月に吼える   作:maisen

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第陸拾話。

 頬を撫でる潮風。

 

 瞼の向こうから差し込む朝日。

 

 そして、口と鼻の中に流れ込む塩水の奔流。

 

「ぐえっほがっほ辛っ! 塩辛っ! 辛痛いっ!!」

 

 目覚めは最悪でした。

 

「ルシッ、ルシオラッ! 起きろってばごばふっ!!」

 

「・・・ふへ?」

 

 必死で顔を上げて襟首を掴んだまま飛行中の少女に叫び倒す。

 

 しかし、その声に反応して殆ど閉じていた目が開かれたと思ったら、再び海の中にダイブしていた忠夫である。

 

 ばしゃばしゃと海面を叩く動きにも、後方に吹き上がる物体が海面を割って出来た二つの波も、吹き荒れる風の音にもめげずに片手を離して瞼をこすったルシオラは、そのまま片手を天に突き上げ思いっきり伸びをする。

 

 前から轟々と吹き付ける加速による風と、燦々と照り付ける太陽の光に眠気をすっかり持っていかれた少女が、ふと水平線しか見えない360度を見回した。

 

「・・・ここ、何処だっけ」

 

 動き始めた脳をフル回転させ、居眠り飛行に移る前の微かな記憶を掘り起こす。

 

 思い出したのは、忠夫と呼ばれる青年の襟首を掴んで豪華客船から飛び去ったワンシーン。

 

 どうせ暫くは戻れないんだから、と言う台詞で、さっさと戻ろうとした忠夫を引き止め、様子見がてら夜間飛行とでも洒落込もうと誘ったのは、彼女のちょっとした悪戯心だったろうか。

 

 それとも、ちょっとした気の迷いでもあったのだろうか。

 

 その辺りはまだまだ彼女の経験不足もあるせいか、彼女自身さえはっきりとは分からない。

 

 ま、それはさて置き遠くからでも見える巨船の灯りを目印に、昨夜はゆっくりとそれを後方から追いかけながら満天の星を楽しんでいた筈である。

 

 その内ちょっと忠夫が寒いだのなんだのと騒ぎ出したので麻酔を掛けて昏倒させ、快い波のリズムを聞きながらゆったり飛んでいる内に。

 

「あー、寝ちゃったのか」

 

 しかし、それにしては嫌に速度が出すぎでいる。

 

 寝呆けて加速でもしたのだろうか。

 

 ちょっと困ったような、誤魔化すような笑顔で誰に言うでもなく呟きながら、額を人差し指でぽりぽりと。

 

 其処に至って、もう一人の同行者に思い当たった。

 

「・・・あれ? タダオは?」

 

 ふと、下を見下ろすと、海面から出た手がゆっくりと力を失って垂れ下がっていく所であった。

 

 片手を離した所為で更に忠夫の位置が下がり、より深い所で、しかもルシオラの速度の為目の前から叩きつけられる海水に抗しきれずに浮き上がる事さえ出来ず、完全に水没したようだ。

 

 慌てて高度を上げ、速度を落としてぽたぽたと塩水を落とす、なんだか土気色の肌をした半人狼に声を掛ける。

 

「・・・生きてる?」

 

 返事が無い。屍かもしれない。

 

「す、捨てていっても誰も怒らないわよね・・・」

 

「死体遺棄はれっきとした犯罪じゃアホーッ!」

 

 ぐぁばっ! と海水を撒き散らしながら顔を起こした忠夫は、力一杯突っ込んだ。

 

「殺す気かお前はーっ! 服は脱げんし海水は台風みたいにぶつかって来るし勢い強すぎるから口にも鼻にも遠慮無く入ってくるし! ほんまに死ぬかと思ったんやぞーっ!!」

 

 涙目で抗議して来る忠夫に対し、額にでっかい汗をかいたルシオラは、いきなり真剣な目になってこうのべた。

 

「・・・貴方なら生きて帰ってくるって信じてたわ!」

 

「俺は何処の戦場に行ったんじゃゴラァァァァァっ!」

 

「じゃあちょっと過激な洗面って事で。男でも身だしなみは大事よ?」

 

 一転、輝くような笑顔のルシオラがそう返し、額に血管を浮かべた忠夫はその言葉に無言で目の笑っていない笑みを浮かべた。

 

 そのまま襟首を掴むルシオラの細い腕を引っ掴み、一本背負いのように身体を前に倒して縺れるように海面へ。

 

「え?」

 

「んじゃお前も洗ってこいやーっ!」

 

「わきゃ――」

 

 2人以外誰もいない大海原に、大きな水柱が一つ、虹で飾られながら、高く高く真っ直ぐに立ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心臓が打つ鼓動の音が、耳元で五月蝿い位に木霊している。

 

 耳の直ぐ横に心臓があるようだ、と思いながら、少女はその小瓶をそっと手に取った。

 

 己の記憶に無い今まででも、おそらく同じような出来事が起こっていたのだろう。

 

 それは、今までに無い自分であった。

 

 それに気付いたのは、それ以前まで必ず付き纏ってきた忌まわしいあの感触が無くなった時だったのだろうか、それとも忘れていたような気になっていただけで本当はずっと自分も気付いていたのではないだろうか。

 

 己に問い掛ける術は無く、また、問い掛けることのできる他人にも聞く訳には行かない事だった。

 

 小さな小瓶は、表面に施された飾り彫りの向こうの液体を蟲惑的な色で見せ付けている。

 

――これは、自分にとって、どう言う物なのだろうか。

 

 最後の手段、なのかもしれない。

 

 いや、切欠に過ぎないのかもしれない。

 

 ただ一つだけ分かるのは、これがもたらすのは恵みだけでは決して無いと言う事。

 

 そして、その諸刃の剣は、使い方を誤れば己のみならず周囲の者達を巻き込むであろう事。

 

 だが、そう、だが――「彼女」にとって、それはほんの少しだけ、魅力的な魔法の薬だったのだ。

 

 ゆっくり一つ頷くと、彼女はその小瓶をそっとスカートのポケットに落とし込む。

 

 含まれた物はほんの少しだが、その僅かな量が良い。

 

 多すぎては駄目なのだ。

 

 そう、この小さな小ビンの中でさえ僅かな割合しかないそれにこそ、彼女は期待しているのだから。

 

「・・・おキヌちゃん?」

 

「ひゃいっ?!」

 

 迂闊!

 

 なんと言う失態だろうか!

 

 よりにもよって、最もこの小瓶の危険性を理解しているであろう彼女の接近に気付かなかったとは!!

 

 訝しげにこちらを見やる女性の視線は、思わず押さえたポケットに注がれている。

 

 その事に焦りと苛立ちを覚え、驚いてあげてしまった声を平静に戻して凛とした表情を作りながら振り向いた。

 

「何でふか美神さん」

 

「・・・・・・・・・」

 

 訝しげな視線が、半眼に変わった。

 

 額に感じる冷や汗の量が一気に増えた事を自覚しつつ、船の売店で貰ったそれの入ったポケットを隠すように僅かに身を斜めにするおキヌ。

 

 暫しの沈黙が過ぎ、やがて美神は呆れたような視線を向けつつ、それでも僅かに疑問と好奇心を表情に見せながら身を返した。

 

「そろそろ王様達の方も落ち着いたみたいだし、事情の説明に行くから・・・早く来なさい」

 

「は、はいっ!」

 

 そう言い残して頭を掻き掻き去って行った美神の背中を見送りつつ、おキヌはゆっくりと息を吐いた。

 

 美神の背中が角を曲がって見えなくなった事を確認して、ゆっくりとポケットからそれを取り出す。

 

 表面に貼られたラベルには、しっかりとその文字が躍っていた。

 

『試供品:アルコール含有率2%――未成年者はちょっとだけよ? byるっしー』

 

 何が。

 

「・・・頑張ります!!」

 

 何を。

 

 やたら気合の入ったガッツポーズを決めつつ、彼女は知らねど幸運の精霊の祝福でちょっとだけ毒物に対して――この場合アルコールに対して――耐性の上がった彼女は、それをそっとポケットに戻した。

 

 アルコールを摂取した後に襲われていた二日酔いの症状が無い事を見落とした美神が悪いのか、それとも初めてそのときの記憶がしっかり残っていて、利用しようとしている恋する乙女が怖いのか。

 

 ともあれ、幸運の精霊は本当に幸運の精霊だったのか、と言う疑問だけは尽きないようである。

 

 はっきり言ってトラブル増やしただけのような気もするが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「成る程、つまり彼は美神さん達の事務所の・・・?」

 

「ええ。所員ですわ」

 

「つまり、一連の行動は全て計算の上で、と言うことでしょうかな?」

 

「・・・ま、まあそうですわね」

 

「イ、イッコクの王女をスマキにしておいてそれで通じるとでも――」

 

 会話に割り込んできた王女を鋭い視線で横目に睨んで制止しながら、ザンス王は組んだ腕の上で細く開かれていた目を閉じ、ゆっくりと息をついた。

 

 王女はまだまだ何か言いたそうではあるものの、流石に今回の事件で大騒ぎを起こした上にしっかりきっちり説教を喰らったばっかりなので、少々の自制が働いているようである。

 

 ふむ、と軽く頷いたザンス王は、ソファーに腰掛けた美神の引き攣った営業スマイルに一度視線をやった後、その背後で直立不動で立っていた唐巣神父に目を向ける。

 

 神父と視線をあわせ、小さく頷きあった王はゆっくりと立ち上がり、背後に控えていた秘書に向けて指を鳴らした。

 

 音も立てずに近づいてきた秘書が差し出した書類に目を通しつつ、目は文を確認しながらいまだぎこちない笑みを浮かべる美神に声をかける。

 

「実はですな。王女の付けていた精霊獣の指輪を、貴方の所の所員が所持していましてですな」

 

「はぁっ?!」

 

「あれは『重要な』国家機密。分かりますかな?」

 

「・・・は、はぁ」

 

 重要な、の所を強調して語る王の言葉に、苦虫を噛み潰した表情になった美神が絞り出すような声で答えた。

 

 心の中では所員を強かに殴ってやろうと決意しつつ、王の言葉を待つ。

 

 やがて、書類から目を上げた王が、鋭い視線で美神を見やった。

 

「貸し出す、と言う形式にします。担保は報酬の一部。・・・無用な事態はお互い避けたい物ですな?」

 

「・・・承りましたわ」

 

 書類を差し出してきた温情の籠った王の苦笑いに、安堵の息を吐きながら軽く頭を下げつつ美神はペンを走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あんの馬鹿犬! 帰ってきたら絶対に躾なおしてやるんだから!!」

 

「美神さん美神さん! 落ち着いて下さいってばーっ!」

 

 無言のまま、周囲を威圧するオーラを放ちながら船室に戻った美神は、3人は簡単に寝れそうなベッドの上に置いてあったこれまた大きな枕を引き千切りつつ吼え猛る。

 

 おキヌの制止に荒い息をつきつつベッドに腰掛け、恐々とその様子を眺めていた神父とピートを睨みつけた。

 

「み、美神くん? それで、横島君は何処にいるのかね?」

 

「それが分かれば苦労しないでしょうがぁぁぁぁぁっ!!」

 

「美神さーんっ!」

 

 迂闊にも一言目から逆鱗に触れた神父の胸倉を掴み上げつつ、血走った目で睨み上げる。

 

 背後からおキヌがしがみ付き、ピートが視界の隅で師匠を見捨てて霧になって逃げようとした所に安物の破魔札を投げつけ、すったもんだの末漸く落ち着いた船室の中は見るも無残な状態になっていた。

 

 ちょっと焦げたまま部屋の隅で目を回している現在の弟子に心配そうな視線を向けつつも、唐巣は乱れた襟を直しつつ、おキヌの差し出した紅茶を啜っている昔の弟子の前に座る。

 

 紅茶を出してくれたおキヌに礼を言いつつ、不機嫌な顔でぶちぶちと文句を言いつづけている美神に目を向けた。

 

 視線に話を促された美神は、カップの中の紅茶を一息に飲み込み、テーブルの上に転がっていた受信機を神父に渡す。

 

「発信機の反応は無し。昨晩まではこの船から5km後方にあったけど、朝起きたらなくなってたわ」

 

「故障の可能性は?」

 

「厄珍堂の、しかもクソ高い奴よ? あのエセ中国人はぼったくりはするけど、値段相応の物を卸してる」

 

 まぁ、GS何て言うものを商売相手にする以上、不良品を渡して現場で動きませんでした、では話しにならない。

 

 信頼問題どうこうではなく、本当に命に関る問題だからだ。

 

 最も、そうなれば厄珍も商売相手が減る訳であって、むしろそっちの方が痛手と感じている節は在るが。

 

 その言葉に厄珍との付き合いの無い、清貧凄腕GSは不安げな表情を見せる。

 

 いざ除霊の段になっても聖書の一冊と己の磨き上げた霊力、そして世界に満ちる精霊の力と長年の経験から蓄積された戦い方で乗り切る神父は、厄珍のあんまり碌でもない噂しか聞こえてこない為、しょうがないといえばしょうがないのかもしれないが。

 

「つまり・・・?」

 

 結論を問い掛けてきた神父に、殺気の篭りまくったオーラを吹き上げつつ、美神は握っていたカップに罅を入れた。

 

「女と2人でどっか行ったわね、あの馬鹿・・・!!」

 

 コップが、割れるというよりも砕け散ってみたり。

 

「つまり美神さんは心配だったり不安だったり、あとちょっと焼き餅があったりとかしてる訳なんですよー」

 

「は、はぁ。大変ですね」

 

「横島さんも横島さんです! 酷いと思いませんか?! そ、その、私なら何時でも良いのに・・・」

 

「あの、美神さんが物スッゴイ目で睨んでくるんですけど・・・」

 

「ルシオラさんずるいなー。私も2人っきりとかちょっと羨ましいし・・・で、でも、ちょっとまだ早いかも・・・」

 

 コメカミに梅干をたっぷり5分喰らって、おキヌが悶えるまであと10秒。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その頃話題の人物達は。

 

「うわーっ! うわーっ!」

 

「鮫っ?! シャチっ!! あとおっきなウツボーっ?!」

 

 海の仲間達と戯れていました。

 

 ちょっと小腹が空いた、と一頻りルシオラと騒いだ後に忠夫が行ったのが悪かったのかもしれない。

 

 海に落とされたルシオラが、忠夫に魔力砲の2、3発も直撃させたりと大きな音を立てたのが悪かったのかもしれない。

 

 いやいや、その時たまたま海面下に見えた影に、ガチンコ漁方と言ってルシオラが更に一発打ち込んだのが不味かったのかもしれない。

 

 更に言えば、それが大きな音を聞いて様子を見に来た半漁人だったのが悪かったのかもしれない。

 

 まぁ、ともあれその半漁人の奥さんらしい人魚が、旦那の敵とばかりに良い匂いを立てて焦げながら気絶した半漁人を抱えつつ、周囲にいた海の仲間達を引き連れて反撃してきたのだけは事実である。

 

「タダオっ! 来てる来てる!」

 

「ぬああああっ?! くっ! しっかり掴まってろよっ!! 人狼バタフライ、全っ開!!」

 

 背中にしがみ付いたルシオラの声に、忠夫は腕と足の回転を更に速めた。

 

 宇宙空間で身に付けた泳法は、忠夫の体力と膂力によってその効果をロスは大きいながらも確かに発揮し、後方に跳ね上げる海水の量を一気に増やす。

 

 爆発したような海面を背に、泳ぐと言うよりも海面を跳ねる飛魚のような加速で持って忠夫は一気に引き離しに掛かった。

 

「アーンド! 人狼水かきーっ!」

 

 更に、足の裏に霊波ハリセンを展開。

 

 それまでのバタ足から、両足を揃えてくねるように動かす。

 

 跳ね上がっていた海水が減り、使っていた力の分加速にダイレクトに使われた忠夫の足が生み出す前進力は、もはや魚雷の如く忠夫とルシオラを一気に打ち出した。

 

「ふははははーっ! 応用力の勝利じゃーっ!」

 

「・・・忠夫って、時たま凄く馬鹿で凄いけど馬鹿ね」

 

「褒めるか貶すかどっちやねんっ!!」

 

 それでも背中に感じる加速でより強くしがみ付いてきたルシオラの暖かさと、ささやかな柔らかさに更にヒートアップした忠夫はひたすらに、それこそ襲撃者達の姿が水平線の向こう側に消えても更に速度を維持したまま泳ぎ続け、体力が完全に空になるまで進みつづけた。

 

 最初っから、ルシオラが抱えて空を飛べば良かった事に気付いて一悶着が在ったり、完全に現在位置を見失って途方に暮れてみたりする事態も在ったりはしたが、まぁご愛嬌と言う奴だろう。

 

「で、どーするのよ?」

 

「どーするよ」

 

 日はすっかり傾き、水平線の端っこに太陽の下弦が引っかかる。

 

 見渡す限りの水平線という物は、どうしてこうも不安にさせるのか、といい加減空腹も限界、体力も限界の忠夫はぷかぷかと海に仰向けで浮きながら、寝そべった体勢で宙に浮かんで顔を覗き込んでくるルシオラの言葉に答えにもならない答えを返した。

 

 海が荒れていないのだけが救いでは在るが、助けてくれそうな船も見えなければ、視界の中には小さな島の影すら見えず。

 

 ちゃぽちゃぽと波の音を聞きながら、薄っすらと輝き始めた月を見上げて溜め息一つ。

 

「せめて島影ぐらい見えればなぁ」

 

「犬なんでしょ? 帰巣本能とか無いの?」

 

「狼やっちゅーのに! ・・・うぁぁ、腹減った」

 

 抗議の声を上げてみるものの、どうも腹の虫の方が大声のようだ。

 

 やれやれ、と溜め息をついたルシオラが、忠夫の手を取ったのは、腹の虫が再び鳴いた時だった。

 

 ゆっくりと高度を上げながら、潮水を滝のように流す忠夫と一緒に高く昇っていく。

 

「・・・うおーい、腹が減ってるから風が身に染みるんやけど」

 

「しょうがないでしょ。上に行けばもっと遠くまで見えるんだから我慢しなさい」

 

 そんな情けない声を一蹴しつつ、ぐんぐんと高く昇っていく。

 

 やがて、僅かに空気が冷たくなり始め、忠夫が鼓膜に痛みを覚え始めた頃、その光景が眼下に広がった。

 

「うお・・・!」

 

「綺麗・・・」

 

 雲一つ無い光景。

 

 そして、夕日を照り返しながら赤く光る海。 

 

 僅かな波が、太陽の光を揺らしながら、二人の顔を赤く染めていた。

 

 半分ほど沈んだ太陽は、半円となりながらもその輝きを未だ失わず、だが、薄暗い。

 

 しかし、2人の目には、彼らを中心に、世界が赤い光と薄い暗さに分かたれたように見えたのだ。

 

 太陽の光は一本の線のようにも、グラデーションのようにも、あるいは絵画のようにも見える。

 

 暫し言葉を失ったまま、二人きりの観客の意識は、その光景に飲み込まれていた。

 

 やがて太陽も沈み、星の光と月明かりが太陽の光に取って代わる。

 

 今度は、それ以外に何も無い空間が広がった。

 

 睡魔と逃げ出した緊張感に溢れていた昨夜は気付かなかった、闇と僅かに聞こえる波と風の音。

 

 そして、それを背景に、埋め尽くすような星の光が空を飾る。

 

 主役のように輝く月は、狙ったようなまんまるで。

 

 溜め息すらも震えるような暗闇の中にいながら、それでもスポットライトが当たっているような。

 

 そんな中で、息を詰めて見入っていた二人の意識を戻したのは、雰囲気も何も無い腹の虫の悲鳴だった。

 

「・・・あは、あははははははっ」

 

「・・・くっ、だははははははっ」

 

「ちょ、ちょっとタダオ! ぷっ、あなた、雰囲気――あははっ! 台無しじゃない! あははははっ」

 

「はは、わはははっ!! しょーがねーだろっ! くっ、は、腹は待っちゃくれねーんだから! ぶははははははっ」

 

 別に、何が可笑しかったと言う訳でもない。

 

 ただ、笑いが込み上げてきた。

 

 誰に構う事もなく、誰に揶揄される事もなく、星と月が眺める場所で、二人の笑い声が響いていく。

 

 彼女の声は彼しか聞かず、彼の声は彼女しか聞こえない。

 

 ただ、ただただ愉快。そんな雰囲気の夜だった。

 

 笑いたいから笑って、相手も一緒に笑ってくれて、それが何となく嬉しくてまた笑う。

 

 きっと貴方も同じでしょう。

 

 多分貴女も一緒だろう。

 

 だからお腹が痛くなって、潮風を吸い込んだ咽が痛くなって、それでも笑って笑って笑う。

 

 空腹も、迷子も、二人だけの笑いが飛ばしていく。

 

「あははははっ」

「わははははっ」

 

 悲しさも苦しさも不安も無い。

 

 可笑しくて、楽しくて、嬉しくて。

 

 そんな笑い声が、同じような笑顔で、同じように笑いすぎで涙を零した二人の間に、ゆっくりと。

 

 そんな一日の一幕だった。

 

 

「ひー、ひー。腹いってー」

 

「も、もう! 涙出ちゃったじゃない」

 

 笑いすぎてお腹を押さえているタダオも、照れくさそうに顔を擦っているルシオラも、笑顔のまま。

 

 いまだ残滓の消えぬまま、二人はゆっくりと空を行く。

 

 眼下にあるはずの海は暗闇に沈み、すきっ腹は時折悲鳴を上げるがそれを癒す方法も無い。

 

 それでも、全く不安に感じなかった。

 

 恥ずかしさを誤魔化すように快速でかっ飛ばすルシオラにぶら下げられたまま、忠夫は漸く納まった笑いの衝動を少々残念に思いつつもルシオラを見上げる。

 

 ふと、口をついて出た疑問は、彼も不思議に思うような唐突な物だった。

 

「・・・なぁ、ルシオラ」

 

「何?」

 

「まださ、俺の魂欲しい?」

 

 やや速度を落としたルシオラが、細い人差し指を口元に当てる。

 

 何処か悪戯っぽく月を見上げながら、下から見上げてくる忠夫の視線をこそばゆく感じつつ、彼女は彼女も不思議なくらいに、唐突に口を突いて答えを出した。

 

「あんまり」

 

「何で?」

 

「・・・さぁ?」

 

 主であり、父であり、創造主であるアシュタロスの命令。

 

 『珍しい魂』を持って帰ること。

 

 長女として期待には必ず答えたいと思って魔界から出てきた身であるし、他に珍しいと思えるような魂も見当たらない中で、忠夫の魂を諦めると言うのはありえない筈の答えだった。

 

 それでも、その答えは、不思議なくらい、彼女の心の真ん中に、綺麗に嵌る物だった。

 

「んー。ま、気が変わっただけかもね。また欲しくなるかもよ?」

 

 だから、すっきりした気分になったルシオラは、からかうように忠夫に目を合わせずそんな言葉を投げかけ。

 

「だったらさ」

 

 忠夫も、同じように前を見ながら、何でも無い事のように、投げかけられた言葉に続いた。

 

「ん?」

 

「その、さ」

 

 柄にも無く照れくさそうにしながら、視線は前ではなく下を向き、頭をぼりぼり掻いて、潮水が乾いて出来た塩を落としながら。

 

「――嫁に来ないか?」

 

 そんな2度目のプロポーズ。

 

「え・・・えっと、その、あの・・・」

 

「いや、そのなっ! 俺はいっつも真面目に言ってんだけどさ! 全部本気で言ってんだけどな!? どーもネタ扱いになっててなー、その、なっ?!」

 

 忠夫の言い訳のような言葉を聞きつつ、自分でも思ってもいなかったくらいに動揺した。

 

 それは、忠夫も同じであっただろう。

 

 今まで何度も口にした言葉でありながら、忠夫はその後に言い訳じみた事をいった事は無い。

 

 ただ、なぜか言いたくなったのだ。

 

 そのまま互いに交わす言葉が消え、耳元で微かに唸る風の音だけが響く。

 

「・・・・・・・・・・・・・」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 今度の沈黙は、やたらと長かった。

 

 気まずいような、緊張感に満ちた雰囲気が満ちる。

 

 二人とも、何かを言わなければとも思い、何かを言いたいと思い、何かが聞きたいと思う。

 

 ――そして、結局答えはどちらからも出ないまま。

 

「・・・あ、ほ、ほら、タダオっ!」

 

「お、おお! あ、明かりじゃねーのか、あれっ!!」

 

 タイミング良く、なのか。

 

 それとも運悪く、なのか。

 

 二人の視界に、瞬く星の光とは明らかに違う光が見えた。

 

 それまでの雰囲気を誤魔化すように、一気に加速しながら光に向かうルシオラ。

 

 何となく沈黙を保ったまま、その下にぶらさがる忠夫。

 

 人工の光はそんな二人の目の前で徐々に大きくなり、やがてはっきりと浜辺の向こうに広がる街並みを映し出す。

 

 やがて浜辺の縁の真上に来た二人は、徐々に速度を落としながら高度を下げていった。

 

「よ、良し! ここで降ろしてくれ!」

 

「でも、まだ結構高いわよ?」

 

「良いから!」

 

「う、うん」

 

 まだ何処と無くぎこちない雰囲気を引き摺ったまま、その気まずい空間からのイッコクも早い脱出を図る微妙にヘタレな忠夫である。

 

 ともあれ、言われたままにルシオラは忠夫の腕を離し、そのまま彼女はゆっくりと高度を下げながら浜辺に着地するコースを取る。

 

 先に落ちて行った忠夫は、柔らかい砂浜に向かって両足を伸ばしながら、幅跳びの選手のような着地体勢を取り。

 

 

「ま、どこか見覚えのあるお尻ねぇ」

 

「お、横島じゃねーか」

 

「何でお前らどわぁぁぁぁぁぁっ?!!」

 

 

 暗い砂浜にテントを張っていた二人を発見し、動揺し着地に失敗して派手に地面とキスをしたのだった。

 

 別々のテントから顔を出した二人の間を、焚き火の跡を散らかしながら転がる忠夫。

 

 明かりも何も無い砂浜に、結構な高度から飛び降りた忠夫はテントの存在に気付く事も無く、だが常に夜は警戒せざるをえない雪之丞と常に神経を張り巡らせている勘九郎は気付いた為に顔を出し、驚いた忠夫がつんのめって顔面から砂浜に突っ込んだのだった。

 

「・・・相変わらず元気ねぇ」

 

「ったく、こんな所でお前の顔を見るたぁなぁ」

 

「それはこっちの台詞じゃぁぁぁぁっ!!」

 

 がばっ、と砂浜から身を起こした忠夫が、ぶるぶると震えて砂を撒き散らす。

 

 不思議そうな顔をしたルシオラが、ゆっくりとその隣に下りてきたが、勘九郎は一瞬だけ瞳を鋭くした後、特に興味もなさげにすぐ視線を戻した。

 

 雪之丞だけが何だか不思議そうな物を見るような視線で忠夫とルシオラのコンビを見ているが。

 

「てかお前らなんでこんな所に居るんだよ!」

 

「仕事よ、仕事。国内じゃ碌な依頼が無くてねぇ・・・」

 

 溜め息混じりの勘九郎の言葉を、雪之丞が不貞腐れたような表情で補足した。

 

「この馬鹿が男の依頼人を妙な目で見るもんだからごふぁっ?!」

 

「ま、そー言う訳で国外に出稼ぎに来た訳よ」

 

 ぶっとい拳にぶんなぐられ、顎を天に向け身体を仰け反らせ、四肢を突っ張らせながら吹っ飛んで砂浜に頭から刺さった雪之丞に視線もやらずに笑顔でのたまう勘九郎。

 

 拳が振るわれた瞬間に僅かに見えた、テントに隠れて見えないピンクのパジャマがなんとも不気味であった。

 

「こ、国外?」

 

「ええ。ナルニアまでね」

 

「「・・・なるにあって何処?」」

 

 ルシオラと忠夫が互いに見詰め合って何ともいえない空気をかもし出す中、勘九郎が欠伸を一つ。

 

「ま、ちょっとゆっくりしてかない?」

 

 そう言って、テントの中から小さなランタンを取り出した。

 


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