朝日が昇る。小鳥の囀りが聞こえて、しかも今日は快晴になりそうな予感がする。
こんな日に、気持ちよく目覚める事が出来たならば、それは、ありふれた、在りがたい幸せではなかろうか。
「…おい、生きておるか?」
「…ああ、なんとかな」
「動けぬか?」
「無理」
朝日が昇る。小鳥の囀りが聞こえて、しかし今日は死の予感がする。
太陽は山影から顔をのぞかせ、地面に埋まった身体はともかく、一晩中助けを求めて声を出し疲れ切った彼らにゆっくりと暖かな光りを与えていた。
「いい加減誰か助けにきてくれんかなぁ…」
「忠夫め、次会ったら覚えておれよ…!」
かの少年がしかけた落とし穴にはまり、ご丁寧にもと言うべきか、それとも武士の情けと言うべきか、頭だけは埋められずに地面から生えた生首と化している彼らは、一晩中だれの助けも得られぬまま、疲労と空腹を抱えている。
悔しさゆえにぎりぎりと歯ぎしりをする隣の男の声を聞きながら、里を覆う結界の縁ギリギリに近いこんな場所では、助けが来るのはどれほど後になるかと考えて、もう一人の男は溜息を吐いた。
「だーれーかー! ふぬぬぬ…っ! 出してくれー!」
「…そのうち誰か居ないのに気付いて、助けに来るさ」
「馬鹿たれぇぃっ!!」
諦観半分、楽観半分で呟いた男に、怒声が襲いかかる。
耳も塞げない状態で耳元で吐かれた大声に顔を顰め、そちらを向いた男の目に、嫌に焦った表情と、だらだらと流れる冷や汗まみれの、男の見苦しい顔が入った。
「いいか、拙者達は昨日から散々騒いでおる」
「あ、ああ。まぁな」
「しかも日が出た。そしてここは里からも程よく遠い」
「だから腹も減ったし困ってるんだろ?」
今一要領を得ない、そんな風情の男に、舌打ちをしながら焦った男は、危機感をたっぷり乗せたまま、その理由を吐きだした。
「死ぬぞ」
「え?」
「このままだと死ぬ」
その言葉につられるように、がさがさと背後の草むらが蠢く。
のそり、と巨体を揺らし、掻き分けて出て来たのは…一匹の勇壮な雰囲気を纏った巨大熊だった。
片方の目に走る古傷の跡。やや赤みがかった剛毛が覆うその身体は並みの熊を優に超える膂力と威圧感を持っている。
獲物は、ぎろり、と片眼で見降ろされていた。
「え?」
「だからさっきから必死で助けを呼んでおったのだ…!」
「うわー!? 死ぬ死ぬマジで死ぬっ!!」
「黙って霊波刀をだせっ! 口からだ! いいか、片方が助けを求めて、片方が霊波刀で牽制っ! 霊力が尽きたら最期だ! 拙者の命、貴様に預けるぞ!」
「カッコいいつもりか知らんが現状凄い情けないからなっ!?」
それから助けが来るまでの二時間と三十二分、彼らは色々と振り絞りながら頑張り続けた。救援に担がれ里に戻った時にはすっかり精も根も尽き果て、次に目覚めた時は互いに無事であった事を喜びあい、泥だらけで、涙ながらに抱きしめ合い互いの無事を喜びあった。
余談ではあるが、その後、抱き合った時に感じたやたらねっとりとした視線のせいかは分らないが、里の一部女性に暫くなんとなく腐臭の漂う視線で眺められる日々を送ったそうな。
時はしばらく遡り。とある鄙びた温泉宿の、しかし手入れは行き届いた廊下の真中で。
「全く…いきなり降って来て、全然怪我した様子もない上に、第一声が『嫁に来い』? もの凄い馬鹿な痴漢だこと」
「その怪我しなかった人をいきなり重症一歩手前まで殴り倒した美神さんも十分凄いと思いますけど…」
犬飼忠夫がニュートンに負け、温泉の女湯に落ちてからしばらく後。
そこには仄かに香る硫黄の香りと、実り豊かな肢体を薄い浴衣で隠した美神と呼ばれた女性と、明らかに地面から浮きつつ、人魂を纏わせた「幽霊の」 少女がいた。
痴漢を右ストレートの一撃で沈めた後、急いで着替えを済ませた美神は気絶した少年を浴場からロビーへと足を引っ張って引きずり出していた。
少年が引きずられた後には血の跡が残っており、ホラーなゲームや映画も真っ青な演出となっている。すれ違った従業員達はそれを見てまた何か霊障でも起こったか、と戦々恐々としていたのは然もあらん。
そのままの流れで、遠目に見守る従業員達にとりあえず警察でも呼んでもらおうか、と声をかけようとした彼女の霊感に、ふと何かが引っ掛かり、眉根を寄せて襤褸雑巾になった青年を眺める美女という光景が出来あがったのである。
「うーん? この子…やっぱりなんか変ね。おキヌちゃん! 荷物の中から呪縛ロープと、霊視ゴーグル持ってきて頂戴!」
「呪縛ろーぷ? れいしごーぐる? …ふぇ~ん、わかりませ~ん!」
「ああ、そりゃそうよね…しょーがないわねぇ。ちょっと見張っててよ、多分あれだけやっとけばしばらく動けないと思うけど」
「はい!」
頭を掻きつつ自分の部屋に戻る浴衣姿の美女と、それを元気一杯に見送る幽霊美少女の後ろでは――
(――ヤヴァイ! 呪縛ロープとか霊視ゴーグルとかってTVでやってた霊媒道具じゃねぇか! 対霊対妖のプロ、つまり相性最悪のGSなんぞと事をかまえるわけにはいかん!)
すでに流れ出る血も止まり、戦術的撤退を考える半人狼の青年がいた。
(…ああっ! でも、年上の美女に縄で縛られる何て、こんな機会は二度とないかもしれんっ!!)
訂正。ただのバカがいた。
「あ、おキヌちゃん」
「あれ、どうしたんですか美神さん?」
と、部屋に戻ろうとしていた美神が、廊下の曲がり角から顔を出し、おキヌに向かって何かを放り投げた。
長方形の箱から金属の針が二本突き出しているそれを指さし、美神は言う。
「そいつが目を覚ましそうになったら、細長い所を首筋に当てて、横のスイッチ押しといてー」
「えっ、…こ、これ、何ですか?」
答えを求めて手元の箱から視線を上げても、返事は帰らずひらひらと振られる手が廊下の曲がり角に消えていく所であった。
(どうする…どうする忠夫! 相手はGS! まかり間違って退治されんとも限らん! しかし、外に出て見つけた美人で年上の嫁候補第一号! ムチムチボインですこぶるつきの美女!! …もったいない!もったいないぞぉぉぉっ!!」
「きゃっ!」
「うぇっ!」
どうやらいつのまにか口から出ていた忠夫の心の叫びは、近くにいた幽霊少女を驚かせ、その悲鳴が更に忠夫本人も驚かせたようである。思わず、といった様子で箱の横に着いたスイッチを押しこみながらそれを突き出す少女。
「え、えいっ!」
「あばばばばばばばばっ?!」
ほとばしる雷光。目を瞑ったまま明らかに改造されているであろうスタンガンを押し当てるおキヌ。まさかこんな可憐な少女がいきなりキッツイ攻撃をしてくるとは夢にも思わなかった忠夫は、しばしビクンビクンと踊り狂うことになる。
「わー、これすごーい」
「し、しび、しびれっ!? いきなり何すんじゃねーちゃん!」
が、そこは人狼故か忠夫故か。
目をキラキラさせて文明の利器を物珍しげに眺める少女に、対してダメージを受けた様子も無く、やや黒焦げていながらも文句を言いスパッと立ち上がる。
と、そこで初めて二人の視線が絡んだ。
「あ、ご、ごめんなさいっ! 私びっくりしちゃって! 大丈夫ですかっ!?」
「…oh。はっはっは! 大丈夫だよ! ほーらこんなに元気!」
心配する少女の顔を見て、本当に心からこちらを案じていると感じた忠夫は、その少女の優しさに空元気(とも言えないが)を見せつけるように慌てた様子で両手を振りまわして見せた。
後、可愛かったのが理由の9割である。
「良かった…。本当にごめんなさいっ!」
頭を下げる少女を見て、忠夫は思う。
一、 器量良し。
二、 性格良し。
三、 …押しに弱そう。
「分った。だったら俺の嫁に来ないか?」
「何がだったらなのよこの馬鹿ったれ!!」
とりあえずおキヌを口説き?はじめた忠夫への返答は、少女の悲鳴を聞き駆け戻ってきた美神の十二分に霊力の籠った神通棍の一閃であった。
後頭部にそれを食らって今度こそ崩れ落ちる忠夫。
トドメとばかりに踏みつけられながらも、彼はどこか満足げであったとか無かったとか。
で、それから何度目かのしばらく後。
「で、なんでこんな所にあんたみたいなのがいるの?」
再び忠夫が目覚めてみれば呪縛ロープでぐるっぐるに巻かれた己と、
「あんた、人間じゃないでしょ?」
神通棍を輝かせながら額にいくつも血管を浮かばせた、怒りのオーラに包まれた美神がそこにいた。
「…ななななんのことでせうか? わ、私はどこにでもいる平平凡凡な普通の一般村民ですよ?」
「へぇ?じゃぁその頭から生えてるお耳は何かしら?」
その言葉に慌てて耳を隠そうとし、完璧に拘束されている為腕が動かせず、じたばたともがく忠夫の額にはすでにバンダナはなく――しっかりと、狼の耳が生えていた。
「こ、こ、これは、ですねぇ?」
「これは?」
「そのぉ…あの…ええと…」
「………」
どんどん纏う雰囲気が冷たくなり、温度を下げる美神の視線にさらされながら忠夫は必死に考える。
相手はおそらくゴーストスイーパー。先ほども考えてはいたが、テレビで見た限りでは、魑魅魍魎、悪鬼羅刹を相手取り、祓い、討ち、滅する事を生業とするその道のプロ。
しかも雰囲気からしてかなりの凄腕、というかこの威風と物腰でGSとしては実は平均でした、とか無いわ。もしそうだったらこの国から妖怪変化が全滅しててもおかしくねーし。
転じてこちらは半分とは言え妖怪。しかも誤解とは言え女湯に飛び込み、ちょっと持て余した若さのせいで理性が飛んでしまった事もあって、裸の女性に飛びかかった前科持ち。
(アカン、詰んだ)
この状況は不味い。下手な誤魔化しは通用しそうにない女性が相手である上に、立ち場も悪けりゃ印象も最悪である。
せめて、この雰囲気を、怒っている女性を上手い事宥めて見逃してもらえるように交渉できる雰囲気を作らねば!
そう、こう、何か雰囲気を和ませるような小粋なジョークとかいいんじゃないかなっ!?
「…お、お前の綺麗な声を良く聴く為さ!」
「…赤ずきんちゃんって、狼に食べられそうになったのよねー」
すっ、と振り上げられる神通棍。籠められた霊力の為か、そこから最早火花さえ見えそうなほど迸る光。そしてそっと目を閉じ耳を塞ぐ巫女服の少女。
「ごっ、誤解じゃああああああっ!?」
忠夫は何処までも忠夫であった。
一通り、忠夫のライフはもう0よ! の一歩手前までしばかれ倒した後の事。美神は何処となくすっきりした様子で、ぼろぼろの忠夫の涙ながらの話を聞いていた。
勿論正座した彼の眼前には未だ仕舞われぬままの神通棍がぷらぷらと揺れており、それが目の前を通るたびに彼はビクリビクリと震えている。
「へぇ?! 半人狼! 今時めっずらしいわねぇ~。人狼が人との交流を絶って引き籠ってから、もう随分経つわよ?」
「ええ、まぁ色々ありまして」
「んで、そんなレアな存在がどうしてこんなところにいるわけ?」
「嫁探し」
簀巻きにされて尚、イイ笑顔で即答する忠夫に、毒気を抜かれ、呆れの多分に籠った溜息をつきながらも美神は神通棍をしまった。
「はぁ~。まぁ、確かに人狼と人間が結ばれた話はあるけど…」
「ねぇ、美神さん。ろーぷ解いて上げましょうよー」
「まぁ、悪い子じゃなさそうだしねぇ…馬鹿だけど」
苦笑いを浮かべつつロープを解いてバンダナを返してやるのだった。
「それで、これからどうすんのよ?女性をさらうっていうのなら、しっかりバッチリ極楽へ送ってあげるけど?」
「はっ?」
本当に、全く考えてもいなかった事を言われ、固まった後、忠夫は。
「なーにいってんすか! やっぱ愛がないとだめでしょ?! 愛がなきゃぁ!!」
己の信念を笑顔で返す。
「…ふーん、まあそれなら良いけど」
対する美神は、どこか全く興味がないようでいて、しかし微かに苦笑いを零しながら、その言葉に心の隅で何かがカリッと引っかかれたような戸惑いを感じていた。
(…なんだろ。これ。なんだか、すごく懐かしいような…)
「えーと、犬飼さんは、これからどうなさるお積りなんですか?」
美神はいつの間にか呆けていた事に気付き、おキヌの言葉にはっと意識を目の前に向けた。
先ほどまでボロボロだった筈の少年は何時の間にか元気そうな素振りになっており、それを見て、若干心配そうだったおキヌは、ほっとした様子でほどいたロープ片手に話しかけていた。
「とりあえず、母上繋がりで連絡とってあるんで、そっちの方にでも行ってみようかな、と」
「へ、へぇ、どこ?」
呆けていた事を誤魔化す様に放った言葉には、しかし本人さえも意識しないような、別れを惜しむ気持が僅かに籠っている。
「東京っス。といっても、自力で生きていけるように頑張るつもりっすけどね」
「ふーん。…あんた、犬飼忠夫って言ったわよね?」
「嫁に来ますか?」
「行くかっ!」
とっても不機嫌な表情で、でもどこかに楽しげな色を瞳に浮かべたまま、美神は言う。
「あんた、私の裸を見て、無料で済むとは思ってないわよね?」
「…え"」
にやり、と意地悪そうな表情を浮かべた美神の言葉に、忠夫はかちりと動きを止めた。止めざるを得なかった。
多少の持ち合わせはある、と言えばある。しかしそれはこれからの生活費だったり食費だったり、その他にも色々と必要なものを入手するために取って置きたい貴重な資産だ。
これから先に自力で稼ぐ機会に何時めぐり合えるか分らない以上、できる事ならば使いたくは無い。使いたくは無いが、目の前の女傑が「払いたくありません」で許してくれる訳もない。
しかし、意地悪な表情を、悪戯っぽいものに変えた美神は、笑いを堪えるように動きを止めて冷や汗を流す忠夫に、一本の蜘蛛の糸を垂らす。
「分ってるわよ。どーせ大金なんか持ってないでしょ? なら、体で払いなさい」
「そー言うことなら今すぐにでも!!」
台詞とともに服を脱ぎながら飛び上がった忠夫の頭部に彼の目でさえも捕捉できない速度で神通棍が振り下ろされた。
冷たい廊下に熱いキスをしながら、ゆっくり頭を上げた忠夫の目に、先程までの暖かさの無い、絶対零度の視線を向けてくる仁王立ちの美神が写り込む。
「…労・働・力・を! 提供しなさい」
「了解しましたっ!」
ルパンダイブをかましつつトランクス一枚で凄まじい勢いで尻尾をはためかせ飛び掛ったところを、カウンターで沈められ、仁王の様に睨まれて。
これから先の上下関係をしっかり叩き込まれた忠夫であった。
「まったく…まぁ、荷物持ちもできる、人狼の血を引いてるから霊力も使えるはずだし、超感覚もついてくる。…拾い物、なのかしら?」
はやまったかなぁ? という顔で佇む「いくら分働け」という額の提示をしなかった美神と。
(うわぁうわぁ、男の人ってすごく筋肉がついてるんだぁ)
意外に引き締まっている忠夫の体を見て、真っ赤になりながらも目が離せないおキヌの上に、いつのまにか、涼しげな、透き通るような朝日が差し込んでいた。
その頃、某所では。
「兄上ー!あっにぃうっえぇー!!何処でござるかー!!」
「コーーーーーン!!」
「このバカギツネェ!! 少しは手加減するでござるよぉぉぉ!!!」
「グルルッ!!!」
「やるでござるかぁっ!!」
「シロっ、見つけたぞブファッ!」
「グルルルルルルウッ!!」
吹き飛ばした彼の事をうっかり忘れ、互いに本能で感じ取ったライバルを減らさんと、爆音と炎を撒き散らしながら自然破壊にいそしむ二人がいたとか。
「あれ? 犬塚さん、どうなさったんですか、そんなボロボロで」
「…娘が…反抗期かもしれないんです…」
そんな真っ只中に娘を発見して飛び込み、気づかれる事無く巻き込まれ、気付いた時には完全に見失って失意のままに里に戻り、未だに魘されている者たちの面倒を見ていた女性に相談するとある父親の姿もあったとか。
…ああ、すまないね、ここを訪れる者は多くない。客人を放っておくなんて、少々気がそぞろになっていたようだ。
お詫びといっては何だが、今日はお茶を一杯ご馳走しよう。まぁ、本でも読むか、私の独り言でもを聞きながら楽しんでくれると嬉しいのだけど――