、どれほど恐ろしいか知っているから。

 

 と、言う訳で。

 

 極一部の地元住民を除いて人間達は知らねども、此処は不思議と安全な山として聳えているのである。

 

 そんなこんなで日も暮れて。

 

 ちなみに実習は次の日、朝から夕方日が沈む前までである。

 

 あくまでも雪山という環境下での除霊作業を体験する事がメインな為、できるだけ他の危険性は排除してある。

 

 それを妥当と見るか甘いと見るかはさて置いて。

 

「で、どうするんだ、横島?」

 

「ここまで来て怖気づいたんですカイノー?」

 

「い、いやしかし・・・」

 

 ちなみにこう言った場所でのお約束と言うか、美神達の泊まっている旅館の名物のひとつが――温泉である。

 

 冬の冷たい空気の中。

 

 ちらちらと降る雪の中。

 

 そんな中で少し熱めの温泉につかるというのは、中々に贅沢を感じさせてくれる物である。

 

 そして、旅館に程近い森の中、寒さに震えながら鼻水を垂らした馬鹿3人が、暖を取る為の焚き火も焚かず、真っ暗な中で明かりも点けずに縮こまっていた。

 

 この時期、夜の寒さは心底身に凍みると言うのに、だ。

 

「へっへっへっ、あの向こうには桃源郷があるんだぜ? 男なら行くべきだろうが」

 

「しかし、俺は侍であるからして、そのっ」

 

「横島サンは見たくないんですかノー? 温泉の中で仄かに桃色に染まった女子の肌を?」

 

「・・・うぬぬぬっ?!」

 

 要するに、だ。

 

 馬鹿三人は、今まさに覗きの算段を立てている所である訳だ。

 

 しかしそこは腐っても侍として育てられた忠夫。

 

 無防備な女性の裸を、こっそりと覗くというのは意外な事に抵抗があるようだ。

 

 とは言え――。

 

「据え膳、だぜ? ここで行かなきゃ漢が廃るってもんだっ!」

 

「横島サンが行かないなら、ワッシと雪之丞だけで行きますけんノー」

 

「待った! 俺も行くー!」

 

 そこはやはり忠夫といおうか、それとも彼の誇りの為にも若い男の性と言おうか。

 

 どちらにしても、しっかりばっちり犯罪な訳であるが、彼はあっさりと前言を撤回している訳で。

 

 馬鹿3人は、気配を消しつつ匍匐前進を開始する。

 

 雪の冷たさも何のその。

 

 荒い呼吸とギンギンに血走った目が叫んでいる。

 

 パライソはそこだ、と。

 

 あの高い塀の向こうに、男達の目指す天国がある、と。

 

 目的はともかく、篭りまくった邪念はさて置き、そこに居たのは、確かに一つの目標に向かって邁進する、誇り高き漢達の姿であった。

 

 いや、際限無く馬鹿でスケベな3人であった。

 

「・・・OK、進路クリア、発進、どうぞ」

 

「一番、特攻隊長伊達雪之丞、行くぜっ!」

 

 小さく気合を入れながら、タイガーが土台になって壁に手を付き、その上に忠夫がよじ登る。

 

 タイガーの上で壁に手を付いた忠夫が安定した事を告げ、そして雪之丞がその上に乗った。

 

 慎重に気配を消しながら、雪之丞はゆっくりと頭を持ち上げて行く。

 

 壁の向こうからは、誰かが体を洗う音が聞こえる。

 

 確かに、居る。

 

 呼吸を細く細く絞りながら、慎重に、更に細心の注意を払いながら頭を上げていく雪之丞。

 

 そして、いよいよその視界に温泉の湯気が写り始めた。

 

 ああ、俺達の夢がそこにある――!

 

「・・・くっ、湯気で何にも見えねぇっ!」

 

「落ち着け雪之丞! 風が吹けば湯気は消える筈、この時期なら山からの風は確実に吹く! 落ち着いてその時を待つんだっ!」

 

「焦っては駄目ですジャー!」

 

 互いに励ましあいながら、男達は今、確かに一個の個体として動いていた。

 

 慎重に、気配を殺しながら周囲と同化する。

 

 この程度、この程度なら問題無い・・・っ!

 

「まだか・・・まだなのかっ・・・!」

 

「・・・! 来るぞ、雪之丞っ!」

 

 忠夫の耳が、何かを感じたように動く。

 

 そして、その言葉通り、次の瞬間。

 

 浴場に満ちた湯気を薙ぎ払うように、冷たい夜風が吹き抜けた。

 

「・・・!!」

 

「・・・雪之丞、雪之丞?」

 

「どうしたんですかいノー?」

 

 しかし、忠夫の肩の上に乗った雪之丞は返事を返さない。

 

 まるで石になったかのように、体中の筋肉を硬直させていた。

 

 それを訝しげに思っていた二人の耳に、聞いてはならない言葉が聞こえた。

 

「あら? 雪之丞じゃない。なんでこんな所に居るの?」

 

「「男湯かいっ?!」」

 

 哀れ、雪之丞。

 

 期待を完全に裏切られ、無念の中、憤死っ!!

 

 硬直した雪之丞は、そのままゆっくりと倒れこんだ。

 

 男湯の中に。

 

「やだ、すっかり冷たくなっちゃって。・・・しょうがないわね、しっかりたっぷり暖めてあげましょうか♪」

 

((雪之丞ぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!))

 

 忠夫とタイガーは、聞こえない筈の悲鳴を聞いた気がした。

 

 しかし、彼の犠牲を無駄にしてはいけないっ!

 

 そうあっさりと割り切って、忠夫達は涙を2秒で振り切って真なる目標を探し始めたのであった。

 

「黙祷ぉー、はい終了。次行くぞー」

 

「やれやれですノー」

 

 酷い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さっきは手近ですまそうとしたからアカンかった。今度はちゃんと確認せんとな」

 

「しかし、他にそれらしい建物も無いですノー」

 

 再び森の中に戻った二人は、今度こそはと周囲を見回す。

 

 しかし、旅館の周りにそれらしき壁は見当たらない。

 

 暫く彼方此方を見回していた忠夫の耳に、楽しげな女性達の声が聞こえたのはそんな時だった。

 

「――じゃない。――って」

 

「そ――な。弓さ――ですよ」

 

「いや――も、お――だって」

 

 忠夫の耳は、その音源を捜して超高速で動き出す。

 

 タイガーに手振りで静かにするように伝えた忠夫の耳は、暫しの後、その声の元を見つけ出していた。

 

 流石、人狼の超感覚。

 

 純血の人狼に比べればかなり劣るとはいえど、いともあっさりとその方向を見つけ出していた。

 

 そして、その声が聞こえた方向は――。

 

「上かっ!!」

 

「屋上露天風呂っ?! 難易度高すぎじゃないですカイノー?!」

 

 そう、6階ほどもある旅館の屋上部分から、その声は聞こえていたのだ。

 

 覗きを行なう不埒な輩から乙女の柔肌を守るのに、純粋に高さで対抗する。

 

 難しいと言えば難しいが、逆に言ってしまえばその効果は絶大。

 

 黄色い声が響いてくるそこを口惜しげに眺めるタイガーの横を、忠夫は迷いの無い歩みで通り過ぎる。

 

「よ、横島サンっ! まさか――」

 

「何を迷う必要があるんだタイガー。そこに、女湯がある。それだけで十分だ。そうだろう?」

 

 決意に満ちた表情であった。

 

 曲がらぬ、折れぬ、日本刀にも似た決意であった。

 

 それは、最早信念に近い意思であった――。

 

 壮絶な、スケベ根性であった。

 

「行くぞ、タイガー。――準備は良いか?」

 

「いや、ちょっと吹っ切れすぎだと思うノー」

 

「いきなり冷静になんなやっ?!」

 

 雰囲気をぶち壊したタイガーに突っ込みの手刀を入れながら、忠夫は静かに気配を消して這い進む。

 

 その気配の消しっぷりは、雪之丞のそれさえもあっさりと上回る。

 

 何せこちとら野性の獣相手に磨いた技術。

 

 そんじょそこらの直感じゃ、そう簡単には読ませはしない・・・!

 

「ちっ! 雨樋が無い!」

 

「他の所から行ったほうがいいんじゃないかノー?」

 

「いや、今は一分一秒が惜しいっ!」

 

 忠夫は、まともに手がかりさえも無い只の垂直の壁に、おもむろに一本指を立て、力を篭める。

 

「フッ・・・!」

 

 その指はいともあっさり、静かにコンクリートの壁を貫き、しっかりと忠夫の体を持ち上げ始めた。

 

「良し、行くぞ」

 

「・・・え゛」

 

 背後で硬直したような声が聞こえたが、今はさっき言ったように時間が惜しい。

 

 背後を一顧だにせず、忠夫は反対側の手を更に上に突き刺した。

 

「ま、待ってくれるとうれしいんジャー!」

 

「俺が空けた穴を使えばいいだろ?」

 

 タイガー、じっと手を見る。

 

 どう見ても忠夫よりも太い。

 

 壁を見る。

 

 忠夫はまるでイモリか何かのようにするすると昇り始めている。

 

 恐る恐る穴に手を掛け、全身の力を篭めて体を持ち上げ始めた。

 

 何とか、行けそうである。

 

 そこまで確認したタイガーは、忠夫の後に続いてゆっくりと昇り始めた――。

 

「も、もう無理ジャー・・・」

 

「馬鹿、此処まで来て諦めるのかっ?!」

 

 あっさりと限界が来た。

 

 しかし、タイガーは頑張った。

 

 現在地は地上4階、ほぼ3分の2を踏破した所である。

 

 そこで、タイガーの指は限界を訴え、ぶるぶると震え始めていた。

 

「頑張れタイガーっ! そこに、そこに俺達の夢があるんだぞっ!!」

 

「横島サン・・・」

 

 見下ろしたタイガーの目には、無念等一欠けらも写りこんではいない。

 

 ただ、全てを託すような笑顔を浮かべたタイガーは。

 

 ゆっくりと、その手を壁から離れさせた。

 

「後は・・・頼みますジャー!」

 

「タイガーぁぁっ!」

 

 伸ばした忠夫の手は届かず、タイガーは夜の闇に消えていく。

 

 それを呆然と見つめた忠夫は、暫しの後、再び力を篭めて壁を登り始めた。

 

 

「ま、あの体格じゃ無理だよなー」

 

 かなり下のほうで、巨大な何かが分厚い雪に人型の穴を穿った。あの音ならば打ち身が精々であろうと判断し、ほんの数瞬だけ黙祷を捧げた忠夫は、次の瞬間には鼻息も荒く登り出す。

 

 少し、また少しと体を引き上げていく。

 

 そして、数々の仲間の無念を糧に、彼は今、天国の扉に手を掛けた。

 

 

「・・・む、浴場に人影なし。脱衣室に気配有り。現状固定のまま待機」

 

 どうやら、先程の声の主達は既に上がった後のようである。

 

 しかし、忠夫の視界に写る曇り硝子ドアの向こうに、一人のものと思しき影が映りこんでいた。

 

 ゆっくりと息を凝らしながら、忠夫の目はそこを凝視する。

 

 冷たい風も、酷使した指の痛みもなんのその。

 

「・・・来たっ!」

 

 そして、その瞬間が到来する。

 

 思えば、長く辛い時間であった。

 

 そして、辛く、険しい道程であった。

 

 数々の犠牲を乗り越え、忠夫は今、ミッションを成功させようとしていた。

 

 ついに――。

 

 

「あら、結構良さそうな温泉じゃない」

 

「美神さ――」

 

「えっ?!」

 

 ドアを開けて出てきたのは、バスタオルを片手で押え、もう片手にお猪口と徳利の乗ったお盆を持った美神令子、その人であった。

 

 その、意外と言えば意外であり、しかしむしろ何故考えに入れていなかったのか、と言う驚きの中、忠夫の口から思わず声が洩れた。

 

 そして、それは風の悪戯か。

 

 たまたまと言っても良いほどの、奇跡的な偶然と言っても良いほどの、そんな確率の中。

 

 その声は、美神令子の耳に届いた。

 

「なんで横島く――んきゃあっ?!」

 

「ぶほおっ?!」

 

「こ、この馬鹿ったれぇぇぇっ!!」

 

「美神さん、見える、見えますってぇぇっ?!」

 

「え、あ、ひゃうっ?!」

 

 一時の驚きから立ち直った美神が、その手に持ったお盆を投げつけ、それを顔面に喰らった忠夫が仰け反りながら必死で壁にしがみ付く。

 

 そして、その視界に写ったのは、一瞬で耳まで真っ赤に染まった美神が、怒りのままに駆け出そうとした姿。

 

 次の瞬間には、その体を覆い隠すにはあまりにも頼りない布が捲れ上がり、かなり危うい所までが忠夫の視界に写り込む。

 

 忠夫の言葉でそれに気が付いた美神は、全身を桃色に染めながら、慌てて両手で体を覆うバスタオルを掴みなおして蹲る。

 

 その、美神にしてはあまりにも初心な反応は、忠夫の心に容赦無くクリティカルヒットっ!!

 

「よよよ、横島ァァァッ!!」

 

「や、美神さん超可愛いっすよ?」

 

「こ、殺すっ! ぶっ殺すっ!!」

 

 これには思わず忠夫もサムズアップ。

 

 しかし美神は激昂する。

 

 当然と言えば当然だが。

 

 最早耳とはいわず全身を真っ赤に染めた美神の殺気が、浴場を満たして忠夫に向かって収束し始めた。

 

 事此処にいたって漸く現状を把握した忠夫は、慌てて両手を壁から離して即離脱。

 

「待てぇぇぇっ!!」

 

「御免なさいぃぃぃっ!!」

 

「許すかぁぁっ!!」

 

 美神の叫びを受けながら、地上六階の高さからフリーフォール。

 

 途中で壁を蹴って減速し、そのまま膝のバネを使って雪の上に軟着陸。

 

 途中で雪の中から体を起こしたタイガーを拾い上げ、魔装術を展開しながら男湯から脱出してきた雪之丞と合流。

 

「逃げるぞっ!」

 

「横島、お前?!」

 

「鼻血ですカイノー?! 自分ひとりだけずるいですジャー!!」

 

 鼻を押さえた手の横から真っ赤な血をぼたぼたと垂らしながら、鼻の伸びきった忠夫と魔装術を纏った雪之丞、雪を払いながらのタイガーは、そのまま山中へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おば様っ!!」

 

「何~、令子ちゃん~?」

 

「合宿の目標変更っ! 馬鹿犬をとっ捕まえるわっ!!」

 

「・・・良いけど~、その前に~その真っ赤なお顔はどうしたの~? 風邪かしら~?」

 

「ち、違いますっ!!」

 

 そして、合宿は擬似除霊作業から山狩りへと変貌を遂げたのであった。

 


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