月に吼える   作:maisen

113 / 129
第弐話  『だけど彼らは月に哭く』

 

「き、気味悪いわね…」

 

 最低限の灯りだけで満たされた通路を、足音を立てないように抜き足差し足で進む一人の女がいる。

 

 頭部から伸びた触覚を頻繁に動かしつつ、前後に気を配りながらこそこそと進むその姿は、一言で言えば不審者だった。

 

 何処から調達したのか唐草模様のほっかむりまで被ったルシオラは、今、一人でアシュタロスの居城の地下部をスニーキングしている真っ最中である。

 

 短い間とは言え、ここで生まれ育った彼女でさえ知らないその通路は、人気の無さと静けさから反するように、埃一つ落ちていない。

 

 ゆっくりと更に下層に向かって傾いている滑らかな床を踏みしめ、ルシオラは曲がり角の壁に静かに張り付いた。

 

 本人が意識できる限りの最上限の注意を持って、触覚だけを曲がり角の向こう側にちらりと覗かせる。

 

「良し、誰もいないっと」

 

 誰に言い聞かせる訳でもなく漏れた言葉は、己の不安を消す為のものだっただろうか。

 

 薄暗闇に沈む通路に頭を出し、抜き足差し足忍び足。

 

 彼女の脳裏にはもみ上げの長い怪盗のミュージックがかかっていたとかいないとか。

 

 通路の先に全神経を集中させ、こそこそと歩くルシオラ。

 

 だが。

 

「うわきゃっ?!」

 

『あだっ!』

 

 いきなり足元から軽い衝撃と、聞き慣れた声が小さく響く。

 

 何も無かった筈の通路に、縦横1M程の四角い何かが転がっていった。

 

 恐る恐る視線を落とした彼女の足元には、土色の古代人形がうつ伏せに倒れている。

 

「…土具羅様? 何でこんな所に」

 

『…いや、そのな、あー。お、お前こそ何でここに?』

 

 二人の視線が交差する。

 

 僅かな沈黙が蟠り、探るような表情を互いに浮かべ、同時に口を開いたその瞬間。

 

『ポッポー』

 

 曲がり角の向こうから、そんな間の抜けた声が響いた。

 

 瞬時に土具羅を抱え、天井に張り付くルシオラ。

 

 そのルシオラの口を抑え、静かにしろと必死の態度で示す土具羅。

 

 今度は奇妙な沈黙が発生し、互いの間にきょとんとした雰囲気が流れ出す。

 

 ともあれ、眼下を数体の埴輪兵が通り過ぎ、通路の向こうに消えた後、暫く様子を窺っていたルシオラと土具羅は安堵の溜め息を突きながらゆっくりと降下した。

 

「もしかして…土具羅様も?」

 

『不本意ながらな』

 

 言葉少なに呟いて、不思議そうな表情を浮かべるルシオラを余所に、土具羅は埴輪兵達に踏み潰されていたそれを手に取った。

 

 あちらこちらをひっくり返して点検し、穴や傷が付いていない事を確認した土具羅は、今度はそれよりも大きな箱をルシオラに手渡しつつ、手早く己の分を再び組み立てにかかる。

 

『使っとけ』

 

「…何ですか、これ」

 

『アシュ様がお作りになられた迷彩装備だ。効果の程は今さっきワシを蹴り飛ばして知っただろーが』

 

 背中越しに聞こえたその言葉に、ルシオラは暫し逡巡する。

 

 彼女でさえ蹴飛ばすまで全く気付かなかったのだ。

 

 もしこの通路がもっと広く、足が引っかからなければ――確かに全く気付かなかっただろう。

 

 しかし。

 

 だがしかし。

 

『目的は同じのよーだしな。ほれ、さっさと行くぞ』

 

「うう…かっこわるーい」

 

『ぐだぐだ言うなっ!』

 

 手渡されたそれ――ダンボール以外の何物にも見えないそれを組み立て被り、彼女は渋々四つ足移動を開始する。

 

 ダンボール内部に設けられているモニターには、周囲の状況や目の前を行く土具羅がはっきりと見え、更には暗視装置と通信装置まで付いている手の込み様であるが、それがダンボール一枚分の中にあると思うと何となく心細い。

 

 さっきまでは生身の単独潜入だったと言うのに、装備が手に入ったら入ったで不安が変わらないのは何故だろう。

 

 ともあれ、脳内ミュージックを固形蛇に移行しつつ、ルシオラと土具羅は再びこそこそと移動を開始するのだった。

 

「…とゆーか土具羅様、よく埴輪兵に蹴り飛ばされませんでしたね?」

 

『…そー考えると実は危なかったなワシっ?!』

 

「偶々ですかっ?!」

 

 危なくなったら目の前の土偶を囮にしよう、でもこのダンボールは貰っとこうと思いつつ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともあれ、幸運はルシオラ達を見捨てなかったようである。

 

 通路は、意外にあっさり終わりを告げた。

 

 百数十メートルも進んだだろうか、手足が汚れる事は無くとも擦り傷ができたら嫌だなー、とつらつら考えていたルシオラの目の前のモニターから、いきなり土具羅の姿が消えたのだ。

 

「――え?」

 

 慌ててダンボールを持ち上げ辺りを見回す。

 

 何度か被ってモニターを覗いてみる。

 

 前方に広がるのは、何処までも続くようにさえ見える、障害物も何も無い一直線の通路。

 

 だが、居ない。

 

「土具羅様…?」

 

 慎重に辺りを窺いながら、ゆっくりと前に向かって歩き出すルシオラ。

 

 その一歩が、ある一線を越えた瞬間。

 

「……っ?!」

 

 視界に光が溢れた。

 

 明らかに人工物のその光を、掌で顔を庇って防ぐ。

 

『何で、あれが、ここに…?』

 

 明るさに慣れない視界の斜め下から、呆然とした土具羅の呟きが耳に入る。

 

 その存在に僅かな安堵を覚えたから、と言う訳でもないが、徐々に視界にぼんやりと何かが写り込み始める。

 

「…何ですか、あれは」

 

 返事は無かった。

 

 ルシオラも、返答を期待していた訳ではなかったのかもしれない。

 

 眼下に広がるのは、異様な程広い空間と、そこにさえ埋まり切らぬように所狭しと設置された機器の数々であった。

 

 そして、その端から端まで1kmはあろうかという正方形の中央には、巨大な物体がそびえ立っていた。

 

 ルシオラは、始めそれが天井を支える柱かと思ったのだ。

 

 だが、視線を上に向けるに従い、それが間違いだったと知らされる。

 

 真っ直ぐに上に向かって伸びていたのは柱ではなく、細い何かの集合体であり、それは天井に付くよりも早く花咲くように広がっていた。

 

 半球型に広がった末端からは、微かな重い音が響いている。

 

 何かの為に作られた物でありながら、何の為に存在しているのか分からない。

 

 そんな思考が僅かに掠め、それを知っているであろう土具羅に尋ね様と視線を落とす。

 

 だが、土具羅は既に移動を開始していた。

 

 姿を探して辺りを見回せば、左にあった階段を慌てた様子で駆け下りていく直属の上司の背中がある。

 

『あれは、あれはもう必要無い筈の、とうの昔に廃棄した筈の計画ではなかったのですか…!』

 

 全速力で駆け下りていく土具羅の呟きに首を傾げつつ、ルシオラも地面を蹴って宙を飛ぶ。

 

 その視界を掠める、鈍い輝きがある。

 

 ふと、何かに釣られるように視線が飛んだ。

 

「…?」

 

 先程までは視界の殆どを埋めていた存在があった為に気付かなかったが、それもまた巨大な物である。

 

 何せ、そのむやみやたらに広く高い場所にあってさえ、一際異様を放つほどの大きさである。

 

 天井までの正確な高さは不明だが、スレスレにまで伸びたそのカプセルの中には、今は鈍く光る何かの液体と、時折湧き上がる泡以外には何も入っていなかった。

 

 だが、それを目にした瞬間に、ルシオラの背中に悪寒が走る。

 

 其処には、何かが居たのだ、と。

 

「ど、土具羅様ーっ! 置いて行かないでーっ!!」

 

 背中に張り付いた嫌な感触を振り払うかのように、慌てて眼下の上司に向かって加速した。

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 第弐話『だけど彼らは月に哭く』

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は僅かに巻き戻る。

 

 山の向こうから昇り始めた僅かに欠けた月を眺めながら、尻尾を生やした和服を着た細身の青年は溜め息を吐く。

 

 その動きに釣られるように、背中に背負った幾つものビンがぶつかり合って抗議のような音を立てた。

 

 肩に食い込む紐の痛みに顔を顰めつつ、青年は再び移動開始。

 

「全く、酷いよなー。だーれも手伝ってくれないんだもんなー」

 

 ぶつぶつと愚痴を零しつつ、獣道を慣れた風に駆け上がっていく。

 

 ジャンケンで負けた己が悪いのだが、何故か貧乏くじを引く割合が高いのは何故だろう、とつらつら考え足を運ぶ。

 

「あ、でも菊さんは流石だよなー。匂いだけでも良い酒ってわかるからー」

 

 背中から漂う芳しいそれに顔を緩めつつ、彼は麓の売店に勤めるお婆さんに感謝する。

 

 何せ、時折誰も居ない筈の山から降りて来る、古風な服を着た人狼の里の者達と肉や魚、手暇にあかせて作った工芸品もどきを色々物々交換してくれる奇特なお方である。

 

 そこまで出かけるのは里に住まう人狼の中でも、犬塚犬飼の問題”児”コンビと、彼を含めた何時もの四人組ぐらいではあるが。

 

 長老も始めはあまり良い顔をしなかったが、生活雑貨は里の女性陣には大変好評であったし、何より交換するお酒が極上ものの地酒ばかりであったので、数回も繰り返す内に黙認してくれるようになっていた。

 

 明日は満月、宴の夜。毎回大いに歌って騒ぐ彼らに、背中に背負った酒は今回も大好評間違いなしである。

 

「楽しみ楽しみ、っとー」

 

 それにここ最近は美衣が出してくれるおつまみも秋の装いと共に豪華になり、例によって例の如く次の日足腰立たなくなるまで飲むものが続出するであろう事も疑いない。

 

 よくつるんでいる3人組のうちの一人ではないが、思わず零れた涎を慌てて擦り取りながら、彼は慎重に速度を落とした。

 

 目の前には目印代わりの巨木が横たわっており、その姿が漸く帰ってきたと一心地つかせてくれる。

 

 前回の味を記憶の中で反芻する内にもうかなりの高さまで昇っていた月を眺めつつ、彼は懐から通行手形を引っ張り出した。

 

「さて――」

 

 里を守る結界を通り抜ける鍵を掴む手が、動きを止めた。

 

 物音一つしない。

 

 日頃なら出迎えるようにさざめく葉が擦り合う音も、深まる秋を楽しむような虫たちの声も、何かに強制されたように沈黙していた。

 

 本能が、最大限の危険を知らせていた。

 

 一挙動で瓶を放り投げ、霊波刀を展開する。 

 

 一瞬で汗に塗れた顔で、周囲を超感覚で警戒する。

 

 1秒、2秒、3秒。

 

 何も起こらないのに、本能の叫びだけが収まらない。

 

 変化は、5秒目で起こった。

 

 がさり、と眼前の茂みが揺れ、小さな獣を吐き出した。

 

 思わずそちらに向けた霊波刀を、安堵の溜め息とともにゆっくり持ち上げる。

 

 現れたのは、子犬ほどの大きさの「獣」であった。

 

「は、はは。気のせいか――」

 

 引き攣った笑い声は、震える霊波刀の剣先を静める役にすら立たない。

 

 それでも必死で悪寒の原因を探ろうとして、漸く思考が違和感に追いついた。

 

 ――馬鹿な。人狼である自分が、超感覚を最大限に発揮しているこの状況で、子犬が、ここまで、接近している――!

 

 瞬時に飛び退いた視線の先には、まるで此方を意に介さず、そこにある何かを見ているそれが、居た。

 

 別に意図は無かったのだろう。

 

 ほんの少しだけ、まるで転がった石を眺めるような無関心さで、一瞬だけ視線が彼に向けられた。

 

「――っ?!」

 

 違う。

 

 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!

 

 あれは。

 

 あれは、小さな「獣」などではない。

 

 一度目にした。

 

 あれを知っている。

 

 あれと似たものを見た筈だ。

 

 あれは――狼だ。

 

 あれは――。

 

「…!!」

 

 思考はそこまで、後は体が勝手に動いた。

 

 霊波刀もそのままに、空いた手で持っていた通行手形を、後方に押し付けるように突き出す。

 

 空間が、結界が向かえるように門を開け、迷わずそこに飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼が必死で里を駆け抜け、気付いた時には長老の家の前だった。

 

 腰に刀を下げた人狼達が、駆け込んできた青年を取り囲む。

 

「ちょ、長老は、ごほっ?! ちょ、長老は居られますかっ?!」

 

「ここじゃ! 何があったっ?!」

 

 各々何かしら感じる物が在ったのだろう。

 

 戦える者達、里の戦力全てが長老の家の前に集まっていた。

 

 それぞれの瞳には警戒と戦意、そして確かな恐れが見て取れる。

 

 咳き込む青年に向かって美衣が水の入ったコップを差し出すが、その時も惜しいとばかりに、青年は痛む肺に必死で酸素を送り、搾り出すようにそれを告げる。

 

「ごほっ! あ、あれが、あれが、またっ!」

 

「落ち着け! 何が、何が出たというのじゃ!!」

 

 長老の一喝に、パニックに陥りかけていた青年の瞳が焦点を取り戻した。

 

 震える指先で、駆けてきた方向を指差す。

 

 皆の視線がそちらを向く中、長老と、犬塚父と、犬飼ポチだけが、青年の言葉にのみ集中していた。

 

 

 

「――フェンリル狼ですっ!!」

 

 

 

 応えるように、夜の闇に包まれ始めた森に、巨大で虚ろな咆哮が響き渡る。

 

『――ォォォォオオオオオオオオオオオオン!!』

 

 咆哮に視線を向けた人狼達の前で、その影は一気に膨れ上がった。

 

 一瞬で木々の間から耳が覗き。

 

 次の瞬間には鈍く輝く瞳が見え。

 

 息を呑んだ時には、木々の頂上部分から、その胸が現れていた。

 

 その魔狼は、ただそこに佇んでいる。

 

 ひたすらに、巨大であった。

 

 かって、彼らが戦ったフェンリルは、今、彼らの傍でグーラーと自分より小柄な狼に押さえられている元陰念のフェンリル狼である。

 

 彼でさえ、あのそびえ立つ巨体に比べれば、半分ほどの大きさでしかない。

 

 誰かの咽が、ごくり、となった。

 

 それを引き金にしたように、人狼達の間に恐慌寸前の声が響く。

 

「長老、長老っ?! あれが、何で?!」

 

「退け、退くのじゃ!!」

 

「女子供を最優先に! 闘える男は刀をとるでござるっ!!」

 

 誰の声かも分からぬような、突如訪れた混沌の中、必死で叫ぶ長老の声と、刀を抜いて構える犬塚、犬飼の声が続く。

 

 結界に阻まれて見えない外側から、まるで全てを見通すかのように、巨大な魔狼は静かな瞳で其処に在る。

 

「落ち着くのじゃ! 里の結界も竜神族の結界で強化されておる! 時間稼ぎくらいにはなる!」

 

 グーラーと美衣が視線を逸らせぬままに長老の言葉通りの行動を取り始め、未だに唸りつづける陰念を引き摺りながら後退し始める。

 

 長老宅の前に集まっていた者たちが、各々刀を引き抜き構える。

 

 それら全てを嘲笑うように、僅かに口の端から牙を見せたフェンリルは、ゆっくりとその顎を開いた。

 

「まさかっ?!」

 

 犬塚父の声が響くと同時であった。

 

 限界まで開かれた顎が、勢い良く、結界に齧り付いた。

 

 均衡すらなく、抵抗すら見えず、時間稼ぎなど儚い夢であると宣言するように、里を護り続けた結界は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――月の光ごと、『喰われた』。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「し、まった! そー言えばこんな能力持ってた!」

 

「そ、そー言う事はさっさと思い出すござるよっ!」

 

「犬飼だって忘れてたじゃねーかっ!」

 

「言われれば思い出してたでござるっ!」

 

「ええいこの馬鹿どもは喧嘩してる場合じゃ無かろうがっ!!」

 

 地面に膝をつく者、倒れ伏してうめいている者――里の戦力は、一瞬にしてほぼ完全に奪われていた。

 

 突き刺した刀に縋って何とか倒れこむのを防いでいる二人に、長老の声が叩きつけられる。

 

 だが、正直な所、長老にはこんな状況で打てる手は無かった。

 

 敵は人狼の力の源、月光を喰らう魔狼なのだ。

 

 だがしかし、あの時とは違う事がある。

 

 違う者が、居なかった者が、居た。

 

「み、い…殿! グーラー殿! 月光石をっ!」

 

「は、はいっ!!」

 

「分かったよ!」

 

 長老の声に反応して、硬直していた美衣が長老の家の中に駆け込んでいった。

 

 あの時、ヨーロッパの魔王が届けた月光を固めた霊石がある。

 

 美衣とグーラーが居なければ、タマモも忠夫も居ない現状では、それを知っていたとしても取りに行くまでに時間を取られただろう。

 

 だが、今は幸いにも彼女達が居る。

 

 結界を喰らい、月光を喰らった魔狼は、未だ動きを見せずに静かなまま。

 

 何を考えているのかは分からないが、動かぬ今だからこそ、まだ挽回できる機会がある。

 

「長老さん!」

 

「ほら、あんた達も!」

 

 もしもの時の備えとして――流石にこんな状況は予想外もいいところであるが――倉に仕舞わず長老宅に置いておいたのが功を奏し、美衣達が持ってきた月光石を渡していく。

 

 その数、9個。

 

 フェンリルであった陰念との戦いに参加した者達が持っていたそれだけが、里にある全て。 

 

 首に掛け、立ち上がった長老の周りでは、かつて戦った者達が優先的に渡され、そして長老に追随するように立ち上がっていた。

 

「グルルルル…」

 

「キューン…」

 

 その長老の横に、元がフェンリルであったが故に、特に顕著な反応を見せる2匹の狼が並び立つ。

 

 陰念は激しい敵意を。

 

 彼より小さな雌狼は、はっきりと見て取れる脅えを。

 

 二匹の頭を押さえるように手を置いた長老は、視線をフェンリルから外さぬままで、後方の人狼達に、はっきりと告げる。

 

「退け」

 

「…は?」

 

 何時でも駆け出せるように構えていた人狼達は、その言葉に虚を突かれた。

 

 行け、でも、行くぞ、でもなく。

 

 告げられた言葉は、逃げる事を命じる物だったから。

 

「ちょ、長老! しかしっ!」

 

「――黙れ小僧ども! 忘れたか! この里には、女子供も居るという事を!!」

 

 大喝。

 

 前回のフェンリル戦でも、舞台となった森には大きな被害が出ている。

 

 それがもし、この里で再現されれば。

 

 その上、あの巨体である。

 

 動くだけで何かを破壊し、攻撃ともなれば戦闘力の有る無しに関らず薙ぎ払える。

 

 故に、長老は。

 

「聞け!」

 

 里の頂点に立つ長は。

 

「動ける者は動けぬ者を連れ、この里から離れよ!」

 

 人狼達を率いる者は。

 

「――今宵、この時、里を捨てて皆を取る!!」

 

 決断する。

 

 ざわめきは一瞬、迷いも、惑いもまた一瞬。

 

 言葉は里全てに行き渡る。

 

 迷いも惑いも、消えずにある。

 

 だが、それを抱えたままで押し込める。

 

 他の何者が発した言葉であっても否定しただろう。

 

 必ず反論しただろう。

 

 だが。

 

 長老なのだ。

 

 長であり、この里で最も強き戦人であり、最も長くこの里で生きた者なのだ。

 

「犬塚! 裏の大八車持って来るでござる!」

 

「応! ほら陰念お前が引くんだっ!」

 

「ギャウッ?!」

 

「つべこべぬかさず!」

 

「とっとと来いっ!!」

 

 ずりずりと引っ張られていった陰念はともかく、人狼の膂力を発揮した動ける者達が未だ身動きをとる事さえままならぬ者達を連れて行ったのを気配で察しつつ、長老は沈黙を守るフェンリルを睨み付ける。

 

「長老…!」

 

「グーラー殿か。早く逃げなされ」

 

 息子と一緒に避難した女性と子供達のところに飛んでいった美衣を追いかけようとしたグーラーが、フェンリルの前に立ったままの長老に声を飛ばす。

 

 だが、帰ってきたのは、まるで根を張り巡らさせた古木のような背中と声だった。

 

「…死ぬんじゃないよ!」

 

「ふぉふぉ、無論。美衣殿の作る朝飯が楽しみじゃしのぉ」

 

 殿を務めるのは、その群れの中で最も強い者。

 

 悲壮感の欠片も無く、その小柄な背中は、ただそこに立っていた。

 

 任せろ、と。

 

 信じろ、と。

 

 語らずとも、その背中は何よりも雄弁であった。

 

 だからこそ、人狼達は迷いを押し込められた。

 

 だからこそ、動けるたった8人の狼達と猫又と鬼では足りないかもしれない皆を運ぶ為、全員が迷わず走り出せた。

 

 聞こえなくなった足音を、苦笑いで送りながら、長老はゆらりと刀を抜く。

 

「さて、待たせたの」

 

 フェンリルの巨躯から立ち昇る雰囲気が徐々に変化しつつあった。

 

 言うなれば、それまでの静観は観察。

 

 獲物の動きを見て、どのように狩れば最も効率良く事を運べるのかと図る狩猟者のそれ。

 

 そして、いま纏う雰囲気は、襲い掛かる為に力を蓄える獣のそれ。

 

「やれやれ。長も楽ではない」

 

 携えるのは刀が一本。

 

 支えるのは己が矜持と磨きぬいた技術と信念。

 

 そして、通さぬという鋼の意志。

 

『――成る程。脆弱な蟻の群かと思ったが、それでも狼は狼か』

 

 遠く離れた筈のフェンリルから響く、魔狼と呼ばれる個体とは思えないほどに落ち着いたその声に、長老は口元を歪めて応える。

 

「カッカッカッ。獣には分からぬよ」

 

『獣と嘲笑うか? それにも成れぬ弱さを嘆く前に』

 

「成れぬ? 戯けが。大戯けが。獣を過ぎて畜生にでも堕ちたか終わりの魔獣」

 

『戯け? それを戯言と言うのだ。勝てぬ戦いを挑む愚か者』

 

 分かっている。

 

 分かっているとも。

 

 時間稼ぎに命を掛けても足りぬくらいの相手である事くらいは。

 

 だが。

 

「尻尾を巻いて逃げた獲物を狩るしか能の無いケダモノの、鼻っ柱を折るには十分じゃ」

 

『ふ、ん。覚悟は出来ているとでも言いたいのか? 弱者』

 

「覚悟なぞ――」

 

 そう、覚悟なんてものは、里を任された時から、根付いている。

 

 育つ子らを、増える笑顔を、里に満ちる幸せを知った時から、根付いた種は咲いている。

 

「――とうの昔に、ここに有る」

 

 どん、と胸を叩き、刃を構える。

 

 じっとりと掌を濡らす汗が、どれほど絶望的な状況にあるかを教えてくれる。

 

 だけれども。

 

 住み慣れた場所が壊れると知りながらも、元気と威勢だけは良く、相も変わらず大騒ぎしながら離れていく声が背中を押す。

 

 馬鹿息子どもめが、と苦笑を零し、頑張れよ、と祈りを唱え。

 

 己の牙に、力を篭めた。

 

「人狼の里、長老――この壁、あたら容易く抜けると思うなよ…!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――決着が付いたのは、それから数時間も経った頃だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とす、と軽い音を立てて、長老は焼け焦げ、倒れた古木に背を預けた。

 

 見渡せば、里の建物はその事如くが焼け崩れるか踏み潰されるか、若しくは原型も無いほど砕かれるかして無残な様相を呈していた。

 

 胸元に下げた月光石の光は薄れ、宿していた満月の輝きも濁りを見せている。

 

 中天にあった月は、今は西の方角に沈みかけ、その下弦を山の端に引っ掛けるのみ。

 

「…ふ、ぅ」

 

 搾り出すような溜め息と共に、砕けた刀の柄を放り投げる。

 

 ふと、鼻を擽る香りが漂ってきた。

 

 手探りで匂いの下を探れば、指先に硬質で冷たい何かが微かに触れる。

 

 古木の傍らから、半ば土に埋もれたようにしてあったそれを引きずり出せば、中で液体がちゃぷんと揺れた。

 

「…粋な計らいじゃ」

 

 何とか動く右手で口元まで瓶を運び、蓋を歯で抉じ開ける。

 

 下品ではあるが、左手がもう動かないのだからしょうがない。

 

 見咎めるような奴らも居らん事だし、と、この期に及んでそんな事を思い浮かべる己に笑いが込み上げた。

 

 心地良いそれごと飲み干すように、口元にあててラッパ飲み。

 

「ふぉ、ふぉ。効くのぉ」

 

 蒼を通り越して白く見える、それより白い髭の向こうの表情には苦味が無い。

 

 傍らにごろりと投げ出されている、巨大な狼の左前足を眺めつつもう一飲み。

 

 八房持ったフェンリル(いんねん)を超えた、ほぼ一瞬で繰り出されるの爪の九連撃と、何よりも強い身体と魔力を持った牙を持つ巨狼は、間違いなく長老の人生で最も強い相手だった。

 

 戦果はフェンリルの前足一本と里からの撃退。

 

 代償は長いこと付き合ってきた刀と――。

 

「やれやれ、老骨にはちぃと厳しかったわ」

 

 刀と。

 

「厳しかった、のぉ」

 

 

 

 ――前足と引き換えに脇腹の殆どを持っていった、フェンリル最後の一撃。

 

 

 

 流れ出る血は既に殆ど無い。

 

 送り出す心臓が役目を終えかけているからでもあり、流れ出る物が尽き掛けているからでも、ある。

 

「しかし、実に無念じゃ」

 

 言葉とは裏腹に、表情には屈託が無い。

 

「美衣殿の朝餉、食えんかったわ」

 

 ふと、自分の言葉に驚いたように、酒瓶を置いて動く右手で膝を打つ。

 

「――かーっかっかっか! そうかそうか! 成る程確かにその通り!!」

 

 快活な笑い声が、静かな山中に木霊する。

 

 我が子らにも聞こえただろうか、もう大丈夫だと伝えるこの声が。

 

 どうだ見たかと、護り抜いたぞと己を誇る、人生最良の笑い声が。

 

「他に無念な事が無いわ! 実に、実に実に愉快爽快、非常に結構!!」

 

 聞こえているか、この声が。

 

「…感謝するぞ、我が子らよ。何、1つくらい無念があるほうがええわい。ワシもまだまだ現役じゃったと言うことよ」

 

 だから、哭くな、我が子らよ。

 

「良い月じゃのぉ。沈みかけているのが少々残念ではあるが」

 

 こんなに良い気分なのだから。

 

「ああ…そう、笑顔が良い。何よりも、良い」

 

 夢幻であったとしても。

 

「良い、のぉ…」

 

 いついつまでも。笑って騒いでいておくれ。

 

 

 

 

 

 

――そしてゆっくり、笑いながら目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 深い深い森の中。

 

 人も寄らぬ山の中。

 

 老いた狼の声を聞き、息を荒らして戻った老いた人狼の愛しい子らは。

 

 大きな声で、泣きました。

 

 月まで届けと、鳴きました。

 

 沈みかけたお月様に、大きな声で、哭きました。

 

『…ゥルォオオオオオオオオォォォォォォン―――――――――』

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。