月に吼える   作:maisen

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第伍拾四話。

 違うと叫ぶ俺が居る。

 

 違うと吼える俺が居る。

 

 気付けと叫ぶ何かが居て。

 

 気付けと吼えるそれが居た。

 

 お前は誰だと問う声が聞こえ。

 

 俺は俺だと答えを返す。

 

 いや、今――「俺」、とはその声は言わなかった。

 

 そう、確かに、「俺」、ではなく――「拙者」、とその声は言ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――小僧らっ! その崖を回り込んだ所に湧き水がある! 直ぐに汲んで来い!!」

 

「りょ、了解したでござる!」

 

「沙耶、沙耶ぁっ!!」

 

「動かすな! そのまま担いでゆっくり運ぶのだ!!」

 

「お、応っ!!」

 

「兄上! 早く行くでござるよ! 呆けてる場合じゃないでござる!!」

 

 

 目の前で倒れ伏した、蒼白な顔色の母が父に抱かれ小屋の中に消えていくのを見送りながら、忠夫は、ほんの十数秒前まで母の笑顔があった位置を見つめていた。

 

 夕食の準備をするつもりだったのだろうか、天狗が持っていた桶を受け取ったシロが忠夫に声を掛けつつ走り出す。

 

 その姿が木陰に隠れて見えなくなっても、忠夫の視線は何も無い場所を捉えて動かない。

 

 夜空の月は、少しづつ真っ黒な雲に隠され始めていた。

 

 

 僅かに垣間見える月の光に照らされたその小屋は、外見のみすぼらしさからは想像もつかないほどに清潔感が在った。

 

 壁には数え切れないほどの小瓶や里でも良く見る薬草、薄荷のような匂いの霊草、何かの干物に良く分からない物まで様々な物体が綺麗に整頓されて並べてあり、その種類と量からは考えられないほど整理されていた。

 

 その薬の群を、真上に湯気の出る薬缶を掛けられた囲炉裏に灯る炎が不規則に照らし出す。

 

 ぱちぱちと炎が弾ける音に混じって、女性の苦しげな呼吸が僅かに響いた。

 

「・・・むぅ」

 

「どうでござるか?」

 

 天狗は、その眉根を顰め、意外なほどに冷静な声を掛けてきたポチを見返した。

 

 いや、その表情を見れば分かった。

 

 冷静なのではなく、冷静たろうとしていただけである。

 

 胡座を掻いた姿勢でありながら、その背中には緊張ゆえの強張りが見て取れるし、瞳には縋るような光がある。

 

 だが、天狗に出来る事は、ゆっくりと頭を振る事だけだった。

 

「――すまん」

 

「・・・そう、でござるか・・・」

 

 ゆっくりと、酷くゆっくりと大きく息を吐いたポチは、そのまま背後の壁に凭れるようにして天を仰ぐ。

 

 人狼を導く月は、長く使われつづけた囲炉裏から出る煤で真っ黒に染まった天井に遮られて見えはしない。

 

 だが、それでも、今は見たいと思った。

 

「全く原因が不明なのだ。熱が有る訳でもなく、気脈にも問題は無い。さりとて内腑に障りが在る訳でもなく、至って健康――にしか思えん。だが、確実に『削られて』おる」

 

「――器が、持たないそうでござる」

 

 天を見上げたままのポチが、呟く。

 

 視線を向けた天狗に、だがその表情は見えない。

 

「人の身に、零れるほどの中身。天狗殿の尽力には感謝いたすが、やはり、駄目でござったか・・・」

 

 この人狼も、考えられるだけの手段は取ったのだろう。

 

 人の、妖の、霊の、全てを頼み、全てに縋ったのだろう。

 

 諦観の中に僅かに残っていた希望を己が零してしまったのだ、と気付いた時。

 

 天狗は、己の無力さを百数十年ぶりに歯痒く思った。

 

「――すまん。偉そうな事を行っておきながら、お主の連れ合いを助ける事が出来んかった」

 

「いや、拙者も無理を言った。分かっていた事でござるのに、目の前にそれを見せられて・・・天狗殿に要らぬ負担を掛けてしまったようでござる」

 

 それきり、二人の間には沈黙が蟠った。

 

 重い、言葉だけでは打ち砕けない空気が、二人を包んで行く。

 

 聞こえるのは囲炉裏の火が弾ける音と。

 

「・・・こほっ、こほっ。ん、う・・・、ま、全く、大の大人が雁首並べて辛気臭い」

 

 咳き込みながら、ゆっくりと目を開いた沙耶の声。

 

 熱に浮かされたようなその瞳が二人を捉え、かさついた唇がどこか疲れの残る微笑で言葉を紡ぐ。

 

 天井を仰いでいた視線を一瞬で戻したポチが、ふらふらと伸ばされた妻の手を握り締めた。

 

「沙耶、どうだ?」

 

「・・・こほっ。ええ、そろそろ。あの子達は?」

 

「ワシが近くの小川に、もう一度水を汲ませにやった。ついでに魚の2,3匹も獲って来るように言っておいた。母の苦しむ姿など、見せたくは、無かろう・・・?」

 

 ありがとうございます、と一言。

 

 彼女は、ゆっくりと夫の手を借りて体を起こす。

 

 それでも視線で横たわらせようとするポチに首を振り、彼女は袖に手を入れて、小さな、手のひらに収まるほどの大きさの袋を取り出した。

 

 その紐を緩め、下に開いたもう一方の手で零れ落ちる中身を受け止める。

 

 掌の上に落ちたのは、実家から持ってきた飾り気の無い外見の口紅と、長老と犬塚父の贈った白粉だった。

 

「それは・・・!」

 

「天狗殿、あの子達を呼んできて頂けますか?」

 

「・・・・・・・」

 

 目を見開いてその二つを見た天狗が、沙耶の言葉を聞き、短い間沈黙し、大きく頷くと小屋の扉を開いて出て行った。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 噛み締められた唇が、天狗の遣る瀬無い思いを表すように大きく弾けた炎に照らされ、その背は次の瞬間には外の闇へと消えていく。

 

 それを見送り、沙耶はゆっくりと口紅の蓋を外し、その先端を唇に触れさせようとして。

 

「あっ」

 

 震える手が、それを持ち続ける事が出来ずにことりと床に落とした。

 

 そして、それを拾う、男の手。

 

「・・・拙者が、やってやるでござる」

 

「・・・ふふ、大丈夫ですの?」

 

「任せるでござるよ。拙者、今ならなんでも出来そうでござるからなっ!」

 

 片手で沙耶の背中を支えながら、もう片方の手で目を瞑った沙耶の唇に、何時も彼女がしていたように小指ですくって紅を差す。

 

 緊張故か、慣れない作業故か、それとも別の何か故にか。

 

 小刻みに震える指を、それでも必死にはみ出させないように押さえながら、紅を塗り終わったポチは、懐にあった沙耶の持たせた清潔な布を口元に当てた。

 

 差し出された布を唇で食み、そっと瞳を開く。

 

 ポチの瞳に写った己の顔を見て、満足げに頷いた沙耶は、ただ静かに白粉の入った小瓶を指し示した。

 

 ポチも何も語らず、その小瓶の蓋を噛んで開くと中身の粉を掌の上に落とし、人差し指と中指で掬ってゆっくりと蒼白い肌に滑らせていく。

 

「ねぇ、貴方?」

 

「なんでござるか?」

 

 擽ったそうに眉を緩めながら、沙耶は小さく囁いた。

 

「私、酷い顔色ですよね」

 

「お前はいつでも美人でござったよ」

 

「あら、今までそんな事一言も言ってくれなかったくせに」

 

「言わずとも、拙者が誰よりも知っていたでござるからな」

 

「私が聞きたかったんですぅー」

 

 不満げに、だが、目じりを下げた表情で、沙耶は頬の上で止まった指に手を添えた。

 

 握られた手が一度震え、握った手を握り返す。

 

「あの子達にこんな顔色見せたくないですから、ちゃんと綺麗にしてくださいね?」

 

 握られた手とは違う手で、ポチの頬をゆっくりと撫でる。

 

「・・・だったら、泣くなでござる。白粉が落ちてしまうではござらんか」

 

「あら、貴方こそ。そんなんじゃ、ちゃんと見えないでしょう?」

 

 沙耶の顔に伸ばした指に雫が落ち、白い粉を湿らせる。

 

 ポチの頬に伸ばした手に雫が落ち、家事でかさついた指を濡らす。

 

「私の顔、忘れないで下さいね」

 

「ああ」

 

「私の事、少しで良いから覚えておいて下さいね」

 

「ああ」

 

「新しい奥さん貰っても良いですけど、報告だけはして下さいね」

 

「絶対に無理でござるな」

 

「あら、どうしてですの?」

 

「お前より綺麗な女は居るのかもしれんでござるが、お前より物好きな女はおらんでござるからな」

 

「まぁ。喜んで良いのかしら?」

 

「好きにするでござるよ」

 

 小さな、涙混じりの笑い声が木霊する。

 

「それじゃ、あの子達を頼みますね」

 

「ああ。心配するなでござるよ。拙者と犬塚、長老達でしっかり育てるでござる」

 

「・・・そこはかとなく不安な面子ねぇ」

 

「ふん」

 

 窓からは、雲の隙間から僅かに覗いた月が光を落としていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・兄上、沙耶殿は大丈夫でござろうか」

 

 川原に座り込んだシロが小さく呟き小石を投げる。

 

 それは何度も水面を蹴りながら反対側の川原まで進み、苔生した岩に当たって跳ね返る。

 

 返らない返事を気にしながらも、シロはもう一度小石を拾って投げつけた。

 

 暗い川原に、少女が投げた石の立てる音だけが響く。

 

「兄上、何か言って欲しいでござる」

 

 だが、少女に引き摺られるようにして川原まで連れてこられた少年は、連れてこられた時と同じ体勢のまま動かない。

 

 ただ、黙って虚空を見上げていた。

 

「・・・兄上?」

 

「なあ、シロ。お前ならどーする?」

 

 問い掛けは、新たな問い掛けて打ち消された。

 

 不思議そうに顔を上げたシロの目に、必死に何かを考える少年の姿が写りこむ。

 

 少女の視線を受け止めながら、忠夫はもう一度疑問をぶつけた。

 

「母上が倒れた。何かをしたい。そんな時、お前ならどーするよ?」

 

「・・・拙者でござるか?」

 

 ――そもそも、忠夫の記憶に、それが無い。

 

 彼の記憶に在るのは、目の前で母が倒れたその瞬間と、そして最期の母の笑み。

 

 安心させるような、何かを残すような、そんな想いの詰まった笑顔だけ。

 

 ――その間の記憶が、無い。

 

「・・・拙者なら、でござるか・・・」

 

 今回は、天狗の事を知っていた故に彼の所まで辿り着き、そして今のような状況になった。

 

 なら、忠夫にとっての前は、一体何をやったのか。

 

 それが、どうしても思い出せない。

 

 それが、鍵のような気がする。

 

 何としても、思い出さなければならない事のような気がするのだ。

 

「拙者なら――とりあえず、何か精の付く物を探すでござろうな」

 

「・・・例えば?」

 

「う~、例えば・・・」

 

 顎に手を当て考え込み始めたシロを横目に、忠夫もまた思考に戻る。

 

 だが、その時間も与えられず、彼らを呼ぶ声が夜に木霊した。

 

「小僧ら、何処に居るー?!」

 

「天狗殿? 此処でござるよー!」

 

 夜の静寂を打ち破り、天狗が呼びかけた声はシロと忠夫の耳に届いた。

 

 振り向いたシロが、天狗の声が聞こえた方に向かって声を上げる。

 

 二人揃ってそちらに駆け出しながらも、忠夫の頭は未だに記憶の扉を開こうと動きつづけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――此処で一つ、この話を読む方々に問い掛けたい。

 

 ――覚えておられるだろうか。

 

 ――少年が、青年であった時、ある悪魔に、子供にされたときの事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お帰りなさい・・・って言うのも、人様のお家じゃ変かしらね」

 

「・・・ただいま」

 

「沙耶殿、お体の方は・・・?」

 

 少女の問い掛けに、女性は微笑を浮かべながら、だが言葉は何も返さない。

 

 いや、返せない、と言った方が正しいのだろう。

 

 父に支えられるその体には既に力が入っておらず、紅を差した唇もその下は紫色に染められていて、白粉で塗られた頬の下も、真っ青な色を示している。

 

 だが、沙耶は、ただ笑顔を浮かべるだけ。

 

 苦しいとも、辛いとも、悲しいとも言わずに。

 

「母上・・・」

 

「おいで?」

 

 常ならば、その両の腕は抱きとめる為に広げられるのだろう。

 

 だが、力の通わない腕は動かず、布団の上に整えられたまま、ただ声と表情だけが何時ものそれ。

 

 だけれども、歩み寄った二人に向けられた声は、疲れの欠片も見えなかった。

 

「・・・大きくなったわね、二人とも。あんなに小さかったのに」

 

 目じりが僅かに腫れ、瞳も赤い。

 

 それは、支える父も同じ。

 

 だが、誰もその事を語らない。

 

「――もうちょっと見ていたかったけど、残念ね」

 

「・・・そ、そんなっ! 天狗殿、何とかならないんでござるかっ?!」

 

 少女の叫びを聞いた天狗は、ゆっくりと頭を振るしか無い。

 

 出来る物なら、彼だってとっくにやっている。

 

 それが出来なかったから、彼の拳は何か硬い物を叩いたように赤い皮膚が破け、それよりも赤い液体を流しているのだ。

 

「すまん」

 

「駄目よ、シロちゃん。天狗様は頑張ってくれたし、私もそれなりに満足してる。・・・ちょっとだけ、残念だけどね」

 

 シロの縋るような視線が沙耶とポチ、天狗、忠夫の間を巡り、だが、誰の表情にも何も見つける事が出来ずに落とされた。

 

「・・・シロちゃん。あんまり犬塚さんを困らせちゃ駄目よ? 女の子なんだから、腕白なのも良いけど、大きくなったら良い男をしっかり捕まえる位になっちゃいなさい。きっと美人になるわよ、貴方」

 

「・・・くぅん。なんで、なんでそんな事を言うでござるかぁぁぁぁ・・・」

 

「ほらほら、泣かない泣かない。ごめんね、シロちゃん」

 

 堪えきれずに沙耶の座る布団にしがみ付き、顔を埋めて泣き出した少女を困ったように見ていた沙耶は、その向こうで顔を伏せたまま沈黙する息子に声を掛ける。

 

「忠夫、女の子が泣いてるんだから、男の子はどーするの?」

 

「・・・頑張って、慰める」

 

「正解」

 

 それは、いつも母が言っていた事だった。

 

 だから、忠夫はゆっくりと顔を埋めたシロの傍に座り、その頭を撫でる。

 

 だが、シロの泣き声は止む事無く、布団の中で大きくなるばかり。

 

「・・・まだまだねぇ。これで、将来お嫁さん見つけられるのかしら?」

 

「・・・頑張るから、大丈夫。絶対諦めずに頑張れば、出来ない事なんてあんまり無い、だったよね?」

 

「良し良し。ちゃーんと覚えてるみたいね」

 

 そう言って、母は大きく息を付いた。

 

「忠夫、頑張りなさい。何でもいい、やりたい事を、精一杯頑張って。大丈夫、貴方は私とこの人の息子だもの。今は無理でも、いつかは泣いてる女の子を泣き止ませたり、泣かせない事も出来る。私の自慢の息子よ、貴方は」

 

「母上・・・」

 

「でも、出来ない事もきっとある。やりたいのにやれないことも沢山ある。頑張ったって駄目な事も、あるわ」

 

 そう言って、母はもう一度浅く息を付いた。

 

「でも、でもね。本当にやりたい事があったら、本当に泣き止ませたい女の子が居たら――手段を選ばず、やっちゃいなさい。石にハサミが負けるのなら、水をかけたら火が消えるのなら、そんなルールは投げ捨てて、貴方がルールを作ればいい。それくらい、やってみせて。頑張っても出来ないと思ったら、出来るように頑張るの。――やれる?」

 

「・・・やってみる」

 

「聞こえないわよ~」

 

「やってみる」

 

「もう一度」

 

「やれるさ、やれるように頑張るさ!!」

 

 うん、と頷いて、沙耶は嬉しそうに微笑んだ。

 

 儚さの欠片も感じられない、不安の影も形も無い、少年なら必ず出来るだろうと信じきった顔だった。

 

 顔は伏せたままで、だが、確かに答えを返した息子を優しく見つめながら、沙耶は微かに息を吐いた。

 

「――なら、大丈夫よ」

 

「沙耶・・・」

 

「貴方、後は――」

 

 

 ゆっくりと、瞳が閉じられた。

 

 

「――この子達を、お願いします」

 

 

「沙耶殿おおぉぉぉぉっ!!!」

 

 少女の悲鳴が木霊する。

 

「・・・っ!!」

 

 ゆっくりと息を止めつつある妻を抱きしめながら、夫が必死で堪え続ける。

 

「ワシは、ワシは、何故・・・っ!」

 

 天狗の拳が床板を砕き、その拳が血を流す。

 

 そんな、最期の瞬間に。

 

「・・・なぁ、シロ」

 

 忠夫は、小さく呟いた。

 

「俺、思うんだ」

 

 誰もが己の無力を嘆き。

 

「頑張る時って、何時だよ」

 

 誰もが己の不運を憂い。

 

「今は無理。きっと、頑張っても無理」

 

 誰もが別れの辛さに震え。

 

「やってみるって言っといて、やるだけやった俺は、駄目なのか・・・?」

 

 

 

 ――だから、彼は、吼えるのだ。

 

 

 

「――っざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

 

 突如挙がった咆哮に、呼吸を止めた女性以外の全ての存在から目が向けられる。

 

 あるいは諦めを、あるいは憤りを、あるいは純粋無垢な悲しみを秘めた視線が向けられる。

 

 全ての視線に戸惑いがあり、全ての視線に疑念がある。

 

 だが、全てをブッ千切って、ただ怒りのままに吼え猛る。

 

「やってやる! 将棋の盤をひっくり返して、川の流れを地面ごと傾けて逆流させて、じゃんけんに新しい手を足してやる! やるだけやって、頑張ったっ?! 駄目じゃねぇか! だったらルールが間違ってる! そんなら反則技でも裏技でもなんでも使って、俺がルールになりゃ良いだけだろーがっ!!」

 

「あ、兄上・・・?」

 

「シロっ!!」

 

 その瞳は、只々怒りに燃えていた。

 

 不条理に、苦労が報われない運命に、無駄だと突き付ける法則に、ふざけるなと吼えていた。

 

 混乱しきった表情で目を向けた、未だ目から止まらぬ雫を流す彼女に、確認する為に言葉を重ねる。

 

 

「良いか、シロ。もー一遍だけ聞くぞ。『母上が倒れた。何かをしたい。そんな時、お前ならどーするよ?』」

 

真剣なその表情に気圧されるように、人狼の少女は目を見開き、天狗と男性は出しかけた言葉を詰まらせる。

 

 だが、少女を貫く視線が、飲み込まれかけた言葉を無理矢理紡がせる。

 

「え・・・? だから、それは・・・精の付く物を取って来るでござるが・・・」

 

「例えば?」

 

「・・・蜂蜜、とか」

 

 続きを促す少年の視線に、殆ど思考の止まった少女が、それでも何とか吐き出した言葉。

 

 それが、忠夫の聞きたかった事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――もう一度、尋ねよう。

 

――覚えておられるだろうか。

 

――少年が、青年であった時、ある悪魔に、子供にされたときの事を。

 

 

――そう。

 

 

――彼は『子供でありながら、悪魔の鼠を噛み砕き、竜神の少女を抱え駆け回り、蛇の魔族に立ち向かった』のだ。

 

――『霊波刀も無く、霊能も無く、だが、身体能力だけは人狼の子供並みにあった』のだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうさ。俺とお前で、蜂蜜を採りに行ったんだ。熊が出て、二人で逃げ回って、ドロドロになって蜂蜜を持って帰ってきた俺たちを、笑顔で迎えてくれたんだ」

 

「・・・?」

 

 それは今は彼の記憶にだけある『事実』。

 

 誰もが曲げられぬ、絶対の真実。

 

 子供の心に刻み込まれた、母の最期の力を振り絞った、沢山の感謝の篭った、少しだけ困ったような笑顔。

 

 傍から見れば、母を亡くした事で悲しみに呑まれた少年の戯言であったのかもしれない。

 

 視線を交わした大人達は、少年を一時の安らぎに任せようと動き出し、父は当身の為の手刀を構え、天狗は眠らせるための薬を布に染み込ませる。

 

 だが、そんな二人の行動は目に入らない。

 

 あと、たった一言だけ。

 

 それだけで、全部をひっくり返せると、彼の心が吼えていた。

 

「――此処は、違うっ!!」

 

 言葉にすれば、1秒にも満たない時間の叫びでしかない。

 

 だが、それだけで十分だった。

 

『――そう、違う』

 

 忠夫の叫びに答えたのは、純然たる意思だった。

 

 受け入れる為に記憶を封じ、受け入れ続ける為に魂の力を押さえ続け――変わる為に鍵を掛けた、絶対ながら絶対では無い、何物かの意思だった。

 

 世界は歪む。

 

 不純物を見つけた世界は、体内に入り込んだ異物を吐き出す反射行動のように、己の法則に従って異物を吐き出し始める。

 

 忠夫の周りの空間に振動が走り、背後から忍び寄っていた大人達が弾き飛ばされ、生まれた余波は少女と母の身体を揺らす。

 

 その振動のど真ん中で、魂が引き剥がされる激痛に苛まれながら、それでも目を開いて母の身体に手を伸ばす少年の姿が、ブレた。

 

 一瞬、その小さな背中に成長した彼の姿が浮かび、みちり、と音を立てて肉体から引き剥がされていく。

 

 腰が抜け、太股が抜け、足の先まで剥がされたその魂は、倒れこんだ少年の上から手を伸ばす。

 

「・・・こっからどーしろっちゅーのやぁぁぁぁっ?!」

 

 次に響いたのは、なんとも気が抜けるような情けない青年の声だった。

 

 青いジーパン、ジージャン姿のその背後に暗い穴が開き、猛烈な勢いで吸い込み始める。

 

 だが、その影響を受けるのは青年だけ。

 

 家の中の小瓶も、母にかけられた布団も、驚きで硬直したままの少女も、昏倒して倒れ伏す大人たちも微動だにしない。

 

 だが、じたばたと手足をもがかせる青年だけが、じりじりとその穴に引っ張られていく。

 

「はーんっ!! 失敗したんか俺はぁぁっ?! いーやー! 格好つけるだけ格好つけて、駄目でしたって言ってらかなり駄目な奴やんっ?!」

 

 だが、そこでは終わらない。

 

「もがぁっ?!」

 

 もがく青年の口を抉じ開け、一本の腕が突き出された。

 

 それは獣毛に包まれた、太く強い人狼の腕。

 

 それと同時に青年の額に巻かれたバンダナに、獣の目と、人の目が開く。

 

『――ゴルォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!』

 

 響いた咆哮は、確かに忠夫の方から聞こえていた。

 

 狼のそれは、姿も見せずに、だが確かに青年と少女の耳に届く。

 

 答えるように目を閉じた母から『何か』が噴き出し、突き出された人狼の掌に収束する。

 

 霊体なのに口の中から突き出された腕のせいで呼吸困難に陥った忠夫が白目を剥き、それと同時に人狼の腕が、弾けた。

 

 弾けた腕の中から出現したのは、人の腕。

 

 細く、白い、腕だった。

 

 爆音と閃光の中、突き出された細い腕は何かを確かに握り締め、そして忠夫が暗い穴に引きずり込まれるのと同時に忠夫の中へと消えていく。

 

 最後に巨大な振動が炸裂し。

 

 後には、何も無かったように全てが消えていた。

 

「・・・な、何事でござろうか」

 

 呆然と呟く少女は、その奇跡に気付かない。

 

 気絶したままの少年も、昏倒した大人達もその奇跡に気付かない。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・う、ん。うるさぁぁい、もうちょっとだけ、ちゃんと朝ご飯作るからぁ・・・すぅ、すぅー」

 

 呼吸を止めていた母の永い眠りが、緩やかな呼吸と腰砕けになるような寝言と共に、只の一夜の眠りに変わったことに。

 

 だが、一夜の眠りは一夜の眠り。

 

 ――目覚めは、来る。

 

 確実に。

 

 朝を大切な者達と迎えられる幸せと一緒に、必ず来るのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――また、破綻しただとっ?! 何故、何故あ奴は何時もこうなのだっ?!」

 

「だから、だろう?」

 

「貴様か、手伝え。今度こそ固定する!」

 

「必要無いねぇ。迎えは来てる。全く、何時も何時も彼はこうだ」

 

「――そうか、我は、また、踊らされたのか」

 

「そうかな? 僕は結構面白いと思ったけど?」

 

「・・・やはり貴様とは、合わん」

 

「合ったらそれこそ困りものだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何も無い空間で、たった一つの存在が、長い長い糸に巻かれて動き始める。

 

 それは、優しく呼ぶ笛の音と、強靭な意志と、緻密な古くも新しい魔法と、しょうがないなぁと言う感じの適当で強い力と、誤魔化すような魔力で綴られた細い糸。

 

 だが、何よりも固い、切れない糸。

 

 だから、彼は戻っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 平行世界は、世界樹とも言われるそれは、何故分岐しているのか。

 

 選択する事で、たったそれだけで増えていくそれは、何故増えるのか。

 

 生命が増え、変化するのは――生きる為、生き残る為。

 

 環境に適応し、変化に対応し、遺伝子を残す為だろう。

 

 では、世界が増えるのも、似たような理由ではないだろうか。

 

 幾つかの選択の先にある破滅を避け、続いていく未来を探し、在りつづける為に枝を増やしていくのではないだろうか。

 

 世界も、きっと、消えたくは無いのだろう。

 

 どうしても避けられない破滅が在るのなら、枝が増え様も無い枝なのならば、時には非常手段も取るのかもしれない。

 

 偶々はぐれた因子を取り込み、その瞬間に叩き込む。

 

 無理矢理、乱暴、無茶。

 

 その通り。

 

 全く持ってその通り。

 

 だが、もしかしたら、の一つも無ければ。

 

 世の中はきっと、つまらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっ?! 此処は誰? 私は何処っ?!」

 

「はっはっは。一週間も眠り込んで、目覚めて早々捻りがあるようでない台詞だね、横島君」

 

 飛び起きた忠夫の目に、一番最初に写りこんだのは、苦笑いを浮かべた西条だった。

 

 思わず仰け反る忠夫の脈を取り、呼吸を確かめ、瞳をペンライトで確認した彼は何度か頷くと、背後を差してこう言った。

 

「帰ってきて早々悪いが、あれを収拾つけてくれたまえ」

 

 呆然としたまま忠夫が首を動かせば、窓の外は都会の景色で埋め尽くされていた。

 

 何台も連なった車たちが放つ喧騒と、姦しい街の声。

 

 里では匂わなかった排気ガスと、雑多な人々が放つ化粧品や香水。

 

 そして。

 

「だって、だってだって美神さんばっかりアピールしてずるいじゃないですかぁっ!!」

 

「なっ、だっ、誰が何時アピールしたのよおキヌちゃん! ペットの餌付けは飼い主の役目なだけでしょ!!」

 

「誤魔化しても駄目です! あの料理も、今作ろうとした料理も、何時もよりも気合が入ってるじゃないですか! しかも買ったはいいけど恥ずかくなって箪笥の中に隠してたフリルのエプロンまで付けて、説得力なんてありません!」

 

「なんでおキヌちゃんがそのこと知ってるのよ!」

 

「しかもちょっと化粧までしてるくせにー! ふぇーん! 美神さんばっかりずるいずるいー!」

 

「お、落ち着いておキヌちゃん!」

 

 美神とおキヌが、大量の肉の前でわいわいぎゃーぎゃーやっている。

 

 しかもおキヌが美神に食って掛かり、涙目のおキヌに美神が押されていると言う非常に珍しい光景である。

 

 ピンクのフリルのエプロンを付けた美神は、意外な事に非常に家庭的に見えて良く似合っている。

 

 だが、おそらく自前の真っ白な飾り気の無いエプロンを付けたおキヌも、その切羽詰ったような表情と美神もたじたじの迫力を除けば、常の優しげな雰囲気と相俟って非常に魅力的だった。

 

「ま、あそこが最初で――って、もう行ったね」

 

 視線を向けた忠夫は一瞬で消え、次の瞬間には無意識に振り上げられた美神の膝に撃墜されていた。

 

 何時もの台詞を吐く間も無く流血した忠夫を、どーした物かと横目で見ながらおキヌの矛先から外れてほっと安堵の吐息を吐く美神と、倒れた忠夫を揺さぶりながら噴水のように溢れる血潮をハンカチで押さえるおキヌ。

 

「これ位、この修理ロボット『大工の珍さん』を使えば一発よ。それ、ポチっとな」

 

「だから怪しげな機械を使わないで下さい――って、なんでいきなり中華風に改築し始めてるんですかぁっ?!」

 

『アルヨー。中華の基本はファイヤァァァァァァァッ!! ・・・アルヨー』

 

「・・・ネーミングに問題があったのかしら」

 

「根本的な間違いに気付いてくださいぃぃぃっ!!」

 

「魔り・・・店長! ほら、新しく作ってきたよ!」

 

『しゃげー』

 

「何で動いてるんですかっ?! と言うかあっちの食材を使うのはやめて下さいって言ってるでしょうっ?!」

 

「多分美味しいに違いないさ。ほら、んぐ・・・ぐふ」

 

「ああまたっ! ば、万能薬はまだ在庫あったかしら!?」

 

 その向こうでは怪しげな八の字髭を生やしたロボットが、綺麗な洋風のレストラン魔鈴を見るからに不審な中華飯店に改築しようとして箒に掃きだされ、メドーサが奇妙な極彩色の蠢く何かを食べていきなり前のめりに倒れている。

 

 外に出たロボットに銃弾を打ち込んだ西条は、完全に動きを止めた事を確認して溜め息一つ。

 

「・・・横島君が無事に帰って来れた事を祝う会、はどうなったんだろうね」

 

 メドーサが料理を学びたい、とルシオラに対抗して危険薬の密造・保管で説教を喰らって留置場で冷たいご飯を食べ終えた魔鈴に弟子入りしたり、魔鈴が魔族と元魔族の問題児二人を抱えてついでに頭も抱えていたり、レストランの開店が延びたり、何時になったら魔鈴をデートに誘えるのか、と悩む西条が居たり。

 

 その隣では復活した忠夫とおキヌが何気に良い雰囲気を作っていて、美神がそれを不満げに半眼で睨んでいる。

 

 拳が光って唸るまでカウントダウンは後数秒、と言ったところか。

 

「あー、全く。結局、僕が一番寂しいのかもしれないねぇ」

 

 だが、そんな西条の肩を叩く手が在った。

 

『アルヨー』

 

『しゃげー』

 

「・・・ま、待った! 幾らなんでも同時はキツイっ!!」

 

 銃弾を喰らってちょっとへこんだロボットも、齧られて怒り狂った物体も、聞く耳は持たなかった。

 

「ま、魔鈴君、令子ちゃん! 横島君でも良いから手伝って――うわわわわっ?!」

 

 

 なべて世は事も無し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、此処ではないどこかの歴史の枝葉にて。

 

「兄上っ! ほら、修行の時間でござる!」

 

「待て! 全部食べてから!」

 

「早くしないと拙者が食うでござるぞ?」

 

「こら、子供のご飯を取らないの。ほら、ほっぺにご飯つぶ付いてるわよ」

 

「ん・・・ありがとうでござ――ありがとう! では、行って来るでござ――むー。なんでござるっていっちゃうかなー」

 

「ふふふ、ほら、行ってらっしゃい」

 

「行ってきます!」

 

「行ってくるでござる!」

 

 

 

 

「「――母上っ!!」」

 


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