1
自室にソファに座り、ニュース番組を流すテレビを、友哉は見るとも無しに見ていた。
画面を眺めているだけで、内容は全く頭に入って来ないが。別にそれは構わない。取り敢えず頭に雑音を入れておけば、却って頭はすっきりする。
手には書類の束を持ち、瑠香が入れてくれたコーヒーを片手にそれに目を通している。
内容は、先日、理子に依頼した黒笠に関する物。
流石は探偵科で、その調査能力に定評がある理子。仕事は正確で、かつ速かった。
だが、
「正体は・・・やっぱり不明、か・・・・・・」
どうやら黒笠は、自分の正体を仲間内にも徹底的に隠していたらしい。理子であっても、その正体に至る事はできなかったらしい。
だが、いくつか判った事がある。
『使用している武器は日本刀「肥前国忠吉」。防弾コート、防弾マフラー、防弾編笠。銃火器は使用せず』
編笠を被る理由は、素顔を隠すと同時に、不意の狙撃から身を護るためとある。確かに、狙撃のセオリーとして狙われやすい場所は頭部である。編笠のように幅の広い物を頭に乗せておけば、狙撃手は正確な照準が付けられず簡単な狙撃対策になる
それに肥前国忠吉と言えば、日本の刀剣の中で新刀最上作最上大業物に指定されている逸品だ。随分と良い刀を使っている物である。
次に友哉は二階堂平法に付いて語られているページに目を向けた。
「『二階堂平法は初伝を「一文字」、中伝を「八文字」、奥伝を「十文字」とし、これら「一」「八」「十」の各文字を組み合わせた「平」の字をもって平法と称する』か。ちょっと面白いね」
そして肝心の「心の一法」についての項に目を向ける。
そこに書かれている内容は、昭蔵が話していた内容と同じであった。目から気合を放つ事で相手を竦ませて催眠術に掛ける。掛けられた相手は体を動かす事ができなくなり、成す術も無く斬られる、とあった。
破る方法は術者の目を見ないようにするか、あるいは術者よりも強い気持ちを保つ事にある。だが、正直、前者は難しい。どのような武器にせよ、戦いの場にあっては相手の目を見て出方を探るようにするのは常識である。それは高速で跳び回る飛天御剣流とて例外ではない。実質、相手の目を見ないで戦う事などできないのである。
となると、残る対策は後者と言う事になる。
この間の戦いではたまたま上手く行ったが、今度もまた上手くいくかどうか。とにかく、この事は忘れないようにしなくてはいけない。
友哉は書類をテーブルの上に置くと、大きく伸びをした。
そこでちょうどよく、腹の虫が小さな音を立てた。どうやら、空腹も忘れて読むのに没頭していたらしい。もうすぐ夕食時だった。
キッチンの方からは、同居人である少女達の楽しそうな声も聞こえて来る。恐らく夕食の準備をしているのだろう。
そう言えば、この書類を渡された時、理子は妙な事を行っていた。
『明日の作戦会議なんだけど、マツリンとルカルカも連れて来て』
『おろ、瀬田さんと瑠香を。何でまた?』
『ちょっと予定変更になっちゃってね。頭数が5人必要なんだ。理子はブラドに顔が知られているから作戦に参加できないし、あと2人、何とか確保しないといけないの。でぇ、マツリンとルカルカにも協力してほしいんだ』
『まあ、判った。一応2人にも話してみるよ』
部屋に戻ってから2人には話してみたが、2人とも特に断る理由も無いらしく、あっさりと承諾してくれた。茉莉は理子とはイ・ウー時代からの友人らしいし、瑠香も元々理子には可愛がってもらっていたクチだから当然と言えば当然だった。
とにかく、明日だ。会議は武偵校ではなく、理子が指定した場所で行う事になっているが、そこに何が待ち構えているかは判らない。用心に越した事は無かった。
その時、
「あぁ~」
キッチンの方から、気の抜けるような声が聞こえて来た。
「おろ?」
不審に思った友哉が覗いてみると、瑠香と茉莉はガスコンロの前に立ち尽くしていた。2人とも臙脂色の制服の上からカラフルなエプロンをしている。見ていて可愛らしい姿であるが、今問題にすべきはそこではない。
2人の目の前、コンロ上のフライパンの上には、
こんがりと焼き上がった『炭』が乗っかっていた。
「また、失敗?」
「ご、ごめんなさい・・・・・・」
呆れ気味の瑠香の言葉に、茉莉はシュン、と項垂れる。
「もう・・・何でたかが目玉焼きで、こんな真っ黒な炭ができる訳?」
同居を始めてすぐに判明した事だったが、茉莉は料理の才能が絶望的なまでに壊滅状態だった。
火を使わせれば炭になる、塩と砂糖は呼吸をするように間違える、野菜を切れば全て連結している等お約束的な事から、日本刀(菊一文字)を使って調理しようとする、胡椒と間違えてガンパウダーを使う等、わざとやっているのでは、と思えるようなことまで平然とやってしまう。一度、油と間違えて灯油をフライパンに投下しようとした時には、友哉と瑠香が全力で止めに入った。
そんな訳で、どうやら現在、瑠香が茉莉に料理の特訓をしていたらしいのだが・・・・・・・
「茉莉ちゃん、これで何回目だっけ?」
「・・・・・・18回目です」
2人の周りに、戦場跡とも言うべき様相で卵の殻が残骸よろしく散らばっている事が、事実を雄弁に語っていた。
男が外に出て仕事をし、女は家庭を守る。等と言う考えは、とっくの昔に過去の物であり、今や女性無しでは社会は回らないようにもなっている。しかし、一方で、じゃあ女性は家庭的な事は一切しなくていいのか、と言われれば、その考えは間違いなく否である。
例えば、会社でバリバリ仕事をして、男をアゴで使い、家庭に帰っても家事は一切しない。そんな女王様気取りの女が男受けするか、と問われれば、可能性としては極めて低いと言わざるを得ないであろう。料理ができる女性とできない女性、どちらがより男に好かれるかと言えば、だんぜん前者である。
つまり、料理とは女性にとって必須事項ではなく、持っていれば格段と有利となる重要なスキルと言う訳である。
「とにかく最低限、カレーくらい作れるようになってもらうからね」
「ま、まだやるんですか・・・・・・」
「お返事は?」
「うう~・・・はい・・・」
その様子に、思わず友哉は苦笑してしまう。会話だけ聞いていれば、本当にどちらが年上か判らない。
とは言えどうやら、夕食にはもう少しかかる様子だ。
仕方なく友哉は、ソファーに座り直し、再び書類に目を向けた。
2
秋葉原、そこは別名「武偵封じの街」。
道が複雑に入り組んでいる為、ここに犯罪者に逃げ込まれると追跡するのが難しい。加えて大通りには歩行者天国が存在し、多くの人がひしめき合うように行き来するこの場所では、むやみに発砲や斬り合いはできず、十全に能力発揮する事ができないのだ。
ちなみに、春葉原と夏葉原と冬葉原は存在しない。
その秋葉原の街を、友哉、キンジ、アリア、茉莉、瑠香の5人が連れだって歩いている。
理子が指定してきた店は、この秋葉原の一角に存在していた。
自分のホームグランドに引き込み、話を優位に進めようと言う魂胆らしい。が、今回の依頼人が理子である以上、向こうの要求に合わせなくてはならない。
指定された店に着くと、5人は緊張した面持ちのまま互いの顔を見合わせる。
ここから先は完全に理子のフィールドだ。何が待ち構えていてもおかしくは無い。
「用意は良いわね?」
アリアの言葉に頷きながら、5人はそれぞれの武器を取り出す。
アリアは2丁のガバメント、キンジはベレッタ、瑠香はイングラム、茉莉はブローニング、そして友哉は逆刃刀に手を掛けた。
「行くわよッ」
アリアの号令一下、5人は一気に突入した。
次の瞬間、
「お帰りなさいませ、ご主人様、お嬢様」
色とりどりのメイド服を着た少女達が頭を下げていた。
「おろ・・・・・・」
「メイド、喫茶?」
それは間違いなく、近年、そのマニアックな趣向から爆発的な市民権を得ているメイドのコスプレを制服とした喫茶店だった。
まさか理子が、このような場所を指定してくるとは思っていなかったため、一同は目を丸くする。
「ここで、合ってるよな?」
「う、うん。多分・・・・・・」
キンジの言葉に、友哉は頼りなく頷く。
そんな一同に、メイドの一人が近寄って来た。
「理子様から話は伺っております。お席の方にご案内しますね」
そう言うと、先導するように歩きだした。
「これがメイド喫茶・・・・・・初めて来ました」
「うん、あたしも。でも、あの服、すっごく可愛いよね」
後を歩く瑠香と茉莉が、少し弾んだような声で会話している。茉莉はともかく、瑠香はファッションにも気を使う方なので、見ていて楽しいようだ。
「る、瑠香はあんなのが良い訳!? 信じられないわよ。あの胸、じゃなくて服。いくら給料が良くてもあれは無いわ。イギリスならともかく、日本で着るなんて場違い。恥っずかしい。なんて店なの。あたしなら絶対無理。あんな物絶対着ないんだから!!」
「そうかな、可愛いのに。アリア先輩も似合うと思いますよ」
「とにかく着ないったら着ないの!!」
可愛いという言葉に反応して、顔を真っ赤にしながらムキになるアリア。
確かに可愛い事は可愛いが、アリアの言うとおり、あんなのに周りを囲まれたら落ち着かない事は間違いなかった。
やがて案内された個室に通され、それぞれの席に腰掛ける。
聞いた話では、理子はこの業界では少し名の売れた服飾デザイナーであり、この店の衣装デザインも彼女の物であるとか。何やら意外な一面を見た気がした。
程なく、首謀者たる理子が姿を現した。
「や~、ごめんごめん。みんな、お待たせ~」
「理子、呼び出しといて遅刻すんじゃねえよ」
悪びれしない理子に、キンジは呆れた口調で抗議するも、理子はどこ吹く風とばかりに椅子の一つに腰掛けると、やって来たメイドに振り返った。
「んと、理子はいつものパフェとイチゴオレ。こっちのダーリンにはマリアージュ・フルーレの朝摘みダージリン、男の娘にはキリマンジャロの焙煎をブラックで、あっちの元気っ娘はデラックスショートケーキとココアのセット、こっちの大人しい娘は抹茶ラテとオリジナルフルーツパフェを、そこのピンクいのには、ももまんでも投げつけといて」
勝手に注文を決めてしまった。まったくもってゴーイングマイウェイな所は、いつも通りの理子である。
やがて注文していた物が運ばれて来たので、それらに口を付けつつ本題の話が始まる。
ターゲットの屋敷は横浜市郊外にある紅鳴館。地上3階、地下1階の洋館で、庭を含めた敷地面積は豪邸と呼んで相応しいものであるらしい。
そこに管理人、及び執事1名、メイド3名が暮らしているらしい。
理子が作ったと言う精巧な屋敷の見取り図と作戦計画に感嘆の声を上げながら、先を進めて行く。
イ・ウーでジャンヌに倣ったと言う理子の作戦は見事であり、実行は充分に可能であると思われた。
「理子のお宝は、この屋敷の地下にある筈なの。でもさ、周りは罠だらけだし、その罠の内容もしょっちゅう変えてるらしいの。その上管理人、メイド、執事の存在が邪魔だし。だから実行役と、おとり役と通信担当が必要になるんだ」
つまり、実行役は1人で、他の4人は内部の人間を引きつける役。最後の1人、これは理子になるだろうが、全てを管制する通信手が必要と言う訳である。
「それは判ったけど、作戦の途中でブラドが現れたら逮捕しても良いのよね? あいつはアンタと同じであたしのママに罪を着せた仇の1人何だから」
「あー、それは無理。ブラドはあの屋敷に何十年も帰ってきてないらしいから」
アリアの言葉に、理子はあっさりそう返した。
当然、アリアが黙っていられる筈も無い。
「はあ? だったらあたしが協力するメリットなんてないじゃない。アンタが自分でやりなさいよ!!」
「落ち着けアリア」
激昂するアリアを宥めつつ、キンジは先を促す。
「それで理子。俺達は一体、何を盗んで来ればいいんだ?」
「うん、それはね、ロザリオだよ。理子がお母さまから貰った」
その言葉を聞き、アリアが再び激昂するのに間はいらなかった。
「あんた、どういう神経してるの!?」
「アリア、落ち着いて」
「これが落ち着いていられる訳ないでしょ!!」
とどめようとする友哉を、アリアは一言で振り払った。
「あたしのママには冤罪を着せといて、自分はママからもらった宝物を取り返せですってッ!? あたしがどんな気持ちなのか考えてみなさいよ。アンタ達のせいで、あたしはママに会いたい時に会えない。いつもアクリルの壁越しにほんのちょっとの間しか会えないのよっ。それなにの・・・・・・」
「アリアがうらやましいよ」
アリアの言葉を遮るように、理子がポツリと言った。
「何がよ!?」
「だって、アリアのママは生きてる。理子の両親は、もう死んじゃってるから・・・・・・」
見れば理子は、その可憐な瞳に涙を浮かべていた。
いたたまれない空気が満ち溢れ、一同は黙って視線を理子に向ける。
「あのロザリオは、お母様が理子の8歳の誕生日にくれた大切な物。それをブラドは理子から取り上げて、あんな警戒厳重な地下室に隠しやがって・・・・・・ちくしょう・・・ちくしょう・・・・・・」
耐えるように泣き声を押し殺す理子に、言葉も出ない。
4対の瞳は一斉にアリアに向けられる。「どうするんだ、これ?」と無言で問い掛けているのだ。
「ほ、ほら、泣くんじゃないわよ。ブスが化粧崩れてもっとブスになっているわよ」
慰めているのかけなしているのか判らない言葉で、アリアは理子にハンカチを差し出す。アリアも不器用ながら優しい娘である事は間違いない。こうした場面ではどうすればいいのか判らないのだろう。
「り、理子先輩、元気出して。あたし達も協力しますから」
「私も・・・・・・できる事はします」
瑠香と茉莉も慌てたように、
「うん。ありがとう、みんな。理子はいつでも明るい子。さあ、笑顔になろう」
そう言うと、涙を拭いて理子は顔を上げた。
その時には、もういつもの笑顔が理子には戻っていた。
「じゃあ、アリア、ルカルカ、マツリン、行こっか」
「「「はい?」」」
笑顔の理子に、3人は怪訝な顔を向けた。
世の中には、色々な店がある物だ。
キンジと一緒に所在無げに立っている友哉は、そんな事を考えながら店の中を見回す。
所狭しと掛けられた服は、全てメイド服の形をしていた。
ここは秋葉原の一角にあるメイド服専門店だった。理子はここでメイド服の試着を行おうと言って一同を連れて来た。
「ねえねえ、友哉君」
クローゼットの影から瑠香が顔を出した。
友哉が振り返るのを見計らって、瑠香はぴょんっと飛ぶように姿を現した。
その格好は、黒地のブラウスとスカートに白いエプロンとヘッドドレスと言う、典型的なメイド服を着ていた。
「じゃーん、どう? どう?」
見せつけるように友哉に寄って来る瑠香。
「似合ってるよ。とっても」
「えへへ、やった」
嬉しそうに笑顔になると、瑠香はその場でクルッとターンをして見せた。
一瞬、スカートがフワッと持ちあがり太股が大胆に露出した為、慌てて視線を逸らす友哉。見れば、キンジも顔を赤くして視線を横に向けていた。
「ほら、茉莉ちゃんも、早く早く」
「い、いえ・・・私にも、その、心の準備と言う物が・・・・・・」
などと言って、瑠香はクローゼットの影から茉莉を引っ張りだした。
こちらは瑠香と同じ形のメイド服だが、色は青となっている。
茉莉も瑠香同様、とても似合っている。
瑠香に対する表現が「可愛い」、とするなら、茉莉は「綺麗」だろうか。普段のクールな性格とのミスマッチもあり、とても似合っていた。
「あ・・・あの・・・・・・」
茉莉は自分の体を捩るようにして、友哉に上目づかいを見せる。
「あ、あんまり見詰めないでください・・・・・・恥ずかしい・・・・・・」
「あ、ああ・・・ごめん」
友哉もまた、顔を僅かに赤くしながら、茉莉から目を逸らした。
その時、
「いーやーよー!!」
クローゼットの影から、悲鳴に近いアリアの声が聞こえて来た。
何事かと振り返ってみたら、理子がアリアを引っ張りだそうとしている所だった。
「り、理子~、変な所触らないでよ」
「良いではないか、良いではないか~。おお~アリア、良い匂いクンカクンカ~」
「へ、変態ッ 変態2号だわ、あんた!!」
「変態理子さんが本気になったら、アリアなんかとっくに裸エプロンだよ~」
などと言うと、ついにアリアを引っ張り出してしまった。
その格好は瑠香や茉莉と違い、制服の上からそのままエプロンを着ただけの物だが、そのエプロンと言うのがピンク色のフリフリがたくさんついた物でひじょうに可愛らしい。
あれだけメイド服を着ることに抵抗感を示していたアリアの事を考慮し、理子は比較的レベルを下げた段階から入ったようだ。
「と、言う訳で無難に制服エプロンから始めてみましたー、アリア可愛いよアリア」
心底うれしそうにする理子に対し、アリアは顔を赤くして俯いている。
だが確かに、ピンクの髪とピンクのエプロンが絶妙に合い、その幼い外見と相まって、とても可愛らしい。
「さあさあ、キーくん、ユッチー、アリアを見てあげて。穴の開くほど見てあげて」
誘うように言われ、視線はアリアの方に向いてしまう。
見ればキンジも顔を赤くしてアリアに釘づけになって見た。
「よーし、じゃあセリフの練習いってみよう」
「何よそれ!?」
「『ご主人様、御用件は何ですか』って聞くの。キーくんがご主人様役ね」
「お、俺がかよ!?」
戸惑う2人を完璧に置き去りにして、理子は話を進めて行く。
「リピート・アフター・ミー。『ご主人様、御用件は何ですか?』はいッ」
「い、嫌よ、そんなのッ」
「リピート・アフター・ミー」
理子は容赦なくアリアを追い詰める。何だか、昨夜の瑠香と茉莉を見ているようだ。
「『ご』ッ・・・けほー、けほー」
1文字言っただけで咳き込むアリア。貴族の階級を持つ彼女にとって、たったそれだけでも難事のようだ。
「がんばれがんばれ、やればできる。あきらめんなよ、ネバー・ギブアップ」
そんなアリアを、実に楽しそうに励ます理子。
本当に、こんなので大丈夫なのだろうか?
早くもこの大泥棒チームに、友哉は不安を感じずにはいられなかった。
3
梅雨に入り、日々雨が降る日も多くなってきている。
体育の後の片づけで遅くなってしまった友哉は、濡れた髪を指でかき上げながら教室へと向かう。
あの秋葉原の一件以来、理子はそれぞれに合った訓練計画を課していた。
その訓練と言うのは、主に潜入に必要な執事、及びメイドとしての技能訓練であった。
この訓練、友哉、キンジ、瑠香の3人はそれぞれ問題無くクリアした。キンジは元々探偵科である為、この手の事は授業で行っている。瑠香もまた諜報科である為、同様。潜入には必須のスキルと言えた。友哉は専門科目ではないが、元々大抵の事はそつなくこなす方なので問題は無い。
問題なのは茉莉とアリアだった。それでも茉莉は、人前でメイドの恰好をする事への羞恥心があるだけだったので、暫く訓練すれば問題は無くなったのだが、アリアの方は羞恥心に加えて妙なプライドまで持ち合わせている為、訓練は難航している様子だった。
とは言え、作戦決行まで、もう時間が無い。理子もアリアを重点的に特訓している様子だった。
「クシャンッ」
友哉は一つ、くしゃみをした。
体が冷えてきている。早く帰ってシャワーでも浴びよう。
そう思って教室の戸を開けた。
中には誰もいない教室で一人、茉莉が佇んでいた。
「おろ?」
「あ、緋村君」
入って来た友哉に気付いた茉莉は、ゆっくりとこちらに振り返った。
「まだ、帰ってなかったの?」
「はい。少し、調べ物をしていたら、時間が経ってしまいました」
そう言って微笑する。
彼女のこうした仕草は、転校してきたばかりの頃には見られなかったが、今では友人相手に笑っている姿をよく見かける。
「調べ物。手伝おうか?」
「いえ、ちょうど、終わったところですので」
見れば、確かに茉莉は鞄を机の上に置き、帰る準備をしている所であった。
「そっか、じゃあ、早く帰ろう。風邪ひいちゃうよ」
「そうですね」
ふと、鞄に手を伸ばしかけ、茉莉は何かを思い出したように友哉に向き直った。
「理子さんから聞いたのですが、緋村君が黒笠の事を調べてるって言うのは本当ですか?」
同じ探偵科同士、会う事も多いだろうから情報の伝達も早い。
「本当だよ」
「私は、あの人の事は、見た事が何回かあるくらいですが、その雰囲気だけで、只者じゃない事は判りました」
「例えば?」
問い掛ける友哉に、茉莉はスッと目を細め、低い声で告げる。
「・・・・・・何人もの人を斬り、呼吸をするように、人を殺す事が当たり前になった存在。そこには殺気も無く、ただ人を斬る為に生きている。そんな事を感じさせるような相手でした」
寒い空気が、更に下がった気がした。
おぞましきは殺人鬼《黒笠》と言うべきか。その存在は伝え聞くだけで、魂を寒からしめるようだ。
「できれば緋村君には、関わってほしくないって思っています」
茉莉もまた、昭蔵や理子と同じ事を言う。
だが、
「もう、決めたんだ」
友哉は静かに、自分の決意を言う。
「僕のこの剣は、力無い人達を守るために使う。その為に戦い続けるって」
「でも、それで、緋村君が死んでしまったら、何もならないじゃないですか」
静かに、しかし抗議するような目が友哉を見詰める。それはまるで、闇に向かって歩く友哉を引き戻そうとしているかのようだ。
そんな茉莉に、友哉はそっと笑い掛ける。
「大丈夫、そう簡単にやられるつもりは無い。だからこうして、情報を集めて準備しているんだ」
「でも、・・・それだけ、じゃあ・・・・・・」
言葉がとぎれとぎれになる茉莉。
そこで友哉は、ふと気付いた。茉莉の顔が異様に青白い事を。
「瀬田さん?」
名前を呼んだ瞬間、茉莉は糸が切れた人形のように、その場に膝をついた。
「瀬田さん!!」
慌てて駆け寄り、抱き起こす。
茉莉は友哉の腕の中で、ぐったりとしたまま動こうとしなかった。
額に手を当ててみるが、どうやら熱は無いようだ。
「と、とにかく、保健室に」
友哉はグッタリした茉莉の体を支えると、救護科に向かうべく立ち上がった。
幸いにして、
救護科棟は武偵病院にも併設している為、そこに所属する学生は病院の方に研修に出る事が多い。掴まえる事ができたのは幸いだった。
「貧血ね」
茉莉に問診をした
救護科に所属する3年生で、友哉は何度か怪我の治療で彼女の世話になっている。黒髪のロングヘアを背中まで伸ばした女性で、その細い目付きからは、どこか怜悧な印象を受けるが、実際に接してみると実に気さくで付き合いやすい女性だった。
因みに学業成績は3年生でも上位らしく、まだ梅雨入りの時期であるにもかかわらず、就職先の内定も既に決まっているらしい。
「ちゃんとご飯は食べてる? 武偵は体が資本なんだから、疎かにしちゃダメよ」
「・・・・・・はい、食べてます」
その点は心配ない。茉莉の料理の腕は壊滅的だが、毎日瑠香がきちんと食事を用意している。
「まあ、とにかく、栄養剤を出すから、少し休んでから帰りなさい。ベッドも空いているし」
「はい・・・・・・」
そう言うと紗枝は、背後のカーテンに仕切られたベッドを差した。
「すみません、高荷先輩」
「良いのよ、緋村君とは顔見知りだし。多少の融通はしてあげられるから」
頭を下げる友哉に、紗枝はそう言って笑うと、ちょっと悪戯っぽい目を向けて来る。
「さあ、緋村君。彼女をお姫様抱っこでベッドまで運んでね」
「おろッ?」
突然の紗枝の言葉に、戸惑う友哉。
そんな友哉の反応がおかしいのか、紗枝は更に笑みを見せる。
「それが、私が診察する時のルールよ」
「いや、聞いた事ありませんよッ」
「うん、今できたばかりだから。おめでとう。あなた達が履行者第一号よ」
全然微塵もめでたくない理屈を振り翳す紗枝に、友哉は肩を落とす。
とは言え、今も苦しそうにしている茉莉をこのままにもしておけない。
「ご、ごめんね」
「いえ・・・・・・お願いします」
少し恥ずかしそうに顔をそむけながら、それでも茉莉は友哉に身を預けて来た。
肩と太股の裏を支えるようにして抱きかかえると、女子特有のやわらかさが手に伝わって来る。肉付きの薄い印象がある茉莉だが、そこはやはり女の子。触ってみれば壊れそうな柔らかさがあった。
緊張して手付きがいやらしくならないように注意しながら、茉莉の体をベッドに横たえると、靴を脱がし、布団を掛けてやる。
「すみません、緋村君。少し休めば良くなると思いますので・・・・・・」
「いいよ、気にしないで」
そう言って、時々瑠香にやってあげるように、茉莉の頭をなでてやる。
茉莉は気持ち良さそうに目を閉じると、それほど時間を置かずに寝息を立て始めた。
それを見て安心した友哉は立ち上がろうとした。
だが、
「・・・・・・おろ?」
茉莉の手は、友哉の手を掴んで放そうとしない。どうやら、友哉の手を掴んだまま眠ってしまったらしい。
「あらあら、仲が良いわね」
そう言ってクスクス笑う紗枝。
だが、友哉の方は笑いごとではない。これでは立ち上がる事も出来ない。
困った友哉に、紗枝は近付いて小声で言った。
「私、用事あるから先に帰るけど、鍵は事務の方に返しといてくれれば良いから」
「おろ、帰るんですか?」
ここをこのままにして行っていいのか、と疑問に思ったが、紗枝は何でもないと言う風に片目をつぶってみせた。
「それじゃあね。あ、やるんだったら避妊はしっかりね」
「いや、やりませんよッ」
茉莉を起こさないように小声で抗議する友哉に手を振ると、紗枝はそのまま出て行ってしまった。
「・・・・・・まったく」
腕は良いのだが、あのからかい癖だけは馴れなかった。
とは言え、
友哉は改めて、眠っている茉莉に向き直った。
不思議だ。この娘と死闘を演じたのは、ついこの間の事である。だと言うのに、茉莉は友哉の手を握り、安心しきった顔で眠っている。
友哉はもう一度、茉莉の頭を撫でる。
その無邪気な寝顔を見ていると、何だか親愛にも似た愛おしさがこみ上げて来るようだった。
第3話「梅雨の秋葉原」 終わり