奉仕部と私   作:ゼリー

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第十九話

       ◇

 

 一時の感情に流されては、自己を律している紳士とは言えない。たとえお手製のクッキーを貰ったからといって、それが死ぬほど嬉しいことであっても、懐柔されることなく冷厳な思考で物事を判断するべきである。私は、「由比ヶ浜さんもああ言っているし、あの捻くれ野郎と傲然お嬢様もさみしいらしい。ここはいっちょ奉仕部に戻ってやるか」と考えつつある自分を厳しく叱咤した。虚心坦懐に現状を再認識してみるがよい。実際、何も変わっていないことが明々白々ではないか。私はそんな簡単な男ではない。むしろ複雑すぎて感情をぐずぐず弄んでしまい腐りかけているほどである。由比ヶ浜さんには申し訳ないが、安易に復帰することは精神の敗北だと私は考えた。

 ともあれ、由比ヶ浜さんが贈り物に満足していることは非常に嬉しかった。私が丹念に物色して選抜した狸時計が、彼女の一日の始まりを告げているというのは感慨深いものがある。これはもう私が起こしているといっても過言ではなかろう。

 変態的妄想にとりつかれながら、私はチョコチップが散りばめられたクッキーをふくふくと頬張った。

 

       ◇

 

 放課後が目前に迫るにつれて、私の意気はゆるく消沈していった。あれからいろいろ考えた挙句、奉仕部に凱旋するつもりで顔を出してやろうと決めたのだが、今はもうそんな気もなくなっていた。

 諸君には申し訳ないが、いまだに私は感情をぐずぐずと弄んでいる。どっちつかずの優柔不断がここにきて大いに躍如しているのだ。埒が明かない根性なしだと罵ってくれて構わない。

 奉仕部のことを考えるにつけ、そして、はにかみながら恋する乙女の表情を惜しげもなくさらす由比ヶ浜さんの顔を思い起こすにつけ、何か苦いものが体内でむくむくと膨れ上がった。私は形容しがたい苛立ちの矛先を恋せぬものは人にあらずという昨今の恋愛至上主義に突き付けた。そうして、胸中で一通りまんべんなく罵倒すると、あとには虚しさばかりが残ってひどく寒々しい気持ちに襲われた。不覚にも「俺だって恋してえよ」とゾッとするほど悲しい心の叫びがこぼれ落ちた。

さすがに気色悪いひとり言だと思って、私ははっとした。

 昼休みに入ったばかりで周囲は騒々しい。辺りをうかがって誰も聞いていなかったことに安堵しかけた瞬間、後ろの川崎さんと目が合った。

 川崎さんは、人を小馬鹿にするような、それでいて微笑ましいとでも思っているような生暖かい目で私を見ていた。

 

「聞かなかったことにしてくれ」

 

 私は机に突っ伏した。窓から飛び降りてやろうかと本気で思った。

 

「ま、頑張んなよ」

 

 賭けてもいい。きっと川崎さんはニヤつきながら言っている。

 

 結局、その日も奉仕部に顔を出さず帰宅した。

 

       ◇

 

「なあんにもやる気が起きない」

 

 自室に帰ってきて机に座り、しばし壁に貼り付けられたガッキーのポスターをぼんやりと眺めたのち、私はふいにそう呟いた。今日も今日とて私を見つめるガッキーの笑顔は天使と見紛うばかりに可憐であった。しかし、そのあまりの眩しさゆえ直視し続けるにはある程度心のゆとりが必要であり、今の私にそれは皆無であった。ガッキーの笑顔は人を狂わせる。

 ポスターから視線をそらして、今頃奉仕部ではどんな会話が交わされているのだろうかと想像した。大方、比企谷と雪ノ下さんが唾棄すべき舌戦を繰り広げていることだろう。間に挟まれて由比ヶ浜さんが苦笑している。いたって平常運行の奉仕部である。想像するまでもない。

 このままずるずると休み続けていれば、澄ました顔で部に戻ることができなくなるのではないかと私は思った。休んでなどいなかったかのように平然と復帰するのが最も好ましい。間違っても「恥ずかしながら帰ってまいりました」などと言うつもりはない。ないのだが、如何せん間隔が空きすぎているため、もはやどんな顔をして部室に戻ればいいのかわからなくなっている。これは非常にまずかった。経験に即して考えれば、この場合、面倒事を避けて通る公算が高くなる。すなわち、部に戻る戻らない以前に、「どんな顔で戻るか」というわけのわからない問題をこねくり回した挙句、ついには嫌気がさして思考停止に陥り、結果、すべてを投げ出してしまいかねないのだ。そういうところが私にはあった。

 であれば、いっそすべてをなかったことにしてしまったらどうだろう、ふと私は考えた。すると、それはただ元の状態に戻っただけに過ぎず、かえって日々の煩わしさから解放されて身軽になるのではないかと考えた。いまさら孤独の味を舐めることに恐れを抱く私ではない。何度も言うようだが、奉仕部に入っていなければもっと別の未来があったのだ。これはまだ見ぬ大洋に漕ぎ出す好機なのかもしれない。恐るべき不遇の果てに帆はついに風を孕んだのだ。

 

「でもなあ……由比ヶ浜さんにクッキー貰っちゃったしなあ」

 

 由比ヶ浜さんのクッキーは本当に美味しかった。神棚に捧げられているものと比べたわけではないが、かなり腕前を上げたようである。私と違って彼女は刻一刻と成長しているのだ。恋の力というやつだろう。まったく不可解で、そしてひどく羨ましかった。

 私はガッキーの眩しい笑顔に問いかけた。

 恋というのはそんなに素晴らしいものなのか。偉いものなのか。

 そんなことはあるまい、と私は戒めをこめて自答した。

 見たまえ。テレビのワイドショーでは連日不倫騒動やら痴情のもつれやらを取り上げているではないか。ときには殺人事件にまで発展してしまう災禍が恋愛なのである。我々はもっとその危険性に目を向けなければならない。しばしば「愛情が歪んだ」という表現が使われるが、恋愛というものは始めからどこか歪んでいるのだ。にもかかわらず、なぜ世の連中はああも嬉しそうに、幸福そうに、ほくほくと満足しているのか。

 人々は狂気の淵に喜んで身を投げ、溺れる姿を衆目にさらす。未だ身を投げざる人々は、可及的速やかに身を投げたい、身を投げていない自分は幸せではない、恥ずかしいとさえ思っている。断じて違う。恥ずかしいのは、溺れている姿であり、溺れたがっている姿なのだ。

 恋愛はあくまで背徳の喜びであり、できることなら人目を避けて味わうべき禁断の果実である。それを、さも人生に当然実る果実のように、ところ構わず食い散らし、汁気を他人に跳ね散らすことの罪深さを認識せねばならない。

 由比ヶ浜さんは果たしてこの残酷な真実に気がついているだろうか。否、きっと歯牙にもかけていないだろう。恋は盲目だという。きっと彼女には比企谷しか見えていないのだ。

 しかしそんな由比ヶ浜さんに言いたい。

 ひたむきなのは結構。

 しかし――。

 

「もうちょっと、ほんのちょっとだけでいいから俺にも気を遣っていただけないだろうか」

 

 私は手元にあった袋から()()()()のクッキーを取り出して音高くかみ砕いた。

 

       ◇

 

 その日の夕刻、好きな作家の新刊が発売されたということで、私は行きつけの本屋へと出かけた。

 日頃の運動不足と著しい体力の低下を阻止すべく、動きやすい恰好に着替えて目的地まで走ることにした。ひいひい言いながら汗を流し、滅多なことはするものじゃないなと後悔し始めたころようやく本屋にたどり着いた。新刊を購入して、いくらか店内で涼んだ後、ふたたび私は走りだした。ところがものの数分で力尽きた。己の体力のなさに愕然としつつもふらふらと町の中を歩き、緑道まで差し掛かったところで、ふと私の真横に真っ赤なスポーツカーが下品な排気音とともに停止した。

 すわ拉致か、と私は身構える。反射的に右手でポケットをまさぐって携帯電話を取り出した。いつでも通報する準備はできている。迅速な反応と言わねばなるまい。

 左のドアがやや斜め上方に開いた。2シーターの車内から姿を現したのは平塚先生であった。

 

「奇遇だな。運動かね?」

 

 平塚先生は私の恰好を見ながら言った。

 

「ジョギングをしていました」

 

 何かの事件に巻き込まれるようなことにならなくて私はほっと安堵していた。それだけに極力避けていた人物に遭遇してしまったことに対して、あまり注意を払っていなかった。

 平塚先生はしばし私を見つめていたが、やがて突拍子もないことを言った。

 

「乗らないか? 私の運転、見たいだろう」

「いや、全然興味ありません。遠慮します」

「まあ、そう言うな。アストン・マーティンなんて、ほいほい簡単に乗れないんだぞ?」

「僕、フェラーリが好きなんです。アストンマーティンなんて知りません。どこの車ですか」

「いいから乗れ」

 

 私はおとなしく助手席に乗り込んだ。決して鉄拳が怖かったのではない。平塚先生の承認欲求を満たしてやろうという涙ぐましい親切心である。勘違いしてはいけない。

 

「どうだ、エンジン音がたまらないだろう?」

「すばらしいです」

「そうだろう、君もわかる男じゃあないか」

「うれしいです」

「ふふっ、さあ、スピードを上げるぞ! 565馬力を見せてやる」

「ははあ」

 

 袖の下を渡す悪徳商人並みによいしょよいしょしていると、ふいに悪代官は車を止めた。どこかの幹線道路上である。

 

「君、お腹は空いていないか」

「いえ」

 

 私は一応断るそぶりを見せた。じつのところ猛烈に空腹であった。有酸素運動と追従運動でエネルギーをやたらと消費していたためである。

 

「子どもが遠慮するものではないよ。ラーメンでも食べないか」

「いただきます」

 

 我々は平塚先生が行きつけだというガード下のラーメン屋へ赴いた。

 平塚先生が語ったところによると、なんでもこのラーメン屋は狸から出汁を取っているという噂があるらしい。ずいぶん不気味な話だが、真偽はともかくとして味は無類だと先生は太鼓判を押した。

 私はどこかに狸の骨でも浮いてやしないかと、湯気を上げるラーメンをとくと凝視した。スープは黄金色で透き通っている。大きなチャーシューがでんと存在を主張していて、その脇に白くなめらかな卵が浮いていた。食指をそそられた私は、この際、狐だろうが狸だろうが構わぬとスープを一口すすった。なるほど、絶品である。細かいことを述べるつもりはない。とにかくたぐいまれなる味だ。私は唸って、次から次へとスープを口に運んだ。

 

「美味いだろう」

「美味いです」

 

 あっという間に狸ラーメンをたいらげた我々は、狸のような風貌をした毛むくじゃらな店主に礼を言って店を出た。辺りはすでに夜の帳が下りている。先生は「家まで送ろう」と言って、アストン・マーティンに乗り込んでいく。特に異議もない私は助手席に座った。

 フロントガラス越しに夏の夜の街が飛ぶように過ぎていく。エンジンの細かな振動がお尻を伝って体に妙な刺激を与え、それが心地よく満腹感も相まって私は眠気を催していた。うとうとしながら、ぼんやり等間隔で並ぶ街路灯を目で追っていると、何気なく平塚先生が言った。

 

「部活に出てないそうだな。辞めたいのか?」

 

 私ははっとした。やにわに眠気が吹き飛ぶ。

 

「すみません」

「謝らなくてもいい。訊いているだけだよ」

「どうでしょうか。そうかもしれません」

「何かあったのかね」

 

 私は言葉に窮して黙り込んだ。

 

「話したくなければかまわない。こちらも無理に訊こうってんじゃあないんだ。学生の時分は悩みの一つや二つくらいあるさ。だろう?」

「ええ」

「しかし、君は奉仕部とうまく馴染んでいると思ったんだがな。傍から見てとても楽しそうにしていたよ」

「そうでしょうか」

「うむ。君たちを引き合わせた判断は正しかった」

 

 赤信号で車が停止する。横断歩道を部活帰りの高校生集団がにぎやかに通り過ぎていく。

 

「奉仕部に足を踏み入れたのは間違いなんじゃないかと最近よく考えるんです」

 

 私は言った。先生は黙って聞いている。

 

「先生に促されて奉仕部に身を置いたときは大きな期待がありました。ですが、正直なところ何も変わりませんでした。おそらくそれは僕の態度にも問題があったのでしょう。ですが、それなら奉仕部に居ようが居まいが関係ありません。いずれにせよ現状に満足ができないのであれば、放課後の時間を取られない自由な生活のほうがいいです」

「何かほかにやりたいことがあるのかね?」

「いや、特にはないです。ただ、奉仕部で得られたものなんてほとんどないように思うんです。だったら、自力で何かを探すべきだ。僕、これからは生まれ変わろうと思うんです」

 

 車が走り出した。先生はまっすぐに進路方向を見つめている。

 

「得るものがなかったと、君は本気で言っているのかね」

「……だって、事実、得たものなんて――」

「君にとって比企谷はなんだね? 雪ノ下は、由比ヶ浜は?」

「……」

「彼らはただの部員だと、そう言いたいのか。放課後に顔を合わせるだけの知り合いだと?」

「違うんですか」

「それは君の胸に尋ねてみればいい。答えはそこにあるよ」

「……ずいぶんロマンチックなことを言いますね」

「知らなかったのか? 私はロマンチストなんだ」

 

 先生は笑った。私は無表情だった。

 

「本当に辞めたいのであれば止めないよ。本気で生まれ変わろうとしているのなら応援もする。

 しかしな、君。もう少し、周りをよく見てごらん。君は君が思っている以上に周りの人間に影響を与えているんだ。むろん、逆もまたしかりだ。私は君がこのまま奉仕部にいてくれると嬉しいよ。そしてそれが君のためにもなると信じている。ああ、これじゃあズルいな。頼んでいるみたいに聞こえてしまう」

 

 先生は苦笑すると、「私は先生だからね、どんな未来を選ぼうが君の味方だよ。好きにするといい」と言った。

 

「ありがとうございます」

「いいさ。少年、大いに悩みたまえ」

「悩むのはもういい加減にしたいです」

「そうかね。ははは」

 

 見覚えのある街並みが見えてきた。先生はコンビニの駐車場に車を止めた。私は礼を言ってドアを開ける。

 

「ごちそうさまでした」

「またいつか連れて行ってあげよう。ああ、それと。君はなぜ私の電話に出ない」

「電話?」

「何度もかけたんだがね。雪ノ下に君の番号を聞いたんだ。知らない番号は出ないとでも決めているのか?」

 

 私はここ最近よくかかってくる謎の電話を思い出した。普通、数回無視されれば諦めるのが常人だが、その電話の主の執着心といったら恐るべきものがあり、さすがにここまで執拗だとまともな人間ではあるまいと警察への相談も考えていたところであった。あれは平塚先生だったのか。

 私はゾッとして曖昧に笑った。こういうところに先生の独身たる理由があるのだと思う。根深い問題だ。

 

「ちゃんと登録しておけよ。事あるごとに電話してやるからな」

「は? やめてください」

「じょ、冗談だよ。即答で拒否するとはな。しかも真顔だし。ははは……」

「あの、本当に冗談ですよね?」

「だからそう言っているだろ。失礼だぞ君。なんだね、私からの電話が嫌なのか」

「さようなら。またご馳走してください」

 

 私は頭を下げて、車から離れようとする。

 

「お、おい。嫌なのか? 君、どうなんだ? おい、答えろ」

 

 夜風に涼みながら家路をたどる。

 平塚先生の晴れ舞台はきっと遠いだろう。なむなむ。

 

 


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