月に吼える   作:maisen

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昨日は急な用事で休みました。ごめんね( ´・ω・`)


第拾捌話。

「ふひぃぃぃ・・・到着なのね~」

 

 事務所の一室、美神達が過去へと飛ばされたその部屋の中空に穴があき、其処から疲れきった誰かさんの声が聞こえた。

 

 寸暇の間も置かず飛び出してきたのは、神界からの調査官、ヒャクメであった。

 

 穴から転がり落ちるように地面に着地し、へろへろと座り込む。

 

「ちょ、こらっ! ヒャクメ、退きなさい!」

 

「なのねぇぇっっ!!」

 

 その上に、美神が落ちた。悲鳴も途中で途切れ、絡まりあって団子のように転がる。流石にいきなりの落下ではバランス感覚に自信があっても、着地地点を変えるのは難しい。

 

 そして、過去に行ったのは三人であった。

 

 美神、ヒャクメ、そして忠夫。

 

 つまり、未だ開いたままの穴からもう一人滑り落ちてくる訳であって。

 

「退いて、退きなさいってば!」

 

「そんなこと言われてもなのねー!」

 

「――ぉぉぉぉおおおおおおっ?!」

 

「「うわきゃぁっ?!」」

 

 更に絡まる手足と頭。見事に頭から落ちてきた忠夫は、それを絡まりあった二人の間に突っ込んだ。

 

「なんだっ?! やーらかいっ?! 良い匂いっ?! 此処は桃源郷かぁぁぁっ?!」

 

「動くな触るな引っ付くなぁぁっ!! うやっ?! ひゃうっ?! あ・・・な、なにすんのよこのバカッタレェェッ!!」

 

「「にぎゃぁぁあっ?!」」

 

 ごそごそともがく忠夫の手やら顔やら色んな所やらが、二人の女性のに引っ付く訳で。

 

 まぁ、忠夫の気持ちも、分からなくは無い。分からなくは無いが、その引っ付いている相手の内、少なくとも一人はかなりこーいった事に対して免疫が無い訳でありまして。

 

 一瞬で団子状態の其処から飛び出した美神が、左手ではだけかけた服を押さえながら振るった神通棍は、助手の半人狼と神様を、仲良く天井に叩き付けた。

 

 二人が天井に張り付いたままであったのは3秒ほど。しかし、重力を無視したままでいられずに、結局自由落下を開始する。

 

 半分気絶しながら落ちてきた忠夫の目に写ったのは、上下逆さの美神が足を振り上げ、どうやらボレーシュートをかまそうとしているらしい所であった。

 

「――何に?」

 

 首から上が弾けとんだような痛みが、答えであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・おや?」

 

『ふんぬっ! くのっ!! てやぁっ?!』

 

 目が覚めた忠夫の目に最初に写った物は、何故か呪縛ロープでぐるぐる巻きの人工幽霊一号in全身鎧。えらく気合を篭めながら蠢いているが、全く緩んだ様子を見せないロープにそろそろ痺れを切らし始めている。

 

「なにやってんだ?」

 

『ちょ、ちょっと黙って下さい! 後、多分後ちょっとで・・・!』

 

「ふーん」

 

 不思議そうに尋ねる忠夫も、何故か簀巻きにされていた。左側頭部にたんこぶができてそうな感覚があるが、縛られている状態では確認する事さえ出来ないのでほって置く。どうせ、しばらくすれば引っ込むし。

 

 簀巻きにされている事には全く動じていない忠夫が、辺りの様子を確かめる。どうやら事務所の部屋の片隅で、人工幽霊と一緒に転がされているらしい。すわ、美神さん達も危ないのでは? と辺りを探れば、ソファーの所で二人分の話し声。

 

「・・・やっぱり不可解なのねー」

 

「狙いは、私の中にあるエネルギー結晶なんでしょう?」

 

「それは間違いないと思うのね。だって言い方は悪いかもしれないけれど、美神さんは魔族を前世にもっただけの、「只の人間」なのねー」

 

 どうやら深刻そうな会話である。このままこっそり聞き耳立てることも可能だが、それは何と言うか――仲間に対する態度じゃない、と思ったので。

 

「――ふむふむ。そうなると、あのメフィストとか言う魔族が言っていた『アシュ様』辺りが怪しいっすね」

 

「そうかしら・・・? なーんか、違うような気もするのよねー、何となく」

 

「・・・どうやって縄抜けしたかとか、何時の間にとか、そー言うことは気にしないのねー?」

 

「だって横島くんだし」

 

 と、言う訳で。さり気無く会話に割り込む事に成功した。角度的に見えないが、全身鎧が居たところから非常に驚いた空気が流れてきている。が、別に気にするほどの事でもないし。

 

 忠夫の隣でソファーに腰掛けた美神は、諦めたような目をしていた。

 

 ともかく、横に置いといて、と前置きし。会話は暫く続けられる。焦点は一つ。誰が、メフィストが飲み込み、現在美神の魂にくっついているエネルギー結晶を狙っているのか。

 

 忠夫も美神も、メフィストを作り出した魔神のことなど知りはしない。ヒャクメだけが、『アシュ様』とメフィストが呼んだ事、そして、作り出されたメフィストが、それなりの魔力を有していた事、何より、人の魂に新たな肉体を与えるだけの技術を「あの時代に」持っている事から、一つの推論を立てているに過ぎない。

 

 しかし、美神の言葉が否定する。

 

 前世と言えども、完全に影響下から抜け出す事など出来はしない。それが、魂自体に焼き付けられた記憶と言う物だから。

 

 それが、「なんとなく」違うと言う。

 

 ならば、誰が?

 

「駄目、情報が足りないのねー」

 

「・・・ってなるわよねぇ」

 

 其処まで考えて、結局諦め体を伸ばす。結構話し込んだが、結論としてはそれが精一杯なのである。エネルギー結晶の情報が洩れたということも考えたが、それにしては余りにもお粗末な刺客である。強大な力を持つエネルギー結晶、それ故に、それが他人の手に渡った場合には「危険」が付き纏う。その他人に、或いは部下に裏切られるかもしれないと言う。

 

 しかし、現れたのは打算に満ちた魔族たち。はっきり言って、忠誠を求める事すら可笑しい。己の作り出した部下を、それこそメフィストのような部下を送り付けなかったのは何故?

 

 足りない、と皆が思っている。何か、重要なピースが欠けていると。

 

「・・・とりあえず、手に入れた情報を持って帰るのねー」

 

「ま、専門家に任せるのが一番でしょうね」

 

「ふぁぁぁぁ・・・」

 

 疲れたようにソファーに深く座る美神。隣に座った忠夫は、既に欠伸をかましていた。それを苦笑いとともに眺めつつ、ヒャクメはゆっくりと立ち上がる。これから帰って直ぐに報告書の作成に入らなければならない。

 

「身の回りには気をつけてるのねー」

 

「はぁ・・・面倒くさい事になっちゃったわねぇ」

 

 ヒャクメはそんな言葉を背中で受けつつ、窓を開けて身を乗り出す。おそらく、神界だけでなく魔界のデタント派も、今か今かと報告を待ちわびている事だろう。其処まで考えて、窓の縁に足をかけたヒャクメの耳に。

 

『・・・助けてー』

 

 床の辺りからそんな遠慮がちな声が聞こえたが、丁重に無視して差し上げた。

 

――別に本体じゃないんだから、その全身鎧から抜け出せば良いだけなのねー。

 

「んじゃ、帰りますねー」

 

「そうねー。あ、横島くん、明日休みね。疲れたわ」

 

「・・・大名商売やなぁ」

 

 そして、部屋の電気も消されたのだった。人工幽霊が、全身鎧から抜け出せば良い事に気付くまで、後2時間。

 

「・・・休みかぁ」

 

 事務所を出た半人狼が、夜空の月を眺めながら歩き出す。流石に疲れているのか、少々足取りも重そうだ。

 

 てくてくと歩くその顔は、ぼけーっと何にも考えていないようだ。

 

 と、何かを思いついたのか、立ち止まって手を打ち合わせる。電灯の下に、軽い音が響いた。

 

「おキヌちゃんの所に言ってみるのもいーかもしれん。ついでにご飯も取れるしなっ」

 

 再び歩き出した忠夫の歩む先は、既にねぐらのアパートを向いていない。行き先は、何時ぞやの田舎町。何時も狩りに行く森と比べれば少々遠い位置であるが、今から行けば、深夜前には着くだろう。

 

 身をかがめた半人狼が、勢い良く地面を蹴る。

 

 月を背中に、夜空に舞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・おキヌちゃん、どーしてるかしらねー」

 

 キングサイズのベッドに寝そべりながら、そんな呟きを発したのは某除霊事務所の所長であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日、某田舎町にて。

 

「おキヌちゃーん!」

 

「あ、早苗お姉ちゃん」

 

 山深い、小さな町。その中心に程近い場所にある高校で。町の外れにある神社から、自転車で通う二人の・・・と言うか、双子のような姉妹がいるそうな。

 

 片や艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、もう一人が肩の辺りで切り揃えている以外には、二人の纏う雰囲気くらいしか見分ける術が無い、例えるならば、こんこんと静かに清水の涌き出で続ける水源と、音を立て太陽のきらめきを跳ね返しながら流れる渓流のような。

 

「――えぇ~、またなんだべか?」

 

「うん・・・。お友達になりましょうって」

 

「そりゃ、怖い物知らずっていうんだ。皆知ってるべさ、家のお父さんの事」

 

 校舎の裏を、楽しげに会話しながら校舎の入り口に向かって歩く二人。とは言え片方は困ったような雰囲気であるが。

 

「山田先輩でも、まだ義父さんとまともに会話できてないのに」

 

「でも、段々弾が見えてきてるみたいなんだべさ、山田君。見えても体がついていかないってぼやいてた」

 

「・・・えーと、さすが、おねえちゃんの恋人さんだね」

 

「やっだなー! そんな、照れるべさー!!」

 

 きゃいきゃいとさざめく二人の少女。真昼の風が、そんな二人を優しく包んで走り抜けていった。

 

 

「・・・相変わらず元気だなー、おキヌちゃんも」

 

 そんな二人の姿を、立ち入り禁止の筈の屋上からこそこそと眺める人影がある。ジージャン、ジーパンに赤いバンダナ。嬉しそうに眺めるその人影の名を、偽名横島忠夫、本名犬飼忠夫と言う青年。頭や背中にくっ付いた、木の葉や苔、木屑など。どうやらしっかり森の中を駆け巡ったようである。

 

 しかし、それは制服に身を包んだ者が殆どを占めるこの場所で、あからさまに同年代でありながらも私服なそいつは、どこかおどおどとした表情もあいまって不審人物に相違ない。

 

「・・・此処ですか? しかし、鍵が掛かっている筈では」

 

「それが、ゴキブリのように壁を登って行ったという話でして」

 

「ヤバッ?! もう見つかったんかい?!」

 

 がさごそと音は立てないが、素早く低い体勢で動き始めたその姿。たしかにゴキブリのようである。

 

「――いたぞぉっ!!」

 

「其処を動くなぁっ!」

 

「動くなと言われて止まる馬鹿がおるかぁぁぁっ!!」

 

 そのままフェンスを越えて、雨樋を伝って滑り落ちていった忠夫を追って動き出す先生方。昼休みも終わろうと言うのに、とっても真面目な先生であった。

 

「なんだか騒がしいだべな」

 

「また変な人でも来たのかしら?」

 

 その追跡者と逃亡者の戦いは、既にある意味何時もの事となっていた。警察に通報しようにも、誰が信じてくれるであろうか。屋上から、命綱一本付けないで飛び降りるわ、車に轢かれても――大抵同じ運転手であるが――次の瞬間には平気で走り出すわ。

 

 先生達が意地になっていると言うのも大きいが。

 

「あ、授業始まっちゃう。帰ろうか?」

 

「んだ」

 

 とりあえず、目立った被害は未だ無し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうっすかね?」

 

「・・・あまり、長い事は持ちこたえられませんな」

 

 氷室神社。その地下に、巨大な洞穴があると言う事を知る物は殆どいない。精々神主夫妻くらいの物である。娘達――先ほどの、そっくりな容貌を持った二人の少女――には、色々な理由があって伝えていない。その時がくれば、程度である。

 

 その地下に、二人の男の姿があった。黒い装束に身を包んだ、髭をたくわえた中年くらいの男と、反対に白い、古代のそれに近い服を纏った、背中に弓を背負った、20代に見える男。二人の間にわだかまるのは、焦ったような、そして何かを待ち望む、そんな雰囲気。

 

「・・・連絡の方は?」

 

「ここらの山の神とは。皆、快く協力してくれるそっす。死津喪比女を倒した女華姫の、たっての頼みっすから、協力しないわけにはいかないそうっす」

 

「有り難い事です」

 

 年上の男が、手を一振りする。辺りが柔らかい光に包まれたかと思うと、其処に光の線が走った。それは、見る間に一つの形を作り上げる。数秒後に出来上がったのは、光で編まれた1枚の地図であった。

 

「・・・また、増えてるっすか」

 

「ええ。このような事態を予測できなかったとは・・・」

 

 困惑したように腕を組む男の前では、呆れた顔の年若い男が苦々しげに頭を掻いていた。

 

「いや、そりゃ無理ってもんっすよ。反魂の法が成功したって言うだけで、とんでもない事なんすから」

 

 地図の中心には、神社らしい建物が描かれている。それを広く囲むように、光で作られた輪が取り巻いていた。

 

 そして、それを更に取り巻くように蠢く、無数の赤い点がある。

 

「予想以上の増加です。このままでは、支えきれませんな・・・。げに恐ろしきは、人の執念、と言った所でしょうか」

 

「・・・誰も、死にたくなんかないっすよ。気持ちは、良く、分かるっす」

 

 赤い点が増える度に、僅かづつ光の輪が歪んで、縮む。時折、辺りの山々から微かな光が神社に流れ込んでくると、光の輪もそれが流れ込むたびに押し返そうとはしているが、赤い点の増殖はそれよりも明らかに速かった。

 

「仕方有りませんか・・・」

 

「気は進まないっすけどね」

 

 そう言い残して、山の神たる男性は、姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・ふぅ、逃げ切ったか」

 

 高校から離れた場所にある公園の中。幾つもある遊具の中でも、一際異彩を放つそれは、コンクリートで作られた某マッチョなお姫様の彫像であった。とは言え、筋骨逞しいという以外に表現の仕様の無い高さ5M程のそれは、誰が見ても姫とは言えない威圧感と凛々しさがあるが。

 

「ありがとうございます、女華姫さん」

 

 張り付いたその像の背中から滑り降りながら、忠夫は何となく拍手を打つ。先ほどこの像の足元を通り過ぎていった先生方から、死角を作り出してくれたお礼である。

 

 流石に、此れほど威圧感のある像の上に隠れているとは思わなかったようである。

 

 誰も、目を向けたくなかったとも言うが。

 

 そろそろ日も傾き始め、後数時間もすれば辺りは夜に包まれる頃合である。

 

「学校、終わってるよなぁ。放送も聞こえたし」

 

 数十分も前にチャイムと一緒に聞こえたのは、放課を知らせるスピーカーからの声だった。距離はあるが、耳の良い半人狼にとってはばっちりしっかり聞こえていて当然の物である。

 

 溜め息を付きながら滑り落ちる忠夫は、その事に気を取られていて気付かない。像の足元に、何時の間にか腰掛けている少女の存在に。

 

「きゃっ?!」

 

「うおっ?!」

 

 地面に降り立った忠夫の後ろから、聞き慣れた声が聞こえた。とは言え、最近は全く聞いていなかった為か、一瞬誰の声か思い出せなかったのだが。

 

「・・・あれ、おキヌちゃ――やばっ?!」

 

「え、あなた、私の名前を・・・?」

 

 像の足元は、腰掛けるのに良い位の土台があった。これだけ巨大な物になると、しっかりとした土台が必要な為か。其処に腰掛けていたのは、確かに学校で見た少女、おキヌである。

 

 おキヌの左側には学校の鞄、右側には幾つか湯気を上げるお饅頭が入った袋と、お茶の缶がある。右手に持ってたった今口元に運ぼうとしていたお饅頭が、出来たての暖かさを持っている。

 

 足元に野菜と醤油のビンが入ったスーパーの袋があることを考えると、学校帰りに買物により――義母にでも頼まれたのだろう――ちょっとおやつでも、としゃれ込んでいたのだろうか。

 

 思わず忠夫が名を呼んでしまった少女は、困惑したように眺めている。その事に寂しさを憶えながらも、忠夫は咄嗟にこの場から離れようとした。

 

 記憶が戻っていないのならば、まだその時期では無いと言う事。無理やり記憶を戻そうと言うのでは、色々と困った事になる可能性もある。自然に、あくまでも自然に戻る事が前提である。

 

 だから、離れようとした、のだろう。

 

 ――知らない人を見る目が、胸に痛くなかったとは言えないが。

 

「え、ええっと、すいませんでしたー!」

 

「あ、ま、待って下さ――きゃっ?!」

 

 逃げるように走り出した忠夫を引き止めたのは、後ろで聞こえたそんな声。慌てて立ち上がったおキヌが、バランスを崩して倒れそうになった。

 

 気付いた時には、滑り込んでクッション代わりになっていた。いきなりのヘッドスライディングで流石に痛いが、背中になんだか柔らかい感触が当たり、何故かとても得した気分になったのでかなり良し。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「い、いえ、それではこれにて御免っ!」

 

 忠夫の上から起き上がったおキヌに、怪我の無い事を確認して走り出そうとした。

 

 そうしたら、誰かに腕を掴まれた。振り向けば、驚いたように忠夫の腕を掴んでいるおキヌの顔がある。

 

「あ、あのっ!!」

 

「は、はいっ?!」

 

 やたらと気合の篭った声であった。いや、気合と言うかなんと言うか。そう、それは勇気と言うのが近いのかもしれない。俯き加減に、上目遣いでこちらをみやるおキヌの視線に動揺しながら、忠夫は思わず返事を返した。

 

「お、おおお茶でも飲みに行きましょうっ!!」

 

「・・・はへ?」

 

 既に誘いかけでさえないそれに、否定の余地が与えられていない事に気付いているのか、本人は。ともかく頬を赤く染めた彼女は、驚きに硬直した忠夫を引き摺って歩き始めた。  

 

 歩きながら進路を微妙に変え、片手で鞄とスーパーの袋を引っ掴んでいったあたりはしっかり者と言った所であろう。

 

 兎にも角にも、忠夫にとっては初めての、逆ナンパと言う奴である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こ、此処です!」

 

「う、ういっす」

 

 ふと忠夫が気付けば、何時の間にか目の前に、こじんまりとした喫茶店があった。茫然自失している間に目的地に着いていたようである。

 

 外見はシックに飾られ、それなりに落ち着いた雰囲気をかもし出している。あまり学生が寄るような雰囲気には見えないが、おキヌも一応華の女子高生である。姉や友人とこう言ったところに寄り道でもしているのであろうか。

 

「いらっしゃいませー」

 

 ドアに取り付けられたベルを鳴らしながら踏み入れば、其処は外見と同じく落ち着いた雰囲気の内装である。壁に下げられたメニューも、アンティークと思しき椅子とテーブルのセットも中々の年代物に見える。

 

 カウンターの向こうでは年嵩の男性がグラスを磨いており、入ってきた二人に笑顔を向ける。二人に向けて声をかけた青年は、エプロン姿も板についたウェイター然とした姿であった。

 

 声をかけられたおキヌは、緊張した面持ちで忠夫の手を握る手に力を篭める。その表情は、決戦に赴く武士のようだ。

 

「何名様でしょうか?」

 

「おおお大人2枚!!」

 

「・・・・・・2名様ですね?」

 

「い、いくらでしょうか?!」

 

「・・・・・・・・・・・・えーと、店長ー」

 

 どうやら、おキヌも初めて喫茶店デートと忠夫の手を握っている状況にいっぱいいっぱいのようである。にこやかなままで途方に暮れたウェイターは、店長と呼ばれた男性に声をかける。

 

「マスターだ」

 

「どーでもいいっすから。大体この前まで屋台の親父だったくせに」

 

「・・・上手くやれ」

 

 言葉少なにそう答え、再びグラス磨きに精を出し始める。そんな元一等地の喫茶店の店長、前赤提灯の親父、現純喫茶の「マスター」の男性に向かってこれ見よがしに溜め息を付きながら、商売用の笑顔を再び貼り付けたウェイターは、こちらを伺うようにして見ている少女に根気良く説明を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おれんじじゅーす、一つ」

 

「あ、俺も? ええっと、同じ物をお願いします」

 

 漸くメニューを睨みつけながら、うんうん唸っていたおキヌは注文を聞きに来たウェイターにそう告げる。目線で尋ねられた忠夫も無難に返し、ウェイターはそれらをメモするとカウンターに向かって歩き出した。苦笑いを隠しながら。

 

「・・・あ、あのっ!」

 

「はい!」

 

「こ、こう言うところは初めてですか?」

 

「え、ええっと、初めてっす!」

 

 未だにメニューをウェイターが回収を諦めたくらいには無意識の内に握り締めながら、その陰に隠れるようにおキヌが尋ねる。何故だか忠夫もその余波を食らってえらく緊張気味である。

 

「・・・・・・」

 

「・・・・・・」

 

 ぎこちなく返した答えに話題は止まり、なんともやりずらい沈黙がわだかまる。二人は気付いていないが、マスターとウェイターがそれを大変面白そうに眺めている。

 

「ご、ごめんなさい、突然こんな事しちゃって・・・」

 

「い、いや、問題無し無し! こんな可愛い女の子のお誘いなら、断る方がおかしいって!!」

 

 しょぼんとしてメニューの後ろに顔を隠したおキヌに対し、必死でフォローする忠夫であった。効果が有ったかどうかは定かでないが、おキヌはメニューの上から僅かに目線を覗かせた。

 

「本当ですか・・・?」

 

「本当だって! 可愛いってば!」

 

「そ、そっちじゃないんですけど・・・あぅ」

 

 今度は、頬の赤さを隠す為にメニューの影に隠れるおキヌ。それでもちらちらと覗く目は、なんだかとっても恥ずかしげ。

 

「・・・てんちょー」

 

「マスター、だ。・・・3枚、上手く行く方に」

 

「賭けになりませーん」

 

 そんな会話をオレンジジュースの受け渡しをしながらやっている二人。彼らの目線の先には、相変わらず照れながら恥ずかしげにメニューに隠れるおキヌと、漸く何処を間違えたのかに気付いて慌てる忠夫の姿があった。

 

「あの、お名前は?」

 

「犬か――横島忠夫でっす!」

 

 注文されたジュースが届き、二人で無言でそれを半分ほど頂いた後。漸く落ち着いた二人は、会話できるくらいの雰囲気をかもし出していた。

 

「横島さん・・・ですか」

 

「ういっす」

 

 忠夫の名前を、ゆっくりと飲み込むように口にする。大切な物をその胸に取り戻したように、おキヌはほっと、安堵の息をついていた。

 

「あれ? 如何しちゃったのかな、私ったら」

 

「・・・んや、俺も何となく・・・あれ?」

 

 二人は、我知らず笑みを浮かべていた。それは、心の底から浮かんできた笑顔。染み出すような、と言ったところであろうか。理由は知らない、けれど、何故か零れる笑顔。おキヌは、己の浮かべた安堵の表情の理由を知らない。忠夫は、自分の事を覚えていてくれた事が嬉しくて、と言う程度の理由しか思いつかない。

 

 それでも、目の前の人が笑っている事が嬉しくて。

 

 笑顔は、共鳴するように広がっていく。

 

「クスクス・・・可笑しいな、何でだろ?」

 

「わは、わははっ! さて、なんででしょーかねっ?!」

 

 カウンターに腰掛けて、雑誌を開いているウェイターも、その向こうでグラスを磨きつづけているマスターも、聞くとも無しに聞こえて来るそんな会話を耳にしながら、彼らも知らぬ内に笑みを唇に刻んでいた。

 

 それを皮切りに、二人の間には穏やかな空気が流れ出した。取りとめも無く交わされる会話。学校の事、家族の事、それから――

 

「ごーすとすいーぱー・・・ですか?」

 

「まぁ、見習だけどね。助手やってんだけど、美神さんって言う上司がいてさー」

 

 仕事の事。

 

「美人・・・ですよね?」

 

「そりゃもうっ! 伊達に俺の・・・あれ、どうかした?」

 

「知りませんっ!」

 

 むくれて視線を逸らすおキヌ。何でだろ? と悩む忠夫を見ているうちに、またこみ上げて来る楽しさ。

 

 時計の針が、帰らなければならない時間を指し示すまでの短い間。それでも、大切な時間を過ごしている。

 

 弾けるような笑顔を見せながら、おキヌの頭には「あの人がいれば、どうなってただろ?」何ていう、誰かが怒って細長い棒を振り上げる光景が浮かんでいたりする。その女性の名前もわからないし、そもそも会った事さえ無い筈の女性であるが、それでもおキヌは何となく。

 

「ちょっと、申し訳無いかも・・・」

 

「ん、何が?」

 

「い、いえ、何でもないです!」

 

 そんな気持ちも浮かんだり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――しかし、そんな小さな幸せさえも、打ち砕こうとする悪意も、ある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『オオオオオぉォぉォオオォォォオォオォおおォォォォン・・・!』

 

「何だっ?!」

 

「きゃぁっ?!」

 

 硝子の砕ける音と共に、狭い店の中に悪霊達が雪崩れ込んだ。

 


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