奉仕部と私   作:ゼリー

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第十話

       ◇

 

 時は幕末。慶応年間である。京の都に上り、掲げた正義を執行しようとしていた新撰組副局長土方歳三は、近藤勇や沖田総司らと相対して座っていた際、荒れ狂う熱情に身を焦がれながらも、心は理想を宿して澄み切っていたという。そうして詠まれた句が「差し向かう心は清き水鏡」であった。

 私は、死を覚悟しながらも水鏡のごとく理想を写しあっていた新撰組幹部連に惜しみない敬意を抱き、感じ入りながら、むっつりと睨みを利かせる比企谷と差し向かっていた。

 

「おまえ、小町に何もしてないだろうな」

 

 私のような紳士に向かってこの言い草である。由比ヶ浜さんを奉仕部に引き戻すということは、奉仕部存続を意味することに等しく、ひいては比企谷ならびに雪ノ下さんの人間性を高めることに等しく、つまりそれは社会に有益な人材を育成することに等しい。そんな高邁かつ激烈に難関な任務を遂行しようとしながらも、心は澄み切り理想に燃える私に対して、かくのごとき言い草なのである。激動の時代を駆け抜けた烈士たちは、もはや現代には姿かたちもないのだと、私は憂国の嘆きを零した。

 

「してない」

 

 私の返答に、比企谷は疑わしい視線を投げて寄越した。私は蛍が生息できそうなほど澄み切った目で応対する。しばし沈黙が支配した。

 

「言っとくがな、小町に手は出すんじゃねえぞ」

「むろんだ」

「どっちだよ。言うまでもないことはわかったけど、どっちだよ」

「それはナイショ」

「はぁ、ったく……まあ、おまえにそんな度量はないだろ」

「やかましい」

 

 比企谷はため息をつくと、ベッドに腰掛けた。再び沈黙が訪れた。

 先ほど買い物から帰った比企谷は、鉢合わせた私を素通りすると、すぐに居間へ向かって妹さんの安否を確かめた。まったく失敬な行為だが、当然といえば当然かもしれない。妹さんから事情を聞いた比企谷は、廊下で呆然と立ち尽くす私をその濁った目でたっぷり数十秒は見つめてから二階の自室へと私を誘った。部屋に入ると存外片付けてあることに気がついた私は、今にもきのこが自生してきそうなほどじめじめと汚らしい私の部屋との隔絶を感じ、いささかげんなりしてしまった。同時に、比企谷から無言の余裕を感じて無性に腹も立った。だいたい部屋がきれいに片付いているような輩は、総じて軽薄なものである。私のように精神がめまぐるしく活動しているような人間は、いちいち部屋の清濁に拘泥してはいられない。部屋を磨く暇があるならば、己の魂を磨いていたほうがよほどいい。そんな風に自分を律しながら、埃ひとつ落ちていないフローリングの床に胡坐をかいて座ったのであった。

 しばらく黙ってどう切り出そうか迷っていたところ、重苦しい沈黙が漂う部屋にノックの音が響いた。比企谷が返事をするまもなくドアは開かれる。

 

「お兄ちゃん、お茶持ってきたよ」

「おい、勝手に入るなよ」

「ノックしたじゃん。はいこれ、お茶うけも」

 

 妹さんは、お茶とお菓子が載ったお盆を比企谷に渡すと、私に笑いかけてからドアのほうへ向かう。

 

「なんだ今の笑顔は。なんで今笑いかけたかはっきりしっかりお兄ちゃんに説明しなさい」

「意味なんてないよ別に。初めてのお客さんなんだから愛想良くしなきゃ。お兄ちゃんができないことを小町がやったげてるの」

「こいつはお客さんなんて上等なやつじゃない。いうなれば路傍の石だ。その辺に転がっている石となんら変わりない。おい石くれ、おとなしく河原へ帰れ」

「またそんなこと言って。ごめんなさいね、お兄ちゃんきっと照れてるんだと思います」

「照れてねえよ。こいつに照れるようなことがあれば、残りの生涯前を向いて歩んでいけなくなるだろ」

「はあ……ホントにお兄ちゃんは……こんなこと言ってますけど、本当は嬉しいはずですから」

 

 妹さんはドアに手をかけると小さな声で私にそう言った。私は「知ってます」と返して莞爾(かんじ)と笑った。

 

「聞こえてるぞ。ったく、ほら早く出てけ」

「はいはい。じゃお兄ちゃん、しっかりやるんだよ」

「何をだよ……」

 

 妹さんはサムズアップするとニヒヒと悪戯っぽく笑って出ていった。

 

「賑やかだな」

「まあな」

「妹さんを俺にくれ」

「……おまえ、口に気をつけないとぶち殺すぞ」

「失敬。つい心にもあることを口走った」

「あるのかよ。……んで、わざわざうちまで来て、何の用だ」

「それは、あれだ。俺の理想のためだ」

「はあ?」

「心は清き水鏡だ。知らないの?」

「知らん。何の話だよ」

「俺とおまえは、まことに遺憾だが、水鏡に写しあうがごとく理想を共有しているということだ。新撰組だ、鬼の副局長だ」

「はいはい、すごいね。で、理想ってなんだよ」

「えらく、せかすね」

「当たり前だろ。大事な時間をおまえに割きたくない」

「ふふふ、あれか、自己処理か。頭はそれでいっぱいなのか、この桃色遊戯野郎」

「……」

 

 比企谷はおそろしく無機質な顔をした。人はここまで感情を殺しうるのかと感心するほどである。私は比企谷の目の奥に深淵を見た気がした。

 私はお茶に口をつけて、一度間をおいた。

 

「由比ヶ浜さんのことだ」

 

 にわかに比企谷の眉がひそめられた。

 

「おまえも知ってるだろうけど、職場見学の日から部室に来てない」

「そうだな」

「単刀直入に聞くが、原因はおまえだろ」

「……だろうな」

 

 比企谷は目を逸らしはしたものの否定はしなかった。

 

「うん。何があった?」

「別になんでもいいだろ。大したことじゃない」

「そうか。けどそれは主観だ。一方的すぎる。教えろ」

「……いやだ。それに、由比ヶ浜が何も語らない以上、判断できる人間は俺だけだ。その場合、俺の主観が限りなく客観に近い事実になる。ほら、大したことじゃなくなった。俺がそう思っているんだから」

「相変わらずの詭弁だな」

「うるせえ」

 

 比企谷の言うことはもっともだった。同じ状況に置かれたら私だってそう考える。当事者の片方が沈黙しているのだから、主張した人間の判断に我々は準拠してしかるべきである。しかし、そんな正論で引き下がる私ではない。正論には持論である。これぞ、詭弁の極み。

 

「しかし、それは当事者が由比ヶ浜さん個人である場合に限る。今回の件に関して由比ヶ浜さんを捨象すれば、大したことじゃないと考えているのは俺だ。したがって当事者は俺とおまえになる。当事者が事の真相を知らないのは馬鹿げたことだ。おまえが現今の日本に生きる文明人であるならば、対等な話し合いの場を提供しろ。さあ、話せ」

「相変わらずの詭弁じゃねえか」

「やかましい」

 

 比企谷は苦虫を噛み潰したような顔をして「論点のすり替えじゃねえか」と呟いた。それきり黙ってしまった。論理的に攻めても駄目なら、感情を揺さぶりにかかるしかない。

 私はなんの効力も発揮するとは全然思われないことを述べてみた。

 

「いつか円陣を組んだだろ」

「は?」

「ファミレスの帰りにさ。あの時、約束したじゃないか。隠し事はなしに清廉潔白」

「そんなこともあったな」

「おまえは材木座の涙を忘れたのか? 材木座の慟哭をなかったことにするのか? 本当に材木座のことを親友として大事に思っているのであれば――」

「いや全然まったく」

「……そうか。うん、俺もまったく大事じゃない」

 

 少し上ずった声で感情的表現に力を入れて語りかけたつもりだが、やはりなんら効力は期待できなかったようである。材木座の役立たず加減にもほどほどにして欲しい。いずれにせよ比企谷はどうあっても話す気はないらしい。となれば、これは奥の手を使わざるを得ないようだ。

 

「いいのか? 奥の手を使うぞ」

「……なんだよ奥の手って」

「妹さんを召喚する」

「おまっ、バカっ、それはダメだろ常識的に考えて」

「しょうがないじゃん、おまえが話さないんだから。へへっ、妹さんなら何か知ってるかもな」

「くそっ、卑怯だぞ」

 

 比企谷の様子を見て、私はほくそ笑んだ。この反応から察するに妹さんはすべてとは言わずとも、一部事情を知っているとみて間違いないだろう。もちろん、ここで妹さんに尋ねてしまえばいいのだが、妹さんはブラフである。彼女を召喚するくらいなら、比企谷は自分で話す方を選ぶにちがいない、そういう男だ。これはもしかすると、一部とは言わず包み隠さず話すこともありえそうだ。

 比企谷はもはや苦虫を噛み潰しているとしか思えない表情をすると、諦めたようにもぞもぞ話し始めた。

 

「俺が入学式で事故ったのは知ってるだろ」

「うん。味わい深い悲劇だったな」

「余計なことは言うなよ。止めるぞ」

「ごめん。続けてくれたまえ」

「まあ、それで骨折って三週間入院したわけだが、なんで事故ったかは話してなかったよな」

「うん。聞いてない」

「ま、まあ。あれだ。非常に言いにくいんだが、犬がな、飛び出したんだ。交差点で……」

「おいおい、まさか庇ったとか()かすんじゃないだろうな」

「……そのまさかだ」

「なんと」

 

 私はびっくりして目を見開いた。

 

「言いたいことはわかる。だがそれは置いておけ。羞恥心で死にたくなる」

 

 別に恥ずかしがることはなかろう。身を挺して犬を救ったのだ。いや、待てよ。

 

「犬は無事だったのか?」

「ああ」

「そうか、良かったじゃん」

「それでな、俺が入院していたときに、その飼い主が来たらしいんだよ。お菓子をもってさ、見舞いってわけだ」

「そりゃ当然だ。どんな奴だった? 犬を放し飼いにするなんてまともな神経の持ち主ではなさそうだけども」

「……はは」

 

 比企谷は気まずそうに笑うと、お茶を口に含んだ。つられるように私もお茶を飲む。

 

「らしいって言っただろ。そのときは飼い主を確認してないんだよ。女の子ってことはわかってたんだがな」

 

 比企谷はそこで、言葉を区切った。陰鬱なかげを目に宿してコップを見つめている。私は黙っていた。

 

「別に俺は誰だってよかったんだ。謝罪も感謝もいらない。俺が勝手にやって勝手に骨を折った、そういう原因と結果があるだけだ。だからな、だから……」

 

 比企谷は、歯の隙間から押し出すような妙に低く切ない声で続けた。

 

「見返りを求めて助けたワケじゃないんだ。ましてや同情なんか……」

 

 その声は怒っているようにも哀しんでいるようにも、はたまた後悔しているようにも諦めているようにも聞こえた。比企谷には珍しく、軽薄で浅ましいところは見受けられなかった。再び比企谷は口を閉ざした。

 私は意味もなく部屋を見渡しながら続きを待ったが、自身の感情を反芻しているのか比企谷は一向に口を開かない。私はやや苛立ちを覚えた。何を噛みしめているのか知らないが、比企谷の感傷的ナルシズムになどさして興味が湧かないし、そう何度も黙られてはもどかしい。

 私は続きを促した。

 

「浸っているところ悪いんだけど、続けてくれ」

「お、おまえなあ……そこはフリでもいいからしんみりしろよ。そういう場面だろ……」

「続けてくれ」

「はあ……。俺もついこの前小町から聞いて知ったんだけどな、飼い主は由比ヶ浜だった」

「……マジかよ」

「ああ」

 

 つまり、どういうことであるか。私は青天の霹靂に暴風域と化した脳内をなんとか鎮めて冷静に物事を組み立てようと試みたが、何が何だかさっぱりわからなかった。由比ヶ浜さんの犬を比企谷が助けて、入院した比企谷を由比ヶ浜さんが見舞って、それを比企谷が知らなかった。このことが意味するものは比企谷のおそるべき迂闊さ以外に何もありはしないように思われる。そして、つい先日、比企谷は交通事故の原因たる飼い主が、あろうことか由比ヶ浜さんであったことを知りえた。はてな、つまり? 私の皺多き脳みそはそこで活動を停止してしまった。

 しかし、私は次の瞬間、ただちに訂正しなければならないことに思いあたり、叫ぶように言った。

 

「おい。さっき飼い主の神経がどうのこうの言った俺の発言は即刻忘れるように」

「無理だ。俺の脳内に深く刻まれてしまったからな」

「くそっ俺としたことが、つい。とにかく、絶対に言うなよ」

「どうだかな」

「ヤメテ! お願い!」

「わ、わかったよ」

「よし、それでいい。話が逸れたが、結局どういうことだ?」

「え?」

「いや、だからね。それが由比ヶ浜さんとの諍いにどうつながるのかと」

「え?」

「え? じゃない。どうつながるんだ」

「どうって……もういいだろ」

「よくないから訊いている」

「……しつけえよ。いい加減にしろ阿呆」

「阿呆って、あなた阿呆って。そんな言い方はないでしょう」

「……」

「なんだシカトか、シカトなのか? あ?」

 

 比企谷はむっつりと黙り込んでしまった。

 その後、いくら詰問しようとも口を開かなかった。何気なく下の名前で呼びかけても、お茶の催促をしても、「小町さんは俺の妹」宣言をしても顔を歪めるだけで、貝のように口を噤み続けた。比企谷の分際で、私の問いかけを無言で一蹴するなど許すべからざることであり、私は怒り心頭に発しかけたが、この辺りが頃合かもしれないと心を落ち着かせた。このまま詰問し続ければ幼稚な比企谷のことだから、へそを曲げて意固地になりかねない。そうなると厄介である。ならばここは一度退いて、私なりに考えてみたほうが得策だ。おそらく諍いの原因を示唆する何物かはすでに列挙されていたと考えていいだろう。

 

「わかったよ。おまえがそこまで強情を張るなら今日はおとなしく帰ろう」

「ああ、そうしてくれ」

 

 私は辞去するために立ち上がった。

 

「また学校で聞くからな。そのときはちゃあんと話してもらうぜ」

「……いいから早く帰れよ」

 

 その言葉に私は鼻で笑って返答した。

 一階に下りていくと、居間のほうから妹さんが小走りでやってきた。私は妹さんに諸々のお礼を篤く感謝すると玄関の扉を開けた。

 

「また来てくださいね。お兄ちゃんもきっと喜びます」

「はい。それではまた。さようなら」

 

 外はもうすっかり暗くなり、心地よい微風が吹いていた。

 私は門を出たところで妹さんに頭を下げると比企谷宅を辞去して帰路に着いた。

 

       ◇

 

 翌日。授業合間の休み時間。私は昨日の問答を反芻しながら、事態の原因を追究することに余念がなかった。

 本来であれば昨夜のうちに大方の予想をつけておいて、それから比企谷を誘導尋問にかけようとしていたのだが、自室に戻ると理性の桎梏(しっこく)を逃れたジョニーがむくむくと台頭しはじめ、私は自己嫌悪に駆られながらも初陣を逃したジョニーを慰めてやらねばならなかった。自己処理に伴う思春期特有の罪悪感と一仕事終えたあとの心地よい疲労感に身をゆだねると、私はあっという間に眠りに落ちてしまい、気がつけば清々しい陽光煌めく朝であった。自室の窓を開ければ初夏の緑が放つ濃密な気配に気持ちが晴れ晴れしたが、ふと脇を見れば使用済みのティッシュが散乱しており、昨夜の刹那的な放恣(ほうし)をひどく悔やんだことは余談である。

 ともかく、朝の登校時から授業中にいたるまで私は原因を推察しようと頭を捻っていた。辺りざわめく休み時間であってもそれは変わらない。様々な要因を分析しながらも、ふと教室隅の比企谷の席へ視線を移すと、相変わらずイヤホンを装着して寝たふりを決め込んでいた。私が二人の仲を取り持とうと日夜熱が出るほど頭を回転させているというのにあの態度はなんであるか。頭の上から消しゴムのカスを振りかけてやりたくなったが、今は原因追及が先決だ。

 飼い主が由比ヶ浜さんであったから手のひらを返したというわけではないが、彼女も比企谷と同様に、被害者のようなものである。私の浅慮から放し飼いなどと口走ってしまったが、書籍を買い求めた日を思い起こせば、由比ヶ浜さんはしっかりとリードをつないでいた。突発的な不可抗力であったのだろう、由比ヶ浜さんに非はないことは明らかだ。むろん、犬や車を運転していた人間に非を被らせるわけにもゆくまい。つまり、皆平等に被害者というわけである。不運な事故だったわけだ。したがって、そこに諍いの原因を見出そうとするのは無意味である。

 では、どこに?

 由比ヶ浜さんが名乗り出なかったからか。しかしそれでは矛盾する。比企谷は誰でもよかった、謝罪も感謝も必要ないと豪語していたではないか。それに由比ヶ浜さんだって入院当時の不面識にかこつけて以後も黙り通そうなどとするはずがない。告白する機を逸してしまったか、他に何か理由でもあるのだろう。由比ヶ浜さんの無菌室で培養されたような素直な性格を知っている比企谷であれば、そこを責めるようなことはないはずだ。となれば、ここにも原因を見出せない。

 軽口の叩き合いがものの見事に発展してしまった可能性も否定できない。つね日ごろから世間の顰蹙を買い散らかしている比企谷のことであるから、むしろこれが正解に最も近いような気がする。とはいえ由比ヶ浜さんがそれを根に持ち続けるとは考えられない。だいいち交通事故となんら関係がない。

 私は唸った。なにか比企谷の言葉に引っかかるところがあるのだが、それが判然としない。私は今一度、昨日の会話を思い出そうと努めた。すると教室後方から比較的大きい笑い声が聞こえてきた。

 私は頭だけ振り返って何事かと視線をそちらに移した。

 そこでは、葉山君と高慢な顔つきをした女生徒を中心に迎合的集合体が幅を利かせていた。なにやら、高慢顔の女生徒が面白いことを語ったらしい。鶴の一声とばかりに周囲はげらげらとだらしなく笑っていた。なんとも圧倒的な風見鶏ぶりである。彼らには意思が存在しないのではないかと危ぶまれるほどだ。

 私は繊細な思索が掣肘(せいちゅう)されたことに怒りを覚え、見咎められない程度に彼らを睥睨(へいげい)した。

 この迎合的集合体の構成員たちは、授業が始まると蜘蛛の子を散らしたように自席へ戻り、休み時間になると帰巣本能でもあるかのように教室後方へと再び姿をみせる。まるで女王への献身的奉仕を生きがいにした働き蜂である。霊長類としての誇りはないのか。そして悲しいことに、その構成員のひとりが由比ヶ浜さんであった。私は由比ヶ浜さんがそんな集合体に所属していることを苦々しく思っているのだが、彼女にとっては大切な居場所のひとつであるらしかった。

 私は目元を緩めると、楽しそうにお喋りに耽る由比ヶ浜さんを目で追った。

 彼女に事の真相を伺えたらどれほど楽であろうか。しかしそれはできない。前述したとおり、そんなことを遂行できる私であれば一年を棒に振ってなどいない。また、奉仕部に姿を見せなくなった頃から由比ヶ浜さんはほとんどひとりで行動しておらず、話し合いの場を設ける前段階で、すでに私の勇気は挫けていた。由比ヶ浜さんの隣にはたいていあの高慢顔の女生徒がふんぞり返っており、さらにその隣には眼鏡をかけた秘書然とした女生徒が控えているのである。そんな姦しさで溢れかえるところへひょっこり顔を出せるはずがない。

 そういえば以前、こんなことがあった。

 奉仕部として面識が出来たことを幸いに、私は教室においても由比ヶ浜さんと有意義な関係性を構築していく必要があることを認め、ならば手始めにと放課後に部室へ共に向かうことを提案しようと、少なからず緊張して教室後方へ向かったことがあった。ちなみにそれが、断じて男女交際の布石とするような助平根性ではないことを明記しておく。

 由比ヶ浜さんへ近づくとまず反応したのは眼鏡の女生徒であった。そのとき集合体の男子構成員たちは揃ってどこかへ姿を消していた。

 

「結衣にお客さんじゃない?」

 

 眼鏡の女生徒がそう言うと、由比ヶ浜さんが振り向いた。

 私はこのときいくらか挙動不審であったことを記憶している。

 

「あっ、やっはろー。どうしたの? 奉仕部のことで何かあった?」

「えと、そ、それがですな……」

「だれコイツ。 ユイ、知り合い?」

「誰って優美子……同じクラスだよっ? えっとねえ――」

 

 なにやら由比ヶ浜さんが私について説明してくれているようであったが、ほとんど私には聞こえていなかった。高慢顔の女生徒が、定石どおり高慢かつ無遠慮な態度だったという現実は、想定していた圧迫感を遥かに凌いで私の精神を弱体化せしめた。要するに怖かったのである。私は早くも己の蛮勇を後悔していた。

 

「あっそ。んで、アンタ、ユイに何か用でもあんの?」

「え、いや、えと、何というか……」

「あ? なに? ぜんっぜん、聞こえないんだけど」

「はい、すいません。特に用はないです」

「はあ? 意味わかんないし。なんか用があるから来たんっしょ」

「いや、散歩です。教室内の散歩、趣味でして」

「マジで言ってんの? ねえ、ユイ。コイツやばくない? 胡散臭すぎっしょ、チョーキモイんだけど」

「あはは……」

 

 由比ヶ浜さんが苦笑している。私は頬が紅潮してくるのを感じた。確かに私は胡散臭かった。そして、おそらくチョーキモかったようである。だからといって直接面と向かって言うことはなかろう。それはあまりに酷というものである。

 高慢顔の女生徒のおそるべき厚顔無恥さによって、私の出来心は完全に粉砕されてしまっていた。もはやこれまで。このまま対峙しているといかなる悲喜劇を引き起こしてしまうか分かったものではない。私はとりあえず、彼女の人間としての器を少なくとも私の十分の一以下と断定することによって、忸怩(じくじ)でいっぱいだった内心にいくらか冷静さを取り戻しつつ、限りなく負け犬の遠吠えに似た意趣返しも成功させた。そうして、私は二度とこの高慢顔の女生徒とは関わらないとほぞをこちこちに固めながらも、「では失礼します」と半ば逃げるように教室をあとにしたのであった。その後、部室において、一部始終を目撃、観察していた比企谷に腹がよじり切れるほど笑われたのはいうまでもない。

 

       ◇

 

 ともあれ。

 私は楽しそうに笑いながらも、ときおり目を伏せて俯きがちになる由比ヶ浜さんを目で追っていた。由比ヶ浜さんも諍いに心を痛めているのであろう。心根の優しい彼女のことであるから、自身を責め苛んでことあるごとにああやって目を伏せてはため息をついているのだ。なんて可哀想な由比ヶ浜さん。

 私が食い入るように見つめていると、由比ヶ浜さんはふいに顔を上げて比企谷の方へ仔細ありげな目を向けた。

 

「ねえ、ちょっと。落ちたよ」

「え」

「ほらこれ。アンタのでしょ」

 

 私の真後ろに座っている川崎さんが、シャーペンを握って私に問いかけた。どうやら身を乗り出しすぎて落としてしまったらしい。私は礼を言って受け取ると、再び食い入るように由比ヶ浜さんを見つめたが、ふとあることに気がつき川崎さんに声をかけた。

 

「あのさ、あれどう思う」

 

 私は小声でそう言いながら顎をしゃくってみせた。

 

「なに。あれって」

「ほら由比ヶ浜さん。阿呆のことみてる」

「ん?」

 

 川崎さんは私に示されると、じっと由比ヶ浜さんを観察しはじめた。由比ヶ浜さんが目を逸らしてまた集合体のほうへ移すと、川崎さんも向きなおった。

 

「なんだろうね。好きなんじゃないの比企谷のことが」

「は? ふざけてる? そういう笑えない冗談はやめてくれないかな」

「あ? なに。私は素直に答えただけなんだけど」

「いやっ、あらっ、すみません。謝るからその目はやめて」

 

 川崎さんの抜き身の刀のような視線に私は慌てた。

 今のは失言だった。川崎さんは君子ではない。ちょっと穏やかさが欠落してはいるが、いまどきの乙女である。ときには短絡的に愚劣な発言だってしてしまうだろう。それに大乾坤の狭間にはそういう不条理なとらえ方があってもなんらおかしくはない。私は博愛・平等をモットーとしているのだから、さる不条理さにも理解をもってしかるべきであった。

 私は軽率さを猛省しながら言った。

 

「ふわついたモノじゃなくてさ。あの眼差しには、こう、なにかあるとは思わない? ほらっ、また見てる」

 

 川崎さんは刀を鞘に納めると、もう一度由比ヶ浜さんに視線を送った。

 

「んーー。……よくわかんないけど、悲しんでる?」

「うん、それで」

「それでってアンタね……あとは、そうだなぁ。憐れみ? いや同情?」

 

 私は川崎さんの慧眼に脱帽した。銀狼の面目躍如といったところか。やはり彼女の怜悧な双眸は真実を明らかにする力を持っていたようだ。

 

「その通りだよ。さすがだね川崎さん」

「……?」

 

 私はにやりと笑いかけると礼を言って前を向いた。

 まさにその通りであった。私はさきほど、比企谷を見つめる由比ヶ浜さんの瞳に、断じて淡い恋心のようなものではなく、慈悲深い憐憫を見出したのである。そう、まさしくあれは憐憫、同情の類であった。つまり……。

 その瞬間、比企谷の妙に切ない声が想起され、私の中で引っかかっていたものがすとんと腑に落ちた。豁然(かつぜん)大悟とはこのようなときに使うべき言葉である。

 目の前が大きく開け光が差し込むようだ。いまや真実は白日の下に晒された。私の脳内であらゆる要素が組み上げられてゆき、入学式の交通事故まで遡行(そこう)していった。

 私は呟いた。

 

「なるほどな。しかし、奴にはちょっと悲しすぎるな」

 

 比企谷はいまだ机に突っ伏して寝たふりを続けていた。

 

 

 


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