奉仕部と私   作:ゼリー

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第二十三話

       ◇

 

 総武高校最大の行事と言えば、文化祭であった。

 生徒たちは授業そっちのけで準備に走り回り、肥大した妄想に打ち込み、ときには自分たちが青春を謳歌しているような気分になったりもする。学校の敷地内には所狭しと模擬店が立ち並び、味と衛生状態に一抹の不安が残る食べ物を、暑苦しいまでの元気とともに通行人の口にねじ込もうとし、校舎に入ればあらゆる教室で催しが開かれ、喫茶店だのお化け屋敷だのゲームだのと判で押したような主体性のかけらもない出し物が軒を連ねる。一方、体育館ではいわゆるイケてる生徒たちを筆頭に、歌って踊れる生徒たちが入れ替わり立ち替わりに舞台を踏み、面白くもない演劇やら特技を披露せんと客を集め、己が情熱を無理強いする。

 模擬店で、教室で、体育館で、彼らは客へ何を与えようとしているのか。訪れた人々が目にするのはあり余る暇と情熱そのもの、はたから見れば面白くもなんともないもの、すなわちあの唾棄すべき「青春」そのものにほかならない。

 また、そのどさくさにまぎれ、とっつこうひっつこうと右往左往する若人が後を絶たなかったのは言うまでもない。文化祭は高校生カップルの大量生産工程と呼ぶことができた。生徒の大半が慢性の微熱続きのような状況では、たいていの人間は理性を失い、あたかも自分がロマンティックな人生を生きているかのように思い込み、恋愛妄想はやすやすと閾値(いきち)を超え、あれれと目を擦っているうちに、仲良く下校する幸せカップルで周囲は充満してしまうことになる。あたかも残り少ない食料を奪い合うがごとき発情ぶりには苦笑を禁じえなかった。

 らんちき騒ぎを厭い、静謐と安寧を愛する私のような孤高の哲人に、カップル大量生産工程たる文化祭など、なんの御縁があろうというものか。前回の反省を活かし、私はこの度の文化祭参加を見送る心積もりでいた。

 だがしかし、そうは問屋が卸さなかった。

 

       ◇

 

 始業式を終え、休み明けの授業もそこそこに、校内は文化祭の準備で活気づいていた。

 私はぼんやりと黒板を眺めた。実行委員という肩書の下に、「比企谷」という文字が書きなぐられている。実行委員とはすなわち、文化祭の一切を取り仕切り暗躍する者たちを指す。影日向あらゆるところで幅を利かせ、祭りを盛り上げながらも生徒たちを監視し、大団円を目指して日夜頭がおかしくなるほど雑務をこなす豪の者たちである。

 比企谷はいかにして実行委員になりしか。労を厭い、群れを避け、利己を貴ぶ男がなぜかような役割を担うことになったのか。簡単である。ただ、押し付けられたのだ。文化祭の役割を決めるLHRをサボって保健室で仮眠をとっていたのだから自業自得というほかあるまい。授業を始めようとやって来た平塚先生が、未だ決定しない実行委員に「比企谷」を任命した時には、思わず頬がにやけた。さればこそ横暴極まる国語教師である。保健室から帰ってきた比企谷の顔と言ったら、えもいわれぬ味わい深いものがあった。後で、散々にこき下ろしてやろう。ちなみに、私はクラスで催す演劇の小道具制作に立候補する予定だ。なんでも「星の王子さま」を題材にした劇をやるというから、まだ台本には目を通していないが、関わらずにはいられないだろう。

 さて、放課後の現在、我がクラスは女子の実行委員を決めるべく紛糾していた。誰が好き好んで面倒な実行委員などなるものか。ましてやそれが比企谷の相棒となればなおのことである。女性陣はお通夜もかくやとばかりに静まり返っていた。

 

「このまま決まらなければ、じゃんけんにしますか」

 

 教壇に立つ男子生徒が提案すると、背後で威嚇じみた声が上がる。女王蜂である。名前は知らない。男子生徒は苦笑いを浮かべて沈黙した。

 その後もぽつりぽつりと声が教室の各所で上がったが、どれも決定的な意味を持たず雑談に似た様相を呈していた。阿呆らしくなった私は窓の外を眺めて時間を潰すことにした。そのうちにうつらうつらし始めて、机に肘をついて顎を手に載せるようにして目を閉じた。かすかに由比ヶ浜さんの声が聞こえたあたりで、私は本格的に睡魔を受け入れた。

 後ほど聞き知ったのだが、もう一人の実行委員は相模という女子になったそうである。誰だか知らないが、私は比企谷のパートナーという、あまりに過酷な道程を歩む彼女の幸運を心の片隅で祈った。

 

       ◇

 

 奉仕部を辞した現在、私の放課後は、家に籠り読書と思索、近所の本屋めぐり、あるいは文化祭準備への短時間の参加、ほぼこの三つで構成されていた。ここへ適宜、材木座や比企谷との会話、海岸の散歩などを織り交ぜてやれば、私の放課後が成立する。まだ半月ほどであるが、私の日常は非常に簡潔であった

 日常が簡潔であるに越したことはない。真の偉業は、劇的な日常とは無縁の場所でひっそりと為されるものだ。とりあえずコレといった有意義さを示すことができないのが残念だが、私もまた古今東西の偉人たちと肩を並べようとする人間であって、思索を搔き乱す波乱万丈な日常など欲していない。無駄な労力を割いていた奉仕部から離れた今、ただ静かに放っておいて欲しいと思う。ちょっと寂しいときにだけ、かまってくれれば十分だ。

 しかし、かまって欲しいと思うときにはかまってくれず、放っておいて欲しいときには放っておいてくれないのが世間というものである。

 

 翌週のことである。放課後、私は平塚先生に呼び出されて生徒指導室を訪れていた。

 受理されていない退部に関する話し合い、もとい説教であることは容易に想像がついた。重くなる気持ちに発破をかけて私は眦を決した。なぜこちらが譲歩する必要があるのか。一生徒の当然の権利を行使したまでなのだから、泰然自若としていればいいのである。臆していてはつけ込まれかねない。是々非々の砦に屹立して、堂々と相対してやろう。願わくは鉄拳が炸裂することのなきよう。

 

「どうだ、生まれ変わる算段はついたかね」

 

 先生は車中の会話を引き合いに出してそう言った。

 私は男らしく無言で頷いた。むろん、算段などまるでついていない。

 

「そうか。まあ、とにかくやってみるといい」

「はい」

 

 返事をしたものの、私は肩透かしを食らった気持だった。まさかあっさりと肯定してくれるとは思わなかったのである。だが、やはりそれには裏があったようだ。

 

「かけがえのない時間なのだ。高校生の間は望むことをすればいい。やるべきこと疎かにしてはならないが、やりたいことをするのが一番だよ」

「はい」

「ところで、君に頼みたいことがある」

 

 平塚先生は煙草の火を消して、まっすぐに私を見つめた。

 私は目を泳がせる。嫌な予感が背筋を撫でた。

 

「お断りすることは可能ですか」

「まだ、何も言ってないだろう」

「目は口ほどに物を言いますから」

「ほう。して、どんな頼みだと?」

「考えも及びませんね。ただ非常に面倒な予感がしまして」

「……ふむ。どうだろうな。それは君次第といったところか」

「ほかの人に頼めませんか」

「君でなければだめなのだ」

「そうですか」

 

 私はきっぱり諦めた。このまま禅問答に漸近していく会話をしていても、おそらく回避は不可能だろう。

 先生は口の端で微笑んでから、やや表情を固くした。

 

「雪ノ下が文化祭の実行委員をやっているのは知っているか」

「いいえ」

「うむ。あいつは実行委員会の副委員長を務めている」

「はあ」

「さすが雪ノ下だ。彼女のおかげで会議も実務も滞りなく進んでいるわけだが――」

 

 そうして平塚先生が語ったのは、現在、雪ノ下さんが置かれている状況についてだった。

 

 知らんがな。

 平塚先生の頼み事とやらを聞いて、私は思った。

 なんでも雪ノ下さんは、文化祭実行委員会の第二位の立場で粉骨砕身であるという。やることは山のようにあり、文化祭までの時間は限られているから、実行委員諸氏は放課後の時間、仕事に忙殺されていたらしい。それでも、雪ノ下さんがその辣腕をいかんなく発揮することによって委員会の雑務は滞りなく進んでいたそうだ。

 しかし。

 ある日を境にして、委員会に緩慢な空気が流れ始めた。平塚先生はその理由についても軽く触れていたが、よく聞いていなかったため覚えていない。ともかく、委員たちの出席率がひどく低下したのである。各自、クラスの用事を優先しているとのことであった。日に日に委員が減っていく中、一方で有志団体の申請やらなにやらで仕事は増えていく。結果、どうなるか。

 

「雪ノ下が一人ですべてを抱え込むという状況になっているようだ。文実とは関係ないが、進路調査の書類を提出することも忘れていたくらいだ」

 

 ああ、そういえば比企谷も頑張っているみたいだな、と平塚先生は付け足した。私は無意識に漏れかけた嘲笑を慌てて引っ込める。仕事に追われている比企谷を想像して胸がすくような快感を覚えた。

 

「それとな。あくまでも私見だが、奉仕部の方もどうやら上手くいっていないと感じた。君は知らないだろうが、夏休みの間はほぼ活動していないのだよ」

 

 平塚先生はそう言って、私の心を透視するように目を細めた。

 

「雪ノ下をサポートしてやってくれないか」

「は?」

「根を詰めすぎているよ、彼女は。誰かの助けが必要だ。かといって、素直に助力を乞う奴でもない。だからね、君からあいつを手伝ってあげて欲しい」

「どうしてぼくが」

「退部を認めたわけではないが、雪ノ下が奉仕部内で問題を抱えているらしい今、少し離れた立ち位置にいる君が適任だと思ったからだよ」

「あの、ちょっと意味がわかりません」

 

 意味は分かったが、その意味を頭の中で十分に咀嚼することが困難であった。知らんがな、私はそう思った。そしてやはり、退部の件は保留されているらしい。

 

「まあ、単純に考えてくれたまえ。気分転換させてやればいい。文実の仕事は大事だが、あいつの心身も慮らねばな」

 

 そうか、とひらめく。

 雪ノ下さんは私や比企谷に匹敵するほど知人友人の類が少ない。そして真偽は定かではないが、奉仕部にまた以前のような問題が持ち上がっている。とすると、必然的にその謎の役割が私に回ってくるということか。なんだ、簡単な方程式じゃないか。いやいや、そんな馬鹿な。合理的な暴論もほどほどにしていただきたい。

 平塚先生の口ぶりには、私をいま一度奉仕部へ近づかせようとする思惑が透けて見えた。内心うんざりして私は言った。

 

「自身の管理くらい雪ノ下さんが怠るとは思えないのですが。というより、好きでやっているのだから、放っておけばいいのでは」

「好きでやっているか……本当にそうならいいのだが」

「違うんですか」

「私の口からはなんとも、な。それに、このままだと比企谷が……いや、これはいいか。ともかく、よろしく頼む」

「拒否権は」

「断ってくれても、かまわないよ」

 

 平塚先生は素敵な笑顔で言った。私は気の触れたような断続的メールを思い起こして、慄然とした。

 

「具体的に、何をすれば」

 

 私はしぶしぶ頷いて尋ねた。

 

「うむ。少し仕事を回してもらえばいい。あとは、そうだな……休日に遊んでみるのはどうかね? 不純な交友は認めないが、ちょっとしたデートくらいなら許可しよう」

 

 私は鼻で笑って黙殺した。

 

「報酬は今度またラーメンを奢ってあげるとしよう」

 

 ラーメンごときで懐柔されるのは甚だ遺憾である。我が身を購おうとするならば、高級焼肉くらいの報酬があってしかるべきだろう。私は否を表明できない自身の意志薄弱さが恨めしかった。

 

       ◇

 

 ともあれ。

 生徒指導室を出た私は、文化祭実行委員会が開かれているという会議室まで足を運んだ。

 ドアの丸窓から内部の様子を窺うと、空席が目立つことに気が付いた。並べられた長机の半分も埋まっていない。そんな中、出席している委員たちは書類やパソコンを開いて仕事に励んでいた。金銭が発生しないにも関わらず、よくもまあ立派なものである。対価はいわゆる達成感、あるいは青春というやつであろうか。

 私は会議室全体を睥睨するように並ぶ執行役員たちの机に目をやった。一つを除いてすべて空席だ。その一人は黙々とキーボードを叩いている。副委員長の雪ノ下さんである。ひと月半ぶりに見た彼女は、心なしか顔色がすぐれないように見受けられた。平塚先生の言っていたことは本当なのだろう。

 会議室のドアが開いて、中から比企谷が姿を現した。

 

「やっているか、労役囚」

「誰が囚人だぼけ」

「え、違うのか?」

「……で、何の用だよ。メールで呼び出しなんかしやがって」

 

 比企谷は苦々しく顔をしかめて言った。

 

「いや、なに、後学のためにと強制労働の見学に来てみたのさ」

「てめえ、ケンカ売ってんのか」

「おまえに売るものなど何一つない。馬鹿にするな」

「いやいや、トチ狂ってますかあなた。明らかに馬鹿にしてるのそちらですよね」

「なあ。そろそろ本題に入っていいか」

「さっさと入れやボケナス!」

 

 文化祭準備に関する諸々の進捗を尋ねると、比企谷は「なんでそんなことを?」と間抜けた表情を浮かべたが、私が促すと簡潔に説明してくれた。彼の話は概ね先ほど平塚先生から聞いた話をなぞるものであった。一つ気になったのは雪ノ下さんの姉である陽乃さんが、しばしばOGとして文実に参加しているという話だ。

 

「大学生とは暇なのか?」

「有志で文化祭に出るらしいが、詳しくは知らん」

「ふうん。ほかに変わったことは」

「変わったことというか、驚くべきことならある。俺が労働の味を嫌というほど噛みしめている」

「やったな。過労死の日も近いぞ」

 

 私はそう茶化して、持っていた缶コーヒーを差し出した。比企谷は目を見開いて、私と缶コーヒーに視線を彷徨わせる。

 

「やるよ」

「おいおい、嘘だろ。明日は空が落ちてくるんじゃねえか。カタストロフィか」

「失礼だね君。ねぎらいだ」

「売るものがないんじゃなかったのか」

「慈悲だ、施しだ、恩賜だ」

「そうかい」

 

 比企谷はにやりと不敵に笑うと缶コーヒーを受け取って礼を言った。

 会議室に戻る比企谷の後姿に私は声をかける。

 

「委員会が終わったらメールをくれ」

「あいよ」

 

 私はそのとき、閉じていくドアの隙間から、雪ノ下さんが横目でちらりとこちらを窺ったような気がした。

 

       ◇

 

 文化祭実行委員会の活動が終わるまで、私はクラスの企画を手伝うことにした。

 前述しておいたが、我がクラスでは演劇で「星の王子さま」を披露する。私は未だ台本に目を通しておらず、つまり台本を貰っていないのだが、そのことを脚本を書いた女生徒にそれとなく仄めかしてみると、先方は非常に慌てて言い訳じみたことを捲し立てた。

 

「ご、ごめんねえ! 他の子たちが紛失とか家に忘れたとかで、いま手元に予備がないんだよ。これからコピーしてくるから待っててもらえるかな」

「あ、あ、いや。大丈夫かな。えっと、やることは分かってるから、つまりその、小道具を作るわけなんだけど。まあ、劇の内容は本番を楽しみに待つよ」

 

 私はそう言っておとなしく引き下がった。忙しくしている彼女の手間をわざわざ増やすこともなかろう。どうしても必要であれば戸塚君に見せてもらえばいい。

 眼鏡の女生徒は「そう?」と上目遣いで申し訳なさそうにしている。すると、そこへあの女王蜂がやってきた。自然と私の体は強張った。肉食獣に相対する獲物のごとき反応である。我ながらなんとも情けない。

 

「海老名ぁ、ポスターのことなんだけどさ――ん、どしたん?」

「台本が足りなくてねえ。まだ貰ってない人がいるみたいなんだ」

「誰?」

「彼」

 

 海老名と呼ばれた女生徒が私を指す。そうして、ふたたび「ホント、ごめんねえ」と眉を寄せた。

 

「うっそ、まだ台本貰ってないとか、マジウケる」

 

 ピクリとも表情筋を動かさずに女王蜂はそう言った。言動に全くつながりがない。ウケると言うなら感情を表に出して欲しいものである。

 

「けど、無いのは困るんじゃないの? あーしのあげよっか?」

 

 思わぬ提案に、私は一瞬呆然としてから手を振った。

 

「いや、いらない。本番までとっておく――おきますから」

「はあ? 何それ。つーか、あーし家に置き忘れてきただけだから、遠慮とかいらないけど?」

「そうだよ、貰っておきなよ。このままじゃ悪いし」

 

 ここで断るのは無粋な気がした。というより、断るといらぬ軋轢を生みかねないと私は判断した。クラスの最上層に位する彼女の機嫌を損ねるのは悪手だろう。念のため申し添えておくと、べつに怯えているわけではない。静謐と安寧を愛するがゆえ、それに差し障る火の粉をただ振り払おうというだけである。

 女王蜂が丸められたシワだらけの台本を差し出す。私はやむを得ず頭を下げて受け取った。

 

「では、いただきます。ありがとうございます」

「べつに、全然。てか、タメなんだし敬語とかいらなくない? キモいからやめろし」

「は? え、ああ。うん」

「ふふっ、よかったね。じゃ、小道具の方、お願い」

 

 海老名さんはそう言うと、敬礼の構えを見せて笑った。私はもう一度礼を言ってその場を離れた。背後で女王蜂の「で、あいつ誰?」という声を耳にしたが、そこはかとなく気分が高揚していた私は、聞かなかったことにして小道具制作に取り掛かった。

 

 ひたすらボール紙で星を作るという単調な作業を繰り返していると、しだいに没我の状態に入っていた私は、肩を叩かれてはっと我に返った。五芒星がヒトデに、ヒトデが人の手に見えてきた辺りで、私はおそらくエロティックな妄想に耽り始めていたと思われる。

 振り返ると川崎さんが鞄を背負って立っていた。

 

「下校の時間だよ」

「いつの間に……」

「もう、みんな引き上げてるよ。あたしも帰るけど」

「俺はあと少しだけやっていこうかな」

「あっそ。じゃあ、鍵の始末しっかりね」

「はいはい」

「はい、は一回」

「はい」

「それじゃあね」

 

 川崎さんが教室を出ていくと、ポケットの中の携帯電話が震えた。

 私は急いで作業を終え、教室の戸締りを確認して職員室へ鍵を返しに向かった。

 

 会議室の前では比企谷が超然と突っ立っていた。ほかに誰一人おらず、廊下にぽつねんと影を投げかけて佇む男の姿はどこか荒涼とした趣きがあった。

 私は悠々と歩いて近づいた。

 

「よう。終わったの?」

「ああ。で、なんか用か」

「いや、べつにおまえに用はないんだが。いや、ある。中は誰かいるの?」

「んだよ、それ。雪ノ下がまだ一人で仕事してる」

「そうか。よし、おまえにさらなる労働の機会を与えよう。ともにやってくれるな?」

「断る。いままで散々働いたっつーの。本日は店じまいだ。これ以上は一秒たりとも働かない。話がそれだけなら俺は帰るぞ。また明日も文実があるんだ」

「おい、待ってくれよ。いや、マジで――アッ、本気で帰るんだな! 俺を残して!」

 

 比企谷は背を向けて廊下を昇降口に向けて歩いて行った。取り残された私はしばらくの間、うんうん唸って意味もなく携帯電話を手に持ったり、窓の外を眺めたりしていたが、やがて意を決すると会議室のドアをノックした。

 

「どうぞ」

 

 


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