月に吼える   作:maisen

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第拾伍話 『だから彼女は空を行く』

 

――時間は僅かに巻き戻る。

 

 神族達が射出レールの方向を調整し、ヒャクメが小竜姫とワルキューレに説教かまされていた丁度その頃、天蓋の裂け目に設置され、腹部の先端を裂け目の内部へと産卵するかのように差し込んでいた大逆天号から、奇妙な物体が投下され、ゆっくりと地上に降り立とうとしていた。

 

 表面に一際大きく『0』の刻印が打たれた、全てがガラスのような透明で硬質な素材で出来た箱。

 

 その内部に一体の人形を閉じ込めた、棺桶にも見えるそれが、パラシュートの白い花を咲かせ、斑に染まった闇を掻き分け降りてくる。

 

 静かに着地した棺桶に群がった埴輪兵達がパラシュートを取り外し、頭の上に担いで運んでいくのを、何の感慨も篭っていない瞳で見下ろしながら、アシュタロスは静かに目を閉じた。

 

 足元を鈍い緑色で照らし出されながら、魔神は己の意識を伸ばしていく。

 

 下へ、広く、より深くへと。

 

 その意識の広がりに導かれるように、アシュタロスの足元で内側から濃い緑色の光を放つ球体が鼓動し、その下部から伸びる根を大地に侵食させていく。

 

 分かれ、捩れ、捻れ、絡み合い、そしてそれは食い込んでいった。

 

「システム『死津喪比女』地脈エネルギー吸収根、予定された配置の完了まで、後3,2%」

 

「推定残り時間、3分34秒」

 

「地脈堰形成準備、開始します」

 

 テレサたちの声に答えでもしているかのように、球体の輝きが強さを増した。

 

 呼吸するかのような光の胎動は徐々に間隔を狭め、その表面を硬質化させていく。

 

 同時に地面へと潜り込み続けていた根の動きが止まり始め、緑から白に近い灰色へと変色を開始する。

 

『ポー』

 

 棺桶を運び終えた埴輪兵達は周囲で展開される奇妙な光景にも、真剣な表情で作業を続けるテレサ達にも興味を見せず、動きを見せない人形に接続したコードを球体の傍へと運んでいった。

 

 ずぶり。

 

 ずぶり。

 

 固い筈の表面を容易く突き破ったコードの先端は、内部に引きずり込まれるようにして消えていく。

 

 十数本もあっただろうか、それを全て飲み込んだ球体は、まるで痛みに震えるように一度大きく表面を波立たせ、そして激しく明滅を始めた。

 

 まるで何かを読み込んでいるかのようなその輝きは、やがて統一された一つの流れを生み出していく。

 

 内部から滲み出していた輝きは表面を走るようになり、その経路はまるで集積回路の如き数千条ものラインを表面に描き出した。

 

 其処に至り、球体の上で動きを止めていたアシュタロスがゆっくりと瞼を上げた。

 

「…漸く、漸くここまで辿り着いた」

 

 言葉は何かを得たような、それでいて何かを失ったような、そんな複雑な色が篭められていた。

 

 前を見渡せば、その先には未だ火線と爆発の錯綜する戦場が在る。

 

 時折空を行き交おうとする巨大な影が地上から打ち上げられた対空砲火に捕まりかけ、慌てて身を翻して上がって行く事もあれば、じりじりと接近する塊の中から 放たれた銃弾や霊力砲に身を晒し、不具合でも起こしたのか崩れ落ちるテレサの姿も見受けられた。

 

 瞬間、此方側の緩く弧を描くテレサの集団から一斉に砲弾が打ち出され、だが人と獣の紡錘形の塊が生み出した淡く光る壁に弾かれ、僅かに揺らす物の効果を見せずに消えていった。

 

 拮抗した一瞬に生まれた燐光が戦場を舞い、しかし誰もがその幻想的な光景を見上げる余裕も無くひたすらに引き金を引く。

 

 今、それを意識に乗せているのは、確かに魔神だけだった。

 

「儚い努力も、無慈悲な夜も、もうすぐ終わる。幸せを幸せと気付かぬままに安穏と過ごす者達の愚さ…僕達はそれにこそ憤りを覚える」

 

 僅かに歪んだ口元は、その言葉とは裏腹に歓喜さえも見せている。

 

「――さあ、奪おう。失った物を、得る事すら許されなかった幸福を。奪う事でしか得られぬと言うのなら、見る事しか許されなかった束縛から逃れ得るのなら」

 

 大きく振り上げられたアシュタロスの手に答え、埴輪兵達が再び棺桶を担ぎ、鈍く輝く球体へと近付いていく。

 

 瞬間、まるで歓喜に打ち震えるかのごとく、球体が脈動した。

 

 動きを止めていた筈の根が蠢き、一瞬の内に近くに無造作に設置してあったガラスの棺桶を、中身の機械人形ごと絡み取る。

 

 そしてついでとばかりに周囲に居た埴輪兵達、テレサ達の一部が囚われていく様も、予定通りとでも言わんばかりにアシュタロスの顔に動揺は現われない。

 

「――奪おう。ただ我らが求めた物を!」

 

 そして、全てが引きずり込まれた。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 月に吼える 第三部 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「ちゅー訳で、なぜか! だーれも嫁に来てくれんのよ。どー思う?」

 

「ふむむむむ。中々難しい問題でちゅねー。アピールがたりないんじゃないでちゅか? 男は積極的に行くほーが良いとパピリオは思うでちゅ」

 

「なんとっ?! まだ足りなかったかっ?!」

 

 機会を待つ、とは言った物の、結局やる事も無く静かにその時を待っていた忠夫は、何か話をと言うパピリオの求めに応じてちょっとした雑談をしてみたりしたのだった。

 

 何故か途中で忠夫の『こんなに頑張ってるのに何で俺には嫁が来ないんじゃーっ?!』と言う叫びが何度も何度もそれこそカオスと土具羅がもう諦めたように静かにしろとさえ言わなくなった頃合。

 

 ませたパピリオが忠夫相手に人生相談――と言うか恋愛の先生ぶってみたり。

 

「そうかぁ。足りないのかぁ。…今度からちょっと変えてみるか?」

 

「例えばどーゆーふーにでちゅか?」

 

「よ、よ、よー…『ヘイそこの美人のねーちゃん嫁に来いっ!』って感じで積極性と気軽さをアピールしてみたりとか! どーよ?!」

 

 老人と土偶の呆れた視線にも気付かず提案した忠夫に対し、パピリオは細い腕を組んで沈思黙考。

 

 ふむふむと何度か反芻するように頷いてみたり、勿体ぶって唸ってみたりと芸の細かい事である。

 

 そして、反応を待ちつつやきもきとしていた忠夫を真っ直ぐ見つめ、パピリオは真剣な表情で言い放つ。

 

「OKでちゅ。もうパピリオの教える事は何も無いでちゅ!」

 

「せ、先生っ!」

 

「師匠と呼びなちゃいっ! 頑張るのでちゅよ。諦めなければ其処に道は開けるのでちゅっ!」

 

 あさっての方角を見上げながら指差したパピリオに対し、忠夫は心底感服した様子であった。

 

 無論、これだけ騒いでも少し離れた所で作業中の埴輪兵やテレサ達が気付かないのには訳が在る。

 

 最初の段階で諦めたカオスが遮音性の高い結界を張ったからであって、そうでなければ状況も忘れて大騒ぎする筈が無い――と、思われる、多分。

 

 何処と無く羨ましそうに見つめるアルファ達はともかく、緊張感の欠片も無いのは相変わらず。

 

 頼もしいのかそれともただ馬鹿なだけなのか、カオスをして判断に困る二人組であった。

 

「…と、ふむ。具合はどうかの?」

 

『問題無いな。以外にしっくりくる』

 

 ともあれそんな呑気な奴らは放って置いて、カオス達はそれなりに準備を整えようとしていた。

 

 カオスに背中を向けて座り込んだ土具羅の後頭部のカバーが外され、露出した内部から明らかに後付けのコードが一本伸びている。

 

 余り長さの無いその先端はソケットが接続されていた。

 

 土具羅の隣で腕のカバーを嵌めなおしていたシータが忠夫達を羨ましそうに指を咥えて見ているのを横目に見つつ、カオスはモノクルを取り外す。

 

 教育に悪いから止めろと言うのか、それとも好い加減に現実を理解させるためにもはっきり事実を伝えるべきか。

 

 どちらにしても業腹であるので、カオスは暫し思考した後、やはり沈黙を選ぶのだった。

 

「データの受け渡しはこれで出来る筈だが、部品も流用じゃし規格も違う。これ以上はお前らで何とかしてくれ」

 

『…ま、元が無茶な考えだからなぁ。上手くいかんでも知らんぞ?』

 

「ワシこそ知らんわい」

 

 アルファが空けた穴にソケットを通し、カバーを元通りに土具羅にはめ込む。

 

 傍から見れば後頭部から一本だけコードが伸びているので格好悪い事この上ないが、所詮応急品だと諦めるしかないのだろう。

 

 溜め息混じりに後頭部を撫で肩を落とす土具羅を突付き、アルファとベータが楽しそうに笑いあっているのを止めるか止めまいかと一瞬悩み、まあ良いかとあっさり見捨てたカオスの瞳に、虚空に視線を向けるシータの姿が写りこんだ。

 

「ドクター・カオス! 母から・緊急連絡! 此方に・攻撃が――」

 

 言葉は最後まで紡がれない。 

 

 瞬間、衝撃が撒き散らされた。

 

 轟音とソニックブームが倉庫の中に吹き荒れ、埴輪兵を吹き飛ばす。

 

 収まる間も無く紅が満ちた。

 

 コンテナに詰められていたのは弾薬や整備用部品。

 

 音速超過で突き抜けた「何か」が連れて来た熱と破壊が誘爆させた。

 

 飛び交う銃弾。

 

 炸裂する砲弾。

 

 辺り構わず跳ね回る鋼鉄の部品たち。

 

 歪んだコンテナから弾け出した弾丸が隣のコンテナを抉り、内部から鳳仙花の如く更なる破壊を撒き散らす。

 

 砕け、歪み、更に壊し、そして衝撃。

 

 確立した自意識の無い筈の大逆天号が、痛みに震え悲鳴を上げ、その巨体を大きく捩る。

 

 のたうつ動きに、しかし力は無い。

 

 その足が二、三度天蓋の上部を叩き、再び眠るようにゆっくりと落ちた。

 

 巨体の腹部、天蓋内部に差し込まれていた部分を上下を貫通し、決して小さくは無い傷が開いている。

 

 整然と整えられていた格納庫は、一瞬にして廃墟と化していた。

 

 赤く光る警報灯が辺りを照らし、聞こえる筈の警報はしかし麻痺した鼓膜を揺らしただけで、その音までは伝わらない。

 

 ちろちろと火の踊る格納庫に白い煙が吹き付けられた。

 

 白煙に押されるように勢いを衰えさせていく炎達の中、瓦礫を押しのけ、細い腕がコンテナの破片を吹き飛ばす。

 

 すっかり見通しの良くなった空間で、頭を押さえながらカオスがゆっくりと身を起こした。

 

「…った、あいたたた。老体には堪えるわい」

 

「全包囲多重展開型・斥力場結界・緊急全力起動により・オーバーヒート。再使用まで・15分。…お怪我はありませんか・ドクター・カオス?」

 

 心配そうなベータの言葉に、カオスは体をあちこち触り、ぐるぐると腕を回し、よっこらせと掛け声を出しながら立ち上がる。

 

 防ぎきれなかった振動が僅かに視界を揺らしてはいるものの、外傷は全く無いようである。

 

 そうこうしている内に他の3人と土具羅も体を起こし、周囲をきょろきょろと見回していた。

 

 ベータの頭を撫で、良くやったと声をかけてカオスも周囲を見渡す。

 

 惨憺たる有り様であった。

 

 天井に吊るされていたクレーンは歪んでカオス達から少し離れた壁に突き刺さり、山のように積んであったコンテナの群は全て内側から弾け飛ぶか歪んで潰れているかのどちらかである。

 

 擽ったそうにしているベータの頭をもう一度撫で、カオスはやれやれと溜め息を付いた。

 

 と、少し離れた所で壁が崩れ、中から小柄な影を吐き出した。

 

「いっ、いきなりなんでちゅかっ?! ちょっと痛かったでちゅよっ?!」

 

「あれで痛かった済むのかお主は」

 

「距離がありましたので・パピリオ様達は・結界の範囲外だったようで――あっ?!」

 

 ベータの言葉に、その場に居た者達の空気が一瞬凍った。

 

 パピリオも何かを思い出したように辺りの残骸を手当たり次第に放り投げては何かを探し出した。

 

 泣きそうな表情でおろおろと辺りを意味も無く駆け回るシータとベータ。

 

 慎重に先程まで”彼”が居た所を注意深く探るデルタ。

 

 舌打ちしそうな雰囲気で、だが焦った風に辺りを見渡すアルファ。

 

「よ、ヨコチマが居ないでちゅーっ?!」

 

 パピリオの悲鳴が、いまだ炎の消えやらぬ元格納庫に木霊する。

 

「落ち着け。小僧がこの程度でどうにかなるか」

 

 更に勢い良く残骸を散らかし始めたパピリオに、カオスの疲れたような声が届いた。

 

 きっ、と涙目で睨みつけるパピリオに対し、カオスは漸く揺れの収まりつつある頭を押さえて理由を告げる。

 

「銃弾を喰らっても破れない結界に閉じ込められとる以上、多少の事では心配は要らん。じゃが、あやつの事じゃしのう…」

 

「どーゆー事でちゅか?!」

 

 詰め寄るパピリオに、カオスは親指で其処を示した。

 

 視線で辿れば、其処には大きく口を開けた巨大な裂け目。

 

 カオス達から僅かに離れた場所まで近付いているそれを見て、パピリオの顔が一瞬疑問符を浮かべ、次の瞬間蒼褪める。

 

「もしかして…」

 

「こーゆー時に限って、要らん問題を起こしよる」

 

 どーも、また落ちたようであった。

 

 忠夫が。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 第拾五話『だから彼女は空を行く』

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 衝撃波が大地を削り、砂塵を巻き上げ後方へと走り抜けていった。

 

 魔神は顔の前に構えていた手を下げ、苛立ちの混じった目で前を見る。

 

「…神族どもめが、今更何を足掻く――」

 

 瞬間、二度目の衝撃。

 

 轟音と共に、真上からの衝撃が魔神を襲う。

 

 不意を打たれた驚きゆえに僅かに体勢を崩したアシュタロスが跳ね上げた視線の先に、その光景が広がっていた。

 

 天蓋に突き刺された巨大兵鬼の腹から、まるで零れ落ちるかのごとく噴き出す炎の塊。

 

 僅かな間震えるように盛り上がったその赤い塊の中から、三度の衝撃と共に地面に向けて伸びる炎の槍。

 

 赤みを失いながら地面に突き立ったその中には、砕けたコンテナと様々な部品、そして巨大兵鬼を構成していたモノが見えた。

 

 呆気に取られた、と言うのが一番近い表情だった。

 

 僅かな間、意識を取られたその瞬間に、瞬きの如く瞼が落ちる。

 

 次に開いた瞳には、まるで拭い去られたように――いや、始めから無かったかのごとく感情の波は見えなかった。

 

 無機質な顔色のまま、小さく指を鳴らす。

 

 虚空が歪み、奇妙な子悪魔――通信鬼がその眼前に出現した。

 

「――艦橋。状況を知らせよ」

 

 語りかける声には動揺の欠片すらも残っていない。

 

 最早、それが最初からあったのが間違いであったかのように、魔神は冷厳な声で命じる。

 

 暫しのノイズの後、通信鬼から聞こえたのは騒がしく動き回る足音と、悲鳴地味たテレサ達の声。

 

『げ、現状は未だ不明です。ただ、何らかの攻撃を受けたと思われます』

 

「見れば分かる。被害状況は?」

 

『ええっと、その、補給物資投下口のモニターは…嘘っ?!』

 

 通信機の向こうから聞こえる戸惑いの声も、その背後で相変わらず鳴り響いている警報の音も無視して、魔神は静かに返答を待つ。

 

 ただ、僅かながらに、その瞳に苛立ちの色を垣間見せながら。

 

 呆然としているような一瞬の間があり、やがて返ってきた答えは、魔神の眉根を潜ませるのに十分な物であった。

 

『投下口、大破…。そこから、上から下に向かって大きな穴が、何かが貫通したみたいに空いています…修復には、かなりの時間を要するかと思われ――』

 

 全ての言葉を聞かず、アシュタロスは通信鬼を消した。

 

「…先ず、こちらの補給を潰したか…」

 

 舌打ちをしつつ、見上げた。

 

 瞳が細められる。

 

 『それ』が落ちてくるのを感じたからだ。

 

 彼の編んだ結界に閉じ込められ、この戦いが終わるまでは囚われる事になっていた筈のその青年を。

 

 その魂を包む、赤い珠の存在を。

 

「本当に、煩わしい男だ…!」

 

 音が出るほど歯を食いしばり、アシュタロスはゆっくりと、それが落ちてくるであろう場所へとその身を進める。

 

 事此処に至っては、既に大勢に影響を与える事など出来ない筈の青年を、今度こそは完全に、最早何も出来ないようにする為に。

 

 もう直ぐ地上に付こうと言う赤い珠の中で、青年が魔神を指差しじたばたと足掻いているのが見て取れる。

 

 だが、その動きが赤い珠の軌道に影響を与える事は、無い。

 

 余裕を持ってその手を伸ばして――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気付いたら落ちていた。

 

「…は?」

 

 思い出すのはついさっきの出来事。

 

 カオス達がなにやらごちゃごちゃと作業中だったその裏で。

 

 パピリオに「女の子への接し方」とやらをふんふんと頷きながら真面目に聞き入り、小さな身体でまことしやかに語る彼女の言葉に何度も目から鱗が落ちると共に、今までの自分がいかに駄目だったかを一つ一つ教えてくれた事を感謝していた。

 

『とまぁ、駄目駄目だったか分かりまちたか?』

 

『うーむ。…面倒臭いなぁ』

 

 が、いかに彼女達が細かな所を見ているか、とか。

 

 どんな言葉を掛けられれば喜ぶのか、とか。

 

 反応を見て手応えを感じてから退くか攻めるか見極めろ、とか。

 

 いっぺんに詰め込まれたので少々頭がパンクしかけていた。

 

『馬鹿ーっ!』

 

『ほぶろわっ?!』

 

 思わず本音を漏らした忠夫は、瞬間、すぺーん、と地面に叩きつけられた。

 

 激しく地面にぶつかり跳ね返った忠夫を上がり際にキャッチしつつ、パピリオは怒り心頭と言った風情で睨みつけてくる。

 

 いきなりの衝撃に目を回している忠夫を、そんな彼女は叱り付けた。

 

『千里の道も一歩から! マメな男は好感度もうなぎ昇り! 努力を怠る愚か者が得る物など一欠けらも無いのでちゅ!』

 

『し、しかしやなぁ』

 

『しゃらーっぷでちゅ! 放って置いても向こうから寄って来るとかへそで茶をわかしまちゅよ!』

 

 微妙に文法が間違っている物の、怒った女性がいかに恐ろしい物かを色んな場面で多少は学習した忠夫は、素直に正座しながら尻尾を巻いた。

 

『全く。…まぁ、どーしても駄目だったらパピリオに相談しなちゃい。と、友達からなら初めてやってもいいでちゅから』

 

『そうやなっ! そして行く行くは友達から義兄ちゃんへと!』

 

『てい』

 

『ドリブルはっ! ドリブルは止めてなんか出ちゃうからーっ!』

 

 そう、だむだむと何度も床と少女の掌を往復していた筈だった。

 

 しかし今、何故か空中落下中。

 

 高速で攪拌された所為で記憶は定かではないが、状況からすると――

 

「…ドリブルミスって落としやがったなパピリオーっ! 後でお前がルシオラの事何て言ってたかチクっちゃるーっ!!」

 

 と、叫んで上を向いた所で、その横を掠めて巨大な何かの残骸が炎を纏いながら落ちて行った。

 

 硬直する忠夫。

 

 数秒の間を置いて、とりあえず何か知らんが大変に危険な状況下にあることを理解し、しかし何か出来る訳もなく、恐る恐る見下ろしてみた。

 

 ――目が合った。

 

 いや、向こうは視線がかち合った事に気付いたかどうかは分からないが、その視線が忠夫をしっかりと捕らえている事に違いは無い。

 

 なんと言うか、憤怒とか殺意とかゆー感じの篭りまくったアシュタロスの視線が忠夫を貫きその背中に嫌な汗を大量に噴出させる。

 

「うわーっ! すまんパピリオ俺が悪かった助けてくれーっ! 神様仏様小竜姫様ワルキューレにメドーサにルシオラでも良いぞぉぉぉぉぉっ!! 今なら漏れなく俺の嫁に来れる特典付きと言うかむしろそっちメインでもっ!!!」

 

 涙をどばどば撒き散らしながら周囲を見回しても、辺りは先程落ちて行った瓦礫が生み出す煙と砂塵に巻かれて視界は悪い。

 

 ただ、下から上がってくる――いや、忠夫が落ちているのだが――魔神の姿がどんどんと大きくなって、もう直ぐ接触する所まで来ている事実は無くならない。

 

「嫌じゃーっ! かーいい嫁さんもいちゃいちゃラブラブな夫婦生活も経験しないで終わりたくねーっ!!」

 

 結界の中で暴れまわり、必死で赤い珠を内側から叩いても蹴っても、それは小揺るぎもしなければ軌道も変えない。

 

 重力に引かれるままにゆっくりと落ちていき、口元を愉悦にか歪めた魔神の手が、それを掴もうと伸ばされ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――同時だっただろうか。

 

 それとも、僅かに早かっただろうか。

 

 口から霊波刀を展開させた狼が地面を突き破り、赤い珠の落下点に入ったのは。

 

 突然襲った衝撃波と、天蓋から降り注いた残骸と、大逆天号から吹き降ろした火柱に動揺したテレサ達の足元、当にその中心部。

 

 戦闘で黒く灼けた大地を突き破り、その身を土と泥と汚水に汚しながら、一匹の獣が大きく跳ねた。

 

 何の障害を見出す事無く、ただ落下する『厄介物』に意識を取られていたアシュタロスは、その狼に気付くのが、ほんの僅か、遅れた。

 

 その一瞬で地を蹴った狼は、己の身長の何倍もの距離を跳び、その手に赤い珠を捕え様としていた魔神の真下から霊波刀を突き上げる。

 

「何っ?!」

 

 反射的な動きで仰け反る魔神。

 

 高速で、しかも完全に意識に無かった位置からの不意打ちであったとしても、それが例え直撃したとしても魔神には掠り傷さえ負わせることは無かっただろう。

 

 だが、不意打ちであったが故に、反射的に実行に移された回避行動は魔神の身体を動かした。

 

 風呂敷包みを背負い、赤いバンダナを首に巻いた狼は、魔神の前を通り過ぎ――だが、してやったりと口元を歪める。

 

 その足でアシュタロスの胸元を蹴り付け、更に加速。

 

 口元の霊波刀は既に無い。

 

 東京の地下に張り巡らされた下水道を使い静かに移動し、其処から地上までの厚い壁を掘り潜み、騒動の音が一番大きくなったタイミングと勘と『経験』で飛び出し、そしてアシュタロスの動きを遅らせた、その時点でお役御免。

 

 魔神が状況を理解し、行動に移すまでの一瞬の隙間。

 

 その間に、全ての事は終わってしまった。

 

「――っ?!」

 

 ごくり。

 

 パピリオの掌に乗るほどの大きさはある赤い珠、忠夫を閉じ込めたそれは、大きく開かれた狼の口に消え、後には放物線を描くままに落下を始めた狼と、呆気に取られて硬直する魔神。

 

 は、と意識を取り戻し、慌てて狼が落ちた辺りを見回す。

 

 しかし、視線の先には轟々と炎を纏わり付かせる残骸の山と、消化に駆け回る埴輪兵の姿、そして湧き上がる黒煙。

 

 視界を塞がれ、大地すら満足に見えず、だが、事実として、魔神の手に囚われていた青年はその手の中から逃げ出した。

 

 そう、逃がしたのだ。

 

「…どこまでも…ふざけおって…!!」

 

 ぎり、と噛み合った歯が軋む。

 

 何処で間違えたのか。

 

 十分な戦力を準備し、神魔族の介入を防ぎ、後は人間達のか細い抵抗を排除するだけで良かった筈だった。

 

 だが、大逆天号はその腹から炎を吐き、侵入不可能な筈のこの地に確実に神魔族が存在し、か細い筈の人間達は妙な戦力と共に未だ抵抗を続けている。

 

 掴んだ筈の手から逃れた「横島忠夫」の出来損ない。

 

 見透かしていたように突然何の脈絡もなく現われた狼。

 

 覚える筈の無い苛立ちに唇を噛み締め、魔神は大きく舌打ちをした。

 

 だが、今更どんな不確定要素が現われようとも、此処まで決まった流れは止める事は出来ない、と自分に言い聞かせ、ゆっくりとアシュタロスは振り返る。

 

 今の一連の騒ぎに動揺して動きを止めていたテレサ達に、僅かに苛立ちの燻る視線を向け、平坦な声で告げる。

 

「解凍処理はまだか?」

 

「は、はいっ! す、直ぐにでも始められますが…」

 

「ならば直ぐに始めろ! 急げ!」

 

 雷に打たれたように一瞬硬直し、慌てて動き始めたテレサ達を見ながら、魔神は地面に降り立った。

 

 足元に穿たれた、先程狼が飛び出してきた穴を見下ろし、その感情を押し殺すように大きく吐息をつく。

 

 それをなんと言ったか、一瞬アシュタロス自身も分からなかった。

 

「…ふむ」

 

 まさかな、と鼻で笑い、踵を返す。

 

 視界を埋める炎の残滓と黒煙を疎ましげに眺めつつ、まるで花が開くようにゆっくりと内側から綻びつつある灰白色の球体を見上げながら、アシュタロスは吐き捨てた。

 

「不安など感じる物か…!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本気ですかっ?!」

 

「勿論。リンクは既に完了しています。何の問題もありません」

 

「ま、丁度良いデモンストレーションにはなると思いますけど」

 

 満月の下、天蓋を見下ろす位置に、彼女達は居た。

 

 幾何学模様の描かれた細い船が三隻。

 

 空を飛ぶそれを船というならば、であるが、その操縦席に収まった長い髪の女性の言葉に、短髪の動き易そうな、しかし奇妙とも言える服装の固い雰囲気の女性が慌てた様子で問いただす。

 

 しかしそれはあっさりと、否定され、さらに良く似た、しかし少し軽い印象を与える巫女服にも似た服を着ている女性の軽い言葉に頭を抱える事になる。

 

「私はお止めしましたからね…」

 

「いーじゃない。途中ですれ違った神族も慌ててたみたいだったし、そこまで悪い結果にはならないと思うわよ?」

 

「そー言う問題じゃないっ! な・ん・の・為に! 此処まで来たと思っている! 不用意な刺激を与えるのはどうかと言っているんだっ!」

 

 鼻息も荒く吼えかかる女性の言葉を右から左に聞き流し、どーしますか、と視線で問う。

 

「予定の連絡チャンネルが開かれていない以上、何らかの異常事態が発生していると見ても良いでしょう。恩を売るチャンスですよ」

 

「…もーいいです。誘導と照準は此方でやりますから、トリガーはお願いします」

 

「私が引いても良いですかー?」

 

「駄・目・だ」

 

 姦しく騒ぎ始めた二人を慈愛の篭った目で見ながら、女性はそっと目を閉じる。

 

 瞼の裏に浮かぶ、月。

 

 真円を描くその姿に愛しさと暖かさを覚えながら、その幻像と重なる月を、開いた瞳に写しこんだ。

 

「…離れた姿を懐かしいと思うのは、何時以来でしょうか?」

 

 微笑みながら囁いた言葉に堪えるように、満月の光が輝きを増した。

 


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