月に吼える   作:maisen

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第伍話 『だけど言えないままなのに』

 

 半人狼の青年と人狼の少女が意識を取り戻し、何とか動けるようになったのはもう朝日が昇る直前の時間だった。

 

 それが彼らの故郷に現われた魔獣の「月喰い」の所為であったとは、二人は知らない。

 

 だが、全く同じ状況に陥った事は、ある。

 

 体中から力の根源を強引に引っこ抜かれた事による一時的な著しい霊力の枯渇が、彼らを事務所に縛り付けたのだ。

 

 忠夫とタマモだけならば、何とか移動することは可能だっただろう。

 

 しかし、満月の光の結晶である月光石の助けさえも無い状態では、忠夫が途中で力尽きるのが関の山。

 

 純血の人狼たるシロに至ってはまともに動く事すら出来なかった。

 

 それでも身体を引き摺り、嫌な予感の囁くままに里へ駆けつけようとした二人を押し留めたのはタマモとおキヌである。

 

 強烈な幻覚とネクロマンサーの笛の同時精神干渉には、いきり立つ二人も僅かな抵抗を見せたのみで無理矢理昏倒させられた。

 

 悪夢からの目覚めにも似た倦怠感に襲われつつ飛び起きた二人の目に写ったのは、相変わらず不気味な天蓋に覆われている、遅い太陽が昇りささやかな暖かさを振りまいている筈の空だった。

 

「…まぁ、確かにタマモの言う事は正しい。あのまま動いても間違い無く途中で行き倒れとった」

 

「でしょ?」

 

 オカルトGメンと警察の誘導、そして迅速な対応により落ち着きを取り戻した――いや、不安の中に沈んでいる東京の街は、ただ息を潜めているだけだった。

 

 交通機関は完全にストップし、道を走る車も無い。

 

 ただ、ハンドルを握る物の居ない鉄の箱だけが、長く連なって虚しく路上に放置されている。

 

 時折街角にオカルトGメンの隊員達や警官が車両で街を巡回している以外に、動く物は無い。

 

 たまに聞こえるのも落ち着いて避難する事を促すラジオやTVの放送ぐらいである。

 

 そんな街の中を、本来の使用者達が居ないのをいい事に道路の真ん中を駆ける3つの影。

 

 頬をこけさせ、目の下に隈を拵えた忠夫と、その頭の上に乗った子狐姿のタマモ、そして、その9本の尻尾を後方から睨みつけているシロである。

 

「正しいが、だ」

 

「…何よ」

 

「気絶させるのにムキムキマッチョのむさ苦しい男どもがフンドシ一丁で集団で踊る映像は無いだろっ?! おキヌちゃんが早々に眠らせてくれんかったらトラウマもんじゃねーかっ!!」

 

 

 

 

 

 

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 月に吼える 第三部 

 

 

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「元々動けなかった拙者も巻き込まれて悶絶したんでござるからなっ!!」

 

 とは言えシロを優先したおキヌの配慮により、殆ど一瞬だけ垣間見て即時昏倒した彼女とは違い、忠夫はシロが完全に眠りにつくまでの間中それを無理矢理送りつけられ続け、夢の中でも同じ映像がリフレイン。

 

 結果として何故か純血の人狼よりもダメージを貰い、目が覚めるまで悪夢に魘され続けたのだった。

 

 ともあれそんな状態でも人狼族の身体能力は発揮され、動きつづける足は忠夫達を薄暗い道の先にそそり立った、怪しく蠢く紫色の壁に近付いていく。

 

「じゃ、どーいうのなら文句無しに大人しくしてくれた訳?」

 

「そりゃ勿論美人でスタイルの良い年上のねーちゃんとうはうはイチャイチャの新婚生活…でへ、でへへへ…」

 

「タマモ、やるでござるよ」

 

「てい」

 

 だらしなく緩んで虚空を見上げ、両手を怪しく動かし始めた忠夫の頭の上で、子狐が軽い音を立てて右前足を振り下ろす。

 

 零距離から幻術が叩き込まれた。

 

 忠夫の耳に、地鳴りのような足音が聞こえた。

 

 振り向けば其処に、王蟲の如く全身の汗を光らせ、土煙を後方に吹き上げ迫る肉塊の群。

 

 先頭を走っているのが勘九郎そっくりなのは気のせいか。

 

 脇を締める度に響く、どこか間の抜けた音が否が応でも視線を奪う。

 

「飛び散る汗の飛沫が狂気を誘うぅぅぅぁあああああああっ!!」

 

「きゃ、ちょっと、忠夫、前に前を見てってわきゃぁぁっ?!」

 

「あ、兄上ぇぇぇっ!」

 

 音の壁さえ軽くブチ破りそうな勢いで、タマモを頭に乗っけたまま忠夫は紫色の壁に突っ込んだ。

 

 だが、壁は見た目に反して二人を飲み込み、表面に揺らぎの欠片も見せずにそこにある。

 

 呆然と見送るシロ。

 

 片手を虚しく伸ばした少女の前を、丸まったくしゃくしゃの新聞紙が西部劇の如く風に吹かれて転がっていく。

 

 焼芋の匂いが付いたそれが視界を過ぎ去るだけの時間が過ぎ、彼女は再起動を果たした。

 

 恐る恐る壁に触れる。

 

 手応えは無く、するりと向こう側に突き抜けた。

 

 意を決して息を止め、目を瞑って地面を蹴る。

 

 何事も無く着地し、後ろを振り向く。

 

 

 壁は、まるで何も無かったように背後に緩やかなカーブを描きながら立っていた。

 

 

 はて、と首を捻ったのも一瞬。

 

 決死の思いで壁を通り抜けた理由を思い出し、慌てて先行した二人を探して振り向いたシロの目に、少女の姿を取ったタマモが両足で挟み込んだ忠夫の頭を、綺麗な弧を描かせてアスファルトに叩き付けた光景が写った。

 

 暫く断末魔の痙攣を見せた忠夫は、やがて動きを止めると何ともコミカルな動きで地面に埋まった頭を何度か両手足で突っ張って引っこ抜き、あさっての方角をやたら良い笑顔で眺めていたタマモに詰め寄った。

 

「青筋浮かべてどうしたの?」

 

「誰のせいじゃっ! 大体もうちょっと優しくなんとか出来んのかお前はっ!!」

 

「ちょっとTVで見たのよ。面白そうだったから何時か誰かに掛けようと思ってたの。てへ」

 

「フランケンシュタイナーはこんな場所で掛けるもんじゃないわいっ! 死ぬかと思ったわこの縞パン娘っ!」

 

 ああ、そう言えばこの前ポチ殿の家でそんなの見てたなー、とか。

 

 アスファルトにめり込むほどの勢いで喰らって何で生きてるんだろうかなー、とか。

 

 まぁミニスカートの女性がやる技じゃないなー、とか。

 

 色々と言いたい事はあるが。

 

「やはり兄上には「でりかしい」が足りんでござる」

 

 真っ赤なお顔の狐娘が出した炎に巻かれ、黒焦げになって倒れた年上の青年を見て口から出たのは、溜め息とその一言だけだった。

 

 

 

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 第伍話 『だけど言えないままなのに』

 

 

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 眼下には大騒ぎしながらも駆け出した3人の姿がある。

 

 その光景を見下ろしていたベスパの口から、言葉と同時に小さな笑いが零れ落ちた。

 

「ふふふ…漸く出て来たわね。アシュ様の為にも、姉さんには悪いけど覚悟してもらうわよ…!」

 

 自分も魔族で紫色のドームの向こうに行けない事も忘れて飛び出してきてしまった彼女は、そう呟いてゆっくりと3人の後を遥か上空から追跡を始める。

 

 ほんの少し前まで侵入できなくて小一時間引き返すかどうか悩んだり、ビルの陰で膝を抱えて拗ねていたら通りがかりの野良犬に吼えられて慌てて逃げたり、涙目でドームを眺めていたら避難中の小さな子供に飴を貰っちゃったりして更に泣けてきたりしていた事は記憶の奥底に厳重に封印する。

 

(…子供の純粋さが痛い)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 閉じた携帯の立てた固い音に少しだけ寄せた眉を和らがせ、西条は人数の半減したオペレーター達に目をやった。

 

 深夜を越え、引っ切り無しに入って来ていた出動中の隊員達や警官達からの報告もほぼ大分減り、漸く半数に休息を取らせることが出来たのだ。

 

 今頃は1時間の短い休憩を十分に活用する為、簡易なシャワーや仮眠室で泥のように眠っているであろう彼女達に感謝の念を抱くのは当然であろう。

 

 大の男でさえ辛いのに、まだオカG日本支部に入って1年と経っていない彼女達には相当の無理を強いた時間であった事は違いない。

 

 あちこちから引き抜いた年季の入ったベテラン数人と残り殆どを占める新人は居るものの、中堅層が全く居ないのがこう言う時には正直痛い。

 

 休憩のローテーションで残るメンバーにはベテランが居て欲しいと言う願望があるが、こればかりは無いもの強請りだ。

 

 ともあれ何故かぷっつりと鳴らなくなった関係各方面からの連絡を受け取る備え付けの電話に一瞥をくれ、司令室の隅に置いてあるポットと幾つかのコップ、インスタントコーヒーの粉が入った瓶へと歩み寄る。

 

 そこにいる女性達の分+自分の分にぱさついた粉を多めに入れ、ついでに砂糖を山盛りミルクを少し。

 

 最後にポットからお湯を注いでいる途中で、気の抜けた音を立てて湯気の残りカスしか吐き出さなくなったそれに残念そうな視線を送って自分の分を諦めた。

 

 この場の最高位階者がお茶を淹れるのもなんだが。

 

 手が空いているのが自分しか居ないので偶には良いかと苦笑いしながら、西条はコップをトレイに載せた。

 

「市街地の様子はどうかな?」

 

「あ、ありがとうございます。…市民の避難はほぼ完了しています。ドーナツ化現象の意外な恩恵ですね。夜間は余り人がいないのが幸いしました」

 

「わ、ちょうど咽が乾いてたんですよー。ええと、隊員の方達も巡回担当を残して帰還してますー。それでも事後処理のこと考えると頭痛いんじゃないですか?」

 

 目を擦りながら振り向いた彼女達の目の下には、はっきりとした隈が浮いている。

 

 それでも、空元気であろうとも通信を司る彼女達が憔悴した様子を見せようとしないのは、それが彼女達なりのプロ意識なのだろう。

 

 濃いカフェインとたっぷりの砂糖、眠気を誘わず胃を痛めない程度のミルクが僅かなりとも手助けになれば恩の字だ。

 

 嬉しそうに受け取ったオペレーターの表情にこちらも頬を緩ませつつ、ジョーク混じりの台詞に笑みを浮かべて軽く返した。

 

「全くだよ。有給が取れるのは何時になるやら」

 

「どうも。あの、後ろから物凄く何か言いたそうな目で睨んでますけど?」

 

「ははは男にコーヒーを淹れる趣味は無いよ僕は」

 

「…エセジェントルめ」

 

「はははボーナス更に60%カットだ」

 

 ボーナスが完全に無くなったー! という悲鳴と妻に上司の酷薄さを愚痴る文章の垂れ流しが聞こえたが無視。

 

「女性は優しく、男は叩いて叩いて叩いて勝手に伸びろ」が今月の西条のテーマである。

 

 どうせ続ける間も無くなるだろう、と振り向きもせずに考えた所で電話のベルが鳴る。

 

 ベルに引かれてちらりと肩越しに振り向けば、頭を抱えて机に突っ伏した部下が、物凄く嫌そうな顔で受話器に手を伸ばす所だった。

 

 一瞬目が合う。

 

 ――代わって下さい。

 

 ――だが断る。

 

 どちらがどちらの思考だったのかは、死んだ魚そっくりの目で受話器を耳に当てた部下が証明している。

 

 受話器からは金切り声が響き、耳から遠ざけた部下は今度こそぐたりと疲れた様子で机にしがみ付いた。

 

 関係各所のお偉方からの苦情処理を一手に引き受けさせられた彼は、胃に穴が開きそうな表情で受話器に時折口元を近づけ相槌を送り、再び耳を塞いで遠ざけている。

 

「ま、ご苦労」

 

 ぽんぽんと軽く肩を叩いて横を通り過ぎる。

 

 労ったのに何で視線に殺意が篭っているのかな、と嘯きながら、西条はポットに沸かす為の水を入れるのだった。

 

 

「…え、西条さんに客ですか?」

 

 その単語にポットを置いた西条の視線と、ちょうど彼を肩越しに振り向いたオペレーターの視線が重なり合った。

 

 どうします? と小首を傾げて目で聞いて来る彼女にハンドジェスチャーで居ないと言ってくれ、と返す。

 

 一般人ならば受付がそれなりのちゃんとした対応をしてくれている筈である。

 

 それなのにここまで連絡が来ると言う事は、相手は直接此処まで来るほど暇な何処かのお偉いさんか。

 

 その手の相手をするのは非常に疲れる上に面倒臭い。

 

 相手の立場もあるので粗雑に扱う訳にもいかないし、そもそも分かっている事は全て関係各方面に伝えている。

 

 それなりの通信設備がある所ならば此処とリアルタイムで情報の交換が行なわれているのだ。

 

 故に、必要無いと判断し、意識から切り捨て手元のポットに視線を落とした。

 

 瞬間湯沸し機能が付いたポットには、入れたばかりの中身が暖まった事を知らせるランプが点いている。

 

 流石は魔鈴の店でも使われている彼女謹製のマジカル・ポット『くとぅぐあ君』。

 

 不気味なまでの性能の高さと魔女が直々に表面に書き込んだと思われる、落書きにしか見えない「ふぉうまるはうと」と言う極太の筆文字にさえ目を瞑れば至って便利である。

 

 白地に黒とも赤ともつかない塗料が映えてデザインも至って不評である。

 

 「下手に分解したら危ないですから」と物凄く真剣に言われたが、まぁ彼女なりのジョークであろう、筈、多分…おそらく。

 

 魔法のポットから噴きあがる湯気の中に何となく嫌なオーラを感じつつも、スイッチ1つでお湯を出してコップに注ぎ、インスタントコーヒーの粉だけを入れる。

 

 無論一人分。

 

 恨めしげに睨んでくる部下の視線を勤めて無視し、インスタントの安っぽい香りを堪能しつつ口に含んで。

 

「西条さん、お客さん…六道家の御当主だそうですけど」

 

「ぶーーーーッ?!」

 

 部下に向かって盛大に噴いた。

 

「熱、熱いっ、ぅわ電話が火花をっ! ラッキーっ!!」

 

 喜ぶ部下には悪いが正直ぶん殴りたいと思った西条であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お久し振り~。何で~直ぐに~入れてくれないの~? おばさんショックだわ~」

 

「は、はぁ」

 

 ある意味当然の登場である。

 

 大規模な超常現象、しかも発生場所がこの国のど真ん中、その上都庁地下施設の状態は完全に不明、更に自衛隊も米軍も基地機能皆無。

 

 これだけの状況下で、例えGS協会に話を通したとしても――いや、通したからこそ、民間GSの中でもその名を馳せ、膨大なコネクションを誇る六道家が出張ってこない訳が無い。

 

 ぶっちゃけ「民間は何も出来ませんでしたー」では後々不味いのだ。

 

 オカルトGメンのシェアがあんまり増えすぎると、あちら側としても死活問題。

 

 色々と面子もあるであろうし、まさかのノーアポ突撃隣のオカルトGメンな行動力にかなり驚きはした物の十分に許容範囲内である。

 

 そんなごたごたとした事を全く感じさせない六道家当主ではあったが、それよりも西条が気になっていたのは、彼女と一緒に来たもう一人であった。

 

 もっさりとした白髪頭、胸まで伸びた真っ白な髭、ぎらつく目を持った70絡みに見える大柄な男性。

 

 見た事は無いのに、何故か見覚えのある不思議な感情を持って戸惑っている西条の姿を、懐かしそうに見るその老人は何度か髭を扱くと重々しい声で話し出す。

 

 何処か胃の辺りが痛くなるような、だがとても楽しいイメージが頭を一瞬掠めて消えていった。

 

「西ご…いや、西条殿」

 

「…何でしょうか?」

 

 見た目はどう見てもあちらが年上で、しかも纏う威厳とか威圧感とかもやたらと重厚な人物が、何故かとても丁寧な物腰で話し掛けてきた事に西条の戸惑いは加速する。

 

 その隣の何があっても笑顔のままの六道家当主が、何故かとても驚いたように体を引いているのが視界の端に引っかかった。

 

「あー、まあ何ですかな。ワシらがここに来たのは、少々お手伝いをさせて頂けないかと思いました訳でですな」

 

「あ~の~、善十郎の翁~? 何だか何時もと違って~変ですよ~?」

 

「変とは何じゃ小娘。いやその、こう見えてもワシも色んな所に貸しがあるもんですでな。ワシ等に交渉ごとを任せて頂ければ、その、上手くやりますぞ?」

 

 西条は硬直している。

 

 何せ「あの」六道家の「あの」当主を、目の前で小娘呼ばわりする事の出来るような人物がいたとは思ってもいなかった。

 

 しかもその怪しすぎる人物が何故か腰も低く提案してきている。

 

 ――罠か?

 

 何のだ、と突っ込む者も居らず、だがその提案は非常に魅力的。

 

 そのコネクションが何処まで本当かは不明だが、この先時間が経てば経つほど煩い外野が足を引っ張り始めるのは間違い無い。

 

 それを防げると言うのならば、迷わず飛びつきたいところである。

 

 しかも正直な所一番手強い相手であろう六道家までこちら側で交渉に回ってくれると言うのだ。

 

「ええと、何故そこまでして頂けるのでしょうか?」

 

「…まぁ、恩返しですわなぁ。ほれ、先程ちょっと根回しもしておきましたし、役に立ちますぞ? 何でしたら臨時に総指揮をもぎ取って来て見せる事も可能ですわい」

 

 照れくさそうに、懐かしそうに西条を見つめながら、善十郎は、忠夫の母方の大御所はそう告げた。

 

 確かに煩い上層部からの電話も、関係各所からの連絡も先程から途絶え、お陰で少しは指揮に余裕が出来ている。

 

 となれば、まだ色々聞きたい事はあるものの、利用できるのならば利用するべし。

 

「――お願いします」

 

「承った」

 

「おばさんも~頑張るわ~」

 

 のほほんとした声を最後に、二人は連れ立って司令室を出て行く。

 

 嵐のように過ぎ去った邂逅を、何だか訳のわからない事ばっかりだと見送った西条であったが、再び開いた扉の向こうから急ぎ足で戻って来た老人を見て何とか意識を取り戻す。

 

 老人が懐を漁り、西条の目の前に飾り気の無い長さ30Cmほどの棒を差し出した。

 

 無言のまま、受け取れと態度で主張する老人の棒を握り締めた拳の下に手を差し出す西条。

 

 その手のひらに落とされた棒は、不思議な感触と見た目に寄らない重さで西条の手を僅かに沈ませる。

 

「これは?」

 

「美神令子嬢に渡してやってくれ。これは彼女の物じゃからな」

 

 そう言い残して、肩の荷が降りたと軽く笑って、老人は身体を出口に向ける。

 

 呆然と見送った西条は、ともあれそれをスーツの内ポケットにしまって、結局何だったのだろうかと首を捻るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃワシがこっちとこっちを当たるから、お前が――」

 

「こっちね~。それにしても~、何だか~随分と態度が~妙でしたわよ~?」

 

「…大昔に大分世話になったでなぁ。”西郷”先生には」

 

「…よく分かりませんわ~?」

 

「何、平安から生きておれば色々あるでな。そりゃ貸しも山ほど出来るっちゅーもんよ」

 

「…ご先祖様から~聞いては~いたけど~何処まで~本当なのかしら~?」

 

「ふん。信じるのも信じないのもお前の勝手よ。…母からの預かり物も確かに渡したしのぉ。後は少々老骨に気合を入れるとするか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 常ならば耳障りなほどの喧騒と、息が詰まるほどの排気ガスが満ちた道路。

 

 常ならば誰かが歩いている筈の歩道に人影は無く、軽いテンポの音楽と共に商品を声高に売りつけるCMの音も聞こえない。

 

 だから、それを異常と言うのだろう。

 

「店長ー。結局あの爺さん何者だったんですかー? 途中でリムジンが合流してきたりとか、絶対只者じゃないでしょ?」

 

「昔っからの知り合いだ。色々と世話になっちまった事があるもんでな。頼み事は断れんのよ」

 

「だからと言ってこんな――」

 

 大き目のワンボックスカーの窓から外を眺めれば、天を覆う不気味なドームがビルの隙間からちらちらと姿を覗かせていた。

 

 太陽が昇っている筈なのに、辺りは夕暮れ時の薄暗さを見せている。

 

 ポニーテイルをさらりと揺らし、運転席でハンドルを握るしかめっ面の雇い主と助手席で垂れている青年を固い座席越しに眺めて溜め息1つ。

 

 窓が吐息で僅かに煙った。

 

「――避難勧告が出ている所にまで送る必要も無かろうに」

 

「あーあー聞こえないー」

 

「店長ぉぉぉっ! ハンドル、ハンドル握ってぇぇっ!」

 

 ハンドルから両手を放して耳を押さえた男性の動きに慌てた青年は、横から手を突き出しハンドルを握る。

 

 それを良い事に空いた手で窓を開け、煙草に火を点けた店長を豪胆と見るべきかそれとも適当すぎると言うべきか。

 

 吹き込んだ風に混じって飛んできた紫煙に眉根を顰め、バックミラーの顔に視線で抗議する後部座席の女性がわざとらしく鼻をつまんだ。

 

 渋々煙草を携帯灰皿に落としてハンドルを握りなおした所まで確認して、女性は二人の間から手を突き出し車のラジオをオンにした。

 

『――現在、東京の街を覆う謎の怪現象については全くの不明であるとの発表がオカルトGメンより寄せられています。付近の皆様は慌てず警察官かGメンの指示に従って避難してください』

 

「…変わり映えしないな」

 

「だから今こうやって避難してるんでしょうが。ちゃんとシートベルトして、ほら」

 

「むぅ。子ども扱いするな。大体これくらい…く、この」

 

「あーもう。ほら、ちょっと代わって」

 

 自分の分のベルトを外し、助手席から身体を伸ばして後部座席のシートベルトを嵌め始めた青年の身体を少々邪魔に思いながらも、バックミラーに写るウェイトレスのそっぽを向いた照れの見える顔に小さく笑いが込み上げ。

 

 ――だが、突如として車の前に飛び出して来た人影に慌てて急ブレーキを踏む羽目になった。

 

 両手を広げて立ちふさがった少女の長い黒髪が風圧に揺れるのを目にしながら、操り手さえも神がかったとしか思えないハンドル捌きで擦り抜ける。

 

 何度かスピンを繰り返しながらも、オンボロだが頑丈さには信頼性のあるワンボックスは奇跡的に無事な姿で停車した。

 

 振り回されて助手席から後方にすっぽ抜け、中々羨ましい体勢で二人分の手足を絡ませているウェイターとウェイトレスの無事を確認し、飛び出して来た馬鹿に文句をつけようと窓から身体を乗り出しす。

 

「この馬鹿ったれっ! 自殺希望なら俺の見えない場所にしやがれっ!」

 

「店長、それもどうかと思うぞ…ぅんっ?!」

 

「こんな時まで何で冷静なのさっ?! とにかく離れてっ! 色々とヤバイっ!」

 

 だが、罵声を投げつけられた少女は全く怯むことなく運転席に近寄ると、勢い良く窓を掴んで頭を突っ込んで来る。

 

 逆に身体を引いた男性の目をしかと見つめると、少女は――おキヌは、歩道を指差し大仰に叫んだ。

 

「すいませんっ! 妹が大変なんですっ! この車をオカルトGメンまで貸してください!」

 

 男性が少女の指差した先に目をやれば、確かに歩道に植えられた木の陰に、お腹を押さえて蹲った少女の姿があった。

 

 最近流行ののアクセサリーだろうか、何故か頭から角のような物を二本生やしたその少女は、ちらりとこちらを見ると聞こえよがしに唸り出す。

 

「…持病の流行性感冒が。うーん、うーん」

 

「…風邪が持病ってそりゃ大変だなおい」

 

「え、あ、て、天竜姫様のアドリブ下手ーっ?!」

 

 最早何処から突っ込めばいいのやら。

 

 後部座席から聞こえてくる青年の酷く切羽詰った声と、女性のどこか艶かしい吐息と、窓を掴んだまま慌てている少女と、未だにちらちらとこちらを見ながら唸っている角付きの少女を何となく聞き流し見渡して。

 

 店長は大きく溜め息をついた。

 

「…何時になったら落ち着いてまた開業出来るのかねぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――信じたくなかった。

 

 あの人は、知る限りで最も強かった。

 

 強くて、優しかった。

 

 怒られても、叩かれても、怒鳴られても、それでも尊敬していた。

 

 だから、ボロボロの里を駆け抜け、嘘だと叫ぶ妹分を置いて、疲れ果てた皆に声を掛ける事すら思いつかずに匂いを追いかけた。

 

 微かに残るそれを追いかけ、何時もの性質の悪い冗談に違いないと、今度のそれは幾らなんでも酷すぎると湧き上がる確信を只管に打ち消しながら走り続けた。

 

 これは血の匂いじゃない。

 

 これは死の匂いじゃない。

 

 これはあの人の匂いじゃない。

 

 そんな訳が、無い。

 

 見送った父の、言葉に出来ないほどに悲しげな視線を感じて駆け出した忠夫には、そんな力ない否定しか出来ない。

 

 咽返るような獣臭を掻き分け、途中に転がっていた巨大な前足を蹴り飛ばし、感覚が導く方へと足を進めていく。

 

 だが、漂うそれは、無情に父の言葉を肯定するだけだ。

 

「――んな訳ねぇだろ…!」

 

 匂いは小高い丘へと続いていた。

 

 視界を塞ぐ葉っぱを掻き分ければ、あの背中が見えるのではないか。

 

 絡み付く下草はその背中にとどかせまいとしているように、スニーカーに纏わりついては引き千切られる。

 

 ――走り、駆け、急ぎ、辿り着いた匂いの終着点は、無骨な石の積み重なった場所だった。

 

 綺麗に並んで置いてある猫又の女性の香りがついた花は、まるで供えてあるようにも見えた。

 

 この場所は、里を見下ろすのにちょうど良い場所のように感じられた。

 

 力の抜けて落ちた膝は、それが真実だと認めたように感じられた。

 

 止まった自分の後ろに、誰かが空から降りてきた気配があった。

 

 全部、認めたくない事に、した。

 

「――」

 

 背中から掛けられた、知らない誰かの声は一体何を言いたかったのか。

 

 まるで自分の体が自分の物でないような虚脱感。

 

 別れの言葉一つ言えぬまま。

 

 全てを認められぬまま。

 

 

 

 

 

 彼をこっそりと追いかけていた彼女は迷いながら、それでも解き放った髑髏の付いた指輪は一瞬で広がり、抵抗の素振りさえ見せない忠夫をその中に捕え、閃光と雷にも似た衝撃を与え、彼の意識を刈り取る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――異変を感じ駆けつけた者達が見たのは、長老の仮の寝床と、その前に倒れ伏す一匹の赤いバンダナを巻いた狼。

 

 そして、空を駆ける魔族の女と、その手に光る小さな球体だけだった。

 


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