†
「んー、そろそろですかねぇ」
赤色の少女が呟く。
彼女の眼前では二人の人間が争っていた。
一人は黒い十字架柄の入ったコートを着た男。彼は自らの周囲に炎球を出現させ、目の前の女に相対している。
対峙する女性は、棘突きがついた車輪を高速で回転させ、自らを包むように装甲を展開させた車椅子に乗り、男に果敢に突撃をかけていた。
先頭に衝角、装甲からは幾多の槍がつきでており、男が除けた先にある大木を一撃で折り、反転しながら途中にあった岩を脆くも砕いた。
しかし、男は慌てずに炎球を放ちながら、その
「さて、よからぬことを始めましょうかぁ」
と、少女がとっ、と立ち上がると。
そのまま、目の前の崖にすとんと落ちていった。
†
山岳地帯、深く深く裂けた崖の傍。
幾多の次元を移動して行われた戦いもついに終息を迎えようとしていた。
浅い呼吸が続いている。
それを黒衣の――炎に燃える十字架の入った柄の――男が無感情に見下ろしていた。
纏う漆黒の衣服のように、その表情は硬く人間味を感じさせない。
長い間に苦行で人間味をそぎ落としてしまったような苦渋を押し殺した無表情だ。
中肉中背のさして肉厚な体をしてはいないが重い荷物を背負い続けて疲れてしまったような堅い雰囲気が彼の周囲で張りつめている。
まるで葬式のような重くのしかかってくる人物だった。
その彼は目の前の女性、ローラの惨状を無表情に見つめていた。
一言で言うなら悲惨、であった。
足は両足共に炭化し、ぼろぼろと崩れ落ちている。
右手は生きたまま溶け、融解した骨の回りに肉がべたりとつき、脂肪も皮膚も区別がつかない有様だった。
顔の半分も焼き払われ、焼けた皮から血が滲み、赤く染まっていた。
しかし、それでも、その瞳には憎悪の光は消えそうにない。
ただ、息をするだけでも全身に針を突き刺したような痛みを感じる。
肺が焼かれ、水が溜まっているのか息が断続的に、浅くしか吸えない。
水中にいるかのような息苦しさが彼女を襲う。
「………――
現れたのは車椅子の形をした“異端の札”。
それは彼女を乗せて、その場から離脱したようとする。
しかし、それは男が出現させた炎弾により阻まれた。
炎上した“
それはがらがらと音をたてながら、奈落の底へと転がり落ちていった。
男はそれを無表情に見ながら、地面を踏み鳴らすと、地面が白熱化し、どろりと溶ける。
余りの高温に周囲の岩が、赤黒く発熱し、液体状となったのである。
それらは水が流れるように低い方へと流れ出でて、崖の方へと流れていった。
†
容赦のないことです、と奈落へと落ちながらローラは考える。
このまま落ちてしまえば、死んでしまうというのに、トドメと言うように溶岩が流れ込んでくる光景を見てそう思った。
死ぬ寸前だからだろうか周囲の時間が遅く感じる。
しかし、足は太ももから先が既に感覚がなく、熱いどころか寒くて仕方がなく、腕も神経が焼き切られたためか感覚がない。
異端の札を展開しようにもそのための生命力が自らに残っていないのか、発動しそうになかった。
ああ、もう死ぬのだろうか。いっそ死んで楽に――否。
死ねない。このまま死んでなるものかと、目を閉じかけたローラは再び覚醒する。
あの地獄を超えて、あの地獄を作った男を許すわけにはいかない。
その思いでローラは再び、力を絞り出し、戦車を出現させる。
ほとんど透明の、押したら透けて消えてしまいそうな異端の札。
装甲に罅が入り、槍は折れ、片方の車輪は砕けて消えてしまっている。
きっと、自身の生命力がつきかけているからだろうか、目に見えるほどぼろぼろとなった自らの異端の札にかつてほどの力はない。
それでも、最後の力を振り絞り、揚力を発生させ、激突の寸前に急ブレーキをかける。
そして、地面へとふわりと落下し、異端の札は消えた。
しかし、息を吐く暇もなく、上から溶岩が落ちてくる。
あの男は戦車で助かることも読んでいたのだろうか、念入りなことです、とローラは思い、目を閉じた。
†
そして、何秒かたっただろうか。いつまで経っても終わりが来ないと思い、そーっとローラが目を開ける。
「あ、見えませんかぁ?」
そこは真っ暗な空間だった。
場違いなほどのんびりした声が響く。声の反響具合からドーム状になっていると思われる。
ふと、体が軽くなっていることに気付く。
先ほどまで感じていた、痛みや息苦しさが軽減されているのだ。
それは、この甘ったるい匂いのせいだろうか?とローラは内心で首をかしげる。
「ああ、動かないほうがいいですよ。アシュちゃんの香りは痛みを和らげはしますけど治しはしませんからぁ」
そして、近くで少女の声が聞こえたかと思うと、途端、灯りがともされた。
それは赤い少女だった。
彼女の人差し指に、ぽうっと揺らめく薄い橙色の球体が現れ、光源となっている。
背中から生えた蝙蝠の羽がどうも周囲を覆っており、二人を溶岩から助けたようだ。
背丈は低く、車いすに座ったローラと同じぐらいと思われる。
目は爛々と赤く輝いており、柔和な笑顔を浮かべているが、鋭利な八重歯のほうが印象に残る。
幼げな容姿であるが、このまま育つならきっと目を引く美人に育つことでしょう、とローラは思う。
「はーいぃ、アシュちゃんの自己紹介からいきますねぇー」
「……、……っ」
口を開こうとするが、声を出そうとした途端、息が抜けるように空気が喉を通るだけだった。
「“異端者”たち“女帝”のアルカナを持つアシュトレト=ヴァンピール=キュベスですぅ。おみしりおきをぉー」
のんびりした様子で、許せない宿敵の名を告げるアシュトレト。
それにローラは目を見開き、歯を逆立てて威嚇する。きっと先ほどの“審判”が自らの止めをさしに来たに違いない。どこまで執念深い、とローラは思う。
「あ、大丈夫ですよー。審判ちゃんには内緒できてますから」
信用できない、とローラは思うが、同時にあのままなら死んでいたローラを助けたのも事実だ。だから、話し続けて聞くことにした。
「単刀直入に聞きますけど、生きたいですぅ?」
「アシュちゃんが此処に来たのはただの気まぐれなんですけどぉ。でも、このままローラさんが死んでしまうのはかわいそうだと思うのですよぉ」
「だから、アシュちゃん。
「さて、悪魔の時間ですぅ。生きたいのなら――」
少女が自らの胸へと手を伸ばす。
ぷちりぷちりとボタンをはずし、豊満な胸元をさらけ出した。
唇をちろりと舐めると、つーと、自らの喉元から谷間を越え、腹部へと指を這わせると、そのまま鋭利な爪を生やし、腹部へと突き刺した。
そして、笑顔のまま、腹の中の臓腑をかき乱しつつ、「あれ、これじゃないぃ……あ、あったあった」と言いながら、何かをつかみ取ると、と腕を引き抜いた。
その手の先にはどくりどくりと動く心臓が乗っている。
左右上下がそれぞれ独立して収縮を繰り返し続けているそれは、白い表面の下から薄赤色の血に満たされている。
「――食べてください」
それを口元まで持ってこられたローラは。
一瞬の逡巡も無く、それを口にした。
目の前の少女の意図はわからない。もしかして、より一層自らを絶望させるための罠かもしれないし、ただ念入りに止めを刺しに来たのかもしれない。
しかし、それでも、もし万が一助かる可能性があるのならば、それに縋らずにはいられなかった。
口の中に鉄臭いにおいが充満し、わずかな塩気を感じる。
吐き気を堪えつつ、弾力性の強い肉をゆっくりと咀嚼する。
口の中でも動き続けるそれは舌の上で踊る様に動いて食べづらいが、それでもローラは一心不乱にかみ砕いて嚥下した。
そうしているうちに、鉄の匂いが不快なまま、美味しいと感じる不思議な感覚に襲われ、身体の底から活力が湧いてくる。
一口飲み込むたびに、自らが違う生物へと変化していくことを実感する。
それはまるで生まれ変わる様で。
全て食べ終わった際には、呼吸が苦しくなくなったいた。
「ありがと―――」
「ここからですよぉ?」
それは劇的であった。
まるで体の底から掻きむしられるような激痛。
身体を焼き払われた時に感じた、針をまとめて突き刺されるような痛みとはまた違う。
内臓を酸に浸したような激痛が自らを襲う。
いつの間にか生えていた両腕で腹部を抱きしめ、地面の上を転がりまわる。
地面にうつぶせになり、身体が激しくがくがくと震えながら、涎を垂らしながら、その変化に耐える。
ああ、熱い、熱い――火に焼かれるのとは違う。度数の高い酒を飲んだ時のような喉を焼かれる痛みと渇き。まるで、そう、まるで砂漠を何日も歩いたかのような喉が張り付き、唾液すら出なくなるような渇きであった。
少女がにこにこと笑いながら、膝を屈めて座る。
その白い首筋が見える。まるで漂白されたかのような不吉な白色。
しかし、その下に流れているであろう、血の音が聞こえる――気がした。
だから、我慢できなかった。
まるで蛇が飛び掛かる様にローラは跳ね起きると、少女の首筋に噛みつき、ちぎり、頸動脈からの溢れ出る血を嚥下する。
先ほどと同じ血の匂い。しかし、今はその鉄の匂いに吐気を感じることなく、むしろおいしいとすら感じる。
そっと、少女の手がローラの背中に回され、優しく頭を撫でられる。
「ハッピーバースデー。いいのですよぉ、たぁんとお飲みくださぁい」
そして、その言葉に安心したかのようにローラは目を閉じると、血をごくりごくりと飲み干していく。
喉を鳴らすたび、血が体内に注ぎ込まれるたびに体内の激痛は緩和され、むしろ満たされていくのをローラは感じ、安心感か疲れか、うつらうつらと――。
†
夢を。夢を見ている。
それは地獄であった。
そこは存在しない地下牢の果て。ローラたちはそこに閉じ込められていた。
牢屋にいる彼女たちは奥から聞こえてくる悲鳴と、血の匂い、肉が焼ける音と匂いに怯えていた。
獄吏としてやってきた軽率そうな男は無遠慮に牢獄の中をじろじろと見た後、ローラに目をつけると、嫌らしい視線を遠慮なく向け、その車椅子を押して、部屋を出た。
何をされるのかしら、と嫌な予想しかできないローラをよそに、無遠慮な言葉投げつける男。無視されていることに腹が立ったのか、わざと階段の近くでローラの足をぶつけるが、ローラは無反応だった。
彼女は生まれついて足が不自由であり、足の感覚がないのである。
「……はっ、つまんねぇ。まぁいいさ、お前みたいな無愛想な女が泣き叫ぶと思うと、胸がすかっとするぜ」
「何が起きてるのですか……?」
「そりゃあ――」
男がにやにやと笑って扉を押す。
そこは地獄の跡地だった。
血のついた釘、歯の欠けた鋸がバケツに入れられ放置されている。
器具にはべったりと血がついており、手錠から伸びた鎖には赤黒い染みがついたままだ。
嘔吐物や排泄物、血や肉が焦げた匂いが充満しており、それがローラの胸をついて吐気を堪えることができず、車椅子の横にはいてしまう。
「この、馬鹿女!」
男が手の甲でローラの頬を張り飛ばす。どうやら嘔吐物がすこしかかったようである。
しかし、すぐににやついた顔を取り戻して。
「ようこそ拷問部屋へ」
と、言い、扉を閉める。
ローラは本能的な危機を感じ、急いで夢から覚める。
此処からのことを思い出したくないのだ。
しかし、1つ。1つだけはっきりと。
自分はあの地獄から生まれたのだ、と再び確信した。
†
「さてぇ、どうしますぅ?」
「なにか目的があったんじゃないですか……」
目が覚めると、アシュトレトが零れた涙を拭ってくれた。
そして、当たり前のように立てることに驚愕する。
二本の足で、恐る恐る地面を踏みしめ、アシュトレトに捕まりながらも確かに立ち上がることができたのだ。
小鹿の様に足がぷるぷると震えているが、それでも立つことが出来ることに驚愕した。
「
「あの、そもそもあなたは何者なのです?」
「ただの
「化け……物……?」
「はいぃ。それで、何を望みますぅ?」
ローラはその言葉に少しだけ黙り。
「復讐を。私は復讐を望みます。だから、あなたの力を貸してくれませんか?」
「いいですよぉ」
アシュトレトはにこにこと朗らかに笑うと。
「――女帝が許す。存分に乱れよ」
そっと、ローラに手を差し伸べるのだった。