月に吼える   作:maisen

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第玖話。

「・・・さて、小竜姫? ちょ~っと、お聞きしたい事があるんですけれど」

 

「は、はい。なんでしょうか?」

 

 ソファーに挟まれていた机が無くなり、何となく手持ち無沙汰に置き場の無い空の湯飲みを弄くっていた小竜姫は、美神の言葉に頭を上げる。

 

 視線が、不安と嫌な予感で埋め尽くされていたりするのは此処最近の波乱万丈のせいであろう。

 

 多分。

 

「ええと、こちらも護衛と言う立場なので今回、報酬は無しですが?」

 

「違うっ! いや報酬無いのっ?! 護衛させてあげてるのよっ?!」

 

 先んじて答えられた言葉が報酬の事であるのは置いといて。

 

 しかしながらその内容に思い切り小竜姫に迫る美神。言っている内容がアレではあるが、それはそれ。

 

 助手が居なくなり、しかも魔族がこっちを狙っているとくれば、しばらくの間、少なくとも今回のゴタゴタが片付くまでは、お仕事による荒稼ぎは無理である。

 

「さ、させてあげてるって・・・美神さん、それはあんまりではないでしょうか」

 

「だってっ! だってだってー!!」

 

「流石に今回は経費で落とす事も出来ませんし。こう見えても、そーゆう事には煩いんですよ、こっちも」

 

 駄々っ子のように両手をぶんぶん振り回して抗議する美神から、湯飲みの置き場所を探す振りをしながら視線を反らす。

 

 一応ながら神族。どうやらそう言った事にはお堅いようで、あくまでも護衛してやっているという上層部の判断がこの時ほど恨めしいと思った事は無い小竜姫であった。

 

「と、ともかく。今回は現金、貴金属、その他諸々の形の残る報酬は認められていません。上が一度決めた事を覆すのには、中々時間が必要ですよ? 勿論、私たちの基準で、ですが」

 

「一体どれだけ時間がかかるのよ、それっ?!」

 

 ほぼ寿命の無い神族、しかも相手は上層部。この辺りで、美神の頭の中には100年とか1000年とかの単位しか浮かんでいない。

 

「諦めが肝心ですよ、諦めが・・・」

 

「わ、私が悪かった。そんなに荒んだ目をしなくてもいいじゃない・・・」

 

 既に空っぽの湯飲みを両手で包み込むように持ち、遠くを見るような、焦点の合っていない視線で虚空を見上げる。なんとなく、理不尽な気がした。今の状況も、此処数100年無かったこの胃の痛みも。

 

 一番初めは直属の老師が孫馬鹿になった辺りだが。

 

「・・・ふ。いっその事、こんな世界なんか・・・」

 

「落ち着いてー! お願いだからこんな所で逆鱗なんか触らないで小竜姫っ!!」

 

 湯飲みを落とし、ゆらり、と立ち上がった小竜姫は、おもむろに背中に手を伸ばし、己の逆鱗に触ろうとした。慌てて羽交い絞めし、全力で押さえにかかる美神。

 こんな所で龍が暴れ出そうものなら、とんでもない事になる。

 

 少なくとも、事務所は再起不能だろう。

 

「人工幽霊一号っ! 物理的に消滅したくなかったら手伝いなさいっ!!」

 

『えええっ?! そんな恐ろしい事を平気で言わないで下さいよっ?!』

 

「平気じゃないしこっちはその恐ろしい事の真っ最中なのっ!! 良いから早く手伝いなさーい!!」

 

 部屋の隅っこでなんでもない全身鎧の振りをしていた人工幽霊に応援要求。

 

 しかし、人工幽霊は怯えている、と言ったところか。

 

「ワルキューレー!! お願いっ! さっきの事は謝るから助けてー!!」

 

 既に涙目で、じりじりと背中の逆鱗に向かって進んでいく小竜姫の左手を、必死で押さえ込む美神の悲鳴。

 

 小竜姫の目は虚ろで、乾いた笑い声だけがひたすらに、伏せた顔の辺りから響いている。

 

 

 ところで呼ばれたワルキューレはというと。

 

 

「さあ、目的と人数と作戦と見返りと黒幕。及び、お前の知っている事を洗いざらい吐け。魔族にも温情はある。お前が此方に協力してくれれば、身の安全と暖かい食糧、一定の温度に保たれた清潔な環境を用意する」

 

「・・・う、うう」

 

「しかし、黙秘権というありもしない権利を使用するつもりなら・・・ああ、私の口からは不憫すぎてちょっと言えないな」

 

「し、しかし、我は誇り高き――」

 

 事務所の車庫で、何処から持ってきたのか安い机と、電源不明の白熱灯を小道具に、尋問と言うかなんと言うか、とりあえず情報収集に見えないことも無いか。

 

「――ああ、分かる。よく分かるぞ。その立派な翼、ファッションセンス、そしてまるで神話の英雄のようなその筋肉。よほど苦労したのだろうな」

 

「分かるかっ?! そうだ、この筋肉を維持し、育てるのに我がどれほど苦労しているか! それを奴らは、デミアンとベルゼブブは、事もあろうに「筋肉だるま」等と抜かしおる!」

 

 それまでの厳しい雰囲気は何処へやら。優しく語りかけるワルキューレに、名前も聞かれなかった事に気付かない可哀相な魔族は、とくとくと語り出す。

 

「そうか。それはきっと嫉妬なのだ。そいつらは貴方のような立派な物は持っていないのだろう」

 

「はっ! あんな人間のガキみたいなナリや、蝿風情にはこの素晴らしさは分からんのだ! 殴る事。此れに勝る力感は無い! それをクローンや醜い肉塊ぐらいしか持ち合わせの無い愚か者どもはわかっておらん! どうせ今頃・・・そういえば、あのお方は一体誰なのだろうか・・・」

 

「あのお方というのは、かなりの存在なんだろうな」

 

 さりげなく、あくまでさりげなく続きを促す。警戒されては駄目だ。

 

「ああ。いつもデミアン経由でしか指令は下されなかったが、どうやらかなり上位の存在――はっ?!」

 

「結構。それでは、選べ。牢獄か、地獄の底で氷付けか」

 

 其処まで、喋るだけ喋ってどうやら漸く自分の状況を思い出したようである。そう、今、彼は捕虜であり、現在尋問中なのだ。

 

「ちょ、ちょっと待て! 我は今確かに情報を話したではないかっ?!」

 

「ん? ああ、勝手に話して、私が勝手に聞いていただけだ。その証拠に、私は一回も質問などしていない。記録を聞くか?」

 

 そう言いつつ、帽子の下から、小さな機械を取り出すワルキューレ。何処に隠してる。

 

「・・・え?」

 

「それでは、もう会う事も無いだろうが、達者でな」

 

「・・・マジ?」

 

 ぱたぱたと、無表情のままで手を振るワルキューレ。そうこう言っている内にも名前を知らない魔族の背後には、アサルトライフルを構えた魔界軍所属の者達が立っている。

 

 彼は、呆然とした表情のままで、強制送還されていった。

 

「・・・まぁ、どっちにせよ安全、一定の温度、食糧もある。嘘は付いていないさ。ちょっと寒いが、臭い飯でも食って更正する事だ」

 

 きびきびとした動きで身を翻し、聞こえる筈も無いそんな言葉を呟きながら、ワルキューレは悲鳴と巨大な竜気渦巻く上階へと、その足を進めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・剛練武、お疲れ様」

 

「ゴルルルル・・・」

 

 禍刀羅守の折れた刃を持って追いかけてくる忠夫から、必死に逃げ回っていた剛練武は、しばらく後に漸く天竜姫のお許しが出た事で、一つしかない目から涙を流しながら消えていった。

 

「・・・ふ、ちょろい」

 

「よ、よく言うわねー」

 

「勝てば官軍! こっちも危うくミンチになる所だったんだからええやん」

 

 大いに胸を張りながら、呆れた視線の勘九郎に向かって威張る忠夫。その横では、くすくすと笑いながら剛練武を帰した天竜姫が寄り添うように立っている。

 

「・・・納得いかねぇなぁ。本当に真面目にやってんのか、お前」

 

「馬鹿ね。過程はどうあれ、結果としては問題なく、合格よ。まぁ、相手を間違った上に分断されてるから、70点て所かしらね」

 

 最初に、二対二から一対一。その上、相性の上では禍刀羅守にはより動きも早く、そこそこの攻撃力、そしてなにより禍刀羅守の斬撃を見切れるだけの目がある忠夫が当たっていれば、此処まで苦戦する事も無かったであろう。

 

 おそらく、カウンターまがいの一閃で、ほぼ勝負は決まっていた筈である。後は装甲と安定した打撃力に勝る雪之丞と協力して剛練武を叩けば、鈍重な動きしか持たないそれを仕留めるのは、そう難しい事ではない。

 

「やー。流石に即連携できるほど一緒にいねぇしなー」

 

「ま、互いに良い機会だったかしらね」

 

 ぼりぼりと頭を掻く忠夫に、苦笑いしながらそう締める勘九郎。雪之丞は言われた内容を理解する為頭を捻っている最中である。

 

「・・・すー、はー。良し」

 

 忠夫の隣で、気合を入れるかのように深呼吸を繰り返していた天竜姫が、決然とした面持ちを上げる。

 

 その気合の入りっぷりを示すかのように、両の拳は胸の前で握り締められ、かもし出す雰囲気はまるで背後に金色の龍が見えるようである。

 

 

「・・・それでは、「アッテンションー!!」」

 

 

 いつに無く緊張した様子で、天竜姫の上げた声は、背後に突然開いた空間からの声で掻き消された。

 

「よろしいっ! 資格有りと認め、諸君らを私の指揮下に置くっ! 言っておくが、この先は小竜姫の訓練ほど甘くは無い――ぞおおっ?!」

 

 突然現れた、ワルキューレの男性版といった感じのベレー帽を被ったその男の魔族は、いきなり耳元を掠めた銃弾を、悲鳴をあげながら必死で避ける。

 

「・・・私が言いたかったのに」

 

「あー、天竜。いきなり撃っちゃ駄目だ。せめて一声かけてやれ、な?」

 

「・・・うん」

 

 今だ銃口から薄い煙を吐き出すリボルバー、しかもどう見ても成人男性でも扱いかねるそれを、着物の袂に戻しながら不機嫌な声を出す天竜姫様。

 

 何処か方向性のずれた注意をしながら、優しく諭す忠夫。

 

 それを微笑ましげに眺める勘九郎と、銃声と突然の闖入者に魔装術をまとい、展開に付いて行けなくなっている雪之丞。

 

「そ、そもそも人に向かって撃っては駄目でしょうっ?!」

 

 銃弾の衝撃波でベレー帽の落ちた魔族は、ハイスピードで動く心臓を押えながら抗議した。当然の如く流されたが。

 

 それでも、今だ荒れ狂う心臓を押え、息を整えながら地面に落ちた帽子を拾う。登場時の張り詰めた、鋼のような雰囲気は何処へやら。

 

 ・・・帽子の汚れをちょっと寂しそうに払うその背中には、哀愁が漂っている。

 

「えー、すいません。ちょっと良いですか?」

 

「ええ。少し二人きりになりましょうか?」

 

 気を取り直して声をかけながら顔を上げれば、目の前にはやたらとごっつい男の姿。何時の間にか両手は、帽子を握ったままで拘束されていた。

 

 目の前の、頬を赤らめた「男」に。

 

「い、いえ、結構です!」

 

「ま、シャイなのね。遠慮しないで、手取り足取り腰取り教えてあげるから。こっちも中々――良いわよ?」

 

「だだだ誰かっ! 助けてくださいー!!」

 

 必死で振り払おうと手に力を篭めるも、何故か篭めた筈の力が滑り落ちていくように流される。

 

 勘九郎、無駄な高等技術の使い方では、ある。

 

 視線の先には、忠夫に「子供は見ちゃ駄目」と言われて目隠しされながらお姫様抱っこで離れて行く、その密着した体勢に満足げだが子供扱いされた事に不満げな天竜姫と、それと一緒に魔装術を纏ったままで、決して背中を見せないように離れて行く雪之丞の姿。

 

「ふふふ・・・オイシソウ・・・!」

 

「いーやー!」

 

「「どんまい」」

 

 出だしから、いきなり不幸な奴である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の朝、とはならず。

 

「ぜはー!ぜはー!」

 

「そこまで嫌がる事無いのに」

 

「嫌がりますっ! 普通はっ!!」

 

 息を荒げ、髪がぼさぼさになり、何故かズボンが脱げかけたりしながらも、男性の魔族は無事だったようである。何が、とは聞いてはいけない。そーゆうもんだ。

 

「ごほんっ! あー、私は、魔界軍情報士官、ジークフリート少尉です。よろしく!」

 

 空咳一つでいろんな物を立て直し、ジークフリートと名乗ったその魔族は、綺麗な敬礼を此方に見せる。

 

「あら、よろしく」

 

 最も、勘九郎の視線にビビっていたが。

 

「先ず、此方の状況ですが――そ、そちらの方々は?」

 

「あ? 俺らか?」

 

「ええ。此処から先の話は少々厄介な物ですので、関係者以外は遠慮願います。――よろしいですね?」

 

 視線を鋭くし、勘九郎達にそう伝える。その視線は、先程まで美神の事務所に於いて、その所長と対峙していたある魔族、ワルキューレに良く似た物であった。些細な違いを上げるとすれば、その根底に感じられるのが、炎か、氷かと言うくらいなもの。

 

 絶対零度にも似たワルキューレの冷たい視線と、奥底に燃え上がる炎を秘めたジークフリートの視線。

 

 しかし、それを受けて尚、部外者と言われた二人が怯む事は無い。

 

「おいおい、面白そうな事なら俺も一口噛ませろよ」

 

「そうねぇ・・・どうやら、横島君が関っている所を見ると、美神令子とその周辺も関係者かしら? ああ、答えは要らないわ。私たちは「偶々巻き込まれた、不運な通りすがり」で結構よ」

 

「・・・まぁ、良いでしょう。此方も戦力は必要だ。勘九郎さんに、雪之丞さんでしたね。香港とGS試験の件は報告を受けています。先程の試験を通過したのなら、それなりの期待は出切るでしょうし」

 

 其処まで言い、言葉を切ったジークフリートは突然大きな声で、言い放つ。

 

「ああ、しまった! 迂闊にも只の通りすがりに聞こえるように話してしまった! ・・・天竜姫様、よろしいか?」

 

 空々しい空気の後、大げさな動きでそうのたまう。最後に、天竜姫に問い掛ければ、帰ってきたのは小さな頷きが、一つ。

 

「では、失礼して。現在、美神令子には我が姉、ワルキューレとこの妙神山の管理人、小竜姫が付いています。此方の分析と新しく入った情報によれば、少なくとも相手は後2人」

 

 ジークフリートはズボンのポケットから、小さく折りたたまれた紙を取り出し、それに視線を落としながら読み上げていく。

 因みに、新しい情報の出所は、推して知るべし。

 

「既にあちらの戦力の内1人を捕らえ、無力化に成功しています。残る2人ですが、デミアンとベルゼブブ。何れも武闘派、反デタント勢力として悪名高い奴等です。詳しい情報は今だ収集中でありますが・・・」

 

「・・・おそらく、無駄。神族と魔族が一緒になって反デタント勢力潰しに躍起になっている中で、それだけの情報しか掴んでいない。それは、相手が慎重だから」

 

 歯切れ悪く、ジークフリートが言葉を濁す。続けたのは天竜姫。冷たい声と視線で、忠夫の服の裾を握り締めながら、呟くような小さな声で、言い切った。

 

「ええ。魔界の情報局も同様の意見です。時間がかかりすぎる、と」

 

「・・・間に合わない?」

 

「ほぼ、確実に。向こうも動き出す事でしょうし、うちが情報を集める前に、美神令子が襲われる事は間違い無いでしょう」

 

 ジークフリートと天竜姫。互いの視線は頭2つ分ほど高さに差があるが、共に、相手の話す言葉を元に真剣に検討を重ねている。

 

「・・・急いだ方が良い」

 

「師匠殿に話は通してあります。犬飼さん・・・失礼。横島さん、後、そちらの通りすがりの修行を受けられる方も、どうぞ」

 

 ジークフリートが、忠夫を犬飼と呼ぶと同時、天竜姫から厳しい視線が突き刺さる。慌てて言い直し、ジークフリートは空間に扉を作り出した。

 

 輝く扉に、先程から無言の忠夫と、いたって気楽な様子の雪之丞、ぶつぶつと何かを考えている様子の勘九郎が消えていく。

 

 読み上げた紙を、ポケットに戻す事無く一言呟き、灰に変える。それを握り潰し、風任せに辺りに散らばせていたジークフリートは、3人に続いて扉をくぐって行った天竜姫のむくれながらの言葉に、苦笑いを浮かべていた。

 

『・・・犬飼君って言って良いのは、私だけなの』

 

「やれやれ・・・恋する女は、可愛げがあり、怖い。姉上も少しは見習えば良いのに」

 

 肩を震わし、笑いを堪えながら、ジークフリートもまた扉を潜って消えていく。最後に、扉が消え去り、辺りは再び生命の無い、静かな空間へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おせえぞっ! 何だよ此処は?」

 

「入り口ですよ。その椅子に座って、気を楽にして下さい・・・あー、天竜姫様?」

 

 扉を通って出てみれば。

 

 其処は十人も入れば狭く感じるであろう、六角形の小部屋であった。幾つかの椅子が並んでおり、小竜姫が飾った物であろうが、花瓶に、小さな花が生けてある。

 

 そんな彼女らしい小さな心遣いに感心しつつ、忠夫と雪之丞に椅子に座るように促して――既に着席し、待っている天竜姫に、気付いた。

 

「・・・?」

 

「首を傾げても駄目です。急激な成長で体にどんな無理が掛かっているか分からないから、天竜姫様は待っているよう、師匠直々のお達しが在った筈ですよ」

 

「・・・むー。ケチ」

 

「ケチで結構。後で問題になるのは御免です」

 

 ぱんぱんと手を叩きながら、天竜姫に椅子から降りるように告げる。ひどく残念そうに文句を言いながらも、素直に天竜姫は立ち上がり、すたすたと忠夫の横に立つ。

 

「・・・大丈夫?」

 

「んー、まあな」

 

 見上げた顔は、何時かよりも近くで見れる顔は、何故か迷っているようにも見える。何に迷っているのか、定かでは無い。

無いが――少し、不安を感じさせる物であり。

 

「準備はよろしいか? それでは」

 

「あ、応。頼む」

 

「小竜姫よりも強い師匠か・・・楽しみだぜ」

 

 ジークフリートの声に、その不安を確かめる機会は、失われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・うおっ?!」

 

「ほー、すげーな」

 

 一瞬視界が揺らぎ、次の瞬間には辺りはすっかり違っていた。殺風景な、椅子と小さな花瓶に生けられた花以外何も無い所から、何処と無く中華風の雰囲気漂う、小さな部屋へ。

 

 漢文で書かれた掛け軸や、壁に描かれた模様。

 

 先程の部屋と同じ大きさながら、其処には通路ではなく、部屋としての空気が在った。

 

「お? ジークフリート、どした?」

 

 辺りをキョロキョロと見回して見れば、其処には硬直し、小さく震えるジークフリートの姿。

 

「大丈夫大丈夫大丈夫・・・天竜姫様もいる直ぐに戻れる問題無い問題無い勘九郎さんが近づいてきていても大丈夫だから黙っていよう沈黙は大事だ私は知らなかったんだ」

 

「おい、どうした?」

 

「は、はいっ! 一切全く問題ありませんっ!」

 

 ぶつぶつと息継ぎさえせずに呟きつづけていたジークフリートは、雪之丞が肩を叩く事で漸く正気に戻ったようだ。

 

 だが、雪之丞を見る視線がとても可哀相な者を見る目だったのは、なぜだろう。

 

「こ、こちらにどうぞ」

 

 ちょっと蒼褪めたジークフリートの案内で、出口から続く廊下を渡っていく。通路から外を眺めてみれば、広い湖とそれを囲む森林、そして、遠くに靄で霞む山々が見える。

 

 ぼーっとそれを眺めながら、何時の間にが、忠夫は立ち止まっていた。

 

 ジークフリートと雪之丞の姿は既に無い。どうやら気付かずに先に行ってしまったようだ。そんな事を頭の隅っこで考えながら、只、風景を眺める。

 

 

「・・・どーせーっちゅーんだ」

 

 言葉が、口から零れた。

 

「美神さんが危なくて、守りたくて。でも、危ないところに行くと天竜が泣いて、泣かせたくなんて無くて。やれる事って言えば、強くなる事」

 

 がしがし、と頭を掻く。

 

「なんだかなぁ・・・いっぺんに沢山在りすぎて、訳分からん」

 

 がしがしと頭を掻いていた手が、ゆっくりと止まる。

 

「柄じゃねぇなぁ。美神さんは魔族に狙われる、おキヌちゃんは居なくなる、天竜には無理させる、小竜姫さんには迷惑かける。ぐだぐだじゃねぇか、俺」

 

 止まった手が、ゆっくりと、降りた。

 

「可笑しいよなぁ。嫁さんが欲しかっただけなのに、とんでもない事になってやがんの。あれか? 運命の神さんは、俺に嫁を取らせん気か? いつか一発殴っちゃる。男限定で。んでも美人さんの嫉妬だったら良いかなー」

 

 上げた顔には、まだまだ曇りが多すぎた。

 

「・・・でも、なぁ。どっちも、何だよなぁ。守りたいし、泣かせたくない。欲張りなんかなぁ、俺。・・・はああぁぁ」

 

 重い、溜め息が零れた。自分でも考えが纏まっていない事くらいは把握している。問題は、その事が全く考えを纏める助けにならない事。そして、事が既に、只の半人狼である自分に、どうしようもない規模に成って来ている、そんな予感。

 

「・・・ん?」

 

 ふと、視界の隅を、何かが掠めた。そちらに視線を上げれば、なんだか、どっかで見た事のあるものとそっくりな物があった。

 

 更にそれを辿って、視線を横にずらせば、其処には。

 

「・・・猿?」

 

 何故か、何時の間にかキセルを吹かしながら立っている、中華風の服を着た猿が居た。とは言え、眼鏡を額に引っ掛けているし、その瞳には確かに知性の色がある。

 猿は、ゆっくりと口から紫煙を吐き出し、満足げに目を細める。

 

 

 ――と、次の瞬間。

 

 

「―――っっっ!!!」

 

 雷光の速度で、手に持ったキセルが、忠夫の頭に振り下ろされた。目の前に火花が散るのを見ながら、しゃがみ込んだ忠夫は心から驚いていた。

 

 見えなかったのだ。キセルの動きが、そして、動きの起こり、つまり予備動作さえもが。

 

「ななにしやがんだこのクソ猿!!」

 

「・・・フゥーーー。この戯け」

 

 猿は、視線さえこちらに向けなかった。顔は前に固定したままで、再び咥え直した、中身の灰さえ零れていないキセルを吹かす。

 

「守る? 泣かせたくない? ふん。軽すぎる言葉じゃの」

 

「・・・っ!」

 

「守る為に、居たい場所にいないのは何故じゃ。泣かせたくないのに、危険な場所に行ったくらいで泣かれるのは何故じゃ」

 

 言葉は、確かに伝わっていた。何時から居たのだろうか、そんな事さえ思わなかったが、確かに、何時の間にか、其処に居た。

 

「やるべき事を見据えられんようなアホは、とっとと尻尾丸めて帰れ。・・・それが嫌なら、しっかりと考えろ」

 

 キセルの灰を落とし、ふらり、と猿は歩き出した。

 

「守るだの、泣かせたくないだの。そんな事は一々言う必要も無いわ。やるだけやって、駄目だと思われたから、『大丈夫だと信じてもらえなかったから』お前は此処に居る。ワシは、もう心配される事なんて無くなったわい」

 

 向こう側から、ジークフリートが駆けて来るのが見えた。

 

「時間はある。考えろ。どうすれば良いのかを聞くのでなく、どうしたいのかを、決め付けろ。一々迷ってる暇なぞ、未熟者に在る物か。と言う所で、「師匠! 斉天大聖老師っ!こんな所に」騒がしいぞ、ジークっ!! 全く・・・弟子への最初の教え、終わりじゃのぅ」

 

 振り向いたのは、額に金色の輪を嵌めた、真っ白な髭をたくわえた、老猿であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「い、いだだだだ・・・」

 

「ああっ?! 美神さんがなんだか酷い事にっ! おのれ卑怯な奴らめ、何処に潜んでいるっ?!」

 

「いい加減にしないか。因みに美神令子は、お前から溢れた竜気で吹っ飛んだのだが、まさか気付いていなかったのか?」

 

「ええっ?! そんな馬鹿なっ!」

 

「・・・もう良い、休め、な?」

 

 部屋の端で、ソファーや小さな備品類、書類に埋もれてうめく美神を掘り出すワルキューレ。小竜姫は慌てたように、構えていた剣を鞘に収めるとこほん、と一回咳をする。

 

「ふ、何時いかなる時も緊張を緩めてはいけないと言う「嘘付けぇぇぇっ!」ごめんなさい」

 

 漸く上半身を救出された美神が、ソファーを持ち上げてもらいながら引っかかっていた足を抜く。勿論誤魔化そうとする武神には、後でこの事をネタになんか強請ろうとか思っていたりするが。

 

「・・・! く、くっくっくっ、あっはっはっ!! まぁ、その辺にしておいてやれ。どうやら、怪我の功名だな。美神、お前の尻の下だ」

 

「何よ・・・って。これ、もしかして?」

 

 美神が摘み上げたのは、全長10cm程の、悪趣味にデフォルメされたような蝿人間。

 

「・・・ベルゼブブ? さっきので巻き込まれたの? バッカね」

 

「う、ううう。重い、痛い、何か痺れた、かた「黙れ」・・・きゅう」

 

 思わずこめかみに浮かんだ幾つかの井桁を、怒りと共に霊力漲る左手へ。一瞬でぐったりとなった蝿を、ワルキューレに投げて寄越す。

 

「ほら。ちゃんと預けときなさい」

 

「了解。・・・硬いのか?」

 

「お尻のポケットに偶々破魔札の束入れてたのっ!! 失礼な事を言うなぁっ!!」

 

 呆れた様に、真っ赤に染まる美神を見る二人。

 

 何となく、笑い出しそうになったワルキューレと小竜姫であった。

 


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