◇
二年に進級した直後のある日だった。
すべての授業を終え、帰りのホームルームも滞りなく済ませた私はそそくさと帰りの支度をしていた。哀愁を漂わせながらも毅然とした私に、共に帰ろうなどと声をかけてくれる生徒など、むろんいるはずがない。私は放課後の開放感に浮かれきった声を背中で聞きながら、気安げな雰囲気を辺りに撒き散らすことを忘れずに教室を出ようとしたのだが、その寸前で担任の教師に呼び止められた。「用があるから職員室まで来なさい」と告げられ、はてなと思いつつもいたし方なく、職員室へと向かった。そして気がつけば、なにゆえか国語と生活指導を担当する平塚先生の前に立たされることになっていたのだった。
「なあ比企谷、私が出した課題は何だったかな?」
平塚先生は、私の少し前に立つ生徒に声をかける。
「高校生活を振り返ってというテーマの作文でしたが」
そう答える比企谷と呼ばれた生徒の後ろで、なにゆえ呼び出されたか判然とせぬ私はぼおと突っ立っていた。ぼおっと突っ立っているだけではつまらないので、二人の会話を聞き流しながら、ほとんど入室したことのない職員室を眺めていたりした。
「おい、お前もそうだぞ。なぜあんな作文を書いた? ――どこを見てるんだ、こっちを見なさい」
出し抜けに声をかけられた私は、「はへぃ」などというおよそ言語とは呼べぬ奇怪な音を発して平塚先生を見遣った。
「なにが『若年層における漸次的な退廃、あるいは想像力の欠如』だ。欠如しているのはお前の耳目の方なんじゃないのか?」
「……」
私が書き上げた作文は振り返りたくもない一年間に対する恨みつらみ妬み嫉みといったこの世に蔓延るありとあらゆる怨嗟が詰め込まれていながらも、血の滲むような思いで学術的小論文に昇華させることに成功した稀代の傑作である。それをこう一蹴されては、如何に温厚な紳士である私といえども黙っちゃおけない。反駁しようと拳を握ったが、平塚先生から発せられる有無を言わせぬ雰囲気に文字通り有無を言わずにシュンと黙り込んでしまった。これは戦略的撤退である。断じてヘタレなんかではない。
とはいえ、呼び出された理由に納得はいった。振り返るべき生産的な高校生活を持たない私は、上記のような怪文を提出することによって、少しでも意趣返しがしたかったのだ。その対象はもはやなんでも良かった。鬱屈した今にも弾け飛びそうだったパトスを持て余していた私に、渡りに船だったのが件の作文だったというわけだ。職員室に呼び出されるくらいなら適当に虚実をとりまぜ並べておいた方が利口だったとちょっと後悔した。
「はぁ……ったく」
平塚先生はため息をつくと長い黒髪をかき上げる。そしてじっと前にいる男子生徒を見つめて言った。
「君の目は死んだ魚のような目だな……」
「そんなDHA豊富そうに見えますか? 賢そうっすね」
さらっと交わされた会話に、私は驚愕した。まるで仲のいい先輩と後輩が軽口を叩き合っているようにしか聞こえない。もしかするとこの二人は近所の幼馴染だった過去があるのではないだろうか。それにしても、男子生徒の切り返しに、「真面目に聞けっ」と、すごむ平塚先生は、死んだ魚のような目という辛辣な表現を生徒に向けておいて果たして真面目なのだろうか、甚だ疑問である。
「俺はちゃんと高校生活を振り返ってますよ。近頃の高校生は大体こんな感じじゃないですかね」
すごまれた男子生徒は、動揺を隠しきれず度々つかえながらそう言った。
「小僧、屁理屈を言うな」
「小僧って……まあ、確かに先生の年齢からしたら俺は――」
「え?」
思わず私は声をあげていた。なぜならば、平塚先生の見事な正拳突きが男子生徒の横顔間一髪の空間を占領したからである。一陣の風が吹きぬけると平塚先生は並々ならぬ怒気を込めて「女性に年齢の話をするなと教わらなかったのか」と言った。女性に年齢云々の話題を持ち出すことは失礼に当たる、それは私でも知っていたが、仮に持ち出してしまった場合、まともに直撃するとこれから先の社会生活が困難になりそうなグーが飛んでくるとは想像すらしていなかった。私は戦慄すると同時に、予め知ることが出来てほっと安堵した。
男子生徒は一瞬硬直したが、すぐに気を取り直した。失禁でもしているのではないかと心配したがどうやら杞憂のようだ。
「すいませんでした。それじゃあ書き直してきます」
「同じく、書き直させていただきます」
男子生徒の反省に乗じる形で、早々とここから退却するべく私は頭を下げた。
「まあ、待て。今日はお前たち二人にある提案をするつもりだったんだ、この作文を読んでピンと来てな」
「提案……?」
「そうだ。お前たち二人とも友人がいないだろう?」
何を言い出すかと思えば、何を言い出しているのだこの教師は。私の一番ナイーブなところを易々と握りつぶす何の権利があるのか。如何ように考えても真面目じゃないのはこの教師のほうではないのか。大体において本質を突く行為は諸刃の剣に等しく、必ずしも正しいとは限らない。歴史を紐解けば、そんな諸刃の剣で大立ち回りを演じたあげくに墓穴を掘った先人たちが数多く存在したではないか。身近なところで言えばK君がその代表例である。彼の場合、墓穴を掘っているという自覚は間違いなくこれっぽっちも無かったであろうが。
私は平塚先生の的を射た発言にぷるぷる震えながら黙秘することにした。
「いたらあんな作文なんて書きませんよ」
「まあ、そうだろうな」
対照的に男子生徒は毅然とそう言ってのける。私は彼の度量の広さに脱帽した。ところで、彼は何者なのであろうか。高校生にもなって友人の一人もいないという人間的大欠陥を抱えながらも公然と言い放つことを憚らないその姿勢から察するに、どこか蓬莱島の仙人か、はたまたただの阿呆か。私は彼に好奇心を感じると共に薄暗い親近感を覚えた。同じく呼び出されたということは彼の書いた作文も、余程の滅法さを呈していたのであろう。是非拝読したいものである。
「提案と言ったがな。ほとんど強制みたいなものだ」
「はい?」
「よし、それじゃあちょっとついてきたまえ」
平塚先生はそう言うと、白衣をはためかせながら職員室を出て行った。彼女の後ろ姿を見守りながら、白衣なんか着やがって国語教師としての矜持はないのかと怒鳴りつけてやりたくなったが、やりたくなっただけでそんな度胸は持ち合わせていなかった。
「早くついてこい」
「うっす」
急かされた我々は、男子生徒の返事を皮切りに、平塚先生についていくことにした。この時、私は初めてこの男子生徒、比企谷君の姿容を確認したのだが、平塚先生の言葉はまことに正鵠を射ていると納得せざるを得なかった。そこには、ひどく縁起の悪そうな顔があったのだ。顔立ちそれ自体は決して悪いものではないのだが、とにかく目がまずかった。なるほど、死んだ魚のような目というのは言い得て妙で、それ以外の例えを探す方が難しいように思われる。一介の男子高校生を以ってしてここまで濁り腐った目をさせしめる来歴とは果たして何であろうか。平塚先生の後についていきながら私は考えた。考えてはみたものの、なんだか棚上げ作業をしているのではないかという危惧を抱きはじめ、一刻も早く鏡で自分の双眸を確かめたくなった。いや、確かめねばならない。
私が野暮用を願い出ようか逡巡していると、平塚先生は特別棟のとある教室の前で立ち止まり我々を振り返った。
「ここだ」
どこだ。私は今すぐに自分の目で目を確かめなければならぬのだ。トイレに向かわせてください。さもなければ、所持している手鏡の類を貸してください。一刻を争うのです。そんな想いが通じるわけもなく、平塚先生はドアを開けると教室へと入ってしまった。もういっそのこと比企谷君の瞳に映してみようかと血迷った。これ程までに濁った目であれば、相対的に私の目は光り輝いて見えること請け合いだろう。そんな気色の悪いことを考えていると、比企谷君も教室へ入ってしまったので、私は致し方なく続くことにしたのだった。
◇
彼女の美しさは圧倒的であった。花のような匂い立つ麗しさと触れれば切れてしまいそうな鋭利な刃のような美しさを兼ね備えているようであった。私は、いまだかつて出会ったことのない凄絶な美を前に、情けないかな直立不動のまま動けなくなってしまった。白状しよう、私は一目ぼれという唾棄すべき錯乱行為に陥りかけていたのだ。しかし、堪えた。なぜならば、我が主義に反するからである。
その女生徒は雪ノ下といった。
「雪ノ下、ちょっといいか」
我々を引き連れた平塚先生は、窓際で椅子に座り優雅に読書をするその女生徒へそう声をかけた。
雪ノ下と呼ばれた女生徒は読んでいた文庫本から目を離してこちらへ顔を向ける。その端整な顔立からは、静謐な空間を侵そうとする闖入者を咎める意思が窺えた。
「平塚先生。入るときはノックをお願いしたはずですが」
顔立ちもさることながら、声も玲瓏として耳朶に心地よい。私は以前から、女性特有の謎のふくらみと並行して声にも重点的価値を置いており、様々な媒体を通してその研究に日夜余念がなかった。そんな私の琴線に触れる美しい声に、再び錯乱しかけた私であったが、理性を総動員しなんとか堪え忍ぶことができた。一目ぼれなどという一過性の精神錯乱、私の誇りが断じて許さない。
「はぁ……それで、そちらのぼさっとした人たちは?」
「彼らは入部希望者だ」
平塚先生は女生徒の質問にそう答えると、比企谷君と私を紹介した。
「ちょ、ちょっと先生。入部って何ですか?」
至極当然の質問を比企谷君が発する。暴走しようとする感情を押さえつけることに集中していた私も、なにか聞き慣れない言葉を耳にして平塚先生の返事を待つことにした。
「罪には罰を与えなければいかんのでな。君たちにはナメくさったレポートの罰として、ここでの部活動を命じる」
厄介なことになった。私は一瞬、この美しい女生徒と放課後の洒落たランデブーを設置してくれたのではと思い、粋なことをするものだなと感心していたのだが、どうやら違ったようである。それにしても私の結実たる作文をナメくさったレポートとは言ってくれる。
「というわけで見ればわかると思うが、こっちの比企谷はこの腐った目と同様、根性も腐っていてな。そのせいでいつも孤独な哀れむべきやつだ。この部で彼のひねくれた孤独体質を更生する」
私は、比企谷君の顔色を窺った。さしもの比企谷君といえども、今の言葉には気分を害して然るべきである。苦々しい顔つきで彼はそっぽを向いていた。
「そして彼だが――」
平塚先生は私のほうを指して続ける。
「私の感知する範囲で人と喋っているところをついぞ見たことがない。提出されたレポートからはそれを裏付ける捻じ曲がった性分がひしひしと伝わってきた。哀れみ度で言えば、比企谷の上をゆく弧弱体質だな。彼もここで更生すべきだ。以上が私の依頼だ」
まったく以って余計なお世話である。大体においてここに至るまでの過程で私はほとんど口を開いていない。牛に引かれて善光寺となるならまだしも、流されるままについて来てみれば刑務所かここは。目の濁り腐った比企谷君は妥当かもしれないが、清廉潔白な私を捕まえてこのような不当な扱い断固として認めるわけにはいかぬ。横暴な職権乱用に対し、いかなる慷慨演説も辞さない構えである。
私は美しい女生徒のことなど失念して、一応のどの調子を確かめてから憤然と口を開いた。
「待ってください。ぼくは確かに孤独な人間かもしれませんが、決して哀れみの対象ではないし、更生の必要もないと思っています。……そこでですね、折衷案として仮入部ということで手を打ってはいただけませんかね」
よく言った私。ここで言わねば、あとで後悔しても報われない。それに仮入部ならまだ猶予が残されている。入部を拒否すれば平塚先生のことだから、おそらく、物理的にものを言わせるだろう。もしかすると殴り合いの様相を呈すかもしれない。別段怖くはないのだが、女性を相手に拳を握ったとなれば私の名誉に関わる。そのような末代までの恥だけは避けねば子々孫々に申し訳が立たない。繰り返すようだが怖くはない。
「ふむ。一理あるな。比企谷のは論外として、お前のレポートは少々難解だがテーマから完全に逸脱しているとはいい難いところもある。いいだろう、仮入部を認めてやる。まあいずれ正式に入部することになるだろうが」
「ありがとうございます」
平塚先生は最後になにやら不穏なことを付け加えたが、それは私の意思次第なのだから関係ない。そんなことよりも、ここは何部なのか。今まで部員一人で機能していたのだから、非活動的なゆるゆるとした部なのだろう。私にぴったりではないか。それに、こんな美しい女生徒と斜陽が差し込む教室で読書を嗜みつつ知的な会話を楽しむのも悪くあるまい。一年間でどこかに振り落としてしまった社交性も身につくにかもしれない。本意ではないが、柔軟な社交性が身についた結果、この美しい女生徒と「イイ仲」になったとしても、特にそれを拒む理由はない。予防線も張ってある。何かの弾みで芳しくない状況に陥ったらスパッと抜ければいいのだ。よし、この際だ、入学間際の信条にはとりあえず身を潜めていてもらおう。
あまりにも完璧な未来予想図に私は軽く武者震いしていた。
「平塚先生、話を勝手に進めないでもらえますか」
「なんだ、嫌なのか」
「はい、お断りします。そこの男の下心に満ちた下卑た目を見ていると身の危険を感じます」
女生徒は我々のほうを見てそう言った。私は、まさかと動揺した。今の独白が漏れてしまっていたのだろうかと、比企谷君の方を窺った。しかし、彼の動揺ぶりも尋常じゃなかったので、「下心に満ちた下卑た目」という汚名は彼に押し付けておくことにした。
「彼らにそんな度胸はないよ雪ノ下。もしあったらここにこうして連れて来られることもなく、高校生活を大いに楽しんでいるだろう。だからこその哀れむべきやつらなんだ。そこは信用してくれていい」
「なるほど……」
ここで比企谷君が初めて私に声をかけた。とても小さな声で「これ俺ら貶されてるよね? 馬鹿にされてるよね? 怒っていいよね?」などと言っていたが、私は比企谷くんの目が余りにも濁りすぎていて、私の目はおろか何も映らないことに気をとられ、なんとはなしに「ふぅん」と答えていた。
「はぁ……。はい、それでは承ります。先生からの依頼であれば無碍には出来ませんし」
「そうか。ならよろしく頼んだぞ雪ノ下」
「ていうか俺は正式入部なのかよ……」
「勿論だ。精々励みたまえ」
平塚先生はそう言うと、颯爽と教室を出て行ってしまった。
比企谷君は、ドアの方を睨んでいたが、顔を私の方へ向けると訴えかけるような目で見つめてきた。しかしやっぱり濁り腐っていて、何を伝えたいのかまるで判然としない。
私が黙って見つめ返していると比企谷君は痺れを切らして言った。
「おい、ズルいぞ」
「何が」
「何がってお前……仮入部のことに決まってるだろ」
「ズルくはないだろ。仮入部は制度として認可されてるんだから」
「そういうことじゃねえよ」
「なんだよ。どういうことだよ」
「あのなあ――」
「不毛な争いをしていないで座ったら」
我々は女生徒、雪ノ下さんにそう
「ここ何部か知ってるか?」
沈黙を破って比企谷君がそう尋ねてきた。直ぐ隣に座る私は「いや、分からない」と答えて雪ノ下さんに尋ねてみるよう目配せした。
「当ててみたら?」
「聞こえてたのかよ……」
「弁論部」
「はずれ。どうしてそう思ったのかしら?」
あてずっぽうで言った私は「なんとなく」と答えた。
「分かった、文芸部だ」
「へぇ。で、なぜ?」
「この部屋から推測したまでだ。大体あんたはずっと本を読んでいた」
「はずれ」
「じゃあ何部なんだよ」
「今私がここでこうしていることが部活動よ」
その言葉を聞いた私は雷に打たれたようにはっとして声をあげた。
「哲学部だ! 間違いない!」
「違うわ。それと、突然大きな声を出さないでくれるかしら」
「え? あ、ごめんなさい」
雪ノ下さんは私を鋭く睨むと、ため息をついた。
「はぁ……。二人とも、女の子と話したのは何年ぶり?」
私は記憶を辿ってみた。事務的な会話を除けば、おそらく一年半と久しいところだろう。そんな期間を隔てた後にかくのごとく女子と言葉を交わしているという事実が、たとえこれが極めて事務的な会話に近かろうが、私のポテンシャルの高さを証明していると言えるのではないか。なんだ、やれば出来るじゃないか。
隣でなにやら唸っている比企谷君を差し置いて、私は答えた。
「一年と半年ですね」
雪ノ下さんは私の発言を無視して、滔々と語り始めた。
「知っているかしら、ノブレス・オブリージュという言葉を。現在でも階級制度が色濃く残るイギリスでは、持つものは持たざるものに対しその社会的身分に応じた施しを与えるのが義務なの。つまり無償の奉仕、ボランティアということね。私は貴族ではないのだけれど、そうね、あなたたちと私、どちらが施すべきかなんて一目瞭然でしょう? 困っている人がいれば救いの手を差し伸べる。それがこの部の活動内容よ」
そこで雪ノ下さんは立ち上がって、我々を見下ろすと腕を組んだ。
「ようこそ奉仕部へ。歓迎するわ。頼まれた以上責任を果たすわ。あなたたちの問題を矯正してあげる。感謝なさい」
私はあんぐりと口を開けたまま雪ノ下さんを見上げていた。傲岸不遜も甚だしい物言いも彼女の口から出ると何故か感謝したくなる。私は危うく、涙を流して傅こうとしてしまった。
「このアマ……問題だと?」
私が救世主を仰ぐ虐げられた民のような目で雪ノ下さんを見つめていると、比企谷君がその顔に似合った口汚い言葉を先頭に、立ち上がって気焔を吐き始めた。これはまずい。雪ノ下さんを怒らせる真似だけはいかん。ハイキング気分で目指せるはずだった栄光ある未来が、のっけから上級者向けの峻険とした急峰に変わってしまうではないか。口を慎みたまえ比企谷君。
「俺はな、そこそこ優秀なんだぞ。実力テスト国語学年三位。顔だって悪くない。友達と彼女が――」
「やめなよ。世話ないよそんなこと自分でいってちゃ。恥ずかしくはないのか比企谷君」
「え?」
「どう多角的に捉えても比企谷君は腐ってるんだから。そこを理解しようよ。変な自尊心は捨ててさ、ここでやっていくべきだよ君は。ね?」
「は?」
比企谷君の下らない自尊心のせいで僥倖の如くもたらされた蜘蛛の糸をぷっつりと切られ、お釈迦さまにエンターテイメントを提供するなど御免こうむる。私はもたらされた蜘蛛の糸を死守すべく、比企谷君に追い討ちをかけた。
「君はもうこれ以上落ちようがないんだ。見渡したかい周りを。底も底だよ。ごらん、雪ノ下さんだって引いてるじゃないか。君のせいだよ君の。だから友達が出来ないんだよ君。まずは俺が友達になってやるからその怒りを静めなよ」
私は、断腸の思いで比企谷君にそう告げた。しかし、完璧な構図である。私と雪ノ下さんは相並び立ち、非行に走る少年を優しく諭す夫婦のような様相を見せている。夫の男らしい口上に、これは雪ノ下さんも頬を染めているかなと私は隣を見遣った。
雪ノ下さんは唇を引き攣らせ、私に視線を合わせようとせず言った。
「ごめんなさい、ちょっと近いから離れてくれるかしら」
「え。あ、すいません」
私は比企谷君の隣へと戻った。
「……お前、どっちの味方なんだよ」
「俺はそういうグループを作る要因となる行為は慎んでる。つまり博愛だ」
「意味がわかんねえよ。慎んでるんじゃなく、慎まざるを得なかったんだろ。友達がいないんだから」
「やかましい」
比企谷君と小声で話していると、雪ノ下さんが再び大きくため息をついた。
「とにかく、二人とも更生しないと社会的にまずいレベルということは分かったわ。これからあなたたちは、奉仕活動を通じてその腐って捻くれた根性と感性を世間に顔向けできるくらいには矯正なさい。私が手伝ってあげるから」
「分かりました」
私は即答したが、比企谷君は納得がいかずまだ反論を燻らせているようである。彼は小声で私に問いかけた。
「お前さ、あんな散々ないわれ方されてるけどいいのかよ?」
「いいもなにも、俺は最初に公言したからな。哀れまれる必要も更生の必要もないって」
「はあ?」
「四の五のぬかさず黙って頷けよ面倒くさい」
「おまっ、人間性否定されて黙ってられるかよ。だいたい人はそう簡単に変われるもんじゃねえだろ」
「馬鹿かおまえ。そんなことはどうでもいいんだよ。好機を掴まずしてどうする。これは好機なんだ。そこをはっきり認識しろよ」
確かに比企谷君の言うことは一理あった。冷静に考えれば、なぜここまでこの部活動に執着しているのか、なぜこれが好機なのか自分でははっきりと理解できていないのが現状である。これを機に、露と消えた薔薇色の高校生活がひらけると断定するにはいささか材料が足りない。ましてや、立てば芍薬なんとやらを体現する美少女雪ノ下さんが、ゆくゆくは私と「イイ仲」になると断定するに至っては阿呆と呼ばれても仕方がないのかもしれない。しかしながら私は、ここぞというときには敢えて阿呆の汚名を被ることも辞さない男なのである。
「雪ノ下さん。彼も了承しました」
「ちょっ――」
「そう。では明日から放課後はここへしっかりと来るように」
そう言うと雪ノ下さんは椅子に座り再び読書を始めた。
私は比企谷君がこれ以上余計なことを喋らないように今日のところは彼と帰ることにした。
「それじゃあ雪ノ下さん、また明日。さようなら」
「ええ、さようなら」
私は比企谷君を引っ張って教室を出て行った。
「俺の意思は無視かよ」
「まあいいじゃないか。どうせ暇だろ」
「ほっとけ。俺は部活なんて出ないからな」
「勝手にしろよ。平塚先生の体罰がお望みならな」
比企谷君は少し青い顔をして、「くそっ」と呟いた。
「なにはともあれよろしく頼む」
比企谷君は差し出された私の手を濁った目で見つめる。そしてぷいと逸らすと、握らずにさっさと歩いていってしまった。私は虚空をさまよう手を戻すと、比企谷君と下校するために、彼の背を追いかけたのだった。