月に吼える   作:maisen

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第伍拾陸話。

「気持ちいいですよねー美神さん♪」

 

「・・・ご機嫌ねぇ、おキヌちゃん」

 

 今日も天気は晴だった。

 

 燦々と照り付ける太陽の下、甲板の上でちょっと早い昼ご飯を済ました美神は、緩やかな潮風を受けながらのんびりと座っていた。

 

 その視線の先では、客船の中にある売店で購入したつばの広い帽子を被ったおキヌが機嫌良さそうに歌いながら水平線を眺めている。

 

 先程もう一人の従業員に「良く似合っている」と褒められたのがそこはかとなく嬉しかったようである。

 

 現在、船は東南アジアに向かって航行中。

 

 美神達が乗ってから、3日ほどが過ぎていた。

 

 船はこのままあちらこちらに寄りながら世界一周の航路を取り、日本に帰ってくるのは半年後。

 

 乗っている客も殆どが裕福な高齢の夫婦や引退した企業家、それなり以上の富豪達で占められており、正に船を作った財閥の威信を掛けた航海である。

 

 とは言うものの美神達には関係の無い事であり、彼女達は次の寄港予定地から日本にとんぼ返りする予定となっているのだが。

 

 と言う訳で、まぁ久し振りの休暇ということでゆっくりしようと身体をパラソルの下の真っ白な椅子で伸ばした美神の耳に、少し離れた所からの喧騒が響いた。

 

「一番! 忠夫、いっきまーす!」

 

「本気か小僧ぉー!」

 

「うわーっ! ほんとに飛び降りたぞー!」

 

 続いて聞こえる水の音。

 

 船員達の騒ぎを横目に見ながら、飛行機は駄目でも船は良いのねー、と今更の感慨に耽っていた美神の耳に、船員達の驚きの声が聞こえてくる。

 

「うおおおおおっ!」

 

「でけぇぞ! ありゃなんだぁっ?!」

 

「うむ、あれはっ!」

 

「知っているのか爺さん!」

 

 ざばーん、と腰に紐をつけ、バンダナはそのままに、尻尾のはみ出たフンドシ姿の忠夫が甲板を越えて飛び上がった。

 

 いや、正確に言えば勢い良く紐に引っ張られて水面を突き抜けたのだろう。

 

 紐の先を視線で探れば、何故かコックの格好をしたルシオラが包丁を片手に忠夫の腰に繋がるロープをもう片方の手で振り上げている。

 

 普通の女性の、いかにも細い手であるのにあれだけの事ができるのは、やはり彼女も一応れっきとした魔族という事なのだろう。

 

 と言うか誰も忠夫の尻尾に突っ込まないのが不思議では、ある。

 

 アクセサリーと勘違いしているのか、それとも海の男は大らかなのだろうか。

 

 大雑把なだけ、と言う話もあるが。

 

「こらー! ちゃんと捕まえてなさーい!」

 

「無茶言うなやー! 今のウツボみたいなん、頭だけで俺よりでかかったんやぞー!」

 

「そうじゃ! あれはまさに海の王! その名も海王る――」

 

 何か危険な事を言おうとした爺さんが、周囲の船員達に蛸殴りにされている。

 

 ぐるぐるとロープで巻かれてしっかりぎっちり猿轡をされた老人を、船員達がよっこらせと一声かけて持ち上げた。

 

「暫く医務室に放り込んどくぞー」

 

「あー、頼んだ」

 

「もう歳だからなぁ」

 

「んだんだ。さぁてお仕事お仕事」

 

 見なかった事にするらしい。賢明な判断である。

 

 だがまぁ、見なかった事にしても在る物は在る訳で。

 

 ぞろぞろと連れ立って簀巻きの老人を運んでいく船員達の後方では、ルシオラがロープを振り回して先端の忠夫を縦横無尽に操り、忠夫も忠夫で名称不定の巨大ウツボに噛まれそうになるのを必死に回避していた。

 

 ルシオラのところに笛を握ったおキヌが慌てた様子で、しかし帽子が飛ばされないようにしっかりと押さえながら駆けつけるのを横目に、美神は椅子から立ち上がると船室に向かって歩き出す。

 

「・・・慣れって怖いわねー」

 

 誰に言った言葉やら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、船室の扉に手を掛けた美神は動きを止め、緩んだ雰囲気を一気に引き締め除霊時のテンションまでその知覚を跳ね上げた。

 

 ――霊感に引っかかる物があった。

 

 何が、と言う訳ではない。

 

 が、確かに彼女は感じたのだ。

 

 ドアの中からの、その強烈な圧力を。

 

 ドアノブからゆっくりと手を離し、足音を立てないように下がって行く。

 

 懐には携帯している神通棍が一振りのみ。

 

 意図しない突風が吹く事もあり、海に落ちたら回収できない為、破魔札は忠夫に持たせた荷物の中である。

 

 行くか、それとも退くか。

 

「・・・ったく、折角人が羽を伸ばそうって言うのに」

 

 じりじりと下がり、船室の中にある圧迫感が移動しない事に安堵しつつ、甲板に向かって後ろ向きに進んでいく美神の背に、けたたましい足音が迫ってきた。

 

「ぶぇぇっくしょんっ!! さぶっ! さぶいっ!」

 

「もうっ! いくら南の方に来たからって、まだ泳ぐのには早いんですよ!」

 

「あはは、でもほら、コック長さんも喜んでくれたみたいだし良いじゃない」

 

「良くありません! 風邪を引いたらどうするんですかっ!」

 

 どたばたと美神の隣を駆け抜けた3人は、美神の警戒も何のその。

 

 美神達の船室から少し離れた所に取ってあった忠夫の部屋――あまり遠い所に部屋があると、もしもの時に合流が遅れるから、とは美神の弁――に飛び込んでいった。

 

「ちょ、ちょっとあんた達!」

 

 と、美神が声をかけたのに反応した訳でもないだろうが、顔を真っ赤にしたおキヌが非常に残念そうなルシオラをぐいぐいと押して部屋から出てきた。

 

 忠夫が部屋に飛び込んで直ぐ着替えようとした為であるが、美神はそれ所ではない。

 

 何せ、美神の船室から感じる威圧感が、ゆっくりと扉の方に向かって移動し始めたのだ。

 

「・・・っく! 横島くん、今直ぐに一番高い破魔札持ってきなさい!」

 

「うぇっ?! こ、この先の展開が読める! 俺まだ死にたくないっすっ!」

 

「良いから早く持ってこんかぁっ!」

 

 非常に慌てた忠夫の声をそっちのけで、美神は船室の扉の前を通り抜け、おキヌを背中に庇って神通棍を構えた。

 

 感じる圧力は只者ではないが、忠夫がお札を荷物の中から取り出し持ってくるまでの僅かな時間を稼げれば良い。

 

 直ぐに取り出せるように荷物の中身も整理してあるので、そんなに長い事は無い、筈。

 

 そして背中側で荷物をかき回す音を受けながら、ゆっくりと目前の船室のドアが開いた。

 

 重々しい音を立てながら、豪華客船の船室に相応しく彫り上げられ、飾り上げられたドアが開き、現れたのは。

 

『・・・おお、そなた達がこの部屋の主か?』

 

「・・・あれ?」

 

 ふよふよと浮く、小さな影だった。

 

 先程までの威圧感は欠片も無く、どちらかと言うと優しげな雰囲気のその影は、美神達を見ながら微笑を浮かべ――凍りついた。

 

『ふ、不埒者っ!』

 

 手に持った槍のような杖のような、両端にトランプのマークがくっ付いた奇妙なそれを振り上げながら、警戒心バリバリで美神の後方に怒鳴りつける小さな影。

 

 慌てて振り向いた美神の目に。

 

「へっ?! ・・・よ、よよよよよっ!」

 

 股間にタオルを当て、破魔札の束を持って凄く情けなさそうな顔で突っ立っている忠夫が写ったりして。

 

 おキヌは耳まで真っ赤にして窓の外に視線を飛ばし、ルシオラはそのおキヌに両手で挟みこむように頭を掴まれて納得いかなさそうに同じ方向を見ている。

 

 そして、やはり美神の神通棍が唸りを上げて振り上げられる訳でして。

 

「・・・あーもー! こうなるって分かってたのに俺のアホぉぉぉぉっ!! でもちょっと快感がっ?!」

 

「横島ぁぁぁぁぁっ!!!」

 

 ぱりーん、と乾いた音を立ててガラスを突き破った半人狼は、再びまだまだ冷たい初夏の海にダイブする事となった。

 

 ひらひらと空中を漂うタオルが、風に巻かれて遥か彼方へと飛んでいく。

 

 水音はそんなに大きく響かなかったそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっははは、泳いでる泳いでる。この船も結構速いから必死ねぇ」

 

「うわー、うわー、うわー、見ちゃったー・・・」

 

「即刻忘れなさいっ! あんの馬鹿はっ!!」

 

 窓の下で必死の犬掻きを敢行中の忠夫(全裸)を無理矢理記憶からたたき出し、熱を持った頬を叩いて意識を焼き付いた画像から強引に引き戻す。

 

 おキヌ達が鮫だの大きなウツボが鮫を食べただの忠夫が追いかけられてるだのと騒いでるが、とりあえず無視。

 

「変態は死んだわ。ご用件は何かしら? 幸運の精霊さん」

 

『・・・いや、良いのか?』

 

「死にゃしないわよ」

 

 頭痛を堪えるように額に手を当てた美神の一声であった。

 

 ともかく、と掌を打ち合わせた彼女は、改めて目の前の精霊に向かいあう。

 

 ――幸運の精霊『フォーチュン』。

 

 不幸と幸運をもたらす存在であり、彼女が味方につけばギャンブルだろうが何だろうが、およそ運が絡む物ならば負けはしない。

 

 ある意味問答無用に強力な力を持った精霊である。

 

 が、一つだけ弱点があるとするならば――彼女自身には幸運をもたらす事ができないと言う事であろうか。 

 

 それが可能ならばとある貧相な男に捕まったりはしないし、とっとと自力で逃げ出しているのだから。

 

「で、何? もしかして私に幸運をくれる訳っ!?」

 

 きらきらと輝く瞳が浮かぶ精霊を下から期待を大量に篭めて向けられた。

 

 何となくその下に腹黒さとかを感じつつも、フォーチュンは重々しく頷いてみせる。

 

『う、うむ。わらわが少々頭に血を昇らせて、思わず無関係なこの船を沈めてしまうところだったのじゃ。そんな時、笛の音が聞こえてきてなぁ』

 

 頬に手をあて、ほう、と感慨深げに溜め息をついた精霊は、穏やかな瞳で美神達を見渡した。

 

 窓の外を覗いているルシオラと真っ赤なままで虚空を見上げてぶつぶつと呟いているおキヌはともかく、思わずで船を沈めようとしたとのお言葉を聞いた美神はドン引きであるが。

 

『待っている間に思い出して思わず反転してもうたが・・・そなた達であろ? あの笛の音を届けてくれたのは』

 

「あ、あの圧力はそれかい・・・。まぁ間違っちゃいないというか関係者と言うか・・・」

 

 どうやら船室内で、思いっきり不機嫌な精霊が何やら危ない状態になっていたのが美神の感じた威圧感の正体だったようである。

 

 歯切れの悪い美神の言葉に不思議そうな表情を浮かべながらも、フォーチュンは手に持った槍を一振り。

 

 と、同時に窓の外から途切れる事無く聞こえつづけていた忠夫の悲鳴が、一際大きく響いた。

 

「――ぉぉぉおおおおおおおっ?!」

 

 突如として起こった高波は、巨船をぐらりと揺るがしながらもその横っ腹にぶち当たって白い波涛に姿を変え、甲板を派手に濡らして流れていく。

 

 打ち上げられた忠夫は、そのまま美神達の後方の窓を突き破って、そのままその先にあった波の衝撃で開いた扉の中に転がり込んでいった。

 

 傾いた巨船がゆっくりと反対側に揺れ、その動きに吊られるように開いた扉が忠夫を飲み込んだままゆっくりと閉まる。

 

 暫しの痛いほどの沈黙の後、内側から開いた扉は、今度はきちんと服を着た、とても疲れた様子の忠夫を吐き出したのだった。

 

 ふらふらとおキヌ、ルシオラの間を通り抜けた忠夫は美神の目の前で倒れこみ、4つの視線が突き刺さる中で、最後の力を振り絞って手を上げた。

 

「・・・海は怖いなと思いました」

 

 ぱたん、と手が倒れ、白目を剥いて昏倒した忠夫に駆け寄るおキヌと、嬉々として懐から一対の丸い端子のついた機械――電気ショックを与える機械に良く似ていた――を取り出し、服の上から忠夫の胸に当て始めるルシオラ。

 

 そんな2人から視線を剥がしながら、美神は溜め息一つ付いて向き直る。

 

「・・・無理矢理ねぇ」

 

『だが、結果としては助かっておる。服も着れた。問題無い』

 

 幸運を呼び込んだとしても、経過が問題である。

 

 大きな結果を引き起こそうとするのならば、ある程度の強引な働きかけが必要になる、と言うことか。

 

 そう結論付けた美神であったが、それ以上の言葉を続ける時間は無かった。

 

『では。そなたらに幸運のあらん事を――』

 

「あ、ちょっと!」

 

 そう言って、精霊はゆっくりと姿を消していったのだ。

 

 引き止める暇も、どんな幸運を呼んだのかも問えぬままに、微笑を残して消えたフォーチュンの残滓は、光の欠片だけを残して擦り抜けた。

 

 後に響くは、とりあえず預金残高が増えていないか携帯で確認を始めた美神の声と、電気ショックで痺れる忠夫の悲鳴のみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜。

 

 豪華客船の一際広いホールにて。

 

「と、言う訳で! カジノでがっぽり稼ぐわよ!」

 

「はい美神さん!」

 

 ドレスアップした美神達の後ろで、これまたきっちりと黒いタキシードに身を固めた似合わない事甚だしい忠夫がびしっと手を上げた。

 

 いや、似合わないと言うよりも完全に服に着られている、と言った方が正しいだろう。

 

 完璧に着こなした美神や、初々しいながらも楚々とした雰囲気を纏ったおキヌ、意外な事に着慣れた様子のルシオラに比べて、全く持って浮いている。

 

「何がどー言う訳なのかさっぱりなんですがっ!」

 

 そう言って、ネクタイを巻いた首元や動きにくい肩を気にしながら忠夫が問うと、美神は不敵な笑みを浮かべて指を振った。

 

「ちっちっち・・・分かってないわね。幸運の精霊がついてんのよ? 稼ぎ時に決まってるじゃない!」

 

「成る程!」

 

「み、美神さーん! 私、学生なんですけどー!」

 

「ほーっほっほっほ! 問題無いわ! お金の前には倫理観なんてポイよポイ!」

 

 美神は笑いながら、戸惑うおキヌに何十枚かのチップを握らせる。

 

 そして、おキヌの隣で手を差し出してくる忠夫の手を軽く叩いて、何事も無かったようにルーレットの台めがけて歩き出した。

 

「俺の分はっ?!」

 

「あんたはもう幸運使っちゃってるでしょうが。横島君の役目はおキヌちゃんのガードよ。悪い虫が寄らないように気ぃ張ってなさい!」

 

 しくしくと背中を丸めて泣いている忠夫を放って去っていった美神を見送りながら、おキヌは途方に暮れたように掌の上のチップを見つめている。

 

 何時の間にか姿を消したルシオラが気にはなる物の、ギャンブルがどー言うものなのか全く知らないおキヌと、そもそも全裸で海からの大脱出と言う訳の分からない状況から助けられただけで殆ど役立たず指定をされた、涙に暮れる半人狼は、そのままたっぷり5分ほど、その場を動く事は無かったと言う。

 

 その何とも言えない雰囲気に悪い虫が寄って来ることは無かったそうだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、1時間経過。

 

 

「――当てが外れたかしらねー」

 

 美神の前には、元の3倍ほどに増えたチップが小さな山を作っている。

 

 増えては減り、減っては増え、そんな事を繰り返しつつの時間では在ったが、幸運の精霊が付いているにしては芳しくない結果と言えよう。

 

 とは言え一時間で3倍と言ったら驚異の結果である筈だが、美神は不満の様子である。

 

 ドカンと一発、が無い分派手さに欠ける為、物足りないと言った方がいいのであろうが。

 

「こうなったらおキヌちゃんに期待するかー・・・」

 

 じゃらじゃらと手持ちのチップをかき集め、色鮮やかなアルコールの乗ったトレイを持った通りすがりのスタッフに換金を頼むとついでにカクテルを一つ受け取り、そのグラスを片手に動き出した。

 

 辺りを見回してもカジノを利用している客は少なく、此処がギャンブルを目的とした場所ではなく、あくまで暇潰しの一環としての設置された設備と言う意味合いが強いようである。 

 

 そもそも乗船している客層が人生のギャンブルに勝った者達ばかりであるし、世界を回ると言うのがこの船の主目的であるのだからそこまで力を入れておらず、結果として巨大な船には見合った広さと設備を持ちながら、それでいて暇人が集まる場所となっているのだろう。

 

 そのお陰で、とは少し違うかもしれないが、美神の探す二人組みは意外にあっさり見つかった。

 

「んふふ~。かぷっ!」

 

「いやーっ! 耳は敏感なのーっ!!」

 

「あむあむあむ・・・」

 

「おキヌちゃんストップもうこれ以上噛まないでぇぇぇっ! 何かイケナイ気分になっちゃうからぁぁっ!!」

 

「何やっとるかぁぁぁっ!!!」

 

 忠夫の背中から絡みつくように圧し掛かったおキヌが、外されたバンダナから飛び出した忠夫の狼耳を優しく甘噛している所に美神の拳が光って唸る。

 

 回避も間に合わず即頭部に直撃打。

 

 豪腕一閃カッ飛ぶ忠夫、そして引っ付いていたので背中に乗ったまま一緒に飛ぶおキヌ。

 

「――っ!」

 

 だがしかし、そこは流石の忠夫である。

 

 空中で必死にバランスを取り、たまたま指先に引っかかったスロットを傾けさせながら縦にくるりと一回転。

 

 途中でおキヌの身体を背中から体の横を滑らせて確保しつつ、膝の下と背中に手を回してがっちりホールド即着地。

 

『おおおおおっ?!』 

 

「ふっ・・・人狼舐めたらあかんぜよーっ!」

 

「ふにゃぁ~」

 

 スロットの上で高らかに吼える忠夫に向けられる人々の驚きの視線。

 

 腕の中ではくるくると回って漸く位置が落ち着いたおキヌが、なんとも幸せそうな顔で忠夫の胸に頭を預けてうとうとと。

 

 そして美神は背中に阿修羅を背負いつつ、調子に乗っておキヌを抱えたまま高笑いを始めた忠夫に1歩1歩接近していったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・ったく! あれだけおキヌちゃんに悪い虫近づけんなって言っといたのに、なんであんたが悪い虫になってんのよっ!!」

 

「うごご・・・」

 

「んふ~」

 

「おキヌちゃん、いい加減それから離れなさい」

 

 ズタボロの忠夫は息も絶え絶えと言った様子で絨毯の敷かれた床に這いつくばり、その上でおキヌが満足げな吐息を漏らしながらご満悦の様子で抱きついている。

 

 額に青筋を浮かべた美神が言葉でやんわり引き剥がそうとするも、ぷい、とそっぽを向いて更に忠夫に圧し掛かっていく始末である。

 

 そっと息を吹きかけると忠夫の耳がピクピク動き、それを見てくすくす笑いながら更に二度三度と繰り返す。

 

「・・・ふふふ」

 

 そして、酒気を帯びたままの赤い顔で忠夫の耳に何時もよりも赤味の増した唇を近づけ、ちろりと小さな舌を出し、おもむろにその耳たぶに――

 

「す、ストップおキヌちゃん! 流石にそれ以上は駄目よぉぉっ!!」

 

「あんっ」

 

 だがしかし、今度はさっきとは違う赤みに顔を染めた美神が飛び込みギリギリセーフ。

 

 おキヌの襟首を掴んで引き起こし、何故か忠夫から庇うように背中に回して辺りを睨み付ける。

 

 固唾を飲んで見守っていた罪も無い乗客たちは、その一瞥で蜘蛛の子を散らすように――いや、懐かしい物を見る目であったりとか暖かい視線を向けながらであったりとか親指を立てて良い笑顔だったりとか何度も頷きながらであったりとか何気にぴったりと肩を寄せ合いながら出て行く夫婦が居たりとか。

 

 この船を作った財閥が、どのような基準で招待する乗客を選んだのか非常に気になる所である。

 

 と、溜め息混じりに周囲から人影が居なくなった事を確認していた美神の項に、生暖かく湿っぽい感触が走る。

 

 慌てて項を押さえて振り向こうとしたその瞬間、美神の身体に巻きつくように細い手が伸び、しっかりとその動きを押さえつけた。

 

「・・・良い匂い」

 

「おき、おき、おキヌちゃんっ?!」

 

「美味しそう・・・」

 

「ひゃうっ?!」

 

 柔々と美神の項に噛み付きながら、おキヌは鼻を鳴らしつつ美神の肢体に絡みつく。

 

 背筋にとてつもない危険信号を感じた美神が必死で抵抗するも、相手は軟体動物のように柔らかい動きで奇妙に避けつつ、絡みついた手は微妙に危険な所へと。

 

「――はっ?! 何かとっても素晴らしい物が見れる予感が――此処に塔を立てよう・・・我が生涯に一片の悔いなし」

 

「こらぁぁぁぁぁっ! いきなり鼻血吹いて気絶しないで助けんかぁぁぁぁぁっ!!」

 

「うふふふふ・・・」

 

「あひゃんっ?! こ、こらっ! 本当に怒るからねっ?!」

 

 壮絶な光景であった。

 

 倒れ伏した男は止め処なく赤い液体を垂れ流し、普段は楚々とした少女は妖艶な笑みを浮かべてドレスに身を包んだ美女に妖しく絡みつき、真っ赤な顔の女性は僅かに抵抗する力を弱めながら、しかし必死で脱出を試みる。

 

 その時。

 

 幸運の精霊に今度あったら破魔札の一枚も投げつけたろーか、と頭の片隅で考えながら、非常手段と割り切って霊力全開の予備動作に入った美神の視界が、窓からの轟音と衝撃で塞がれた。

 

 舞い散るガラス、吹き飛ぶ機械、吐き出されるコインの山、鳴り響く警報。

 

 ころころと美神の上から転がり落ちたおキヌも、近くでぶっ倒れたままの忠夫にも怪我をした様子がないことを素早く確認し立ち上がった美神の目に、湧き上がる煙の向こうから駆け寄ってくる男の姿が写り込んだ。

 

「――美神くん、美神くんは居るかねっ?!」

 

「か、唐巣先生っ?!」

 

 煙を掻き分け、声を張り上げながら駆け込んできたのは美神の師匠であり日本でも5本の指に入るGS、唐巣。

 

 薄い頭を落下物から手で庇い、美神達を確認した唐巣は煙の向こうに向かって声を上げる。

 

「ピート君! 美神くんたちを確認したっ!」

 

「了解しましたっ!」

 

 そして、彼の声に答えるように、煙の向こうを警戒しながら素早く駆け寄る金髪の青年。 

 

 唐巣神父の弟子、ヴァンパイアハーフにしてキリスト系の教会に住み込むピエトロ=ド=ブラドーであった。

 

 説明する暇も惜しいとばかりに唐巣は寝転がる忠夫を担ぎ上げ、おキヌを美神に任せて煙を噴出す扉とは反対側の窓に向かって走り出す。

 

 慌ててぐっすりと眠りこけているおキヌを担いだ美神が続き、ピートはその殿を務めつつ付いて来る。

 

「先生っ! 何が起こってるのよっ?!」

 

「説明は後だよっ! ピート君、窓を開けてくれ!!」

 

「はいっ!」

 

 駆ける勢いはそのままに、衝撃で倒れていたスロットを両手に一台ずつ軽がると持ち上げた半吸血鬼は、噛み締めた口元から牙を僅かに見せつつ両手を振る。

 

 放たれた機械の塊は、狙い違わず分厚いガラスを突き破り、その向こうに広がる暗い海へと消えていった。

 

「――来るぞっ!」

 

 唐巣の声と同時、背後の煙の向こうで再び巨大な音がした。

 

 煙を突き破り、壁とドアの破片を撒き散らしながら、獣の頭部と人の身体を持ったその存在は、咆哮を上げつつ突進開始。

 

『グォォォォォォォッ!!』

 

「――ダンピール・フラッシュ!」

 

「――主よ、災いを彼方へ遠ざけたまえ!」

 

 師弟の霊波がその存在の足元に突き刺さり、僅かの間視界を奪う。

 

 爆裂が過ぎ去り、煙を纏いながら、それでも怯む事無く突進したそれは、スロットに打ち砕かれてカーテンをはためかす窓の前で止まり、悔しげに唸ると苛立ったようにその窓枠を打ち砕いて外に出て行った。

 

 暫くの間、海の上を何かを探すように止まっていたそれは、何かが聞こえたようにふと視線をあらぬ方に向けると、ゆっくりと向きを変えて一気に上昇し、船を飛び越えて姿を消した。

 

「・・・で、説明してくれるんでしょーね?」

 

 内装が破壊され尽くした感のあるカジノの片隅、横倒しになったルーレットの影に座り込んだ美神が問う。

 

怒った様子ではなく、如何にも『鴨がネギと鍋を背負って来た』という感じである。

 

がしっと唐巣の肩を掴んだ手からは、絶対に逃がさないと言う感情がありありと見て取れた。

 

「・・・先生、事は慎重を要するって言ってませんでしたっけ・・・?」

 

「・・・言わないでくれたまえピート君。最後の手段であろう事は分かっているよ・・・」

 

すやすやと気持ち良さげに寝息を立てるおキヌと、恍惚の表情で昏倒したままの忠夫、そしてギラギラと目を輝かせながらこちらを見てくる美神から視線を逸らしながら、師弟は冷や汗が流れ落ちたのを互いに確認するのだった。

 


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