月に吼える   作:maisen

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第陸話  『だから貴方は走り出す』

「…暇ですね、土具羅様」

 

『…124回目』

 

 冷たくも暖かくも無い床に腰を降ろし、胡乱げな目つきで二重の障壁と通路を隔てた向こう側の上司が淡々と答えた。

 

 背を向けたままの土具羅は、何をするでもなく器用に短い足を組んで大人しく座り込んでいる。

 

 この巨大兵鬼の腹の中、別々の対面した牢屋に入れられた二人は、何もする事が無い上に何もされないので暇を持て余していた。

 

 尋問するでなく、処罰が下される事も無く、放置プレイ続行中である。

 

 閉じ込められて数時間も経っていない為、空腹はそれほど覚えないで済んでいるのは不幸中の幸いか。

 

 が、このままの状況が続く可能性を鑑みると、少なくともルシオラは非常に不安にかられざるをえない。

 

 そう、こればかりは譲れないのである。

 

 何だってこの牢屋には毛布の一枚どころかそれすらないのか。牢屋にせよ監視部屋にせよ最低限これだけは、と言うものがあるじゃないか。

 

 ただの四角い部屋に薄緑色の向こう側が透けて見える障壁だなんて、幾らなんでも酷すぎる。

 

 つまり設計ミスをしでかした魔神が悪いのであって、連帯責任だから問題無い。

 

「…土具羅様」

 

『何だ』

 

「もしもの時は自爆してください」

 

『その目は本気だなお前っ?!』

 

 具体的には生理現象とか。

 

 

 

 

 

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 月に吼える 第三部 

 

 

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 冷たい通路を歩いて行く。

 

 どうして帰還の報告にも行かず、こんな所に居るのだろうか。

 

 兵鬼の腹の中であるこの通路は、何時通っても趣味が悪い。

 

 土具羅と埴輪兵が常に動き回り、時には魔神が騒ぎを起こし、またある時には末の妹が騒ぎを起こし、更にその内数回はベスパも巻き込まれて頭を抱える嵌めになる事もあったあの城は、無機質ながらもどこか暖かい雰囲気に包まれていた。 

 

 生物の中であるにもかかわらず、どこまでも硬質な空気しか満たされていないこの場所との違いが今の行動を誘うのか。

 

 頭を振り、くだらないと吐き捨て、ベスパは手の中の球体を睨みつけた。

 

 薄い幕で作り上げられたその内部に、青いジージャンとジーパンを身に付け、赤いバンダナを巻きつけた小さな青年が納まっている。

 

「…謝る気は無いからね」

 

 呟いた言葉には、思ったよりも鋭さは見えず、ただ力無く流れていった。

 

 胡座をかいて球体の中で背を向けた青年は、頬杖を付いたまま振り向こうともせずに僅かに震え、苛立ち混じりの答えを返す。

 

「…何を謝るってんだよ」

 

「何もかも、さ」

 

 視線は、向かない。

 

 沈黙が広がり、暫しの間通路を歩くベスパの足音だけが響いて、消えていく。

 

 更に数歩も歩いた頃、重い空気をかき混ぜるように忠夫の声が耳を擽った。

 

「…つまり、何だ。里をフェンリルが襲ったのは、俺を里に呼び寄せる為だったってのか?」

 

 唐突なその問いに、僅かに逡巡を見せたベスパは、だがはっきりと頷き肯定した。

 

 しかし気配で意思を感じた筈の忠夫は背を向けたまま何も返さない。

 

「正確に言えば、お前と美神令子を、だよ。アシュ様が何を考えてらっしゃるのかは分からないけど、少なくともどちらかは里に様子を見に行く筈と踏んでらしたんだ。そしてお前達が居なくなった所で一気に――始めの予定はそうだった」

 

「…何で俺と美神さんを?」

 

 ベスパは溜め息一つ。

 頭を振り、迷いを見せながら、分からないと小さく呟いた。

 

「だけど、里を襲ったフェンリルが大怪我して、大幅に遅延を余儀なくされたのさ。だからせめてお前だけでも…イレギュラーを減らす為だともおっしゃってた」

 

「良いのか、そんな事まで喋っちゃって」

 

「はっ」

 

 嘲笑の中に、しかし僅かに見える感情。

 

 嘆きと、戸惑いと――同情。

 

「あの方が何を目的としてらっしゃるかまでは私も知らないし、お前も此処からは逃げられない。その上あっちの奴らは身動きも取れないし、誰が首謀者なのかもまだわかっていない筈さ」

 

 僅かに間を置き、続けた。

 

「それにお前の頼みの綱、人狼達も頭を無くしてまともに動けな――」

 

「んな訳ねえだろうがっ!!」

 

 怒声が放たれた。

 

 目覚めてからベスパがこれまでの経過を説明する間も、問いに答える間も振り向かなかった忠夫は、球体の中で立ち上がりベスパを睨みつけている。

 

「…あの長老はなぁっ! ものスゲェ強えんだ!! うちの親父と、犬塚のおっさんと、俺とシロが束になってもかなわねぇ程なぁっ!!! そう簡単に死ぬ訳、ねえんだよっ!!!」

 

「…フェンリルの片足を落とせるくらいだからね。強『かった』のは間違い無いよ」

 

「ふっざけんなっ!! そんな訳は、そんな事だけはありえねえんだよっ!!」

 

 激昂に任せて右手を振るう。

 

 だが、霊波刀も出なければ、怒りの満ちた声からの退魔の咆哮も響きはしない。

 

 握り締めた拳に、閉じ込められるよりも前の力は満ちてこない。

 

 言葉しか、出せなかった。

 

 それでも諦めてなるものかと、しかしもう止めてくれと頭の片隅で悲鳴を上げながら、捻り出すように力を呼ぶ。

 

 集中し集中し集中し、そして集中して。

 

 ようやく得た微かな手応えが霧消すると同時に、意識が半分ぶっ飛んだ。

 

「…人狼の部分と人間の部分を無理矢理分離させたんだ。霊力の急激な減少と、魂の分割。そんな状態で霊力出すのは無理だよ――今まで意識があっただけでもたいしたモンさ」

 

「ぅ、あ。この、こ、の――」

 

 球体の中に崩れ落ち、拳を握り締める忠夫が小さく小さく言葉を零す。

 

 最後に、忠夫が意識を失う直前に何とか舌の上に乗せた言葉は、果たして誰に言った言葉だったのだろうか。

 

「――ちっ、くしょう…」

 

 

 

 

 

 

 

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第六話 『だから貴方は走り出す』

 

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 声が、聞こえた。

 

 途切れ途切れに回る声。

 

 つい最近まで一緒に居て、巨大客船やジャングルを駆け回り、色々酷い目にもあったけど楽しかったあの時に、隣に居た彼女の声。

 

 離れてそんなに時間が経った訳ではない。

 

 むしろ、今まで沢山の事が在り過ぎて、濃くて短い時間ばっかりで、だから長く感じるのだろう。

 

 あの子の声だ。

 

 そう、あの胸の薄い――

 

「んがっ?!」

 

 体の前面にごっつい衝撃が走った。

 

 そう、子供の頃、夏の日に滝の上から滝壷に向かって飛び降りて、途中で横合いから飛び出してきた父親のドロップキックを喰らって体勢を崩し、思いっきり腹を水面に打ち付けたときのような痛みだ。

 

 それにしても飛び込みが危険だからと言って余計に危ない目に遭わせる父親もどうかと思うのだが。

 

 まぁその後逆さ蓑虫状態で滝に吊るされて強制精神修行させられていたから良しとしよう。

 

 どうやってあんな場所から吊るしたのかは、結局最後まで教えてもらえなかったけど。

 

 …あの頃からうちの両親はスパルタンだったんやなぁ。

 

「タダオ。いま何か失礼な事考えてなかった?」

 

「んぁ? いや別にルシオラの胸についてとか平面に腹から当たるとぺちーんって痛いとか考、え、て…ませんよ? ええ全く」

 

 無言でシェイクされました。

 

「まぁお仕置きはこれくらいにして。それで、何でタダオがこんな所に居るのよ」

 

「そ、そりゃこっちの台詞じゃい。ルシオラこそ、何でこんな所にいるんだ?」

 

 辺りを見回せば、何も無い真四角の部屋と、その内通路に面した側の半透明の壁が目に写る。

 

 居住空間にしては殺風景過ぎるし、かといって何か重要な場所という雰囲気でもない。

 

 強いて言うなれば監視部屋、だ。

 

「えーと、お前も捕まってんのか?」

 

「そゆ事。ま、色々と複雑なんだけどね…」

 

 溜め息混じりに呟いたルシオラは、ゆっくりと忠夫の閉じ込められた球体を細い指先で弄ぶようにくるくると回す。

 

 数回転させた後、軽く指を細めて浮かし、僅かな滞空時間を持たせて開いた手のひらで受け止めた。

 

 今の行動に文句を言おうか、それとも悲しげな表情に慰めの言葉をかけるべきか、数瞬悩んだ忠夫は、何度か口を開け閉めした後、結局何も言えずに黙り込んだ。

 

 互いに不安と焦燥を抱えた二人の視線が絡み合う。

 

 同時に相手の瞳に語り掛けたいと言う色と、語りかけて欲しいと言う色が垣間見え、だが言葉は咽の奥に詰まって滑らない。

 

 このままでは埒があかないと二人共に決意し、言葉を放とうとしたその瞬間に相手の口が動くのを目にして、再度言葉が止められた。

 

 そのまま数秒の時が過ぎ、探るような、窺うような目で互いの視線を絡めあう中で、ゆっくりと先に口を開いたのは忠夫だった。

 

 

「あの、さ」

 

 手探りで進むような声音の中、視線を合わせた忠夫が続けるよりも早く、ルシオラがそれを遮る。

 

 庇ったとも取れるその声音に、確かに含まれるのは焦りと心配の音色。

 

「ベスパに、何か言われた?」

 

「…う。あー、いや、別に」

 

 そっぽを向いて頬を掻きながらの煮え切らない忠夫の態度に、少女は柔らかい声を放ち、球体をくるりと回して視線を合わせた。

 

「『悪かった』って」

 

「へ?」

 

 微笑みの中に若干の苦さと寂しさを混ぜ、ルシオラは囁くようにそう告げた。

 

「ベスパが、ね。気絶した貴方を連れて来た時に、そう言っといてって」

 

「……」

 

 気不味そうに天を仰いだ忠夫の入ったそれを、ルシオラは笑みを崩さぬままに指で突付く。

 

 硬質な手応えを返す球体は、指も暖かさも通しはしない。

 

 だけれども、少なくとも忠夫は見えるし言葉も通る。

 

 だから、物足りないけど何とかなるだろう、と彼女は思う。

 

「で、何があったの?」

 

 柔らかさはそのままであっても、その言葉には確かな芯が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーもうっ!! 何でこんな辺鄙な所に住んでんのよあの引き篭もり竜神様はぁぁぁぁっ!!」

 

 妙神山に美神の怒声が木霊する。

 

 そこに山があるからだ、とは有名な登山家の言葉だっただろうか。

 

 だが、山登りではなく妙神山にある修行場を目指す美神にそんな名言は欠片も慰めになりはしなかった。

 

 不毛と言うかただひたすらに気の滅入る岩肌と今にも崩れそうな足場が続いており、寒々しい風が吹き付ける中を歩く彼女の額では、それでも吹き出した玉の汗が浮かんでは袖に拭かれて消えていっていた。

 

 現在東京を襲っている大規模霊障と、その直前と言うタイミングで美神の事務所に現われた竜神族の王女、そして忠夫とシロ、タマモ達の感じた「嫌な予感」。

 

 美神の霊感が弾き出した結論は、飛びきり付きの厄介事で――しかも金に成るかどうかも分からない、であった。

 

 とっとと厄介事筆頭を妙神山に預けようと、里に戻ると言う狼・狐トリオに許可を与え、おキヌを乗せて車を飛ばせば壁の間際で天竜姫が昏睡状態に陥り慌ててストップ。

 

 天蓋から離れれば意識を取り戻した物の、接近は難しいとして二人を降ろし、オカルトGメンの西条に保護して貰うように言い残し、美神は単身妙神山へと移動していた。

 

「ぜっ、たい、に! ぶん、取れるだけ! ぶん、取って、やるんだから!」

 

 執念と気合と根性で一気に山を昇り、逆に勢いを付け過ぎて途中でバテる場面もあった物の漸く目的地の前に辿り着いた彼女の前には、遠目からも確認できていたそれがばっちり立ちはだかっていた。

 

 それは、規模は小さい物の東京を覆っていたそれと同じもの。

 

 人間達には全く影響を及ぼさないが――おそらく、神魔族に対してのみ強力な対抗要素を織り込んだ結界らしき物。

 それが美神の出した推測だった。

 

「…ったく。どーりで吶喊娘を迎えにも来ないと思ったわ」

 

 妙神山修行場、門前の広場で息を整え終えて毒付いた彼女は、取り合えず中に入ってみるかと溜め息と共に一歩踏み出して。

 

 突如、後方から響いた音に意識を取られた。

 

 何事かと振り向いた彼女の瞳に、空に浮かぶ小さな黒点が写りこむ。

 

 段々と音を大きく響かせながら近付いてきたのは、一機の古い丸みを帯びたヘリコプター。

 

 やがてそれは美神の立つ広場に接近し、ローター音と砂煙を率いてゆっくりと地面に着地する。

 

 その羽根の動きが止まらぬ内に、勢い良く着たい横の扉が開かれ一人の女性を吐き出した。女性は全く動きを止めず、飛び出した勢いのまま砂煙から目を庇った美神に一直線に駆け寄る。

 

 視界の悪い中、それを察知した美神が身構え、神通棍を取り出して迎撃体勢を整えた瞬間、飛び出した女性が大声を上げた。

 

「令子ーっ!」

 

「マ、ママむぎゅ?!」

 

 両手を広げて美神を抱き締めたのは、美神令子が中学生の時に死んだ筈の彼女の母親――美神美智恵であった。

 

「良かった、無事だったのねぇぇぇ…!」

 

「ちょ、苦し、ママ! ってママっ?! え、何この状況って一体what?!」

 

 美智恵にしっかと抱き締められ絶賛混乱中のままもがく美神。

 

 しかし母はそれを無視して輝く笑顔でひたすらに、かいぐりかいぐり抱き心地を堪能している。

 

 その視界の端に、ヘリコプターのパイロットに紙幣の束を渡し、おや、と言う感じで母娘の一方的な感動の再会を喜ぶ二人に目が向けられた。

 

「ははは二人とも仲が良くて何よりだ」

 

「どこをどう見たらそう見えんのよこのくそ親父っ! てか助けもぎゅ」

 

 強力すぎる精神感応を抑える為、外せなかった筈の鉄仮面を付けていない事に突っ込む間も無く、抱き締め再開。

 

「令子ったら公彦さんにそんな呼び方をして! ああでも貴方の一番大事な時に居なくなった私が悪いのねっ! 御免なさい令子ああでもそんな令子も可愛いわぁっ!!」

 

 柔らかい塊に顔を突っ込んで呼吸困難に陥る娘と、久方振りの接触に暴走中の妻を見て、公彦は微笑ましい物を見る目で二人を嬉しそうに見つめているだけであった。

 

「うんうん。やっぱり美智恵も色々と堪ってたみたいだねぇ」

 

「あらやだ。ちょっとアナタ、令子ってばこんなに立派になってるわよ!」

 

「何処を触りながら言っとるかぁぁぁぁああああっ!!」

 

「娘の乳を母親が触っちゃ駄目って言うの?! 私のをあんなに揉んで触って吸っといて!」

 

「将来子沢山でも大丈夫って事だよ」

 

「令子! 私まだお婆ちゃんには成りたくないわよ?!」

 

「ああもう何処から突っ込めばいいのよ?!」

 

 抵抗の為に振り回そうとする神通棍も、暴走しながら血走った目で色々危険な所を動き回る母の手が器用に動いて拘束する。

 

 熾烈なサブミッションもどきを繰り広げながら、結局堪能しきった美智恵が美神を解放するまで彼女の悲鳴と混乱は続いたのだった。

 

ともあれ息も絶え絶えな美神を夫妻二人で両脇を抱えるように引き摺りつつ、3人揃って紫色の壁を擦り抜ける。

 

 何で此処にいるのか、はたまたどうして生きているのか、まさか時間移動能力なのか、その上何故二人揃っているのか等々の美神の質問は、面倒臭いから纏めて話すと言う母の言葉で一刀両断され、不承不承溜め息混じりに身を起こした美神の目に、なにやら大騒ぎ真っ最中の一部見慣れた面々が見えた。

 

 一際立派な角を生やした男性――竜神王が、小竜姫と近衛兵達にしがみ付かれて暴れてた。進行方向は妙神山の門、つまり美神達の後方だが、捕まっている方も捕まえられているほうもそれ所ではない様子。

 

 少し目を横にずらせば、右手の腕時計を眺め、左手の銃でヒャクメの後頭部を突付いているワルキューレの姿。

 

 トランクから伸びたコードを額に付け、必死に辺りを見回していたヒャクメと目が合ったが巻き込まれたくないのでスルー。

 

 更に少し離れた所で岩に腰掛け、バナナを食べては皮を後ろに放り投げているのは猿神だろうか。

 

 既に小山と化しているバナナの皮から、何とも言えない甘ったるい匂いが漂ってきている。その名も高き猿神の目が、バナナも写らない虚ろっぷりであった。

 

「…ねえ、令子?」

 

「…何よ」

 

「此処って何時もこうなのかしら」

 

「少なくとも神族ってこう言うの多いみたいね」

 

 誤解と言っても信じてもらえないであろうし、美神も「真っ当な」神族を見た事が無いので仕様が無い。

 

 最も、「真っ当な」神族が居るかはそれこそ神のみぞ知る、なのだろうけれど。

 

 ともかく、先程までの狂乱っぷりを脱ぎ捨てて、余所行きの仮面を被った美智恵は大きく息を吸って、空咳一つ。

 

 だが、それを打ち消すように全く同時に銃撃音が響いた。

 

 硝煙を上げる銃口の主は、周囲の視線を一身に集めながらも腕時計から目を離さぬままにぽつりと一言、足元に穿たれた銃撃痕を見ながらカタカタ震える下っ端神族に聞こえるように呟いた。

 

「…おや、私とした事が少々焦っているようだ。なぁヒャクメ、今日の私のトリガーは軽すぎると思わんか?」

 

「ひぅ?!」

 

「手が止まっているぞ。良いか、此処が一番妖しい場所に近いと言う通達が来ているんだ。一刻も早くあのクソ忌々しい壁の穴を見つけんと…ヒャク「イチ」メになってしまうかもしれんな?」

 

「あうあうあうあうあう」

 

 涙目で紫色の天蓋を見渡し始めた神族から、見てはいけないものを見てしまったように一斉に目を逸らす竜神王達。

 

 口元に手を当て空咳をしたままの体勢で固まっていた美智恵が、油の切れたロボットのような動きで振り向き、美神に向かって半眼で尋ねる。

 

 小刻みに震える指先は、無表情で時計の進みをカウントし始めた魔族の女性に向いていた。

 

「令子…魔族ってあーいうのばっかりなの?」

 

「…ワルキューレがセメント過ぎるだけよ。多分」

 

 こと魔族との戦闘経験に置いてならば、美智恵も美神以上の物を持っている筈なのだが、どうも目の前の光景はそれを覆すに十分な物だったようである。

 

 銃声に驚いた小竜姫と竜神王、そして竜神王にしがみ付いていた近衛兵達の一部がこちらに気付いて何やら騒いでいるが、てんやわんやな彼らを放って置いてこっそり逃げようか、とも思う美神である。

 

「駄目だよ。もう大人なんだからちゃんと最後までやるべき事はやる事」

 

「…わーかってるわよ」

 

 こつん、と、どこか優しく頭頂部に振り下ろされた拳骨が、最後の選択肢を奪った事だけは間違い無いが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ふーん」

 

「ふーん、ってお前なあ」

 

 頭を垂れたまま、何処か申し訳なさそうにポツリポツリと事の顛末を語った忠夫に掛けられたのは、そんな気の無い一言だった。

 

 興味無し、と言う訳ではない様であるが、それでも呆れたような様子が確かに忠夫には見て取れた。

 

 情け無さそうに球体の中から見上げてくる青年を、睨み付ける訳でもなく、だが目を逸らす事無くひたと見つめるその視線から居心地の悪そうに身体を捩る忠夫に向かって、ルシオラは全く意に介さず言葉を綴る。

 

「で、話してみて少しは落ち着いた?」

 

「…まぁな」

 

 不貞腐れた態度が余りにも子供っぽいので、彼女は思わず笑みを零しそうになるが何とか堪え切った。

 

 ――彼は、今の彼は不安定なのだろう。何とは無しにそう思う。

 

 初対面の女性に対して怒鳴りつけたり、ましてやそれが自分を攫った魔族であるからといって敵意をいきなり剥き出しにするような男ではない、と、ルシオラは、そう思うのだ。

 

 忠夫が語った話の中に、隠し切れない、いや本人はそもそも含まれているとは思ってもいないであろうが、確かに存在する「長老」と言う老いた人狼に対する親愛と信頼の感情。

 

 だが、それ故に、それを信じたくないが為に、それを肯定する言葉に対し、まるで噛み付くように抵抗した。

 

 それ程忠夫にとって大きな存在であったのだろう、在った事の無い人狼に対し、ルシオラはほんの少しだけ、見当違いと分かっていながらも、嫉妬した。

 

 そんな自分が何となく不思議に思えて、気付かない内にほんの少しだけ口元が緩んでいた。

 

「…笑うなよなー」

 

「笑ってないわよ。真面目に聞いてあげたじゃない」

 

「そりゃまぁ有り難かったけどさ」

 

 拗ねた子供のようにそっぽを向いた青年は、胡座を掻いたまま、膝の上に肘を乗せ、顎を手のひらで受け止め小さく呟いた。

 

「…分かってるんだ、何となく。多分、長老はもう居ないって」

 

 視線はルシオラに向かないままで、零れたのはそんな言葉。

 

「親父は性質の悪い嘘は付くけど、あんな嘘は絶対に言わない。長老の匂いも、血の匂いに混じって在った。それに、あの折れた刀の柄は、長老の愛刀だった」

 

 紡がれ続けるその言葉に、だが、ルシオラは眉根を潜める。

 

 悼む風でもなく、ただ淡々と呟かれる言葉に、何の感情の色も見えはしない。

 

 それは、何を思えば良いのか、と言う様子ではなく、ただどんな感情も乗せたくは無いと告げているようでも在った。

 

 それでは、それだけでは駄目なのだろう、とルシオラは思う。

 

 まだ、受け止めるまでには至っていないのだと。

 

 それを受け入れようとはしていないのだ、と。

 

 だから、ちょっとだけ背中を押そう。そうすれば、彼ならきっと自分で前を見て歩いていけるから。

 

「――それだけ?」

 

「…何がだよ」

 

「貴方は…悲しくないの?」

 

 だから、きっと嫌われるだろうけれど、こんな酷い台詞も吐いて見せようではないか。

 

 経験の少ない大根役者、だけど気持ちが通じると、彼なら大丈夫だと思うから。

 

 これも身勝手な考えなのだけど。

 

「…煩い」

 

「寂しくないの? 怒らないの? 悔しくないの? 貴方は、認めたんじゃなくて、ただ諦めただけ。それで良いの? …私は、貴方の大切なモノを傷付けた奴らの一人よ。何か言いたい事があるんじゃないの」

 

 体を起こし、立ち上がり、ルシオラを見上げる視線には、困惑と衝撃が見て取れた。

 

 彼女としては、別に嘘は言ってない。

 

 例え道が分かれようとも、意図の見えない行動を取っていようとも、アシュタロスはアシュタロスだし妹達は妹達だ。

 

 ぶん殴ってでも矯正してやるとは誓っていても、裏切るつもりは毛頭無い。

 

 結局、敵には見れないのだから。

 

 だから、キッツい事を言われても、後で落ち込む事にしよう。

 

 そう思って、僅かに身体を緊張させ、身構えていたルシオラに、だが忠夫は溜め息を付いて頭を振りながら再び座り込んだ。

 

 虚を突かれて、緊張を緩めたルシオラに、頭を掻き掻き忠夫が言う。

 

「…あー、その、何だ。正直それは無理」

 

「…はぁ?」

 

 呆れたように疑問符を浮かべたルシオラを横目で見ながら、照れたような忠夫が僅かに頬を染めて呟いた。

 

「だってさ、お前って結構、優しいしな。絶対俺の為に悪者になろうとしただろ、今」

 

 まぁ、流石にこれは予想していなかった訳で。

 

 何か色々と、嬉しさとか恥ずかしさとか照れ臭さとかが浮かんでは混じり合い、思わずルシオラは忠夫の入った球体を牢屋の壁に投げつけた。

 

 思ったよりも力が入ったのか、壁にぶち当たったそれはピンポン球のように部屋中を跳ね回り、忠夫の絶叫と共に周囲を激しく動き回る。

 

 熱を持ち、ともすれば緩みそうになる頬を押さえて冷ましながら、彼女は暫く硬直していたのだった。

 

 

 

「…馬鹿」

 

「俺が言いたいのわぁぁぁっ?! 止めてくれぇぇぇっ!!」

 

 

 

 やがて球体も勢いを失い動きを止め、漸く赤みを残しつつも冷静さを取り戻したルシオラがそれを拾い上げる。

 

 まだ中で目を回している忠夫に謝りつつ、彼女は一つ気合を入れた。

 

「――良し!」

 

「何が良しじゃああん?! お前俺を何だと思っとるかコラっ!」

 

「煩いわねー。男が小さい事に何時までも拘らないの!」

 

「命の危険は小さい事じゃないっ?!」

 

 暫く喧々囂々と言い争っていた二人だが、ふとその勢いが途切れ、二人同時に目を見合わせ、何となく沈黙が辺りを染めた。

 

 数秒二人は視線を絡ませ、同時に堪えきれないように吹き出した。

 

 何時も通りの空気が流れ、笑い声と共に踊っていく。

 

 その笑い声が収まった時には、二人の目にはしっかりとした意思が宿っていた。

 

「それじゃ、先ずは――」

 

「――認めるためにも、逃げないとな。此処から」

 

『あー。ちょっと良いか?』

 

 頷きあい、さて如何するか、と頭を悩ませ始めた二人に、横合いからいきなり声が掛けられた。

 

 二人が慌てて視線を飛ばせば、呆れた様に頬杖付きながら隣の部屋からこちらを見ている土偶が一体。

 

「ど、土具羅様、居たんですか?!」

 

『…お前なぁ』

 

 心底疲れたように放射能臭い息を吐き出し、土具羅はそれ以上何も言わずに通路の片隅を指差した。

 

『丁度良い…つーには大分待たせたみたいだが、チャンスが来てるぞ』

 

 ルシオラの視線がその指の差す先を辿る。

 

 通路の隅、土具羅から部屋の中を覗くように、明るい色の羽が僅かに見えていた。

 

 それは、蝶の羽。

 

 彼女の妹、その眷属。

 

「…パピリオ? 居るの?」

 

 言葉に僅かに震えたような気配が零れ、やがておずおずと少女が顔を障壁越しに覗かせた。

 

 怒られる事を怖がるような素振りを見せながら、周囲をきょろきょろと不安げに見渡しながら、末の妹は障壁越しにルシオラと忠夫を見上げている。

 

 駆け寄ったルシオラに向かって、パピリオと呼ばれた少女は頭に被った帽子を揺らし、顔を隠すように俯いている。

 

「ルシオラちゃん…私は、どうしたら良いか分からないでちゅ」

 

 俯いたまま、少女は肩を震わせ片手を伸ばす。

 

 その小さな手のひらから、零れるような光が解き放たれた。

 

 光は障壁に溶け込むようにゆっくりと混ざり合い、波紋を広げて消えていく。

 

「でも、でも! アシュ様は、今のアシュ様は違うんでちゅ! あんなのアシュ様じゃない! だから、だから――!」

 

 そっと、ルシオラはパピリオを抱き締めた。

 

 ルシオラの腕の中でパピリオの体が一瞬大きく震え、そして小さく何度も動く。

 

 嗚咽を繰り返す妹の頭を優しく撫でながら、ルシオラは初めてアシュタロスに逆らった少女に、ありがとう、と囁いた。

 

 そのまま、数分ほども経っただろうか。

 

 やがて少女がルシオラの腕の中で顔を拭い、真っ赤な目のままで身体を離す。

 

 瞳には不安が、身体には強張りが残っていたが、それでも視線はルシオラから離さない。

 

 大きく妹に頷いて見せたルシオラは、忠夫の閉じ込められた球体を大事そうに両手で包むと、パピリオに土具羅の牢も開けるように促した。

 

 だが、その手が伸び、障壁が解除されたと同時に、通路の先から何かが落ちる音が響く。

 

 慌てて振り向いたルシオラとパピリオの瞳に、お盆に載った2つのコップを落として走り去っていく埴輪兵の姿が写り込む。

 

 寸暇の間も置かずにルシオラが魔力砲を放ち、埴輪兵を打ち砕くが、僅かにそれは遅かった。

 

 巨大兵鬼内に、けたたましい警報の音が鳴り響く。

 

「やばっ! 土具羅様、パピリオ、逃げるわよ!」

 

『いや、お前らだけで行け』

 

 一歩踏み出したルシオラが、土具羅の言葉につんのめる。

 

 振り向いたルシオラの目に、至って落ち着いた風情の土具羅が頷きを見せた。

 

「土具羅様っ?! 正気ですか?!」

 

『本気と言え本気と。ワシは残る。まだ確かめねばならん事もあるしな』

 

「私も残るでちゅ。私まで居なくなったら、ベスパちゃんが可哀相でちゅから」

 

 そう言って微笑む末の妹の目には、決して揺らがない決意の色がある。

 

 梃子でも動かない、と判断したルシオラは、だがそれでも一瞬迷いの色を見せた。

 

「パピリオまでっ! …ああもう、どーすんのよ!」

 

『行け、行って伝えて来い。アシュ様を止めるには、お前らだけじゃ無理なのだから』

 

「頼んだでちゅよ、ルシオラちゃん。土具羅様は私がしっかりお守りするでちゅから!」

 

 戸惑いを振り切らせる為の、力の在る笑み。

 

 逡巡を続けていたルシオラは、だが懐の忠夫が何かを囁くと、振り切るようにして駆け出した。

 

「無理するんじゃないわよー!」

 

 そんな一言を残して。

 

 その背中を見送っていた二人は、ルシオラが角を曲がって見えなくなった事を確認して直ぐに動き出す。

 

 パピリオが兵鬼内のあちらこちらに忍ばせた眷属達から状況を伝えてもらい、それを元に二人揃ってルシオラ達とは反対方向に駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ルシオラちゃん達、大丈夫でちゅかねー?」

 

『さぁな。むしろワシらの方が危険度は高いかも知れんぞ。ま、あやつなら派手に暴れていい囮になるかもしれんがな』

 

 言い終わらぬ内に、腹に響くような重低音が通路の向こうから響いた。

 

 どうも力技で壁をブチ破ったようである。

 

「…大雑把でちゅねぇ」

 

『あれも持ち味だろうさ』

 

 パピリオの先導に続きながら、土具羅は考える。

 

 隣の部屋で始まった大騒ぎを耳にしながら、土具羅の演算装置は一つの疑いを弾き出していた。

 

 何故、テン・コマンドメンツをパピリオとベスパに組み込んだのか、だ。

 

 あのプログラムは、10のコードに触れた行動を取った場合、それを組み込まれた存在を消滅させる物だ。

 

 だが、同時にある程度大雑把な規制を設ける事で、取れる行動に幅を持たせたものでも在る。

 

 その良い証明が、土具羅の目の前を駆ける少女である。

 

 明らかに反逆とも取れる行動を取りながらも、消滅していない。

 

 もっと強い規制をかけることも可能であったにもかかわらず、だ。

 

 それは、土具羅の考えた突拍子も無い可能性を、裏打ちするかのような現実であった。

 

 

 

 ――つまり、アシュタロスがこれを組み込んだのは、もし計画が失敗した時に娘達が「テン・コマンドメンツを組み込まれた為、逆らう事が出来なかった」と言う理由付けをする為ではないか、と。

 

 

 

 一方で駒のように扱いながら、もう一方でかつてのアシュタロスのように大切に思っている節が在る。

 

『矛盾、か』

 

「…土具羅様」

 

 短い足をぱたぱたと動かしてそれなりに必死で駆ける土具羅に、振り向かぬままにパピリオが呟いた。

 

 真剣な声音に、土具羅の足が動きを僅かに鈍らせた。

 

「ルシオラちゃん、やっぱり胸元が寂しすぎると思うんでちゅが」

 

 そのままつんのめって通路に頭から突っ込んだ。

 

 何だか真剣に考えてたのがアホらしくなりながらも、慰められてた時にそんな事考え取ったのか、と溜め息混じりに起き上がった土具羅は心の中だけで突っ込んだ。

 

 何処か罅でもはいっとらんだろーな、と頭を撫でながら、口から零れたのは別の言葉。

 

『本人には言うなよ』

 

「…ちぇ」

 

『言・う・な!』

 

「はーい」

 

 先導がこれで大丈夫なんだろうか、と一抹の不安の不安を抱きながら、二人は巨大兵鬼の中に隠れ場所を求めて駆け出していったのだった。

 


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