緋弾のアリア ~飛天の継承者~   作:ファルクラム

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第5話「悪魔の飽食」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高度100メートルから落下する恐怖は、実際に体験した者以外に知る事はないだろう。

 

 急速な落下に伴う衝撃と風圧。1秒ごとに加速する感覚から来る恐怖は、精神の弱い人間なら、それだけで気を失ってもおかしくはない。

 

 下が海である事は何の慰めにもならない。この高度から落下すれば、海面はコンクリートよりも硬くなり、落着した瞬間、五体はバラバラに砕け散るだろう。

 

 つまり、どう考えても今現在、友哉は絶体絶命の状況にあるのだ。

 

 まったく、

 

 バンジージャンプを考えた人間は、余程の暇人か、そうでなかったら世紀の天才かも知れない。

 

 これは確かに、遊園地のジェットコースターでは味わえる感覚では無い。

 

 今まさに、バンジージャンプを敢行している友哉だから言える事だ。しかも、ノーロープで。

 

 急速に落下しながらも、友哉は余裕を持った思考で状況を見極める。

 

 慌てる事には何の意味も無い。命の危機にある時程、状況を受け入れ、落ち着いて行動するべきである。そうすれば、絶体絶命の状況でも意外と生存率は高まる物なのだ。

 

 そして、落下する中で友哉の鋭い視線は、自分の生命線を見逃さなかった。

 

「ハッ!!」

 

 ベルトのバックルからワイヤーを取り出すと、崖に根を張った状態で飛び出ていた枝に投げて巻きつける。

 

 タイミングはばっちり。投げたワイヤーがうまい具合に枝に巻き付いた。

 

 急速落下状態から別ベクトルの力を加えられた友哉の体は、振り子のように左右に大きく旋回を繰り返しつつ、徐々に運動エネルギーを殺して行き、やがてぶら下がる形で停止した。

 

 息を吐く友哉。どうやら、うまく行ったらしい。

 

 そこは、崖の上から30メートルほど下に下った場所に、1本だけ張り出した小さな枝だった。根がしっかりと張っているらしく、友哉1人がぶら下がっても、折れたり抜けたりする事はない。

 

「やれやれ、何とかなった・・・・・・」

 

 額に滲んだ汗を、コートの袖で拭う。

 

 うまく行って良かった。さもなくば、今頃友哉の体は間違いなく海面に叩きつけられていた筈だ。

 

「さて、と・・・・・・」

 

 ワイヤーにぶら下がった状態で、友哉は上を見上げる。

 

 いつまでも、こうしてぶら下がっている訳にもいかない。何とか、崖の上まで登らないと。

 

 陽が落ちて天候も芳しくないせいか、見上げても崖上を見る事はできない。捕まった茉莉がどうなったのか気になるが、これでは確認のしようがなかった。

 

 ここを上って、元の落下地点に戻るか? 恐らく忠志や当真は、友哉が死んだと思っただろうから、上で網を張っていると言う事はない筈だ。

 

 だが、

 

「ッ!?」

 

 左肩に痛みを感じ、友哉は僅かに顔を顰めた。

 

 忠志に撃たれた場所だ。至近距離だった為、防弾コートと制服越しにもかなりの衝撃を受けてしまった。もしかしたら、肋骨の1~2本は折れているかもしれない。

 

 正直、この腕で崖を上るのはしんどかった。

 

 だが、このまま手をこまねいていたら、茉莉がどんな目にあうか。想像もしたくない事である。

 

 何とかして、早く助けにいかないと。

 

 身を焦がす焦燥感に包まれそうになった時だった。

 

「・・・・・・おろ?」

 

 ぶら下がっている場所から、5~6メートルほど横に行った場所に、何か人工物めいた突起がある事に気付いた。

 

 明らかに自然にできた物では無い。恐らく、何らかの目的で後から人間の手で設置した物だ。

 

 あそこくらいまでなら、この傷付いた体でもどうにか行けるだろう。

 

 友哉は落ちないようにワイヤーを腕に巻き付け、崖に張り付きながら慎重に横移動して行った。

 

 やがて、問題の場所までやって来る。

 

 そこは人1人が、どうにか立って通り抜けれるくらいの大きさをした通路状の場所で、中には大型のファンが取り付けられていた。どうやら、換気システムの排出口であるらしい。ファンは停止しており、容易にすり抜ける事ができた。

 

 内部のダクトを通り抜け、通風口をこじ開けると、内部へと降り立った。

 

 そこは、何かの施設の廊下だった。白一色で統一された清潔感のある内装は、一目で、何かの研究施設である事が判った。

 

「・・・・・・・・・・・・まさか、地下施設だったとは」

 

 肩を竦めて言うと同時に、自分の迂闊さに呆れてしまう。

 

 このような辺鄙な島に施設を作るくらいだから、てっきり施設は地上に作っているとばかり思っていた。

 

 恐らく、監視衛星対策だろう。違法な研究、開発を行っているのだから、当然、スパイ対策だけでなく、そう言った電子の目に対する対策もしていると言う訳だ。

 

 期せずして、友哉は敵地への潜入に成功した事になる。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 周囲の気配を探りながら、友哉は廊下の奥へと歩みを進めて行く。

 

 施設の事もそうだが、何より、捕まった茉莉の事も気になった。

 

 自分のせいで、危険な目にあわせてしまっているのだ。早く助け出してあげたかった。

 

「待ってて、茉莉」

 

 静かに、力強く囁く。

 

 今の友哉は丸腰。敵と出会った場合、有効な対処手段がない。

 

 だが、そんな事で、歩みを止める理由にはならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガチャンと言う金属音と共に、鉄格子に鍵がかけられる。

 

 周囲は壁のみ。明かり取り用の窓すら無い。

 

 座り込むと、剥き出しのコンクリートから伝わる冷たさが、否応なく伝わってくる。

 

 茉莉は今、明らかに独房と思われる場所に入れられていた。

 

 後手に掛けられた手錠はそのままに、殆ど身動きできないまま放り込まれたのだ。

 

「この女か、お前を誑かした武偵の女は?」

「う、うん、そ、そうだよ、パパ」

 

 俯いたまま独房の床に座り込んでいる茉莉を、久志と忠志の石井親子が眺めている。

 

 対して茉莉は、そんな2人の存在など眼中に入らないかのように、俯いたまま無言でいる。

 

 無理も無い。折角、想いが通じ合ったと思った瞬間、友哉は茉莉が見ている目の前で崖の下へと転落して行ったのだ。それを目の当たりにした茉莉が心を閉ざしたとしても、無理からぬことである。

 

 そんな茉莉に、石井親子の吐き捨ているような声が容赦なく浴びせられる。

 

「フン、浅ましい事だ。こんな所までノコノコやってくるとは」

「ぼ、僕を騙しただけじゃなく、パ、パパの事まで、つ、捕まえに来るなんて、ひどいじゃないかッ 人間のやる事じゃないよッ!!」

 

 2人の罵り声も届いていないのか、茉莉はピクリとも動かない。完全に、魂まで抜けてしまったかのようだ。

 

「それで、この娘、いかがいたしますか?」

 

 脱力した茉莉を冷ややかな目で見ながら、傍らに控えていた志摩子が無表情で尋ねる。

 

 これまで、浪日製薬の事を探りに来たスパイは幾人もいたが、その全員の運命が決まっていた。殺して、遺体を海に捨てれば、海流の関係で二度と上がって来る事はない。正に完全犯罪の成立である。

 

 目の前で項垂れている少女も、そうなるかと思われた。

 

「ま、まって、パパ。この女、僕に頂戴」

 

 まるで新しい玩具をねだる子供のように、忠志は意地汚い笑みを顔に張り付けて言う。

 

 これまで、己の欲望を何の不自由も無く叶えて来た人間が見せる、特有の下卑た顔だった。

 

 忠志にとって今や茉莉は、単なる玩具の1つにしか映っていない。それも、これまでに持った事も無いような新しいおもちゃだ。はしゃがない筈がない。

 

 緋村への復讐は、奴を殺した事で完了した。あとは、自分を騙した、この女への復讐をするだけだ。

 

 抵抗できない茉莉を裸にひん剥いて、泣き喚くまでたっぷりと辱めを受けさせてやる。

 

 本当は緋村の見ている前で犯し抜いてやりたかった。自分の恋人が、自分の見ている前で凌辱される。これほどの屈辱は他にないだろう。

 

 だが、死んでしまった物は仕方がない。

 

「ふむ・・・・・・」

 

 少し考え込むようにしてから、久志は答えた。

 

 幼い頃から久志は、忠志が欲しいと言った物は何でも与えて来た。そこに、この女1人が加わるだけの話である。

 

「良いだろう。お前の好きにしなさい」

「やったァッ」

 

 忠志は子供のように手を叩いて喜ぶと、鉄格子に手を掛けて、茉莉に粘つくような笑みを向ける。

 

「ま、待っててね、瀬田さん。あ、あとでたっぷりと可愛がってあげるから」

 

 不快感を呼び起こす声にも、茉莉は一切反応しない。ともすれば、本当に死んでしまったのでは、と思えるほどだ。

 

「い、言っとくけど、緋村を待っても、む、無駄だよ。あんな場所から落ちて、い、生きてる筈なんてないんだからさ」

 

 勝ち誇ったように、忠志は茉莉に告げる。

 

 彼にとって、友哉への復讐は既に終わっており、後は茉莉を慰み者にすれば、復讐は完遂されるのだ。

 

「さて、不愉快な奴等を掃除できたら腹が減ったな。忠志、そろそろ食事にしようじゃないか」

「う、うん、判ったパパ。そ、それじゃあね瀬田さん。あ、あとでまた来るから、大人しくしてるんだよ」

 

 そう言い残して石井親子と、それに従う志摩子が去っていく。

 

 やがて、足音も徐々に遠ざかり聞こえなくなって行く。

 

 人の気配が完全に消え、静寂が場を満たした頃。

 

「・・・・・・・・・・・・そろそろ良いでしょうか?」

 

 呟きながら、茉莉は顔を上げた。

 

 その顔は、先程までのように項垂れた物では無く、力強い決意に満ち溢れている。正に、戦う武偵の顔だ。

 

 茉莉は項垂れていた訳ではない、そう見えるように演技をしていたのだ。

 

 正直、石井親子。特に忠志の身勝手な言い草は、茉莉にとって聞き捨てならないほど、くだらない戯言だったが、それにも茉莉はジッと耐えた。

 

 あそこで激昂する事に意味は無かった。

 

 捕まった時点で多勢に無勢である事は判っていたし、何より、大人しくしていたら連行と言う形で施設に入り込めると思ったからだ。

 

 結果は、大当たりだった。茉莉は労せずして、敵の研究施設へ潜入を果たしていた。

 

 茉莉は腕を動かして、スカートのホックの部分を探ると、そこから短い針金のような解錠ツールを取り出し、後手に拘束している手錠のカギ穴に差し込んだ。

 

「えっと、ここをこうして・・・・・・こうして・・・・・・」

 

 指先で探るように、針金を動かして行く。解錠スキルは武偵校生徒にとっては基本的な技能であるが、流石に背中で解錠するのは骨が折れる。

 

「それにしても、これも皮肉なんでしょうか・・・・・・」

 

 解錠ツールの感触を確かめながら、茉莉は自嘲気味に呟く。

 

 茉莉は解錠ツールを始め、いくつかの道具を服の中に仕込んでいる。

 

 そうするようになったのは、夏頃に瑠香と喧嘩した事が原因だった。あの時、2人とも意地を張り続けた結果、互いに引くに引けない所まで行ってしまい、ついには決闘騒ぎにまで発展してしまった。

 

 当初、茉莉は自分の勝利を微塵も疑っていなかった。勝負は呆気なく決するだろう、と高をくくっていた。事実として、瑠香の実力は茉莉より大きく劣っている。茉莉がそう思うのも、無理ない事だった。

 

 しかし、瑠香が服の下に大量に仕込んでいた武器や爆薬の前に、予想外の苦戦を強いられたのだ。

 

 仲直りした後、茉莉は瑠香から服の下に武器や道具を隠す方法を、色々と教わったのだ。とは言え、機動力を武器とする茉莉にとって、あまり重い武器を持つと、持ち味を削ぐ事になってしまうし、爆薬の類は茉莉のバトルスタイルに合わない。そこで、解錠ツールを始めとした、補助的な道具を仕込んで持ち歩くようにしているのだ。

 

 きっかけが友達との喧嘩、と言う点に忸怩たるものがあるが、今はそんな些細な事に拘泥している余裕はない。

 

 カチリ

 

 やがて、乾いた音と共に、茉莉の右腕から手錠が外れる。

 

 こうなれば、後は簡単だ。茉莉は自由になった両腕を前に回し、残る左手の手錠を簡単に外してしまった。

 

 外れた手錠を投げ捨てると、手首をさすりながら、格子の方に向き直る。後は、この格子を破るだけだ。

 

「友哉さんの事もありますので、なるべく急がないと」

 

 呟くと、解錠ツールを握り直す。

 

 茉莉は、友哉が死んだなどとは微塵も思っていない。忠志は何やら言っていたが、崖から落ちた程度で本当に友哉を殺せたと思っているなら、果てしなくおめでたいとしか言いようがない。

 

 友哉は生きている。そして今もきっと、この施設に近付いている筈だ。

 

 友哉を助ける為にも、早くここを抜けだす必要があった。

 

 その時、

 

「全く。いらない手間を掛けさせるんじゃない。阿呆共が」

 

 今にも鍵穴に解錠ツールを差しこもうとしていた茉莉の耳に、低い、どこかで聞き憶えのある声が聞こえて来た。

 

 顔を上げると、そこには剣呑な雰囲気を持つ、鋭い目つきの青年が立っていた。

 

「さ、斎藤さんッ!?」

 

 それは、これまで何度も共闘した事がある、公安0課所属の刑事、斎藤一馬だった。

 

「ど、どうして、ここに?」

「愚問だな」

 

 素っ気なく言いながら、一馬は手に持った鍵束の鍵を差し込み、格子を開いた。

 

 呆気なく開く扉を見ながら、茉莉は、心の中で「確かに」と呟く。自分達がこの島に来た理由を考えれば、一馬がここにいる理由も、自ずと決まっていると言う物だ。

 

 開いた扉から外に出ると、茉莉は一馬に頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 礼を言う茉莉に対し、一馬はさっさと煙草に火を付けると、大きく煙を吐き出しながら答える。

 

「礼はいい。たんに、俺の仕事の邪魔をされたくないだけだ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 素っ気ない口調の一馬に、流石の茉莉も閉口せざるを得ない。

 

 相変わらず、とっつきにくい男である。

 

 友哉からは蛇蝎の如く嫌われている一馬だが、正直、茉莉もあまり良い感情を持っていない。

 

 とは言え、現状では心強い味方である事は間違いなかった。

 

「お前の装備だ。回収しといてやったぞ」

 

 一馬が顎で示した先には、床に転がるようにして、菊一文字とブローニング、武偵手帳が転がっていた。

 

 手に取って確かめると細工された様子はないし、ブローニングのマガジンもそのまま残っていた。

 

 手帳はポケットに、刀を背中にそれぞれ収め、ブローニングのホルスターを太股に撒こうとして、

 

 ふと、茉莉は手を止めた。

 

「あ、あの、斎藤さん、向こう、向いててもらえませんか?」

 

 ホルスターは太股の付け根に着ける為、どうしてもスカートをまくらなくてはならない。その為、パンツが見えてしまうのだ。

 

 対して、一馬はいかにも興味なさげに煙草を吹かしながら尋ね返してくる。

 

「何でだ?」

「そ、それは・・・・・・」

 

 口ごもる茉莉。説明はしたいが、それをいちいち言うのも恥ずかしかった。

 

 対して一馬はフッと笑い踵を返すと、そのまま歩き出す。

 

「安心しろ。ガキには興味無い」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 ムカつく、とはこういう事を言うんだろう。いつもからかわれたり、鼻であしらわれている友哉の気持が、痛いほどに判ってしまった。

 

 急いで太股にホルスターを装着すると、一馬の後を追いかける。

 

 一馬の方でも、追ってくる茉莉の足音には気付いているのだろうが、歩みを止める事はない。どうやら、放ってはおくが、ついて来るのは自由、と言う事らしい。

 

 一馬の後からついて行く茉莉は、彼の背中を見ながら尋ねた。

 

「斎藤さんがここにいると言う事は、政府も浪日製薬の事は気付いている、と言う事ですか?」

「連中が裏で生物兵器を作ってるって話か? そんな物は1年以上前から気付いていたさ」

 

 言いながら、一馬は目の前の扉を開いて更に奥へと続く廊下を歩いて行く。

 

「俺がここに来たのは1週間前だ。もっとも、随分と手の込んだものを作ってくれたせいで、ここに入れるようになったのは3日ほど前だがな」

「1週間、そんなに前から・・・・・・」

「ああ、お前等が乳繰り合っている間に、大体の調査は終えた」

「ちちくッ・・・・・・」

 

 一馬の言葉に、茉莉は顔を真っ赤にして絶句する。一馬としては皮肉のつもりで言っただけなのだが、それに関してはあながち間違いでもないので、否定する事ができない。

 

 そんな茉莉の様子を見て、一馬は怪訝な顔つきになるが、すぐに口元を吊りあげてニヤリと笑う。

 

「何だ、図星か」

「~~~~~~//////」

 

 自分が微妙に自爆した事を悟り、更に顔を赤くする茉莉。良くも悪くも、嘘のつけない娘だった。

 

 そんな茉莉の様子を見ながら、一馬は溜息交じりに紫煙を吐きだす。

 

「やれやれ、あの阿呆は、自分の女を置いて、1人死んじまった訳だ」

 

 「あの阿呆」と言う言葉が、友哉の事を差して言っていると悟った茉莉は、赤面した顔に鋭い眼光を張り付けて、一馬を睨みつけた。

 

「死んでません」

「ん?」

「友哉さんは死んでません。必ず、まだ生きています」

 

 力強く言い放つ。

 

 相手は公安0課の刑事。茉莉の実力では決して敵わない相手だ。もしここで、一馬が茉莉に襲い掛かってきたら、茉莉は抵抗する事もできずに倒されてしまうだろう。

 

 だが、圧倒的な戦力差を感じながら、茉莉はそれをはねつけるように、激しい双眸で睨む。

 

 友哉は生きている。その「事実」を譲るつもりは、茉莉には無かった。

 

 そんな茉莉の様子を、一馬は面白そうに眺めながら口を開く。

 

「それは結構。奴がいるといないとでは、今後の戦いに対する張りも変わって来るからな」

 

 そう言って、再び茉莉に背を向けて歩き出す一馬。しかし、その口元には、不敵とも言える笑みが僅かに浮かべられていた。

 

 友哉が急速に実力を上げて来ているのは、一馬も感じている。それは同時に、一馬の中に流れる狼の血が、滾りを増している事も意味していた。

 

 武偵と公安0課。本来なら同じ側に立つべき者同士。

 

 だがもし、今後、何らかの形で友哉と相対する事になったならば、その時は自分が全力を出すに値するのではないか、と一馬は考えていた。

 

 歩き出す一馬の後ろから、茉莉もまたついて行く。

 

 話を聞いて見ると、一馬は茉莉達と同じように定期便を利用して、この島に潜入したらしい。調査を進めてすぐに、問題の施設が地下にある事は突きとめたそうだが、中に入る道がなかなか見つからなかったのだ。

 

 そこでふと、一馬は足を止めた。

 

「・・・・・・そう言えば、お前もあれの当事者だったな」

「何の話ですか?」

「俺がここに来たのは、谷事件の追跡調査の為でもある」

 

 谷事件、と聞いて茉莉はハッと顔を上げた。

 

 谷源蔵と谷信吾の親子が、茉莉の故郷である皐月村周辺を牛耳る形で支配し、強引なダム建設を進めていたのは、茉莉にとって苦々しい記憶の1つだ。あの事件が、この段になって尚も尾を引いている事は、茉莉にとってこの上なく忌々しい話だった。

 

「谷親子が出資していた企業の一つが、この浪日製薬だ。もっとも、あの阿呆親子からすれば、浪日製薬の実態がこんな物だとは思っていなかっただろうがな」

 

 その点は茉莉も全面的に同意である。あの谷親子が、浪日製薬の裏事情を知っていたとは思えない。ただ、急成長を続ける浪日製薬の株を、ほんの数パーセントでも保有しておけば、莫大な利益が転がり込む。しかも、それは今後、増加する可能性すら秘めていたのだ。物欲の塊と言って良かった谷親子が目を付けたのは、当然の成り行きだったと言える。

 

 奇妙な所で縁が繋がる、という好例であった。

 

 その時、2人は円筒形のガラス筒が無数に並んでいるエリアに入った。

 

 どうやら何かの培養槽らしいそれらのガラス筒は、傍らの機械とワンセットになって、今も稼働状態にあった。

 

 若干の興味を引かれた茉莉が、何気なく、中を覗き込む。

 

 次の瞬間、

 

「ッ!?」

 

 悲鳴を上げる事すらかなわず、茉莉は呼吸を止めるほど、声で喉を詰まらせた。それほどまでに、中にあった物はおぞましかったのだ。

 

 まるで内臓を半分ミンチにして、こね合わせたような物が、羊水のような液体の中に浮かんでいたのだ。

 

 込み上げる嘔吐感を、口に手を当てる事で辛うじて抑え込む。

 

 荒事には馴れており、イ・ウー時代には、人間の死体など文字通り腐るほど見て来た茉莉だが、流石にこれは許容の範囲外だった。

 

「吐くなら、どっか余所でやれよ」

 

 素っ気なく言って来る一馬の言葉にも反応できないほど、今の茉莉はショックを受けていた。

 

 これならまだ、生首のホルマリン漬けでも見せられた方がマシである。

 

 暫く、まともに歩く事もできないほど、フラフラになっていた茉莉だが、やがて落ち着いて来たのか、虚ろになりかけた目で顔を上げる。

 

「・・・・・・・・・・・・これは、何なんですか?」

 

 見れば見るほど、不快感ばかりが増してくる物質。とても、こんな物が人間の手によって生み出されたとは、到底思えなかった。

 

「お前等も見ただろ、あの異形の化け物どもを」

 

 一馬が言っているのが、密林で襲って来た鬼達の事だと気付いた。

 

「あいつ等は、浪日製薬が開発した生物兵器の失敗作どもだ。そして、こいつらは、その失敗作にすらなれなかった奴らだ」

「失敗作って、あれが生物兵器なんですか?」

 

 たしかに、あれだけの戦闘力と打たれ強さがあれば、兵器としては充分通用しそうだ。だが同時に、理性らしきものが一切感じられなかった事を思い出す。失敗作と言うのは、もしかしたら、そう言う点の事なのかもしれない。

 

 だが、目の前の物体は、失敗作の、そのまた失敗作だと言う。

 

 一馬は説明を続ける。

 

「そもそも、浪日製薬が開発している生物兵器って言うのを、お前等はどの程度まで把握しているんだ?」

「えっと・・・・・・『そう言う物がある』ていう程度です」

 

 事実上、何も知らないのと同じだ。

 

 何しろ、これから調査をしようと言う段階で捕まってしまったのだ。そちらの方は殆ど何も判っていないに等しい。

 

 成程な。と言い、一馬は続ける。

 

「連中は、生物兵器を作る段階で、ただの人間に、卓越した兵士以上の戦闘力を持たせる事を思いつき、その為の薬品の研究開発を行った。同時に、実験もな」

「実験って・・・・・・・・・・・・まさかッ!?」

 

 ある考えに思い至り、茉莉は思わず声を上げた。

 

 それは、あまりにも恐ろしい考え。その考えに至ってしまった自分に、思わず嫌悪感を抱いてしまうほどだ。

 

「その通り、人体実験だ」

 

 一馬の言葉を聞き、

 

 茉莉はとうとう立っている事ができず、その場にズルズルと崩れ落ち、座り込んでしまった。

 

 人体実験。

 

 これほどおぞましい響きの言葉も、そうはあるまい。

 

 と、言う事は、あの鬼達も、目の前のおぞましい物体も、元は人間だったと言う事だ。

 

 久志はしばしば、捕虜になった人間を検体にして、生物兵器の人体実験を行っている。

 

 そのなれの果てが、森の中で友哉と茉莉を襲った異形の鬼達の正体だった。彼等は皆、元は国家や他企業の命を受けて浪日製薬を探りに来たスパイ達であり、実験に失敗した検体達だった。

 

 ああなると悲惨である。理性も感情も全てはぎ取られ、ただ人を襲って貪り食うだけの怪物と化す事になる。

 

「・・・・・・いったい、何なんですか、浪日製薬って?」

 

 茉莉は弱々しく顔を上げて、一馬の方を見る。

 

「いったい・・・どうしたら、こんな事ができるんですか?」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 茉莉の問いかけに対して、一馬は暫く無言で煙草を吹かした後、おもむろに口を開いた。

 

「・・・・・・・・・・・・浪日製薬の創業は、戦後にまで遡る」

「それは知ってます」

 

 この島に来る前に、依頼人の武田から聞かされた話だ。歴史が古い割に、最近になるまで目が出なかったらしいと言う事も聞いた。

 

「だが、実際には、会社の前身になった組織がある」

「組織、ですか?」

「浪日製薬の、『なみひ』とは、そもそも、『731』と言う数字に当てはめる事ができる」

 

 731

 

 確かに、そんな風に語呂を当て嵌める事ができるかもしれないが、茉莉には聞き憶えの無い数字である。

 

「それは、いったい・・・・・・」

「悪魔の数字だよ」

 

 答える一馬。

 

 その声音は、珍しい事に、嫌悪が混じったように歪んでいた。

 

 かつて第二次世界大戦の折り、日本軍は中国大陸や南方への進出を控え、ある問題を抱えていた。それは、土着の風土に起因する、病原体に対する対応策が殆ど立てられていなかった事である。

 

 いかに屈強な兵士と言えど、病に倒れてしまえば、全く何の役に立つ事もできない。そして、その病気の治療法が確立されなければ、最悪、命を落としてしまう事にもなりかねない。

 

 そこで、そう言った病原体に対する対抗手段や、傷病兵の治療方法を研究、確立する為に、ある部隊の設立を行った。

 

 それこそが、関東軍防疫給水部第731部隊。

 

 別名、悪魔の部隊。

 

 中国大陸に拠点を構えた731部隊は、ありとあらゆる病原体との遭遇を想定して実験、研究を行った。そして、それらの実験の殆どを、中国人、朝鮮人、モンゴル人、ソビエト人の捕虜を使った人体実験によって行われたのだ。

 

 チフス、コレラ、ペスト、マラリア等病原菌を人体へ植え付けて反応を見る実験。北方進出時の寒冷対策の為、冷凍室に捕虜を閉じ込めて行う凍傷実験。馬の血の人体注入実験。毒ガスの開発実験。そして、それらを元にした、生物兵器等の開発。

 

 どれも、聞くだけで肌が泡立つ程のおぞましい実験である。

 

 人体実験と言えば、ナチス・ドイツがユダヤ人に行った非道の数々が有名であるが、規模が違うだけで、日本軍もまた、同じような事をしていたのである。

 

 戦後、731部隊の幹部達は、一度は連合軍によって逮捕、戦犯に指定されたものの、その後、自分達が行った実験のデータを取引材料にしてGHQと交渉を行い、ほぼ全員が無罪放免となっていた。

 

「じゃあ、浪日製薬は、その部隊の生き残りの人が作ったって事ですか?」

「その通りだ」

 

 まさに第二次世界大戦の亡霊。旧日本軍が生み出した怪物たちが、今も息づく楽園なのだ。この島は。

 

 一馬がそう答えた時だった。

 

 突如、室内全体に赤い回転灯が回り、けたたましいサイレンが鳴り響いた。

 

 同時に、周囲の気配が騒がしくなるのを感じる。

 

「これはッ」

「見つかったか」

 

 警戒する茉莉。

 

 同時に一馬は、煙草を投げ捨て、スーツの背中から日本刀を抜き放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 執務室の椅子に腰かけ、石井久志は物想いに耽っていた。

 

 思い出すのは、父親、つまり、忠志の祖父に当たる人物の事である。

 

 久志は、父の本当の子供では無い。

 

 元々は遠縁の親戚の家に産まれたのだが、口減らしの為に養子に出されたのだ。

 

 あの時代では珍しい事では無い。とかく、米軍の攻撃で殆どの物が灰燼に帰した為、日本中で物資が不足していたのだ。

 

 養子と言う形で裕福な家庭に入る事ができた久志は、むしろ幸運であったと言える。

 

 養父の第一印象は「厳格な人」だった。

 

 陸軍の軍医中将だった養父は、とにかくいつも厳しい顔をして無口でいる事が多かった為、久志はそんな養父の姿を子供心に怖がった物だった。

 

 だが、接してみると、とても優しく、養子に来て不安がっている久志を不器用に励ましてくれる事も多かった。

 

 医者と言うだけあって、養父はたくさんの蔵書を持っており、興味を持った久志を自分の書斎に招じ入れ、好きな本を読ませてくれたものだ。

 

 そんな養父に対し、久志は尊敬と思慕の念を抱くようになった。

 

 養父が晩年になってからの養子である久志が、親子として共にいられた時間は、それほど長くは無かった。

 

 養父が他界した後、久志が養父と同じ医学の道に進もうと考えるようになったのは、ごく自然の成り行きだった。

 

 やがて、順調に学業を修め、大学を卒業するころ、父の軍隊時代の同僚だったと言う人物から声を掛けられた。

 

 その人物は、軍時代のコネを使って、製薬会社を経営していると言う。そこで、久志にも、その会社を手伝わないか、と言って来たのだ。

 

 それこそが、後の浪日製薬と言う訳である。

 

 この会社は、久志の半生の結晶であり、愛する息子へ手渡す、最高の宝物だ。

 

「潰させはせんぞ。絶対に、誰にもな」

 

 その言葉は、

 

 背後に立った人物に、半ば投げかけられていた。

 

「石井久志。あなたを、殺人、死体遺棄、拉致監禁、生物兵器開発等の容疑で逮捕します」

 

 凛と放たれる言葉に対し、久志はゆっくりと椅子を返して振り返る。

 

 そこには、

 

 漆黒のコートを羽織った、少女のような顔立ちの少年が立っていた。

 

「・・・・・・驚いたな。生きていたのか」

 

 内心の僅かな驚愕を押し込めながら、久志は落ち着いた様子で、目の前の友哉を見る。

 

 九死に一生を得た友哉は施設に潜入後、この執務室の場所を割り出して乗り込んで来たのだ。

 

「生憎ですが、あの程度で死んでいたら武偵は務まりませんので」

 

 自信に満ちたその言葉は、久志には眩しく感じられた。

 

 できれば、自分の息子も、彼のようになって欲しかった。

 

 だが、羨望はともかく、今の友哉は久志にとって、紛う事無き「敵」に他ならない。

 

「蛮勇は認めよう。だが、愚かだな」

 

 静かに言い放つ久志。

 

 次の瞬間、施設中にけたたましいサイレンが響き渡った。

 

 

 

 

 

第5話「悪魔の飽食」      終わり

 


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