その変化は一瞬の内に起こった。
圧倒的な実力さと会場全体を包み込む重圧に飲み込まれそうな榊奴操が微かに笑みを浮かべた瞬間、この状況を作り上げてきたの全ての工程を嘲笑うかのように状況が一変する。
レコードが切り替わるように、今までの探り探りの行動がまるで違うものに変わる。
「なあ、あれって中華の技術じゃないのか?」
「確かに。あの一年は中華料理を作ろうとしていたのか」
「で、でも、さっきまで須郷先輩と同じ料理を作ろうとしていたように見えたよ!?」
その変化に気づいた学生たちが口々に自らの予想を口にする。流石に世界有数の料理学校の生徒だけあって榊奴が自身の料理に加えた変化から直ぐ様情報を得るスピードを普通ではない。
しかし、その予想が確信に変わる前に次の合図が鳴り、又しても榊奴の動きが全く異質なものに変容する。
「今度はスペイン料理?」
「い、いや、俺には洋食に見えた…………」
「何言ってんだよ!あれはイタリアの焼き上げ方だろ!?お前ら講義で何聞いてたんだよ!」
「そもそも、あんなデタラメなやり方じゃ…………アイツ、諦めたのか?」
次から次へと姿を変える榊奴の調理法に遠月の生徒達は翻弄されながらも、自らの経験や知識と照らし合わせながら分析し結論を出す。”あんなやり方でまともな料理が出来上がるはずがない”、と。
料理とは思いつきや直感で作るだけではいけない。特にこの学園では中等部の段階からあらゆる分野の調理法に対する知識や技術を叩き込まれ、それらが持つ特徴と決して交じり合うことのない強烈な個性を学生一人一人がその脳裏に叩き込まれている。そんな彼らが下した判断は正しく、信頼におけるものであり、目の前で行われている奇妙な光景を見ればどんな人間でも同じような答えに至るだろう。
ただ一人、遠月第三席である矢成音孤を除いては。
『成る程ねい。そう来た訳かい』
矢成音孤と会場にいるその他の生徒の違いは単純に十傑か否かだけではない。
この遠月で生き残る人間は二種類存在する。
一つは学園から出される課題を突破できる程度にあらゆる調理技術を獲得し、その中で突出した才能を手にして
もう一つは最初から誰にも負けない
須郷圭一が前者であるとすると、矢成音弧は完全なる後者であり、自分の好きな『いなり寿司』というたった一つの料理を極めていたら気付けば
しかし、世の中にはそんな特化型の料理人ですら”アイツはおかしい”と感じるような人間が存在する。
例えばこの遠月始まって以来の問題児と言われる第二席。
例えば万能型でありながら、その行動が超特殊である第八席。
例えば会場全体が混乱している中で一人マイペースに何かを綴っている全ての元凶である第十席。
そして、その混乱の中心にいるあの少年もまた、矢成音弧ですら異常と思える怪物であることは間違いない。
(それにしても、”二回”も見ていて今更気付くとは私の眼も曇ったのか、それともそれだけあの一年生が異常なのか。…………全く、何てモノをキープしてるんだよ、あの腹黒女)
見る者を圧倒しながら作品を作り上げていく榊度を見ながら、彼を最初に見ることになった秋の選抜の予選を思い出す。
ハッキリ言って酷いモノだった。
八十点以上の点数を叩き出したのが優勝した木久地園果を含めて四名。
それ以外は軒並み六十点前後と音弧の知るここ数年では考えられないほどの惨状に須郷を含む大多数が今年の一年生を不作と例えた。
だが、その理由が今はっきりと目の前に現れた事で認識を改める。
「矢成先輩、矢成さーん?おい、いなり狂い仕事しろ―」
思考の海に旅立とうとしていた精神が隣に座る放送部の早津田みるるの声で呼び覚まされる。
「…………なんだい。人が考え事してるのに」
「いえいえ、今起こってる現象の説明が貴女の仕事ですのでー。目上の方に説教的になるのはイメージ的に悪いのでマイク外して言いますが、今日ここにあるいなり寿司は遠月の料理人達が誠心誠意を込めて作ったモノなのでその分の働きはしてくださいよー」
「お前、中々言うねい」
「仕事ですので―」
営業スマイル全開のみるるにやれやれ、と溜め息を付きながらそのままマイクが音声を拾わないように例え話をすることにする。
「秋の選抜の予選の結果は知っているかい?」
「えーと、通称激戦のBブロックと冷戦のAブロックでしたか?私はBブロック担当だったんで矢成先輩のいたAブロックについては詳しく知りませんが、なかなか大変だったと聞いています」
「そうだねい、来賓や薙切の老人達がいくら機嫌悪くしようが私の知ったこっちゃないが、どうやらいうほど今年が悪かったわけでもないみたいだぜ?」
「と、いいますと?」
「いつも通りってだけさ。去年は角崎や一席サマはともかく、八席が暴れただろう?私の年なんて色々な意味で酷かった。決勝に進んだのが今の十傑メンバーばかりとはいえ、予選じゃ殆どが八十点オーバーで平均点が酷いことになってた」
「そ、それは今の三年生方が優秀だったってことじゃ…………」
「いんや、別に………決勝に残った豪雪山とか二席は確かに色んな意味でインパクトは有ったけど、他の連中は至って普通さ。普通過ぎて最悪な奴に目を付けられた。…………この学園で生き残るには現状維持じゃダメだって流石にお前も分かるだろ?」
大岩が飛び交い、会場内で突如食戟が巻き起こる光景が普通と呼べる人間が大多数だった時代だ。今は少なくなってしまった同期達の反応はそれなりに見ていて面白いものだったが、あの予選に関してはそういった反応は望めなかった。
一部の色々と極まった者と普通に点数を出せる須郷のような天才以外の生徒にとって、秋の選抜という学園で上位を決める戦いは絶望以外の何物では無かった。
地獄の宿泊研修を終えたばかりの一年生にとって純粋な実力を試す機会である筈のステージは同時に怪物達の異常性を証明することになる。それを一番理解しているからこそ、彼らは絶望し、突如現れた救いの手を悪魔の契約とも知らずに手に取った。
「この遠月で生きていくにはどんな手段を使っても成長していくしかない。それを誰よりも理解して実践していったのがあそこにいる薙切せりかさ。この遠月では同期っていうのは競い合うライバルであり、蹴落とすべき宿敵であり、高め合う盟友である。そんな薙切の爺様の言葉をアイツは実践したんだ。悩んでいる生徒達に自分のレシピをばら撒いて、データ取りに利用したんだよ」
「で、データですか?」
薙切せりかには二つの武器がある。
一つは幼い頃からその身に刻まれた薙切という一族の異常なまでの食へ拘りによる英才教育によって生み出された膨大な食の知識。
そして、彼女の才能の根幹となるのがその眼だ。
「例えば、今私が食べているいなり寿司を見てお前はどう感じる?」
「お、おいしそうです」
「うん。確かにおいしいがやらないからな。これは私のだ。……………ってな具合に普通の人間じゃその程度しかわからないが、意外にこの”見る”という方法で得られる情報は多いんだよ。例えば、この皮がどんな方法で作られているかわかるかい?」
いなり寿司の茶色く光る皮を指差しながら、音弧は今にも食べてしまいたい必死に欲求を抑える。大好物を目の前にしてお預けなど、最大級の苦行として登録されるべき行為であるが自分から問題を出した手前、みるるが応えるまではここはぐっと堪えるしかない。
「そりゃあ、私も一応遠月の生徒ですからわかりますけど………あの、そんなに食べたかったら食べてもいいんですよ?」
「そ、そうか?なら、遠慮なく」
神速で口に運んだいなり寿司は絶品。
全てどうでもよくなりそうになるが、またしてもそれを堪え乍ら答え合わせに移る。
「ま、今のがアイツの武器さ」
「え、どういうことですか?」
「だーかーら、アイツは今私が食べた料理を見ただけでその材料と調理法と作った人間のある程度の実力がわかるんだよ」
そんなデタラメな!、という声がみるるの口から洩れそうになるが、マイクの存在を思い出したのか慌てて口を塞ぐ。
「…………で、でも、そんな事が可能なんですか?」
「普通は無理。でも、中等部の薙切えりながそうなようにあの一族にはそう言う食に対して異常な奴が確実にいる。ま、食べるか見るかの違いさ。アイツは私たちと違って生まれた時から料理に囲まれていたからねい。始めは100%じゃなくても、長い事やってるうちに的中率が上がっていったんだろうさ」
「あ、もしかして」
「ふっふーん、気付いたようだねい。今日あの一年生が使っているレシピがどこから現れたってのが………」
そう、今まさに須郷圭一が戦っている魔物の正体。
それこそが、魔女が自らの勘や才能を頼りに創り上げたレシピを多くの学生に分け与え、その結果によって導き出されたさらなる高みを目指した果てに辿り着いた『黄金のレシピ』という遠月が生み出した怪物そのものである。
今まさに食戟によって巻き起こった歓声に包まれている会場を月天の間の外から覗く影があった。
「にゃはは、これは予想通りというか想定外というか順調といえば順調なんですかねー?」
遠月学園第八席と呼ばれる少女は現十席の中で最も素性の知れない人間と呼ばれている。
彼女の二つ名である『影の傑作シャドウ・アート』はミスディレクション等を利用した料理の表と裏を演出する芸術家としての側面からそう呼ばれるようになった。逆に言えば、そう呼ばれているだけで同じ十傑でさえそれ以上のことを知っているものは少ない。
ある程度の実力があるのなら同じ料理人である以上、料理を食べれば相手のことが理解出来るなどと無責任な事を言う人間がいるが彼女に関しては例外で作るものは必殺料理以外にも強烈な個性を放つ料理ばかりなのだが、どういうわけかどれを食べても料理人である彼女の顔をはっきりと認識できたものはいない。まるで料理の持つ強烈なイメージがその他の情報を覆い隠すかのように第八席という存在が表舞台に上がることはない。
今回の食戟についても彼女が行った事など別段大したことではない。
良識があるかは知らないが、現十傑の中でも比較的常識人な第九席に半年ほど時間をかけて現在の遠月学園の有り様について”相談”し、そのついでに一部の権力者達に食戟を利用したマネーゲームを”提供”、後は同期のよしみで本日の帰りのバスを小一時間ほど送らせてどうやっても角崎タキ達がこの食戟に間に合わないようにしたくらい。このとおり別段大したことはしておらず、特に関係者というわけでもないので会場には立ち寄らずに出歯亀気分で様子を見に来たわけである。
「音弧さんは気付いてるみたいですけど、肝心の須郷さんは気付いていないですかー」
恐らく、彼らが意思の伝達を図っているのは音によるモールス信号だろう。魔女の所属するサークルがこの遠月に何故か古くから存在する『アマチュア無線部』を乗っ取ったものである事を知っている彼女からすれば二人が料理学校でおよそ覚える機会など皆無であろう連絡手段をマスターしていることに疑問はない。
食戟において第三者からの助言・助力は基本的にルール違反であり、不正として事務局に報告してもいいのだが、それではおもしろくない。この場にいる誰もこの会場内で発信される信号について気付いていない以上、第三者である自分の口から何も言うことはない。
「ちょーっと、須郷さんが張り切り過ぎたみたいですけど元々この辺りで手を引く予定でしたし、ちょうどいいですかねー?わたしとしては特に儲けなどは出ていませんがそこらへんは残念無念また後日ー、という事で!」
歓声や嘲笑が完全に消え失せ、静まり返った会場を背に第八席は自らの完成した芸術が壊れる音を満足そうに聞きながらその場を去った。
魔女の才能は基本的に『太りたくない、あんま食べたくない、もう働きたくない』の三大原則によって成長します。
なので、他の二人の薙切と違って色々な部分が成長しな――――――。