月に吼える   作:maisen

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第四話 『それでもあの手を忘れない』

 

「…嘘だと」

 

 瞳を見開いたルシオラが、搾り出した声で土具羅の背中に語りかける。

 

 その光景を発見し、彼女が声を失っていたのはどれほどの時間だったのだろうか。

 

 彼女自身さえ分からないほど、長くも無く短くも無い時間だったのかもしれない。

 

 衝撃は彼女を貫き、続けるべき言葉は咽の奥に引っかかったように滑らない。

 

 一心不乱に二つのカプセルの間に設置されたコンソールのキーを叩く土具羅が、最も冷静だったのかもしれない。

 

 その背中に、泣き出しそうな声が小さく当たって解けて消えた。

 

「嘘だと言ってください…アシュ様…!」

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 月に吼える 第三部 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

『………』

 

 虚空に縋りつくような声に、答えるべき者からの答えは無い。 

 

 それは答えを知らない為か、それとも答えを教えない為か。

 

 ただ、高速で叩かれるキーが連なる音を奏で続け、モニターのバーが蠢くように進むだけ。

 

 土具羅の小さな身体を見下ろすように、中にルシオラの二人の妹を抱えたカプセルが、こぽりと泡を沸かせて満たした液体を微かに揺らす。

 

 妹達の身体に絡みつくコードが、蜘蛛の糸に捕われたような印象を与えた。

 

 モニターに描き出されるのは、『now lording』と『sub command programming…』の無機質な文字列と、98%の数字と共にゲージ一杯まで伸びきっているバー、そして、その背景に大きく記された――『T・C・M』の三文字。

 

 それが一体何を示すのか、モニターを見つめるや突如としてキーを叩き始めた土具羅は知っているのだろう。

 

 だが、ルシオラは知らない。

 

 妹たちが、こんな暗い所で、こんな物に閉じ込められなければならない理由を、知らない!

 

「…っ!!」

 

『待て』

 

 膨れ上がった激情のままに、カプセルを破壊しようとしたルシオラを、背中を向けたままの土具羅が言葉だけで引き止めた。

 

 一言だけで動きを止めたのは、その声に含まれていた感情が、押し殺された冷たいものだったからだろうか。

 

 視線だけで理由を問うも、背中を向けたまま、土具羅は振り向きもしなかった。

 

 ただ、言葉だけが流れ出した。

 

『このプログラムは霊基そのものに組み込むヤツだぞ。力づくで如何こうしようものなら、最悪、二人とも消滅する』

 

「…だったら、何で!」

 

『小娘は黙っとれ!!』

 

 問い詰め、肩にかけた手は一喝で身を竦めたルシオラの動きに引っ張られて迷うように宙を泳ぎ、力なく垂らされた。

 

 かちり、と小さな音を立て、数字が98から99へとカウントを進める。

 

 それが否が応にも不安を掻き立て、さらに速度を増した土具羅の指に視線が自然と吸い寄せられた。

 

『…ワシはな、お前らが生まれる前からあのお方に仕えとる』

 

 鍵盤を叩くピアニストのように、無骨な土具羅の指がコンソールの上を踊り狂う。

 

 綴られる言葉には、激しい動きとは裏腹に言い聞かせる穏やかささえ宿っていた。

 

『お前らが生み出された時、アシュタロス様はとある計画の完全破棄を宣言しなさった』

 

 まぁ、ワシに言わせればそんな気は最初から無かったんだろうがな、と囁いた声は、喋る間も途切れる事無く弾き出され続ける鍵盤音に掻き消され、ルシオラまでは届かない。

 

 ふと、その視線が上を向く。

 

 見上げれば、視界に収まりきらないほど巨大なそれが、小さな稼動音を上げながら不気味にそそり立っていた。

 

 苦笑い混じりの溜め息とともに、ケジメだったんだろう、と呟いた言葉は、果たして魔神の愛娘に届いたのだろうか。

 

『計画の内容はさて置き、『コスモプロセッサ』も、このプログラムも、必要の無い物として放棄された筈だった』

 

 だが、現実として、それは土具羅の眼前に、憎らしいほどしっかりと存在している。

 

『…何故此処にこれが在り、べスパとパピリオにこのプログラムが組み込まれようとしているかは分からんし、止められん』

 

「…じゃあ、一体何を?」

 

『納得がいかんのさ』

 

 ごうん、と、カプセルが唸りをあげた。

 

 カプセルの中を満たす緑色の液体が、振動に揺れて耳障りな音を立てる。

 

 こぽこぽと連なって湧き上がりつづける泡が、不気味な色に輝いて見えるのは気のせいだろうか。

 

『…ワシは、アシュタロス様の第一の部下』

 

 土具羅の指が動きを止める。

 

 モニターに映し出されたのは、プログラムが完了した事を示す無愛想な文字と、それを本体のプログラムに組み込むかどうかを尋ねる小さな疑問符。

 

 軽い音を立てて決定を押した土具羅の前で、ほんの僅かだけバーが巻き戻り、すぐさま元の長さを取り戻した。

 

『アシュタロス様の望みを満たす事こそ、我が使命』

 

 引き戻された進捗も、次の瞬間に示された100%の数字が掻き消した。

 

『――打てる手は打って置かんとな?』

 

 周囲に、光が満ちた。

 

 それまで沈黙を守っていた巨大な柱が唸りを上げる。

 

 灯された人工の光が、それまで見えなかったコスモプロセッサの細部を照らし出した。

 

 土台らしき場所に設置された、オルガンの鍵盤のような物は制御装置だろうか。

 

 そして、その直上にある大きな卵は、一体何なのだろうか。

 

 更にその上で目を開き、こちらを見つめている3体の同じ顔をした女性達は、何者だろうか。

 

 その無機質な視線がルシオラの姿を認め、微かに3人の口元が、全く同じ動きを示す。

 

 途端、周囲に赤い光とサイレンが響いた。

 

 

 

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 第四話 『それでもあの手を忘れない』

 

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 出動から帰ってみれば、時計の針は既に魔鈴の店の閉店時間を超えていた。

 

 疲れと色々な遣る瀬無さが篭った溜め息を付き、西条はスーツの上を背凭れに引っ掛け、ネクタイを緩めてイスに腰掛ける。

 

 おキヌのお陰で多少実働部隊が充実したとは言え、まだまだこの国全体に占めるオカルトGメンのシェアも少なければ、評価も余り高くない。

 

 そんな状況下で、一定以上の難しい霊障事件が発生すれば、日本オカルトGメンでもトップレベルの、しかも使い勝手の良い西条はあちらこちらに引っ張りまわされる事になる。

 

 何せ民間GSの実力が高すぎるのだ、この国は。

 

 GS協会の長年の努力と、其処此処に点在する名家達、そして厳しいGS試験を突破した実力者――GS免許保持者達。

 

 緊密に繋がった彼らの関係は、霊障に対する高い対処能力を与えると共に、同業他社に対する一種の堅固な要塞となっていた。

 

「全く、参るよなぁ」

 

 人気の無いオフィスの一角、西条の部屋のデスクに置かれた灰皿を人差し指で手繰り寄せ、胸ポケットから取り出した煙草に火を付ける。

 

 仕事で疲れきった後の一口目は、何時もながらに美味かった。

 

 咥えタバコのまま懐を探り、オフィスの入ったビルの前で購入した缶コーヒーの蓋をあける。

 

 伸びた無精髭の先を擽る湯気と、鼻腔の奥に届いて煙草の匂いと混じるコーヒーの匂いが、僅かながらに疲れを削ってくれた。

 

 煙草を左手の人差し指と薬指で挟んで、右手でコーヒーを呷る。

 

 流れ込んだ熱さとカフェインを飲んだと言う認識が、気の抜けた精神に渇をぶち込んだ。

 

 満足げな吐息を漏らし、視界の端を掠めるデスクの上に山積みになった書類を勤めて無視。

 

「…仮眠を取ろう。そうしよう。報告書は明日だ、明日」

 

 誰に言うでもなく一人ごちると、毛布を引っ張り出しソファー寝転んだ。

 

 朝一番でシャワーを浴びて、髭も剃ってスーツも着替えて、魔鈴ちゃんの所でモーニング、とつらつら予定を立てながら目を閉じて。

 

 けたたましく鳴り出したクラシックに飛び起きた。

 

 音源は、イスに引っ掛けたままのスーツのポケット。

 

 しかし、常の連絡時に演奏し始める緩やかな旋律ではなく、急き立てるような激しいリズム。

 

 緊急事態発生を示す、着信音だった。

 

「――はい! こちらオカルトGメン、西条!!」

 

 携帯電話の向こうの声は、悲鳴にも似た叫びだ。

 

「西条先輩! 外を見てくださいっ! 空が、空が…!」

 

 何時もならば、ちゃんと階級で呼ぶように、と叱り付ける所であった。

 

 この前イギリスから漸く引っ張り出したばかりの新人は、未だに学生気分が抜けないのか時折こんな呼び方をする。

 

 しかし、紳士の国出身らしくなくいつも軽い雰囲気の彼の声は、今はパニック寸前の悲痛さで彩られている。

 

 引き摺られるように、西条の霊感に強烈に訴えかける何かが引っかかる。

 

 これほどの悪寒に気付かないほど疲れていた自分に眉を顰める間も無く、イスを跳ね除けデスクの上の書類を雪崩の如く崩しながら窓に駆け寄り、ブラインドを抉じ開けた西条の目に、異様な光景が広がっていた。

 

 ――波打つ黒い雲と黒色に近い紫で覆われた、東京の空だった。

 

 明らかに雲とは違う存在感を持つそれは、時折赤黒く発光しながらゆっくりとうねっている。

 

 まるで、生き物の腹の中に居るようだ、と、停止した西条の脳裏にそんな思考が過ぎる。

 

 呆然と佇む西条の意識を取り戻させたのは、やはり電話の向こうの若い男性が放つ声。

 

「さっきから電話が鳴りっぱなしで、でも俺達もあんなの見た事無くて!」

 

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 

 おもむろに自分の頬を思いっきり抓った。

 

「あー、これは何か、夢かな? フロイト先生ならどんな分析してくれるかな?」

 

「夢じゃないですってばっ!! 現実です! 俺もさっさと帰ってハニーをジャ○ネットで買った布団に引っ張り込んでイチャイチャしたいですけども!」

 

「前々から思ってたんだが君ホントはアメリカ国籍じゃないか? あと何で布団だベッドの国生まれ。それから昼間にTV見るほど暇だとは知らなかったな。後で仕事あげるから此処まで来なさい。別に一人身の僻みじゃないぞ?」

 

「委細漏らさず丁寧な突っ込みありがとうございます上から下まで手当たり次第のレディ・キラー! 大体そのくせ何で魔鈴さん落とせないんですかノー・ガッツ! それに内勤増えてんのは上司がさっさと書類片付けずに溜めてばっかりだからでしょうが現場好きのワーカ・ホリック! 悔しかったらさっさとオとせば良いじゃないですかハード・ボイルドぶってないで!!」

 

「上司に対する不敬罪と抗命罪と侮辱罪と名誉毀損でボーナス40%カットだ米国かぶれ。それと僕は「固茹で卵」じゃなくて「紳士」なんだ!」

 

 悲鳴と怒号と子供の教育に破滅的な悪影響を与えそうな罵詈雑言を聞き流しつつスーツを羽織る。

 

 緩んだネクタイを締めなおし、廊下を靴音高く駆け出した。

 

 叫び続けて10カウント、息切れでもしたかゼハゼハと荒い吐息しか聞こえてこなくなった頃を見計らって、西条はもう一度携帯電話に話し掛ける。

 

「落ち着いたかね」

 

「…色々と納得は行きませんが」

 

「『常にジェントルたれ』だよ英国紳士は。ならば現状報告を」

 

「――異変が観測されたのは5分前、範囲は関東全域を完全に覆うほど大規模な物です。厚さと留まっている高度の詳細は不明ですが、富士観測所からのデータによるとほぼ完全な丸いドーム型。現在、魔力及び霊力、神通力、妖力、どれも大規模な変動は観測されていません」

 

 足を止めぬまま、エレベーターのスイッチを押す。

 

 甲高い音を立てて停止した箱に乗り込みつつ、澱む事無く流れてくる情報を吟味する。

 

「異常はそこに見える。だが全く正体不明、か」

 

「残念ながら。それと一般の電話回線はパンク寸前、オカG本部からも矢のように通信が入っています」

 

「直通回線だけは確保しておいてくれ。隊員は?」

 

 駆け足から早足まで速度を落とし、扉の前でネクタイをもう一度締めなおす。

 

 上が落ち着いている事が、そのまま部下の精神的安定に繋がる以上、身だしなみにも疎かな事があっては成らない。

 

 いわんや日頃から無精髭だの疲れた様子だのを見知っている部下の前であっては尚の事。

 

「非番の隊員は現在召集中、あと5分で全員揃います。残りは半数を、笛が使える奴らを優先的に外に出して避難誘導に。残り半分は待機中――何時でも行けます」

 

 それだけ聞いて、携帯電話を閉じた。

 

 最期の一歩を踏み出し、自動ドアが開くと同時に勤めて冷静にその部屋に踏み込んだ。

 

 振り返ってくるのは先程まで電話を介していた部下と、壁一面を埋め尽くすモニターの前で通信していたオペレーター達。

 

 そしてモニター越しにこちらを見る、装備を整え隊列を組む実働部隊。

 

 それぞれ西条の顔を見ながら、不安と緊張を見せていた。

 

 皆の視線が集まった所で、笑顔を浮かべて大声で。

 

「nice workだ諸君! 冬のボーナスには期待しておきたまえ!」

 

 湧き上がった黄色い歓声とハイタッチを目にしつつ、頬を緩めた西条は歩みを進める。

 

 これほど手際良く準備が整えられ、かつ円滑に動いているのは彼女達が果たした役割が大きい。

 

 敬礼を返してきた部下の肩を叩きつつ、オペレーターの隙間に身体を入れてマイクを掴んだ。

 

「待機中の隊員たちに告ぐ。可能な限りのデータ収集装備の持ち出しを許可! 何か掴んだら即報告する事!」

 

『何人か残して、ですね?!』

 

「そうだ、直ぐに出てくれ! 現状の把握を最優先に!」

 

 重なり合った了解の声と、モニターの中で揃って敬礼しすぐさま動き出した部下達に向かって敬礼を返しながら、頼もしげに見送る。

 

 此処まで来るのに掛かった時間と聞き流した上層部の愚痴を思い返し、西条はふと笑いを零した。

 

「これなら有給取っても大丈夫そうだな」

 

「ええっ?! めっずらしー。実働部隊大丈夫ですか?」

 

「何、君たちが居るからね」

 

 にこやかにスマイルを付属させつつ告げた言葉に、オペレーターの女性職員が頬を染めて恥ずかしがる様子を目にしつつ、西条がモニターに目を戻した。

 

 ついでに後方から刺さってくるオカG上層部とやりあっている部下の視線を軽く無視。

 

 東京のあちこちを映し出すモニターにICPO超常犯罪課のロゴが入った隊員が現われ、ある者は拡声器で、ある者はネクロマンサーの笛で民衆を落ち着かせているシーンが増え始める。

 

 だが、パニックによる暴動は無さそうだ、とひと息ついた西条の耳に、後方からの慌てた声が突き刺さった。

 

「西条先輩! 内閣府からですっ!」

 

 今度は何だ、と舌打ち1つ。

 

「回してくれ! はい、西条で…は? …馬鹿な、なんであそこが最初に狙われるんですかっ?!」

 

 手元のコンソールを慌てて操作する西条の顔からは、それまでの頼もしい笑みが消えている。

 

 その場所は、この都市で最も重要な場所であり、その地下には霊的にもこの国の最重要である施設が存在する。

 

 モニターの1つが瞬き、様々な場所を映し出し、最後に1つの場所で固定された。

 

 それは、二つの頭頂部を持った巨大な建物。

 

 都庁と呼ばれるそのビルは、正面玄関から大量の人々と、煙を吐き出していた。

 

 地上階部分に被害は全く見当たらない。

 

 煙が出ているのは、正面玄関と低い階層、そして、マンホール。

 

 示す答えは、地下部分にそれだけの被害が出ていると言う事。

 

 電話の内容も、それを伝える物だった。

 

「あそこは…特S級の機密施設だぞ…! 何で――」

 

 だが、それで終わりではなかった。

 

「――米軍と自衛隊の施設が機能喪失?」

 

 幸いにも死者は出ていないが、負傷者多数。

 

 装備も機体も、ほぼ全滅。

 

 それが今現在で何かに直結する訳ではない。

 

 訳ではないが、特に都庁の地下施設はこの国の霊脈制御に甚大な被害を及ぼすであろうし、基地を襲った理由がそもそも分からない。

 

 だが、何かが起こっている事だけは分かっている。

 

「…何が、始まるんだ」

 

 沈黙に沈んだその部屋に、呟きに答えられる者は居なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 普通ならこの時間、都会のような人工の灯りが無いこの山では、上を見上げれば夜空を埋め尽くす星の天蓋と柔らかな月の光がある筈だった。

 

「…猿爺。ありゃ、なんだ?」

 

「ヒャクメ、分析できるか?」

 

「出来ればとっくにやってるのねぇっ?!」

 

 苦々しげに空を見上げる竜神王の視線の先には、薄ら寒い蠕動を繰り返す天蓋がある。

 

 その隣で座り込んだ猿神も、返す言葉を持たなかった。

 

 二人から少し離れた場所では、ベレー帽を被ったワルキューレとナイトキャップを被ったヒャクメ、そして小竜姫がトランクの前に集まり騒いでいる。

 

 まあ、大声を出しているのはピンクのパジャマを着込んだヒャクメだけなのだが。

 

 開かれたトランクの中からケーブルが延び、ヒャクメの額に吸盤で接着されている。

 

 殆ど涙目で空を覆う壁に目を凝らしているヒャクメの努力の結果は、トランク内のモニターに表示された『不明』の二文字。

 

 小刻みに地面を爪先で叩く小竜姫の構えた神剣が、また咽を冷たく撫でるかと思うと、ヒャクメの瞳にも力が篭る。

 

 だが、暫く待ってヒャクメの瞳が諦めの涙で満たされ始めた頃、神剣を一振りした小竜姫が動き出した。

 

「最早待てません! 時間からして天竜姫様はまだそんなに離れてはいない筈! こうなったら強行突破で――」

 

「待たんか」

 

 背後からひょいと伸びた老師のキセルが小竜姫の顎に引っ掛けられた。

 

 くえ、と奇妙な声を出して仰け反った小竜姫の向こうから、老師の眼鏡越しの視線が妙神山の修行場入り口に向けられる。

 

 扉は内側に開かれていた。

 

 扉の向こうには、天を覆うものと同じ色の壁が内側の者達を外に出すまいと不気味に存在している。

 

 緩くカーブを描きながら天蓋と繋がるそれは、ドーム型をしていた。

 

 そして、その表に張り付いた鬼達の瞳には、光が無かった。

 

 少し手前には、その角に向かって投げ縄を投げる竜神王近衛兵達の姿があったりしたが。

 

「あの壁に近付けば只では済まんと、さっきこの馬鹿が身を持って示したばかりじゃろうが」

 

「い、嫌味ったらしい爺め」

 

 横で呟かれた台詞は無視しつつ、頭から毛を一本引き抜き息を吹きかける。

 

 巨大な猿神の姿を取ったそれは、一跳びで扉に接近し、丁度近衛兵達の少し先で煙を上げて毛に戻る。

 

 涙目で首の後ろを押さえながら立ち上がった小竜姫は、しかしそれでも抗弁しようとして、猿神の一睨みで沈黙を余儀なくされた。

 

「――他の霊的拠点やチャンネルにも通達が行っとる。今は堪えろ」

 

 そう言って、猿神はキセルを噛み潰さんばかりに力を篭めて咥え、どっかと岩に腰掛けた。

 

「おーし、左の方は上手く行ったぞー!」

 

「次は右だ右ー!」

 

「おおお…! 鼻、鼻が一寸は低くなったような気が…!」

 

「そりゃ顔面を下にして引っ張ればなぁ」

 

「オーエス! オーエス! …エッスオーエス♪ エッスオーエス♪」

 

「手拍子してる暇があるなら手伝わんかお前らぁぁぁっ!」

 

「けち臭い事言わないでくださいよたいちょー」

 

「あ、引っかかった。たいちょー、どーしますー?」

 

「気にするな!」

 

「全く訳が分かりませんが分かりました! フィーリングで!」

 

 ごいん。ごいん。ばき。

 

「よーし、ミッションコンプリートだぜ!」

 

「み、右のぉぉぉぉぉっ?!」

 

「目ぇ回してっぞ?」

 

「おお、団○3兄弟」

 

 随分と温度差があるようだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…姉さんは、ルシオラはここの――大逆天号の牢に土具羅様と一緒に入れました」

 

「ご苦労」

 

 背中越しにべスパに掛けられた声には、それを気に掛けた様子も無い。

 

 視線を眼前のモニターから離さないまま、アシュタロスは椅子に深く腰掛けた。

 

 薄暗く広い空間の中で響くのは、一段低い所に設置されたコンソールの群を操るテレサ達の運指の音と、後方から内臓を揺るがすこの兵鬼の駆動音。

 

 アシュタロスの背中を見つめたまま、何かを言い出しそれを飲み込む素振りを見せたべスパは、結局何も言い出せないまま俯き生々しい床に視線を落とす。

 

「ふむ。フェンリルが負傷し一時帰還、カオスも見失い――そして、ルシオラと土具羅を拘束、か」

 

 手元のモニターに表示された文字列を目で追いながら、アシュタロスは感情を感じさせない口調で呟いた。

 

 ふ、と目を閉じる。

 

 次に見えた瞳には、楽しげな色が踊っていた

 

「まぁ、計画通りに全てが動くとは思っていなかったがね。く、やはりこうでなくてはなぁ」

 

 パピリオは此処には居ない。

 

 大人しく捕まった土具羅と、彼の言葉で抵抗を止めたルシオラの事が気がかりで、今頃この巨大な兵鬼の何処かで落ち込んでいる事だろう。

 

 それでも、べスパには彼女を慰めに行く事が出来なかった。

 

 只でさえ突然遠く感じるようになった主が、更に離れてしまう気がして。

 

 俯いたまま動きを見せないべスパを振り向いたアシュタロスは、ふ、と息を付くと目を瞑り、躊躇うように開いた。

 

「――べスパ」

 

「はい…」

 

「お前には要らぬ気苦労を背負わせるな」

 

「…あ」

 

 くしゃり、とべスパの頭に、何時の間にか傍に立っていたアシュタロスの手が乗せられた。

 

 優しく動くその手に、僅かに揺れていたべスパの心は、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。

 

 見上げた視線の先には、先程までの冷徹さも、どこか楽しんでいるような不可解さも無く、優しく見守る瞳があった。

 

「だが、もう少しだけ、手伝って欲しい」

 

「――はい!」

 

 ――この瞳が、この暖かさがあれば、きっと疑問に答えてくれる。

 

 ――ずっと、傍に居てくれる。

 

 ――だから、(べスパ)よ、疑うな。

 

 心の中で己に言い聞かせた言葉が、彼女自身を縛る鎖。

 

 僅かに悔恨の滲む色を瞳の奥に覗かせたアシュタロスは、誤魔化すように瞳を閉じた。

 

 再び開かれたそれに宿るのは、どこまでも冷徹な、感情の無い瞳。

 

「計画にイレギュラーが生じた以上、これ以上の揺らぎは許されん。不安要素は潰すのみ、だ。やってくれるな、べスパ」

 

「何なりと」

 

「では、これを」

 

 力を篭めて握り締められたアシュタロスの掌が、ゆっくりと開かれる。

 

 先程まで何も無かったそこに、不気味な指輪が出現していた。

 

 髑髏の飾りが付いたその指輪を、アシュタロスはべスパの手を取りその上に落とす。

 

 掌に落ちたソレを握りこんだべスパの瞳には、もう躊躇いの色は無い。

 

「使い方は、分かるな?」

 

「はい」

 

「使用は一度だけで良い。対象は――」

 

 アシュタロスがパネルを軽く叩く。

 

 画像が切り替わり、青年の顔と全身図が表示された。

 

 赤いバンダナを巻き、青いジーパンとジージャンを身に付けた青年の映像の上に、「横島 忠夫」の字が映し出されていた。

 

「――コレだ」

 

「はい」

 

 もう一度アシュタロスがパネルを叩くと、下部のスリットから映像がプリントアウトされた。

 

 それを受け取ったべスパは、食い入るような目で、或いは睨み付けるようにそれを凝視した。

 

 一連の行動を取ったアシュタロスは、何の未練も見せず再び椅子に腰掛け、それだけだ、と無言で告げる。

 

「…行って、きます、アシュ様」

 

 返事は、無かった。

 

 そのまま通路を歩き、外部へと通じるハッチの前に立つ。

 

 最後に振り向いた視線の先でも、アシュタロスは全く動いていなかった。

 

 見送る事も、心配そうにする事も、付いて行こうかとしつこく声を掛けてくる事も、べスパが大丈夫だからと宥める必要も、無かった。

 

 ぐ、と感情を噛み殺し、ハッチの開閉ボタンに手を掛ける。

 

 振り向く事無く飛び出した。

 

 巨大な三本角を掠め、全速で加速する。

 

 何かを振り切るような彼女を、今は誰も止めはしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人界に繋がるゲートの前で、べスパは首だけを動かし後ろを見る。

 

 一際巨大な全長2KMほどの、膨大な存在感と威圧感を振りまくカブトムシに似た兵鬼と、それを囲むように配置された、比較対象が大きすぎる為小さく見える200M程の上に長い角、下に小さい角を備えたカブトムシに似た兵鬼群。

 

 疑問は尽きない。

 

 どうやってこれほどの戦力を、神魔両陣営に見つかる事無く作り上げたのか。

 

 あの茸にも似た機械は何なのか。

 

 あの人形は一体何なのか。

 

 あの紫とも黒ともつかない壁は何なのか。

 

 そして――これだけの力を持って望む物とは、何なのか。

 

 顔を伏せ、そっと頭に手を乗せ、それだけを噛み締めて。

 

 べスパは、ドームに覆われた東京の上空に、飛び出していった。

 


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