月に吼える   作:maisen

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第三十二話。

ぱちぱち、と囲炉裏の火が踊る。その上には鍋と、その中で煮られる山菜と川魚。匂いからして味付けは味噌のようだ。おそらく味噌はどこかで買った物だろうが、それでもその中身は忠夫の食欲をそそるに充分な、山の幸盛り沢山の、質素かつ贅沢な鍋であった。

 

「どうぞ。こんな物しかお出しできませんが・・・」

 

「いやいや、こりゃいい感じっすよ!美味そうだな~!」

 

 その小屋は、山の奥深く、最早人工物の影さえ見えないような場所にぽつん、と存在していた。辺りはすっかり夜の帳に包まれ、星の光ともうすぐ満月になりそうな、真円には少し欠けた月が山の上に昇っている。

 

「母ちゃんの料理、美味しいだろ!」

 

「こりゃうまい!こりゃうまい!」

 

「・・・聞くまでも無いみたいね」

 

 自信満々の少年―ケイ―の言葉も耳に入らないようで、忠夫はひたすら目の前の椀に盛られた料理を食べている。その様子を見て、くすくすと笑いながらも嬉しそうな表情を見せているのは少年の母、美衣であった。笑う姿にさえ艶のある、大人の女、そのものの女性である。この小屋に暮らしているのは少年とその母のみであり、久方ぶりの客人は、とても賑やかな夕食を感じさせてくれるのであった。

 

「うあー、食った食った!ご馳走様!」

 

「ふふ・・・そんなに美味しそうに食べていただけると、こちらも嬉しくなります」

 

 満腹、と言った感じにお腹を撫でながら、板張りの床に寝転がる忠夫。ご満悦である。

 

「いやー、ほんとに嫁に欲しいくらいっすよ!」

 

「あらあら、お世辞でもありがとうございます」

 

 実際、忠夫は彼女に夫が居ない、と聞き、かなりの葛藤の末例によって例の如く求婚ぶちかましたわけだが、今回のようにするり、とかわされてしまっている。まだまだ人生経験の差が大きすぎて、相手にしてもらえないと言うよりそもそも本気にしてもらえていない、と言った感が強い。

 

「ふふ~ん!どうだ!うちの母ちゃん、凄いだろ?」

 

「いや、実際同じ材料でも此処まで美味いのが作れるとは思わんかった」

 

 サバイバルには自信があっても、やはり本格的なものになると一歩及ばない事を思い知らされ、ケイに向かって両手を上げてみせる。降参、と言う事だ。

 

「こんなもので先ほどの失礼のお詫びになるとも思えませんでしたが・・・」

 

「じゅーぶん。充分ですって。むしろ、こっちがお釣りを払わなきゃ」

 

 先程までの笑顔を消し、すまなそうに忠夫にそう謝る美衣。川縁での出会いの際、思わず警戒してしまった事が心に刺となって残っているのだろう。そんな美衣に対し、ぱたぱたと手を振りながら軽くそう返す。

 

「まぁ・・・くすくす」

 

「わはははは!」

 

「え?・・・あは、あははははっ!」

 小屋は、二人の男女と、その雰囲気に何となく笑い出してしまった少年の笑い声に包まれるのであった。

 

「いやー、しっかし、此処までしてもらっちゃって、ほんとに何を返せば良いのやら」

 

「いいえ、こちらも随分と久しぶりに楽しませていただきましたから・・・ところで、こんな辺鄙な所に一体何の御用で?」

 

 会話の流れに乗せて、ふと思いついたように美衣が尋ねる。表情はあくまでも笑顔。お腹を空かせていた息子に、自分の分まで食べ物を与えてくれた恩人に対して、心から感謝している、と言った風の。

 

「あ、仕事です」

 

「へ~、兄ちゃん、一体何のお仕事してるの?」

 

 忠夫は忠夫で軽く返す。お腹一杯美味しい物を食べて、もう満足幸運の神に感謝してます、といった緩んだ表情で。そして、ケイの問いに対しても、全く警戒心を抱いていない様子であっさりと答えてみる。

 

「GS・・・ま、助手っすけどねー」

 

「・・・え?」

 

「GSですか・・・それじゃあ、この辺りに何か恐ろしい化物でも出るのかしら?」

 

 そののほほん、とした答えに、美衣はその顔に怯えを浮かべながら問い返す。無力な母一人子一人が、どうやって身を護れば良いのか、と悩む表情も含めながら。ケイは、突然口を噤んで、何も喋らず俯いている。

 

「ええ。気立てのいい美人で、子供思いの、料理の美味しい、――多分猫系の妖怪かな?」

 

 忠夫は、表情を変えていない。先程のまま。のほほん、としたままで、美衣に向かってそう告げる。

 

途端に――

 

「そう、ですか・・・」

 

 ――美衣の気配が変わる。

 

「いつから、気付いてらっしゃったのですか?」

 

「んー。ケイを見たときから」

 

 全身を獣毛が覆い始め、瞳が縦に裂け、髪の毛の間から猫の耳が生える。

 

「ま、悪い妖怪ってわけでも無さそうだったし。母親が忙しいって聞いたから、こりゃ多分そっちが当たりだな、と思ってさー」

 

 伸びきった爪は、硬く、鋭く。引き裂く為の爪となり、歯も鋭く尖り、噛み砕く顎となる。

 

「・・・それで、私たちをどうするつもりで此処までいらっしゃったのかしら?」

 

 返答次第では、無事に帰さないと言わんばかりの殺気に満ちたその問い。いや、殺気と言うよりも、覚悟した――例え、ついさっきまで笑いあった仲だとしても、護る物の為ならば――者のみが持つ、確固たる意思。おそらく、退治する、と忠夫が一言言った瞬間に、彼女の爪は彼を引き裂く為の行動を始めるだろう。そう、確信させるだけの気配があった。

 

「様子見かな?」

 

「・・・結論は?」

 

 蹴り足に力が篭る。引き絞られた弓は、その狙いを忠夫から外さない。

 

「んー。飯が美味すぎた」

 

「「はぁ?」」

 

 だが、緊張はあっさりと砕け散る。意図していたものと、全く違う答えが返ってきた事と、そうのたまう忠夫の表情が余りにも真剣だったからだ。逆にふざけているんじゃないか、と思ってしまうくらいには。

 

「いやー、実際あそこまで美味いもの食べちゃうとなー。本当にお釣りを返さなきゃならんなー、と思ってしまって」

 

 真剣な表情のままで、頭をガリガリと掻く忠夫。悩んでいるようでありながら、その視線には、悪戯っぽい光がある。

 

「な、何が言いたいんですかっ!」

 

 完全にペースを持っていかれている事を自覚しながらも、必死の形相で爪を構える。自分ではない、隣で動揺している息子を護る為に。

 

「見逃すだけじゃ、もう会えないし、それじゃあ一寸勿体無い。うちの里に来ませんか、ってね?」

 

 忠夫は忠夫でとうとう真剣な表情を崩し、半分笑い、半分してやったりといった顔でお誘いの言葉をかけたのだった。

 

「・・・とりあえず、その格好止めません?さっきみたいに美人のままの方が個人的にも嬉しいなー」

 

「・・・・・・・・・ふぅ。どこまで本気なんですか?」

 

「全部。よ、っと」

 

 美衣は変化を解かないながらも、とりあえず話を聞くつもりはあるようだ。なので、忠夫も最後の種明かしをする事にする。

 す、と持ち上がった忠夫の腕は、彼の頭の後ろに回り、その額に巻かれたバンダナの結び目を解いた。

 

「―――人狼?!」

 

「兄ちゃん、そんな・・・」

 

「違う、とも言い切れないけど。ま、半分そうですねー」

 

 バンダナに押さえつけられていた忠夫の耳は、ぴょこん、と跳ね上がる。それは狼の耳、人狼の形態的特長の一つ。

 

「尻尾はちょっと、ズボンを下ろさないといけないから勘弁して?」

 

「この期に及んでそんな事をっ!GSと言うのは、同じ人外が、人外を狩る為の方便とでも?!」

 

「しっつれいだなー。美人と子供にゃ優しいっすよ?あと美味い飯を食わせてくれる人なら大歓迎」

 

 再び構え、忠夫に向かって爪を尖らせる。しかし、その鋭い爪を見ても、忠夫の態度は変わらない。あくまでも呑気なままである。

 

「そう警戒すんなって、ケイ。とって喰ったりしないってーの」

 

「ほ、本当?」

 

「おう!忠夫、嘘言わない!」

 

 怯えるケイに向かって、そう笑いながら言ってやる。嘘は言わない。ハッタリやフェイントは彼の中では嘘ではないし。

 

「GSと言って、次は人狼・・・これで、どうやって貴方を信頼しろと?」

 

「あー、やっぱそうなるよなー。ってことは、お次は・・・」

 

「最早、交わす言葉はありません。さようなら、ですね」

 

「獣の間には、言葉よりも力がものを言う時もある、ってか。暴力反対なんやけどなー」

 

 美衣の目には、会話をもって説得する余地が見えなくなった。互いに獣人。人の範疇では結果が出なかった。

 

ならば、後は獣の時間だ。

 

それなら、精々獣らしく――

 

「せやぁぁぁぁっ!」

「勝って言う事聞かせるか」

 

――爪と牙とで我を通す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論から言えば、忠夫の勝ち、の筈「であった」。

 

 身体能力は猫と狼とではそもそもスペックに違いがある。どちらが上と言う訳でもないが、正面からの1対1ならば、狼の勝ちはそう簡単には揺るがない。そして、忠夫には幼い頃からの技術がある。いかに本人にやる気が無かろうと、周囲の環境が彼を育てる。見て、動いて、喰らって、やり返して。そんな生活を10年近く続けていたのだ。頭が理解していなくても、体が覚えてしまっている。

 

だが―――

 

「だーもうっ!やりずれえぇぇぇっ!」

 

「まだまだぁっ!」

 

 此処は夜の森。本来平原を駆け回り、直線での最高速度とスタミナにその本領を発揮する人狼と、暗闇と生い茂った木々の間から、一瞬の瞬発力で獲物を狩る猫。ここはあちらのホームグラウンドである。

 

 その上、あちらは殺す気で襲ってくるが、こっちはそんな訳には行かない。あくまでも、目的が「説得の為の勝ち」なのだからして、全力で吹っ飛ばすと言うのは論外だ。

 

 と、言う訳で――

 

「せめて罠を張る時間をくれぇぇぇっ?!」

 

「させるわけが無いでしょうがぁぁっ!!」

 

 

 ――とりあえず、逃げ回っている。

 

地面を走れば、

 

「うわひゃっ?!」

 

「ちっ!」

 

左右の繁みから爪の閃きが襲い掛かる。

 

 一寸大きな木の陰で一息つこうとした瞬間に

 

「ふぅっ!」

 

「上っ?!何時の間にっ?!」

 

頭上から全く音も気配もせずに、体重を乗せた一撃で打ち掛かってくる。

 

 全力で走って引き離そうにも、此処は森。速度が乗った瞬間に次の木が、張り出した枝が、生い茂った草叢が、忠夫の速度を殺しにかかる。

 

 

 これが、相手にとっても同じ条件ならば良いのだが、何せこっちは直線的に動く方が得意なのに対し、あちらはこういった障害物の多い所を、最も得意とする猫なのだ。単純な膂力と最高速度で劣ろうと、柔軟な肢体と瞬発力から生み出される変幻自在な行動と、こと気配を殺す事に掛けては、おそらく人狼以上。

 

「考えろ考えろ考えろっ!このままじゃジリ貧だぞ犬飼忠夫っ!」

 

 視界を塞ぐ小枝を手刀で切り落とし、絡みつく草叢を跳ね飛ばし、行く手を阻む筈の木の幹を掴んで、強引に進行方向を変えて進んでいく。

 

「なんか投げる物・・・いやいや、当たったら洒落にならん!紐――手元にないわぁぁっ!罠・・・作る時間が」

 

 投擲物であの素早い動きを止めようと思えば、かなりの勢いで投げなきゃ駄目。そうなると当たった時に大怪我する可能性が高い。獣人の動きを止められるほど、丈夫な紐なんて簡単に準備できる物でもない。罠は準備する時間が――

 

「ま、策はアリだよな?」

 

 その音が聞こえたのは、先程から逃げつづけている人狼のいた方角からだった。

 

「何を―――跳ねた?!」

 

 音が聞こえた地点を視界に入れた瞬間、何があったのかを理解する。それまで聞こえていた僅かな足音と、無残に切り落とされた枝葉、蹴散らかされた下草の跡が途切れ、ぱらぱらと小枝と枯葉が降ってくる。見上げれば、其処にあるのは小さな黒い影。更に目を凝らすと――空を大きく跳んで移動しながら、何かを探しているようにも見える。

 

「間に合うか・・・着地の瞬間を狙って!」

 

 そう呟き駆け出す美衣。木の枝をすり抜け、下草を全く意に介さずに浮かぶようにその上を駆け抜け、無音の高速移動で予想地点まで走り抜ける。

 

 あと少しで辿り着く、という所で再び音がする。今度は更に大きな音だ。木々の隙間にかいま見えたその影は、先程とは別の方向に再び大きく音を立てて跳ねていったようだ。

 

「あっちは――川原に抜けるつもり?」

 

 確かに、不慣れなこの辺りでも、あれだけ上空から見渡せば、月の光を反射する一本の線は、暗い森の中でさぞ目立つ事だろう。足場は少々悪いが、森の中にいるよりまだましであるし、それより何より、あの川は、麓の村まで続いているのだ。

 

 そのまま川縁を駈け下りでもされれば、あちらは確実に援軍を呼んでくるはずだ。おそらく、あれほどの人狼を助手として扱えるだけの、超一流のGSが。

 

「やらせないっ!」

 

 美衣は、再び飛ぶように駈ける。相手は上空だが、先程よりも高く飛んでいる。距離を稼ごうとでもしたのだろうか?ならば、先程よりは余裕がある。何としても追いつく。そして。

 

「仕留める。必ず…せめて、苦しまないように」

 

 猫の眼には、辛く哀しい色ばかり。

 

「さて、と」

 

 耳の傍で、風が轟々と唸っている。ただいま放物線の頂点を過ぎて落下中なのだから当たり前だが。

 

「なーんか、よく落ちるなぁ、最近」

 

 シロタマのダブルアタックに始まり、事務所の窓から路上へ、洞穴の穴に。

 

「ま、それは置いといて、と。問題は何処から来るか、なんだよなぁ」

 

 空中で器用に胡座をかく忠夫。3半規管の機能の高さも、生まれ持ったバランス感覚もなんだか無駄な使われ方だ。

 

「獲物を狩るなら、油断してる時か、こっちに気付いてない時。若しくは完全に不意を撃つ、か」

 

 着地の瞬間?

 

「無防備、ってわけじゃないし、一番警戒してると思うだろうなぁ」

 

 跳躍の瞬間?

 

「・・・跳ねる方向を変えるの、結構簡単だしなぁ」

 

 それならば――

 

 考えながらも地面に着弾し、足元にクレーターを作りながら関節と筋肉で衝撃を吸収し、下半身に回した霊力を再度練り上げ思いっきり踏み込む。周辺の土を撒き散らし、石を砕いて再度空中に身を投げる。

 

 ――当たりはつけた。急所に直撃しない限り一撃ではやられない。此処からならあと一回で川に届く。

 

―――つまり、やるなら此処で。急所を狙って、若しくは充分な威力の一撃で仕留めるのが最上の選択。

 

再び着地。しかし、来ない。跳躍の瞬間、来ない。残るは――

 

「森から頭が出る直前!」

 

瞬間、夜の森にまるで太陽でも落ちたかのような閃光と、風船の割れる音を数百倍に大きくしたような破裂音が広がった。

 

「ふにゃっ!!」

 

 忠夫の頭が、後もう少しで木々の高さを越える直前、その木の上で力をためていた美衣が、こちらの跳躍に合わせて、しかも背中の方から飛び掛ってくる。カウンターなら威力も充分であるし、しかも跳躍直後は体勢の立直しも難しい。危険な森から抜け出る瞬間は、こちらの気も緩もうというものだ。予想していなければ。

 

 読み通り、背後からの美衣に対し、跳躍の瞬間に加えた捻りでもって体を振り向かせ、忠夫は笑顔を向けてやる。そのまま、虚を突かれた美衣の前で、充分に霊力を高めた両手で拍手を打つ。拍手は、その間の霊力を暴発させ、破裂音と閃光を発した。

 

「ふんっ!」

 

「何をっ!」

 

 眼を閉じた美衣の腕を掴み、体の動きと体重移動、腕の力だけで、美衣を真上に投げ飛ばす。反動で落下した忠夫は、そのまま美衣に向かって再跳躍。

 

「猫の本能その一っ!落ちる猫は―――」

 

「こ、このっ!」

 

 空中でじたばたともがきながら、体を捻る美衣。忠夫は真下から迫ってくるが、

 

「腹を地面に向けるってか!」

 

 自然とその体は、両手足を下にした、獣にとって最も弱い部分を相手にさらけ出す格好となる。その体勢から必死で反撃の爪を繰り出すも、見え見えのそれを忠夫は左手で軽く弾き――

 

「か、はぁ」

 

――右の掌底が、美衣の鳩尾を抉る。強制的に肺の空気を全て吐き出させられ、美衣の意識はゆっくりと闇に落ちていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「か、母ちゃん!」

 

「あー、すまん」

 

 小屋に戻った、あちらこちらの裂けた服を着た忠夫の前に、今にも泣き出しそうなケイの顔。忠夫の背中には、気絶している為か未だに化生のままの美衣が背負われている。一見外傷は無いのだが、

 

「よ、よくも母ちゃんをっ!」

 

「謝ってもすまんよなぁ・・・」

 

 母がどんな気持ちで出て行ったか予想もつかないが、それでも自分は護られていたことくらいは分かっている。そして、護り手の母は、いま、おそらく負けて勝者の背中にいる。ケイは其処までを確認すると、ゆっくりと母を下して自分の前に立った、うつむいて顔の見えない忠夫に向かって飛び掛った。

 

「あああああっ!!!」

 

「だから、ってわけでもないが」

 

 その幼い爪は、それでも無防備なままだった忠夫の腹に突き刺さる。

 

「・・・え?」

 

「一発、貰っとく」

 

 痛くない訳は無いだろう。例え服の其処此処に血が付いていようとも、あくまでもかすり傷なそれと、幼いとは言っても、獣人の爪が突き刺さった其処では、傷の深さも痛みの度合いも桁が違う。それでも、その表情は変わらない。戻ってきた時同様に、すまなさそうな感情を浮かべるのみだ。

 

「わりぃ。おまえの母ちゃん、殴っちまった」

 

「え?え?」

 

「男の子だもんな、それでいい。お前は間違ってない。…効いた。しっかり母ちゃん護ってやれよ?」

 

未だにその手についた血を理解できずに困惑するケイの前で、その頭を軽く撫で。

 

「まだまだ俺も、弱いよなぁ・・・」

 

最後にそう呟いて、忠夫はゆっくりと前のめりに崩れ落ちたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――― 一夜明けて。

 

「・・・あれ?」

 

 忠夫は、小屋の中で、布団に包まれて目を覚ました。布団の中に手を入れたまま、ごそごそと痛む体中を探ってみると、ごわごわとした細い布が、幾重にも巻かれているのが分かる。

 

「包帯?誰が「私です」どわっ?!」

 

 あれ?という表情を浮かべたままとりあえず布団を除けて体を起こした忠夫に、背後から―――先程まで、枕元だった所から声をかけてきたのは、美衣。その隣には、落ち込んだ表情のケイがいる。

 

「あ、美衣さん。いやー、強いっすねぇ、やっぱり」

 

「あら、それに勝った人が言うのは嫌味ですわ」

 

 痛む体を反転させ、向かい合う。忠夫と美衣。二人の間にはほのぼのとした空気が流れている。方や殺そうとし、方やそれを殴って気絶させたとは信じられない雰囲気である。

 

「で、どうですか?」

 

「ええ。私の負けです。私を、気絶だけで済ませますか、普通」

 

「やー、美人を殴るのは気が引けたんですけどねぇ」

 

「貴方は、とても必死でした。本気でした。――本気で、私を傷つけないで勝ちました。そんな、真っ直ぐでお人好しの馬鹿。敗者として、一度くらいは信じてみます」

 

 そう、笑顔で告げる美衣。昨日の一撃が響いた様子も無く、包帯で巻きに巻かれた忠夫と見比べてみてもどちらが勝ったのやら負けたのやら。それでも、当事者達の間には、それなりに通じ合った物があるようだ。

 

「さ~て、あとは其処でベソかいてるガキンチョだな」

 

「・・・・・・・・・・・・・」

 

「どーした?ケイ」

 

 忠夫は、いまだ何の反応も返さないケイに向かって、軽く尋ねながらその顔を覗き込む。案の定その顔は涙と鼻水でぐっちょぐちょだ。

 

「なんだ、そんなに母ちゃんが負けたのが悔しいのか?」

 

「違うよっ!なんで、なんで兄ちゃんは怒ってくれないのさ?!」

 

 その一言に、顔を跳ね上げ忠夫を睨む。眼は真っ赤だし、表情も未だに泣きそうだったが、それでも怒っているのか泣いているのか分からないが、声に篭められた物だけは重かった。

 

「僕が、僕が一番酷い傷つけたのに、どうして「ガキが」―――っ?!」

 

 ケイの言葉を聞いて、目を閉じてそのままその感情を受け止めていた忠夫が、ケイの言葉に割り込ませたのは、何時か彼が聞いた言葉。

 

「お前の爪は、痛かった。それは、誰の為に振るった爪だ?」

 

「それは・・・・」

 

「護りたかったからだろ?なら、後悔するな。躊躇うな。怯えるな」

 

 真剣な忠夫の声。恫喝するような、脅すような。それでいて、背中をどやしつけるような。

 

「そんなの、無理だよ」

 

「無理じゃない」

 

 再び俯くケイの頭の上に、ぽん、と置かれる忠夫の手。その感触は、とても暖かくて、優しくて。

 

「無理じゃないよ。きっと、な」

 

 だから、ケイは、また泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、行きますよー!」

 

「うんっ!ねー、人狼の里ってどんな所なの?」

 

 しばらく後。小屋の前には、繕った後のあるいつもの格好をした忠夫を挟むようにして、美衣とケイの姿があった。背中には、それぞれ必要な物を纏めた袋を背負っている。家具は流石に小屋の中に置いたまま。着替えと生活用品だけで良い、という忠夫の言葉の通りに、最低限の荷物だけで準備した、なんとも寂しい引越しだ。

 

 それでも、吹っ切れたように笑顔のケイと、それを微笑ましそうに眺める美衣の眼には暗い感情は無い。美衣には、少し不安があるようだが。

 

「んー、此処と似たような感じかな?後、お前と同じくらいの年の子はいないけど、赤ん坊が2人と、3歳と4歳が一人ずつ。お前がお兄ちゃんだぞ?」

 

「ほんとに?!」

 

「くすくすくす」

 

 それでも、元気一杯の子供の笑顔はやはり周囲に明るさをもたらすようだ。

 

「此処からなら、丸2日もあれば着くかな?」

 

「大丈夫でしょうか?本当に私達を受け入れてくれるでしょうか?」

 

「ま、だいじょーぶでしょ?俺も一回帰ろうとは思ってたし。2日後ならちょうど満月だから、皆で宴会でもやってんじゃないかなー」

 

 声は段々と遠ざかる。母子が暮らしていた小屋には、もう住人が戻る事は無いだろう。もし、小屋が喋れたのならば、寂しがっただろうか、それとも、おめでとう、といっただろうか。

 

 その中に残ったのは、幾つかの箪笥や机、鍋と料理道具。それから、発信機の仕込まれたバンダナと、「有給一週間くださいな♪」と書かれたふざけた置手紙。美神が見たら怒髪天となること間違いなしであろう。

 

 それらを鑑みて、小屋が喋れたら、多分、こう言っただろう。

 

「俺、オワタ」

 

 めでたしめでたし。

 


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