ボッチペダル   作:T・A・P

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ボッチペダル

 

 

 それは小野田の一言から始まった。

「主将さん、聞きたい事があるんですけど、良いでしょうか?」

 練習が終わり全員部室で着替えていた時、小野田がふと金城に声をかけた。金城はすでに着替え終わってベンチに座り、その日の練習日誌を書いていた。

金城は小野田の方へ向いて答える。

「ああ、かまわないが、なにを聞きたいんだ」

 小野田の方へ顔を向け、その場にいた他の部員も何事かと小野田に視線を向けた。自分が注目されている事に気が付いた小野田は、アワアワと慌て出しどうにも本題を口に出せずにいた。

「小野田、そこまで慌てなくていい。一度、深呼吸をしてみるといい」

 軽く笑いかける金城の言葉に、大きく息を吸い吐き出すのを忘れて鳴子にツッコミを入れられてようやく小野田は落ち着いた。

「あの、えっと、主将さんがすごいと思った先輩っていますか?」

 小野田の言葉に今泉と鳴子も興味が出たようで、二人とも金城の方へ顔を向けた。インターハイで見た金城の三年の実力、そんな彼等がすごいと思う人がいたのであればそれは、興味を持つなという方が難しい。

「そうだな、寒咲さんは今でも世話になっている。寒咲さんを一番に思い浮かべるな」

 日誌を脇に置き、小野田達に向かって答える。別の方向からは、手嶋と青八木そして古賀の三人も耳を傾けていた。

 小野田は『そうですよね』と自分の質問が愚問だったなと反省し、鳴子は『なんや、おもんな』と着替えに戻り、今泉は『やはりな』と予想通りの結論が出て興味を失っていた。

「そして、もう一人。寒咲さんと同級生の選手がいたのだが、あの人は色々な意味で寒咲さん以上の先輩だった」

 少し懐かしむように、それでいて少し寂しそうに笑う。

 その言葉に一年三人は再び興味を引かれ、金城の方へ顔を向ける。

「それは、どんな人だったんですか?」

 そう、今泉が真剣に訊ねる。それは、追い抜くべき人間を確かめるための物なのか。それとも、金城が言うその存在が純粋に気になっただけなのか。

「そうだな………」

「戻ったショ」

 部室の扉が開き、タマムシ色の長い髪を揺らしながら巻島が部室に入ってきた。その後ろから、熊のような巨体の田所も続いて入ってきて二人は部室内の空気を感じ取って金城に聞く。

「金城、何かあったのか?」

「いや、なに、小野田が尊敬している先輩を知りたいと言ってな」

 巻島と田所はなるほどといったように、金城を真ん中にするように隣に座った。

「ってことは、寒咲さんのことでも話したショ?」

「そうだな、寒咲さんはこいつらでも知っているからな」

「いや、あの人のことを話そうといていたところだ」

 その言葉で、二人は表情を硬くしてバッと金城の方を向いた。

「あの人って、あの人のことショ」

「おい、金城。なんであの人の話をするんだよ」

 小野田達はそんな様子の三年生を、目がまん丸になるほどに見開いて見ていた。金城の言い方では良い人のように聞こえていたが、巻島と田所の様子を見るかぎり触れてはいけないような人間に思えてくる。

「そうか、お前たちは知らなかったな。なら、お前たちにも話すべきだろう」

 そう言って小野田達に座るように促すと、素直に座って話を聞く体勢を整えた。それを確認すると金城は、つらつらと話し始めた。

「その人の名前は、比企谷八幡という」

 

 

 

 金城、巻島、田所が入部した頃の総北高校自転車競技部は、今とは違い多くの部員を有していた。

「あ~、主将の寒咲だ………」

 この日、部室では部員と新入部員が分かれて立ち、両者の顔合わせのように対面していた。主将の寒咲は、インターハイ出場への意気込みとインターハイ優勝、打倒箱学を目標として部員全員に、いや、部室内にいる部員に向けて語っている。

金城達はその言葉に心が震え、部室内の熱気が最高潮に達しようとした瞬間、ガラッと部室の扉が開き一人の男子生徒が入ってきた。その男子生徒は部室の中のことなど興味が無いのか、端の方にある自分のロッカーからタオルを取り出して汗を拭いた後すぐに部室の外へと出ていってしまった。

部室内は耳が痛くなるほどに音が消失し静寂が熱気を冷ました。金城達はそもそもなにが起こったのか、入ってきたのが誰だったのか、ロッカーがあることから部員だろうがなぜ一人だけ勝手にしているのか。

 金城だけが何かを求めるように目線を戻し先輩たちを見ると、主将が顔を少し歪め後ろにいる同学年だろう数人の部員の顔を見ているのが目に入った。その数人はどこか苦々しく、聞こえないように悪態をついていた。巻島と田所が出口から顔を元に戻す頃には、主将も数人も表情を戻し仕切り直しとばかりに、一週間後に控えた一年生レース、ウェルカムレースの詳細と激励を伝え、新生総北高校自転車競技部として初めての練習に入るために全員が部室の外へと移動を始めた。

 金城達はその場で待ち、先輩達がで終わった後に出ようとしていると一人の最上級生が金城達に話しかけてきた。

「いや~悪いね。あいつこの部の問題児なんだよ」

 さわやかな笑顔を湛えて笑いながら口を開く。

「今日のことだって自分には関係ないって、最初から来る気すらなかったし。それに来る気が無いくせに、ああやって空気を壊しに現れるんだからどうにも手に負えないんだ。君たちも、あいつに近づくのはよした方がいいよ」

 そう、三人に言い聞かせるように、浸透させるように言い含めて外に出ていった。三人は誰もいない部室で顔を見合わせていた。

 

 

 三人がようやく思い出したかのように外に出て自分の自転車を用意する中、金城は途中入ってきた先輩が気になるのか準備しながら姿が無いか探していたが、どうにも姿は見えなかった。

 それは練習中も同じで、集団で走っている時も、得意分野に分かれて練習している時すらその姿を見ていないと、金城は巻島と田所から聞いた。

 

金城はその先輩のことがどうしても気になっていた。それは、記憶のどこかに引っかかるような小さな違和感ではなく、記憶をガンガンと殴るような大きな衝撃を与えていた。正面から顔を見ていないはずなのに、いや、横顔だからこそ思い出したのだろう。

 たった一度だけ、たった一度だけだったからこそ印象強く記憶に刻まれていたその横顔は、金城が息を忘れるほどに魅入ってしまった走り、勝利を引きこむ強さを見せつけていた。その彼にとっては中学最初で最後に出場したレースだっただろう、少なくとも金城はその時始めて彼を目にし、それから今日に至るまで全く目にすることはなかった。

 そのレース、その彼『比企谷八幡』は優勝した。いや、優勝したはずだった。金城は僅差ではない、確実に自転車一台分離して誰よりも先にゴールを決めた瞬間を目撃した。だが、誰も彼を見ておらず、その後ろの選手を見て歓声を上げていた。

 大会運営スタッフも彼ではなく、二位の選手を一位として表彰していた。金城は訳が分からなかった。もしかしたら、自分が見ていたのは幽霊ではなかったのか。しかし、順位が掲載されている表にはしっかりと彼のナンバーと名前が書かれていた。

棄権のところに。

それはおかしかった。失格ならともかく、棄権だったのであれば最後まで走っているのはおかしい。金城は近くにいたスタッフの一人に比企谷八幡という選手のことを、ダメもとで聞いてみると、

「なんでも、いつまで待ってもゴールしていなかったから」

 と、答えた。

 金城は唖然とした。なんで誰も気が付かなかったのか、なぜデータが残っていないのか。そこで、ゴールした瞬間の表情を思い出していた。それは、希望を落とし、絶望をもすでに持ちえない、諦めの表情だったと感覚的に痛感した。

 この結果を知っているからこそ、レースに出る事が無かったのだろうと。

 

 

 

 練習が終わり部員のほとんどが部室を後にしたころ、主将の寒咲と金城の二人が部室に残っていた。二人ともすでに着替え終わっているのだが、どちらも帰ろうとはせず自転車をいじりながら誰かを待っているようだった。

「……金城、そろそろ暗くなるから帰った方がいいじゃないか」

「いえ、練習中に気になったのでもう少し調整していきたいと」

 カラカラと、ホイールを回す二人の間に重い空気が流れてくる。寒咲は少し、まずいなという顔を浮かべている事に金城は気がついていたが口には出さず、出入口の方へ意識を割いていた。

 もう日が落ちかけ、あと数刻で日が落ちるようなそんな微妙な空模様を部室の扉が開いたことによって、二人の目に入ってきた。

「………………」

「あ~悪かった」

 袖で汗を拭きながら入ってきた比企谷は、寒咲以外にも部員が残っている事を咎めるように寒咲に向かって目線を向けた。

寒咲はそんな比企谷に軽く片手を上げて謝ると手を止め、ホイールの片付けに入っていた。金城も同じようにホイールを片付け始め、比企谷は無言のまま手早く着替え始めて一刻も早く帰ろうとしていた。

 金城は戻ってきたら話しかけようとしていたが、その背中は無言の拒絶を発しており声をかけるのは憚られた。それに加え金城が声をかけようとしている事を察し、寒咲がそれを後ろから肩を掴むことによって止めていた。金城は後ろを向くと、寒咲が真剣な表情を向けており、その表情だけで彼に声をかけることはしてはいけないと口をつぐんだ。

 比企谷は着替え終わったのか、鞄をひっつかみ二人を一瞥してすぐに部室の扉を開けて帰っていった。

「………悪いな、止めちまって」

「いえ、それより何かあるんですか?」

「ん~まぁ、その前に。なんで話しかけようと思ったんだ」

 それは聞いているというよりも、聞き出そうとしている方が正しい口調だった。

「それは……」

 金城は話すかどうか迷っていた。初めて比企谷を見たレースのことをどう説明すべきか。自分以外の人達が選手のことを見えていないなんて、そんな荒唐無稽な話を信じてもらえる可能性は低い。

 どう言えばいいのか考え込んでいた金城を見て、なにか思い当たる節があるのか寒咲は助けるように口を挟む。

助ける、とは金城の事だけではなく自分の事も助けるようなニュアンスを含んでいただろう。

「………あのレースか」

 自分から聞いておきながらそこには半分以上の確信が含まれており、金城の表情が驚きに変わったのを見て寒咲の確信は確定した。それと同時に、およそ2年間ぶりの安堵が訪れていた。自分の他にもあのゴールを見た人がいたのか、と。

 目の前を走っていたはずの比企谷を、寒咲自身以外の誰も見ていなかったことの不安。見えていなかったことの不安。

 スタッフに聞いても、同じレースに出ていた選手に聞いても、寒咲以外誰も比企谷の存在を見ている者はいなかった。金城と同じような言い知れぬ不安感、それに付随する恐怖感を抱えていた。まぁ、その不安感と恐怖感は再び比企谷とこの総北で出会った事によって払拭されていたが、あのレースの罪悪感はぬぐいされていなかった。

でも、もう一人、比企谷が優勝した事を知っている金城に出会う事ができ、あのレースの結果を否定できる存在がいる事がこれほどまでありがたいと、心の底からの安堵だった。

「寒咲主将も、見ていたんですか」

「見たっつーか、あいつの後ろを走ってたのが俺だったんだよ」

 その言葉に、金城はハッとした表情に変わった。それは、寒咲を咎めるような表情ではなく寒咲の心情を感じているような表情だった。

「ま、そんなことはいい。これは頼みなんだが、あいつに話しかけるのはよしてもらえないか」

 その言葉を聞いた金城は怪訝な表情を向けるが寒咲はそんな金城に少し笑いかけ、

「俺達にも色々と事情があるんだよ。お前は一度、外から部内を見てみるといい」

 そう、言い残して立ちあがる。それに続いて金城も立ちあがり、二人で部室を後にした。

 

 

 

 それから金城は言われた通りなるべく内部に入らないように部内を観察してみると、何となく部内の状況が分かってきた。金城、巻島、田所の1年は入ってきたばかりなので、まだ以前の部内でなにがあったのかを話してもらっていなかった。まぁ、練習に関しては巻島が色々と言われていたようだったが。

 そして重要なのが2、3年だ。

 3年は寒咲主将を除いて全員が比企谷に対して良い感情を持っていない事が分かった。腫れ物に触る、と言うよりは率先して排除しようとしていた。いまだに部内でなにがあったか聞けていないが、比企谷に対しての蔭口は3年のそれぞれからふきこまれるように、洗脳されるように、徐々に毒を注入されていた。

 さすがにまったく遭遇しないという事はできず、校舎内だったり部室内で偶然遭遇することがあるが、巻島と田所はどうにも毒がまわっていたらしく少し顔をしかめて脇を通り抜けていた。

 そんな3年を1年多く見てきた2年は、そんな陰口をたたく3年をあまりよく思っていないようだがそこは運動部、年功序列がまかり通っており文句も苦言も言える状況じゃなかったようだ。寒咲がいるとはいえ、何か言おうものなら比企谷と同じようにされ、さすがに部に残ることは難しいだろう。まぁ、それでも2年は2年で3年と別の意味で比企谷八幡の事が苦手だった。

 それでも総北自転車競技部は、1年から3年までの部員と比企谷八幡一人と言う図式が成り立っている。

 練習は比企谷以外で行い、ミーティングも比企谷を省いて集まる。それでも、そんな事でも、その程度の事たと言わんばかりに、まだぬるい事なのだと、金城は思い知らされたのが毎年恒例だという合宿だった。

 4日間で1000キロを走破と言う、1日250キロ走らなければならないという、ハードな練習が待っていた。金城達一年はその苛酷さに驚愕の表情を浮かべたが、偶然にも金城は3年達の会話を聞いて走りきれないと思ってしまった自分が恥ずかしくなった。

 比企谷八幡、4日間で1200キロ走破。

 1日300キロ走る事となる。

 それは比企谷八幡に3年が押し付けた、監督も寒咲も知らない事だった。

3日目の夜、金城は大声で笑いながら話している3年を目撃した。それはまるで自分の武功を競い合うかのように、それがまるで良い事だと言わんばかりに、悪びれもせず、むしろそれがさも正しく誠実な事であるかのように語り合っていた。

金城は途中で吐き気を催すような気味の悪さを、本当に話しているのは同じ人間なのかと背筋が冷えていた。これ以上この場にいることが苦痛になり、その場から離れようとして踵を返すとそこには比企谷八幡がジャージのままそこにいた。

石になったように動けなくなった金城は、声をかけなければと口を開こうとしていたがそこからは声はおろか息を吐き出す事もできないように閉じたまま動かすことができなかった。

比企谷はそんな金城の横をなにもなかったかのように通り過ぎるため近づいた。金城はより一層口をつぐみ、身体を硬直させ、拳を握って歯を噛みしめていた。

「気にすんな」

 横を通り過ぎる時、軽く肩を叩き金城にこん、なことは日常茶飯事、毎日どんぶり何杯ぶんも食っていると何でもないかのように、むしろこの程度かといった様相をしていた。

 それから、そんな3年達など興味が無いと言わんばかりに騒いでいる部屋を通り抜け新しいボトルを持って外へ戻っていった。比企谷は練習から戻ってきたのではなく、ただ、補充に来たようでそれが終わればまだ走る気でいた。

 翌日、比企谷八幡は1日300キロ、4日間で1200キロを走破した。

 しかし、そんな比企谷に対して感嘆の声ではなく、化物を見るような視線を向けていた。1000キロでさえ難しい事なのだが、それを200キロも多く走るという異常さを晒した事によるものだ。そこに、比企谷を部活仲間と思う部員はいなかった。

 比企谷八幡は日にちが変わる時間まで走り、朝早くから誰よりも早く走り、部員の誰よりも多くペダルを回し、歴代でもこの先の未来でもいないであろう速さでコースを走り、様々な努力の結果を経て走り終えている事を、誰も知らない。誰も、見ない。

 そんな結果を知っていたのだろう、比企谷はいつものようにその場を後にする。

 金城はその姿を、後ろ姿を見て分かったことがある。気がついたことがある。

 

そうか、あのレースで誰も比企谷八幡を見なかったわけが分かった。比企谷八幡の存在感が薄い訳でも、無視されるような存在だった訳でもなかった。彼の存在が大きすぎるから巨大すぎるから、見た人たちの努力が、頑張りがどこまでも小さく見えてしまう。自分のやってきた事を、やって来なかった事を、自分と言う存在が矮小に見えてしまうから、目をそむけていたのだと。だから、見えなかった。見なかった。

目をそむけ、自分を守るために意図してみない。

比企谷八幡と言う存在を表現するなら、鏡だろう。魔法の鏡だ。

見たもののコンプレックスを、欠点を見せる魔法の鏡だ。

 そして、そんな比企谷は自分自身の事をよく知っていたし、理解もしていた。しかし、だからと言ってどうにかなる事ではなかった。

それでも、そんな比企谷八幡でもそんな状況を作ってまで約束を守らせたかった事があった。それが、1200キロ走破の約束、

『インターハイ出場権』

 

 

 

 結果から言って、比企谷八幡はインターハイに出場することはできなかった。

 別に約束が守られなかったわけじゃない、しっかりとオーダーに名前を入れられていた。それは、合宿を終えて戻ってきた後の練習の事だった。

 珍しく比企谷がと言うより、他の3年が比企谷と一緒に練習に出ていった。金城はその事に少しばかり不安をおぼえていたが、1年の金城になにができる訳でもなく見送る事しかできなかった。

 正門坂から下り、裏門坂から戻ってくるという総北高校自転車競技部のスタンダードコースを一周走るらしく、全員そろってスタートしていった。

 そして、裏門坂から比企谷八幡だけが戻ってきた。比企谷はその後、再び一人で走りに行ってしまった。

 それから遅れて数人だけ、慌てた様子で裏門から戻ってきて急いで部室に入ってきた。そのうちの1人は監督のところへと向かって行った。

 

それは、坂道からころがした雪玉がどんどん周りの雪を身に纏うように、もはや手のつけられない事態になっていた。

 

部室に入ってきた3年は比企谷がいない事を確認し口の端でニヤリと一瞬笑ってから、慌てたふうを装い、言い放つ。

『比企谷が故意に落車させた』と。

 落車させた相手は合宿中の約束でメンバーから外れた3年らしく、比企谷の方から小馬鹿にした様子で『レースをして勝てれば枠を返してやるよ』と勝負を持ちかけたとのことだった。そこで自分達は審判役としてついていったところ、負けそうになった比企谷は走っている最中に3年のジャージを掴んでロードから引きずり落としたあと、そのまま比企谷は知らん顔をして走り去ってしまったらしい。

 それをついていった3年全員が目撃したと言い張り、その主張が通ってしまった。

 本人がいない状態と、合宿後から比企谷を排斥した方がいいじゃないかと言う空気によって、真実が決まってしまった。そこからは最初から決まっていたレールを走るかのように、途中下車なく新幹線のように進んでいった。

いつものように、日が落ちるまで走っていた比企谷が部室に戻って来ると部室には部員全員と、監督が待っていた。比企谷はその光景を一目見ただけで、いや、3年達の顔を見ただけで分かった。

比企谷はため息一つついて、監督と一緒に部室を後にした。

落車したと言っても、その3年のケガはそれほど深刻なものではなく擦り傷程度だったが、故意にと言う証言が問題になっていた。

監督は部室を出る時に、部員たちに対してもう帰るように促した。比企谷の処分は後日決定を下し、報告するという事になった。良くて公式レースの出場停止、悪ければ退部と言う事になるだろうと、寒咲は言っていた。その顔は、苦痛に歪み陰で無力で無力で無視をしてしまった自分を悔いていた。もう、そんな後悔は無駄なのに。

 

比企谷八幡、元総北高校3年、元自転車競技部所属。

下されたのは、そういう処分だった。

落車事故の翌日から、学校内に噂が飛び交うようになっていた。その噂は、言わなくても分かると思うが、比企谷に対してのものだった。比企谷は自転車競技部だけではなく、学校内でも腫れもの扱いを受けていた。だからだろう、噂はあっと言う間に広がり、教師の知るところとなった。そして、学校側はそんな問題児を置いておきたくなかっただろう、自主的に転校するという事になっているが、実際は強制的に転校する事となっていた。

転校の事は部員にもクラスメイトにも公言していない秘密だったが、つまりそれは学校中の誰もが知っているという事だ。

 

金城は最後の日の放課後、比企谷に初めて声をかけた。

『どうして、反論しなかったんですか』と。

 知っていたのだ、と言うよりも偶然知ってしまった。金城は陰で話していた3年の話を聞いてしまったのだ。比企谷を先に行かせ、わざと落車してケガをする。それを比企谷になすりつけ、嘘をでっちあげる。3年は、比企谷一人の反論より、3年が複数証言した方が信用に足る事だと分かっていた。

 比企谷は反論しても無駄だと分かっていたし、その程度で今更悲しむことなどなかった。ああ、ようやくか、と言った風もあった。

「あ? 無駄だろ」

 そんな、簡素な言葉を吐く。本当に、なにも感じていない声で。

「寒咲主将に言えば……」

「無駄だぜ、あいつは自転車競技部の部長であって、俺の友達でも、友人でも、ましてや俺の味方でもねぇんだよ。しいて言うなら、皆の味方だ」

 金城は言葉の意味が分からなかった。そんな表情を見て、比企谷はため息をつく。

「あいつは人気者だ。

人気者ってのは結局、周りの理想を押し付けられるんだよ。俺のような、周りから嫌われている人間に近づくのは必ず周りから止められる。

皆の味方の人気者はその立場から動けねぇ。助けられるのは、皆だけだ。俺は、皆ってなかに入ってねぇんだよ」

 だったら、自分が。と金城が口に出そうとした時、再び口を開く。

「ああ、自分が、なんて言うんじゃねぇよ。お前は、寒咲に似ているから再来年は主将になっているだろうな。そんな奴が、こんな奴と知り合いなんてありえないだろ。

 それに俺は友達なんていらないんだよ」

 金城は口をつぐむ。比企谷の表情が、飄々としているのにどこか痛々しく、悲しそうにしているように見えたから。

「……先輩は、自転車を続けるんですか?」

「あ? 当たり前だろ」

「なんで……」

「なんで、裏切ったのに、か?」

 金城には言えなかった言葉をさらりと口にする。

「別に裏切られちゃいねぇって。

ま、自転車競技っていうスポーツは俺が生まれた時から俺を裏切っているだろうな。でもよ、自転車って乗り物は、自転車で走ってきた道は、これから走っていく道は俺を裏切らねぇよ。

 ま、ロードが裏切るって場合は俺の方から裏切った時だろ。

 それに、俺はな、ロードで走った先で合いたい奴がいるんだよ」

「合いたい人、ですか?」

「ああ、それが誰か分からないが、本物の関係になれるような奴にな」

 比企谷はそう言って、フッと表情を緩めた。

「本物……」

「そういう事だ、じゃ俺は行くぞ」

「また、会えますか?」

「さぁな、お前がロード裏切らない限り可能性はあるんじゃねぇのか」

 遠ざかっていく比企谷の背中に、金城は最後に頭を下げた。

 

金城はそれから風の噂に、比企谷八幡が箱根学園に転校したと聞いた。しかし、その年のインターハイで箱学の中に比企谷を見ることはなかった。

 

 

 

「……そんで、その比企谷っちゅー人はどないしたんっすか?」

「その後は俺も分からない。しかし、箱学に転校した後、自転車競技部に入らなかったことは確かだそうだ」

 小野田は少し涙を浮かべ、鳴子と今泉は表情を曇らしたまま動けなかった。金城の両隣にいた巻島と田所は無言で足元を見ていた。

「主将さん、すませんでした!」

 小野田は立ちあがり金城に頭を下げた。

「こんな質問してしまって」

「いいさ、小野田。むしろ、こうしてあの人を知ってもらえる機会を作ってくれた事を感謝したいくらいだ」

「そ、そんな……」

 小野田に笑いかける金城に、小野田自身どうすればいいか分からなかった。

「悪い、金城。実は一度だけあの人に話しかけられたことがあった」

 田所が、懺悔するように口を開く。その言葉に巻島は驚いて、

「俺も、同じっショ」

 どうやら巻島も田所と同じように一度比企谷に話しかけられていたそうだ。

 巻島は自身の走り方に口を出され、散々直されようとしていた頃に一言だけ『自分の走り方をすりゃ良いだろ』と、抜きかけに声を掛けられていた。その頃、巻島はどうするか迷っていた。直すべきか、自分の走りを貫くか。

 田所は合宿後、部活を辞めようか迷っていた時がある。そのことは金城も知っているが、田所が寒咲に相談して続けようと思いとどまったという事だけ聞かされた。実は、寒咲と監督に相談し練習を見てもらい始めていた最初の頃はたまに止めることを考えてしまっていたらしい。そんな中、寒咲が練習を見れない日に自主練をしていると、後ろから追いついた比企谷が誰に言っているとも知らないセリフが聞こえてきた。『続ける続けないは自分で決めろよ。でもな、この先の道になにがあるか知りたいならペダルをこぎ続けなきゃ見れねぇんだぜ』そう、言葉だけを置いて速度を上げて先に行ってしまった。

 そんな二人の話を聞いて金城は、あの人らしいなと笑う。

 ふと金城は窓から外を見れば、そろそろあの日と同じようにもう少しで日が沈みかけていた。

「さて、そろそろ帰るとしよう。鍵は俺が返しておこう」

 そう言って残っていた小野田達一年と、静かに聞いていた二年、無言の巻島と田所を促した。巻島と田所は金城に何かを言いかけようとして、なにを言っていいのか分からず言葉が引っ込んでいた。そんな様子を金城は笑って、気にしなくても良いと声をかけた。

 金城以外の部員が帰った後、携帯を取り出し最近アドレスを交換した相手に電話をかけた。

『ったく、気軽にかけてんじゃねぇよ』

「ああ、悪いな」

『ったく、んで、なんの用?』

「いやなに、こっちで比企谷さんの話題が出てな」

『……ああ、なるほどねぇ』

「あれから、連絡はあったかとね」

『んなしょっちゅうねぇよ。あの人が口下手なの知ってんだろ。インアターハイの時に話した事で全部だよ』

「そうだな、受験勉強中にすまなかった」

『ほんとだよ、こっちは福ちゃんたちもいんだぜ』

「苦労しているようだな」

『……そーでもないよ』

「いきなり悪かったな、荒北。もう切る事にする」

『あの人が心配になるのは分かるけど、今はもう大丈夫じゃなぁい』

「そうだな。では、何かあればかけて欲しい」

『わってるよ』

 金城は通話を切り、携帯を鞄にしまった。それから制服に着替えて部室の鍵を閉める。金城は思う、自分の先にはなにが待っているのか。できるなら、また道が繋がっている事を。

 

 

 比企谷八幡はとある大学の自転車競技部に所属しているという。そこでは二人の理解者に出会えたとか、出会えなかったとか………

 


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