月に吼える   作:maisen

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第捌話 『そして始まりの鐘は鳴る』

 

「…何だってんだい」

 

 高層ビルの屋上、貯水槽の上に座り込んだ少女の口から漏れたのは、そんな不機嫌を万遍なく塗した言葉だった。

 

 吹き付ける風に紫色の長髪が靡き、するりと撫でて後方へと流れていく。

 

 しかし、その髪の隙間から覗いた真っ白な狼の耳は、それさえも不愉快だと言わんばかりに風に向かって突き立てられていた。

 

 歪んだ唇から覗く鋭い犬歯も、短いスカートの端からゆったりと空気を掻き混ぜている尻尾も、彼女の苛立ちを露にするだけではあるが、その幼さの残る顔立ちからはまだ僅かに可愛げが見て取れた。

 

 ふん、と鼻息を吹いて傍らに放り出してあった風呂敷包みを叩く。

 

 ぱんぱんに膨れ上がった唐草模様の隙間から、魚と山菜が零れて落ちる。文句を言うような軽い音が立った。

 

「人が折角真夜中から出かけて色々集めてやったってーのに、妙な壁の所為で戻れやしないし」

 

 戻る、と言う無意識に零れた言葉に篭められた意味こそ、彼女にとっては大切な物であったのかもしれないが。

 

 唇をひん曲げたメドーサは、そのままつい、と視線を斜めに逸らした。

 

 頬を掻いて誰に聞かせる訳でもなく、言い訳めいた溜め息が漏れる。

 

「…いや、まぁ確かに猪の腹に潜って寝てた私も悪いんだけどさ」

 

 深夜に出かけた上に、昨日の夜は結構冷え込んだのだ。

 

 蛇は冬眠する動物、その上あの猪達は野性の癖に泥浴びではなく水浴びする変わり者の綺麗好きで、しかも見た目によらずふかふか――そう、ふかふかしていたのだ。

 

 最近気が緩んでいる事は自覚してはいたが、しかし妙な虫の知らせに抵抗出来ないほどの気持ち良さとはどう言う訳だ。

 

 ねぐらの押入れの中にある布団に包まれて眠るのも中々乙な物であるが、柔らかい枯草とふわふわふかふかの暖かい毛並みの中というのもこれはこれで捨てがたい。

 

 しかも牙を折った猪だけでなく、親子総出で歓迎するようにふかふかしてくれたのだ。

 

 ふかふかのもふもふだったのだ! 実に手強い!

 

 これだけの条件が揃ったならば、少々の虫の知らせがあったくらいでは早々に脱出できるものでもないのだ!

 

 それにしても他人の――人ではないけど――体温があれほど安心できる物だと思ったのは、一体何時以来だっただろうか。

 

「…今度、引きずり込んでみるか」

 

「誰を?」

 

「そりゃあんた…誰をだろかねぇ?」

 

 ふと誰かさんの顔が頭に浮かんだが、はてさてどんな反応を返してくれるだろうかと思い至って、何となく笑いが込み上げてきた。

 

 慌てて拒否するけど、少々演技すればあっさりと落ちるだろう。

 

 どうせ娘と公言しているような相手に手を出す根性は無いだろうけど、それならば少し色仕掛けでも、と意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「…悪い顔ねぇ」

 

「いえ、あれはあれで。固定客も居ますし」

 

 と、背中側から掛けられている声が、その元凶と共に脳裏に滑り込んだ。

 

 頭だけを背中側に倒す。

 

 逆さまになった勤め先の店長と同僚が写り込む。

 

「どーしたんだいその面」

 

「…魔鈴店長が」

 

「ああ、なるほど」

 

「ちょっと貴女達、どー言う意味かしら?」

 

 自分の胸に聞いてみろ、と訴える瞳が半眼で向けられた。

 

 にこやかな笑みでスルー。

 

 柔らかい微笑みとジト目が暫し交錯したが、やがて3人とも何事も無かったかのように視線を逸らしたのだった。

 

 

 

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 月に吼える 第三部 

 

 

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「んぐ、あ、これ美味しい」

 

「あんまり取らないどくれよ。最近は冷えてきたから果物も全部落ちるか他の奴らに取られるかしてんだから」

 

「まぁまぁ。ルシオラさんも元気になったみたいだし少しくらい良いじゃありませんか」

 

 魔鈴が箒を屋上に寄せると共に、ふらふらと枯葉が落ちるように冷たいコンクリートにへちゃりと倒れこんだルシオラの切ない目が、メドーサに同じ環境下にある同僚と言う名の連帯感を生んだ結果、ルシオラの手には甘い果実が数個手渡されていた。

 

 魔鈴が提供する極上の砂糖水には及ばない物の、それでも甘い果汁が疲れきった身体に活力を与えたようで見る見るうちにルシオラの瞳に元気が戻り、触覚も喜びを表してピコピコと動いている。

 

 果物の種と芯を数個分転がして、人心地ついたと満足げな溜め息をついたルシオラに向かって、メドーサは鋭い視線を向けた。

 

「で、だ」

 

 指差した先には、やや傾き始めた太陽を背負って不気味に存在し続ける紫色のドームがある。

 

「どっちでも良い。説明、してくれるんだろうね?」

 

「私もまだ聞いてませんし。何で追われていたのか、を」

 

 微笑にも、キツイ視線にも、真剣な色が多分に含まれていた。

 

 魔鈴の言葉で向けられた圧力は二対になり、口元を拭うルシオラの表情にも緊張が満ちる。

 

 そろそろ我慢の限界が近いと直ぐ分かる少女はともかくとして、常に笑顔で感情を完璧に隠す魔女の視線が笑っていないのがそこはかとなく危機感を呷る。

 

 だから、ルシオラは一つ息を吸い込んで、二人の圧力に負けないように、視線に力を篭めてそれを見た。

 

 瞳の先には、一番甘かった果物の肌を覗かせた風呂敷。

 

「その前に、もう一つだけ頂戴」

 

 拳骨と罵声が飛んで来た。

 

 緊張感、台無しであった。

 

 

 

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 第捌話 『そして始まりの鐘は鳴る』

 

 

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 空気の抜ける音を立てて、自動ドアが開く。

 

 小気味の良い足音を立てながら、目元に小じわの浮かんだ女性がその部屋に入って来た。

 

「西条~ちゃ~ん」

 とある魔女からの情報提供に礼を言って携帯電話を切った西条が振り向き、六道家当主の達成感に溢れた表情を目にして一つ頷いた。

 

 感謝の言葉を述べて通話を切り、硬い音を立ててそれを懐に仕舞う。

 

「どうでしたか?」

 

 返答は、笑顔と真っ直ぐに立てられた親指だった。

 

 誇らしげに胸を張るその姿にはいささか稚気が多すぎて、思わず溜め息を零す西条ではあったが、何とか気を取り直すと深々と頭を下げる。

 

「GS協会の~方には~話つけて~おいたわ~。これで~~西条ちゃんに~GS達も協力して~良いって~」

 

 GS協会の方でも独自に現状の把握と打開に走ったらしく、協力を仰ぎたい動ける民間GS達はその権限の下、待機を命じられていた。

 

 美神のように妙神山という電波も届かないような辺鄙な場所に居たりするGSや、遠隔地に居るGS達は別としても、関東に存在するGS免許保持者達は「緊急時のGS協会に対する協力」の名目の下、オカルトGメンの指揮下に表立って参加できない状況にあった。

 

 GS協会にも面子があり、彼らは彼らなりに現状を如何にかしようとしているのに間違いは無い。

 

 だが、間違いこそ無いものの商売敵であるオカGにそうホイホイと参加する訳にも行かないのだ。

 

 それでGS協会がオカルトGメンよりも下に見られれば、これまで長い年月をかけて築いてきた信頼や確保しているシェアに多大な影響が出る。

 

 一組織を預かる者として、それは理解できたが、だからと言って歯痒い思いをしなかった訳ではない。

 

 ――それこそ、強力なカリスマを持った人物が、全権を委任するに足るような人物が長い時間をかけて根回しをしていればともかく、現状では突発的な事態に対して戦力が足りないという事実だけが厳然としてあったのだ。

 

「後で~こっちの方にも~配慮は~して貰うけど~」

 

「勿論です」

 

 だが、古来よりの名家の協力と謎のコネクションを持った一人の老人の影の活躍によって、その枷は今、取り払われた。

 

 にこにこと微笑む女性に大きく頷き、西条はオペレーター達の方を振り向いた。

 

 僅かな休息を得た彼女達は、それでも瞳に気力を溢れさせて指示を待っている。

 

 負けてられないな、と小さな笑みを浮かべた西条は、それを引き締め、声を張り上げる。

 

 たった今魔鈴から入った情報によれば、事態はかなり切迫しているようだ。

 

 だからと言って、諦めるつもりなど毛頭無いが。

 

「聞いての通りだ。直ぐに、近くの動けるGS達に連絡を取ってくれ。報酬は――」

 

 後ろを振り向く。

 

 六道家当主とがひらひらと手を振り胸を叩き、何時の間にか自動ドアの向こうから顔を覗かせていた老人が、にやりと笑って分厚い書類を示した。

 

 ちらりと見ただけなので分からないが、十桁近い数字が並んでいるものが十数枚。

 

 そして空いた手で空中に巨額の数字を書き込んだ。

 

 呆れ、だが頼もしげに笑って西条は再びオペレーター達に向かう。

 

「――報酬は、各方面から驚くほど多額が寄せられている。当然、危険はそれに見合った物だ」

 

 一つ間を置いて、続けた。

 

「依頼主はICPO超常犯罪課。報酬と命の危険を天秤にかけて、それでも受けられる者だけ受けて欲しい。敵は――」

 

 ごくり、と咽を鳴らす音が聞こえた。

 

 それは西条の物でも在ったし、オペレーター達の物でも在った。

 

 魔族の少女が命懸けで手に入れた情報と、そして妹分の事務所で働く友人とも弟分とも言えそうな半人狼の従業員が、未だ囚われたままであるという事実。

 

 その重さに背中を伸ばして耐えながら、西条は、その言葉を告げた。

 

「――敵は、魔神、アシュタロスッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西条相手の電話の通信を切った魔鈴は、真剣な表情で箒に飛び乗る。

 

「私はこのままオカルトGメンに直行するけど、貴女達は?」

 

「…少々厄介そうだからね。ちょっと手を借りてくる」

 

 メドーサの手は、胸に下げた猪の牙を弄っている。

 

 逡巡した表情を見せながらも、しかし彼女は決心した様子で魔鈴とは反対方向へ飛び上がる。

 

「遅れるかもしれないけど、持たせといて。…相手があのお方なら、無理かもしれないけどね」

 

 メドーサは、そう言って、僅かな気遣いの色を見せつつ飛び出していった。

 

 それを見送ったルシオラの目には、何とも言えない色がある。

 

 視線こそメドーサの背に向けられてはいたが、その瞳は、何も捕えては居ない。

 

 だが、魔鈴の窺うような視線を受け、ようやく、といった様子で言葉を絞りだす。

 

「私は…ここに、残ります」

 

 ぐ、と胸の前で拳を握り、そう告げた。

 

「…分かったわ」

 

 一点を見つめるその視線を掠めるように、魔鈴はドームに向かって飛んでいった。

 

 後に残ったのは、ただ一人、何も無いビルの屋上に佇む一人の少女。

 

 誰も聞こえない言葉が、風に紛れ込んだ。

 

「此処で、その時を待ちます…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とあるGSの事務所で。

 

「ふん、久々の大口依頼なワケ。りょーかい、受けるわ」

 

 褐色の肌の女性は、そう簡素に告げて受話器を戻した。

 

 ソファーに座ってそわそわとしていた大柄な男が、待ちかねたように近付いてくる。

 

「エミさん、そ、それでどうするんジャー?」

 

「あのねぇ、タイガー? …分かり切ってる事一々聞くんじゃないワケ!」

 

 体格の割に何時までも小さな態度に苛立ち混じりの蹴りを一つ。

 

 顎に喰らって仰け反ったタイガーを横目に、早足で除霊道具が整理されている部屋に行く。

 

 顎を擦りながら慌てて追いかけてきたタイガーにポケットから取り出した鍵を投げ渡し、小笠原エミは不敵な笑いを浮かべてドアを開いた。

 

「先に下に行ってワゴンのエンジン掛けといて。それから№13と裏3から裏10までのロッカーの中身、全部積み込んで」

 

「い、一番物騒な装備ですノー」

 

「返事はハイかイエス! 分かったらとっとと動くワケ!」

 

 怒声を背中に受けながら駆け出したタイガー寅吉を溜め息で見送り、呪術服に着替えながら、彼女は唇の端を吊り上げた。

 

「さあて、気合入れて行くワケっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教会で。

 

「先生、オカルトGメンからの迎えが来ましたっ!」

 

 教会の大きな扉の向こうから聞こえてきた声に、祭壇の前に跪いて祈りを捧げていた男性が立ち上がる。

 

 最後に十字を切り、聖書を脇に抱えて振り向いた。

 

「今行くよ、ピート君」

 

 そう告げて、唐巣神父は一歩を踏み出し――背後を振り仰いだ。

 

 この教会で、時には老いたお婆さんの、時には若い男性の、そして訪れた全ての人々を見守っていた十字架に磔にされた偶像を見上げる。

 

 偶像は何も確かな言葉など授けない。

 

 だが、ここには確かに信仰が在る。

 

 それに感謝を捧げ、今度こそ入り口に向かって歩みを進めた。

 

 大きく運んだ一歩の先に、ドアを開いて待ちかねている半吸血鬼の青年と、車を横付けにして待ってくれているオカルトGメンの隊員の姿がある。

 

 唐巣 和宏は眼鏡の位置を中指で押し上げ、隊員に感謝の言葉を述べてその横を通り過ぎる。

 

 その後に続いたピエトロ・ド・ブラドーの不安そうな面持ちに、意識して笑みを浮かべつつ車の後部座席に腰を落ち着けた。

 

「…横島さん、大丈夫でしょうか」

 

「大丈夫だよ。美神くんも居るからね」

 

 走り出した車の窓からは、不安を煽るような色合いの天蓋が見え隠れする。

 

 それでも、神父ははっきりとした言葉を放った。

 

「…天は自らを助くる者を助く。だから、私達はその一助となる為に此処(教会)に居るんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六道邸で。

 

「お嬢様」

 

「あ~、フミさん~」

 

「奥様が、直ぐにICPO超常犯罪課日本支部に来るように、との事です」

 

 広大な庭の真ん中で、十二神将達に囲まれて空を見上げていた冥子に、侍女の一人が恐れた様子も無く声を掛けた。

 

 承諾の意を返して歩き出した女性を玄関先に向かって先導しつつ、侍女は振り向かずに言葉を放つ。

 

「…正直な所、私は戸惑っています」

 

「え~?」

 

「六道家次期当主たるお嬢様が、奥様の指示とは言え、大き過ぎる危険に飛び込むというのは、その、心配です」

 

 後ろの足音が止まった。

 

 釣られるように前を行く足音も止まり、沈黙が僅かに辺りを満たす。

 

 それを破ったのは、柔らかく、どこか間延びした声だった。

 

「う~ん。でもね~」

 

 遮るように、堅い声が響いた。

 

「もう一度、僭越ながら申させて頂きます。お願いです、止めて下さい。奥様には、私から何とか――」

 

 再び、遮るように、今度は柔らかい声が響いた。

 

「でもね~。きっと~、令子ちゃん達~行っちゃうから~」

 

 振り向いた先には、微笑を絶やさぬまま、何時の間にか十二神将達を影に戻し、たった一人でしっかりと立っている六道冥子の姿がある。

 

 侍女の驚いた視線を受けつつ、軽く頭を傾げて、彼女は続けた。

 

「だから~私も~、置いて行かれないように~、頑張らなくっちゃ~駄目なの~」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六道女学院、避難場所で。

 

「何でだよっ!」

 

「そうですっ! 何で私達が行ってはいけないのですかっ?!」

 

 数十人の六道女学院の生徒達は、数人の教師達に勢い良く噛み付いている。

 

 その先頭に立っているのは、一文字魔理と弓かおり。

 

 かたや成績優秀品行方正な優等生、かたや成績不良で素行も悪い問題児。

 

 だが、一人の少女によって繋がれた二人は、肩を並べて抗議している。

 

 それに対し、困ったような表情で顔を見合わせた教員達は、だがけして道を開けようとはしなかった。

 

「それでも、駄目やな」

 

「だから、どうしてですかっ?!」

 

「危ない端を渡るんは、先ず未熟な子供より何かあっても乗り越えられる大人から。常識やろ?」

 

 口調こそ言い聞かせる物であったが、視線に篭められた意思は真剣そのもの。

 

 訛りの強い言葉で話していた男性に、避難場所として借りていた郊外の高校の正門にオカルトGメンの車が止められた事が告げられた。

 

 頷いて駆け出していった数名の職員を見送りながら、残った職員はそれを追いかけようとした少女達の前を塞ぐ。

 

「どうしても、ですか」

 

「どうしても、よ」

 

 駆けて行く背中と、目の前に立ち塞がる教師を見て、少女達は歯を食いしばる。

 

 その視線の先で、オカルトGメンの車が発進した。

 

「その思いを忘れないで。悔しいのは、貴女達だけじゃ無いのだから」

 

 そう告げた女教師の瞳にも悔しさが見えて、少女達は僅かに息を呑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある錬金術師の秘密基地で。

 

「ドクター・カオス。盗聴した・内容は・以上です」

 

「…ふん。トンデモも此処に極まれり、じゃな」

 

 耳に当てていたイヤホンを投げ捨てたカオスは、そう呟いて手元のアタッシュケースを勢い良く閉じた。

 

 その背後に立つ5人の愛娘達を見渡し、カオスは重々しく言葉を紡ぐ。

 

「準備は良いか」

 

 全く同じタイミングの動きは、全て上下で示された。

 

 アタッシュケースを両手にぶら下げ、開けた森の広場の真ん中に停められていたカオスフライヤー号に歩み寄る。

 

 そのコックピットにアタッシュケースを放り込み、続いて己の身体を投げ出し、カオスは耳元に通信機を付けた。

 

『聞こえておるか?』

 

「感度・良好。問題・ありません」

 

 言葉が終わると同時、カオスフライヤー号は音も立てずに浮き上がる。

 

 ゆっくりと上昇していく機体に追随しながら、5本のブースターが光を引いて上がっていく。

 

『…行くぞ』

 

「イエス・ドクター・カオス」

 

 ぐ、とスロットルを叩き込んだ。

 

『取り返しに!』

 

 何を、とは言わない。

 

 おそらく娘達の応えは、カオスの思うそれに一つ追加さているであろうが、その意思を縛る気など最初から無い。

 

 諦めているとも言うが。

 

 そんな思考を僅かに浮かべ、それでも愉快げに唇を吊り上げながら、ドクター・カオスは耳に響いたマリア達の声が織り成す五重奏を耳にする。

 

「イエス・ドクター・カオス!」

 

 東京に向けて、錬金術師とその娘達が加速した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車の走っていない道路の真ん中で。

 

「――その依頼、受けるわ」

 

 紫色の壁を前に、長身の影は携帯電話を閉じ、それをコートのポケットに突っ込んだ。

 

「ったく、危うく面白そうな状況に置いていかれるところだったぜ」

 

「あんたは気楽で良いわねー」

 

 はぁ、と溜め息が落ちた。

 

 どうしてこうも弟弟子は危険を喜ぶのだろうか。

 

 電話を掛けている途中も今にも壁の向こうに駆け込んでいきそうだったのを、空いた手で襟首を捕まえて何とか引き止めていたのだ。

 

 テンションと比例して上がった馬力に痛みを覚える手首を振りながら、頭を振った勘九郎は雪之丞を捕まえていた手を離す。

 

「おっしゃぁっ! 行くぜっ!」

 

 瞬間、閃光が走る。

 

 魔装術を纏った伊達雪之丞は、アスファルトを踏み砕きながら一歩目から全速力に乗った。

 

「…私も毒されてきたのかしらねぇ」

 

 諦めたように天を仰ぎながら、しかしその口元には太い笑みが浮かんでいる。

 

「でも、まあ」

 

 強く風が吹き付け、砕けたアスファルトから零れた砂塵が舞い、一瞬隠れたその長身が再び現れた時には、その姿もまた魔装術に彩られている。

 

「悪い気分じゃあ、無いのよね…!」

 

 先行した弟弟子よりも早く、だが足音さえも立てず、鎌田勘九郎は駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オカルトGメンで。

 

「氷室さん、危険だから…!」

 

「いいえ」

 

 更衣室の中でオカルトGメンのネクロマンサー部隊の訓練をしていた時の服に着替えたおキヌは、きっぱりと言い切ってロッカーを閉じた。

 

 引き止めていた女性隊員は、諦めたように溜め息一つ。

 

 ごめんなさい、と言い残して更衣室を出ようとしたおキヌの背に、その女性隊員の声が引っかかった。

 

「…何時も話してた男の子?」

 

 ドアノブに掛かっていた手が止まる。

 

「彼も、氷室さんが怪我したりしたら悲しむと思うけど」

 

「はい、間違い無く」

 

 返って来た意外な答えに、今度は女性隊員の動きが止まった。

 

 向けられた視線の先には、華奢な背中がある。

 

 細いその指先は、僅かに震えていた。

 

「怖いです。痛いのは嫌です」

 

「だったら――」

 

「だけど!」

 

 叩きつけるような、あるいは自分に確かめるような、そんな声色だった。

 

 振り向いた少女の瞳には、力強さがある。

 

「誰かが痛いのも、誰かが居なくなるのも、嫌ですから」

 

 深々と頭を下げて、氷室キヌは勢い良くドアを開けた。

 

 一瞬伸びた女性隊員の手は、ふらふらと宙を彷徨い、苦笑いと共に引っ込められる。

 

「…しょうがない、か。あんた達! あんな良い子に怪我の一つでもさせたら許さないからねっ!」

 

 声に応えて、開いたドアの向こうから親指を立てた何本もの腕だけが、任せろ、と無言で突き出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある高校の避難場所で。

 

「小鳩ちゃん」

 

「あ、愛子さん」

 

『おー、机の嬢ちゃん』

 

 小高い丘の上から遠く霞む天蓋を見ていた小鳩と貧乏神に、机を担いだ愛子が並んだ。

 

 揃って視線の向く先には、学校をも包んで閉じ込める不安の象徴が存在している。

 

「…大丈夫よ、絶対。横島くんだもの」

 

「…はい。だから、小鳩は応援してるんです」

 

『ま、気持ちだけでも、ちゅー奴やな』

 

 西日が三人の顔を照らす。

 

 肌寒い空気を暖めるようなまぶしい光は、ただ静かに照らしている。

 

「大丈夫。うん、私も応援するから」

 

 愛子の言葉に。

 

「頑張って応援しましょう」

 

 花戸小鳩がはっきりと応える。

 

 後方から響くクラスメート達のざわめきを背に、二人は静かに見つめている。

 

『あんじょうキバレや、坊主。エエ女候補が二人も見てるんやからな…』

 

 ひょう、と風が吹いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 GS美神除霊事務所前で

 

『どうしたのですか、天竜姫様』

 

「…開けて」

 

 人工幽霊は、息を切らせて駆けて来た少女に戸惑った声を掛ける。

 

 だが、天竜姫はそれを意に介さず、ガレージのシャッターを指差すのみ。

 

 顔中を汗に塗れさせ、走り慣れない道を記憶だけを頼りに必死で駆けて来た少女は、ただその言葉だけをもう一度繰り返した。

 

『此処は、避難するには向いていません。オカルトGメンに身を寄せた方が――』

 

「…そこから来た。お願い、開けて」

 

 声音には、絶対に引かないという意思が篭められていた。

 

 だが、人工幽霊も引く訳には行かない。

 

 例え、ガレージの前に立つ少女が事務所内の装備を全部持っていったとしても、美神を探して掛けられてきた電話から聞いた、これから起こるであろう事態には微力である。

 

 それが分かるからこそ、この事務所に仕える存在として、許可できない。

 

「…私は、私の出来る事を、やりたい」

 

 だが。

 

「…犬飼君が、危ないの」

 

 だが。

 

「…お願い…っ!」

 

 ――羨ましいと、ほんの少しでも思うことは、間違いなのだろうか。

 

 シャッターを叩く小さな拳には、殆ど力は篭められていない。

 

 だけど、その小さな拳は、確かに渋沢人工幽霊一号として生を受けた存在の心を、一打ごとに揺さぶっていた。

 

『…条件が、一つだけあります』

 

「…?」

 

『貴女が傷付く事を、あの馬鹿狼は間違い無く物凄く悲しみます』

 

 ですが。

 

 それすらも厭わないのなら。

 

 貴女の出来る事を、見せてください。

 

 そう言って、人工幽霊はガレージのシャッターを開け、沈黙した。

 

「…ありがとう!」

 

 転がり込んでいった少女は、息を切らして其処に立つ。

 

 美神が乗っていった車を吐き出したガレージは、何も無い空間に白い蛍光灯の光だけを写し出していた。

 

 何もしないままではいられない。

 

 何もしないままではいたくない。

 

 だから、彼女は厭わない。

 

「…絶対に、助ける! だから!」

 

 願うように、祈るように、竜神王が娘、天竜姫は指を走らせる。

 

 空間に描かれた文字は、溶け込むように消えていく。

 

「私と一緒に歩いていこう…!」

 

 閃光が、狭いガレージを満たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある公園で。

 

「…何故、来たでござるか?」

 

「何故もクソも無いでござるっ!!」

 

「そうよっ、何で私達を置いていくのよっ!」

 

 森を抜け、疎らな家々の間を駆け抜け、ビルの先端が見え始める公園の真ん中に、男達と少女達、そして2匹の狼が居る。

 

「陰念まで連れて来たくせに、私たちに留守番してろって言ったって聞く訳無いじゃない!」

 

「美衣さんに見張っておくように頼んでおいたんだけどなぁ」

 

「ケイに協力してもらったでござるからな!」

 

 心優しい猫又の女性は、ケイと元フェンリル狼の子狼が一緒になってやっている頭痛が痛いと言う謎の仮病に騙されている筈だ。

 

 いや、騙されてくれたのかもしれないが。

 

 呆れた様に天を仰いだ犬塚父と、困惑した表情の4人の人狼達。

 

 そして、冷たい瞳で睨んでくる犬飼ポチは、全員が真っ白な装束を身に纏っている。

 

 その向こうには、どうでも良さそうに座り込んでいる狼姿の陰念と、忠夫が消えた後に居た、バンダナを巻いて忠夫が着ていた服を詰め込んだ風呂敷を身体に巻きつけている狼が居る。

 

「大体、そっちの狼は何でござるかっ! 兄上の匂いがする割に、兄上ではないんでござるよっ! そんな怪しい狼を連れて、何故拙者たちが――」

 

「代理とは言え長の言葉、従わない理由にはならんでござるな」

 

 そう冷たく告げたポチの瞳にも、僅かな困惑が見て取れた。

 

 だが、彼としてもこの狼が敵とは思えないのも確か。

 

 何故かと聞かれても、長年共に暮らしてきた息子と同じ匂い、だが全く違う気配のそれから、どこか懐かしい雰囲気を感じていたから、としか言いようが無い。

 

 それでも、確信としてあったのは。

 

 この存在は、決して敵にはならない、と言う事。

 

「お主らは里の未来。狼であっても、狐であっても、でござる」

 

「そうそう。戦場に行くには若すぎる」

 

「…違うでござる」

 

 唸り声を上げながら、父ともう一人の父とも慕う男達に、二人は燃えるような目を向けた。

 

「拙者たちの未来は――」「あの、兄貴ぶった、優しい馬鹿が半分もってんのよっ!!」

 

 引かない、絶対に。

 

 そう告げる瞳達に、7人の大人達は一瞬気圧された。

 

 言葉に詰まるポチの袖を、赤いバンダナを巻いた狼がそっと引っ張る。

 

 視線が絡み、やがてポチが溜め息を付いた。

 

「…帰れと言っても」

 

「無駄でござるっ!」

 

「当たり前でしょ!」

 

「だろうと思ったよ」

 

 7つの吐息が響く。

 

 大人達は互いに視線を合わせ、何事かを目で語り合う。

 

 最後に、犬飼ポチが一歩進み出た。

 

「犬塚シロ」

 

「はいっ!」

 

「タマモ」

 

「うんっ!」

 

「…死ぬ事だけは、許さんでござる」

 

「やれやれ。お前んとこの忠夫も幸せ者だなぁ。後で一発殴るからな?」

 

「拙者が先でござろうよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そして、日が沈む。

 

 

「土具羅とパピリオは発見できたか」

 

「いいえ。霊波迷彩を使用しているようです。発見できていません」

 

「…まぁ良い。時間だ」

 

 アシュタロスは、ゆっくりと椅子から腰を上げた。

 

 その背後に立つベスパの瞳からは、どんな感情も押し込められて読み取れない。

 

 だが、それを全く意に介さず、魔神はモニター越しに巨大兵鬼の角の先に立つフェンリルを眺める。

 

「――さぁ、始めよう」

 

 声に従い、艦橋にいるテレサ達の指が激しく動き出した。

 

 後方から響く駆動音が大きくなり、それと共に巨大兵鬼の羽の後ろから、蒼白い光が爆発した様に吐きだされた。

 

 ゆっくりと進みだした兵鬼群の眼前に、巨大なゲートが燐光を放ちながら出現する。

 

「亜空間ゲート、開放」

 

「大逆天号、及び逆天号、配置完了」

 

「テレサ№350から№2900まで、順次戦闘態勢に移行」

 

「火器管制及び駆動制御系、主機関、オールグリーン」

 

「待機出力から戦闘出力に移行完了」

 

「格納庫内、『魔体』、全機最終チェック終了しています」

 

「宇宙処理装置、圧縮完了」

 

 淡々とした言葉の羅列が舞い踊り、全ての準備が完了した事が告げられた。

 

 そして、魔神は、宣言する。

 

「たった今から、始めよう。――見捨てられた者達の、知られる事無き者達の、切なる声の代弁を!」

 


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