”C”   作:イーストプリースト

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第一話 安らかな時間

 二人の少女が部屋で戯れている。どちらとも無言。黒髪の少女がもう片方の金色の少女に抱かれ、この優しい時間を安らいでいた。

 優しく頭を撫でる手。幼子をあやすように。二度、三度、幾度と少女の黒髪に優しく触れる。黒髪の少女はこの時間が何よりも好きだった。

 自分を見つめる赤い瞳は嬉しさを隠さず。

 背に感じる柔らかな膨らみは何より心地よく。

 穏やかに抱きしめる腕は極上の絹のような滑らかさで、ふかふかに干した布団のような安心感。

 陽光が照るなか、木陰でまどろむような幸せがそこにはあった。

 しかし、安らかな時間の中で、黒髪の少女は不安を消しきれない。

 もうすぐ夜だ。夜になれば、否が応にもいかなくてはならない。

 

 ――失いたくない。

 黒髪の少女は、この穏やかな時を、何よりも愛おしい人を失いたくないと、心の底より願う。

 どうか神様。この願い以外はすべて諦めてもいいです。

 ずっと、この人と共にいさせてください。

 黒髪の少女はそう願うのだった。

 

 

 

 

 リべトラ・ライラ船上女学院。

 全長一キロメートル、六階建てという規格外の大きさをした船“レスボス”の内部には、学校施設を始め、飲食店や小売店などの商業施設や公園、プール、その他の遊興施設が備わっており、500人を超える生徒に快適な生活を提供している。

 各国から超法規的に保護され一種の治外法権となっている、この船“レスボス”に所属しているのは全員、女性である。

 学院に集う良家の息女や富豪の令嬢たちはもちろん、彼等を支える船員に至るまで全員が女性で構成されており、男性の入船は一切認められていない。

 一度だけペットとして共に乗船した小型の猿が雄であったことがあり、学園全部を巻き込んだ大騒動となったことがある。理事会による厳しい議論の結果、例外的に許可され、彼がこの船に存在する唯一の男性となっている。

 このように管理された空間の中で生徒たちは世界で通用する見識を養い淑女に相応しい振る舞いを身に着けることを目的としたのがリべトラ・ライラ船上女学院だ。

 

 と、改めてパンフレットを読み返し、駆亜(かるあ)美良香(みらか)は自分が合格したことに頭を捻った。確かに祖母方が異国の血筋であるため、外国に興味持ち、異文化交流が容易なライラ船上女学院の高等部を受験したのだが、まさか受かるとは思わなかった。

 最近、身寄りを失くした美良香としては渡りに船であったのだが、良家の息女や富豪の令嬢たちの中に自分が混ざっているのは場違いなように感じ、なにか釈然としない思いを胸に抱えるのだった。

 

 形見の懐中時計を見る。時刻は五時を過ぎていた。本土から持ち込んだ私物もあらかた片付け終えた、美良香は考えてもしょうがないと結論付け、部屋を後にした。

 

 

 落ち着いた色合いのカーペットを踏みしめながら美良香は廊下を歩く。外では春になり冬の衣服では暑く感じ始めたぐらいであったが、船内は空調が利いており、未だ長物を着てるくらいがちょうどよい。

  扉が開く音。美良香が視線をそちらに向けると、中性的な顔立ちの少女が部屋から出てきた。少女はズボンタイプの制服を着ており、彼女のすらりとした肢体と中性的な外見があわさり、王子様と言われてもおかしくないような雰囲気だ。

 扉の名からは「……、さくらんぼ?」という声が聞こえた。笑顔で部屋の中に手を振っていた少女が、なにかを追って視線を美良香に向ける。少女が軽く微笑んだ。

 美良香は軽く会釈すると、先を急いだ。

 

 

 全長1キロメートルを超すという規格外の船“レスボス”。その内部には居住区や教育施設を始めとした様々な設備が内包されている。その中の1つに学生が無料で利用できる食堂が存在している。良質な料理をバイキング形式で好きにとることができる、美良香にとっては大変ありがたい場所である。

 なお、これまでの道で、目にとまった飲食店のメニューを見て、美良香が入るのを諦めたのは余談である。

 三度繰り返すが、レスボスは1キロを超す長大な船である。その中に街がまるまる一つ入っている。そして、美良香はリべトラ・ライラ船上女学院に今日、入学――より正確に言うなら、入寮――したばかりである。

 ありていに言うなら、美良香は道に迷っていた。

 まだ入って1日も経てはいないのだ。自身の部屋に辿り着くまでは案内があったが、そこから出て自由に動けるほど船内のことを知りはしない。正直、帰りに部屋にまで帰れるのだろうか、という不安を美良香は抱いた。

 

「そこに誰かおられますか?」

 

 絹のように柔らかい声が美良香にかけられる。美良香が声の方を向くと、黒い扉の間で一人のシスターが立っていた。

 左に泣きホクロ。閉じられた目。右手には杖。温かな雰囲気。美良香がどこにいるのかわからないのか、探る様に首を動かしている。地面につけた杖を左右に振り、障害物がないか探りながら扉の外へ歩いてくる。察するに盲目なのであろう。

 

「……あら、誰か困ってる気配がしたのですが……」

「あ、えーと…………。」

「おや、そこにおられましたか。厚かましいようですが何かお困りでしょうか?」

「すいません、道に迷いまして。食堂に行くにはどうすればいいでしょうか」

「食堂ですか……。ここから少し遠いですし、なにぶん、私も目が見えないもので説明しづらくて」

「あ、いいですよ。何とか頑張って探しますから」

「といっても、困っているのを見過ごすわけには……」

「じゃア、少し待ってもらったラ、どうだイ?」

 

 修道女(シスター)の後ろからもう一人、別の修道女(シスター)が現れる。

 サングラス、薄い笑い、先ほどのシスターと同じくメリハリ利いた身体。

 先ほどの修道女(シスター)がふんわりと包み込むような声色だったのに対して、新たに現れた修道女(シスター)は何処となく不吉を孕んだ蟲惑さを感じさせる。

 

「いきなリ、声をかけてモ困るだけさ、リナ」

「何やら困ってる気配がしたので、つい……」

「ふフふ、君のそウいう所は好きダけど。……ところで、君の名前は?」

「美良香です。駆亜(かるあ)美良香(みらか)と申します」

「美良香君ね。多分だけど君、入寮しタばかりだロウ? この船は広いカら簡単にはたどり着けないと思うヨ」

「む……」

「急いでナいようダったらもう少しダけ待ってくれないかな?もうチょっとで(ボク)

たチの手伝いも終わるから。そうシた君を案内でキるよ。」 

「そんな初対面なのに悪いですよ」

「気にしなくていいですよ。困っている人に手を差し伸べるのは当たり前じゃないですか。むしろ、少しお待たせするのが心苦しいくらいなんですが……」

「いえいえ、そんなことは……」

「決まっタ、ようだネ。じゃア、教会の中で少シ待ってもらオうか。」

「ありがとうございます。……そういえば名前は何というのでしょうか?」

「あァ、(ボク)はミレラ。ミレラ=バートリーさ。ここの教会のお手伝イをしていルよ」

「私はエスカテリーナ=バートリーと申します。ここの教会を任されております」

「そんなに若くして、教会を切り盛りしているのですか?」

「真似ごとに近いと申しますか、担当の修道女(シスター)さんが少し体調を崩されてまして、そのお手伝いの延長と言った感じですよ」

「マ、(ボク)は見テの通り体が弱くテね。授業にもあマり出らレない分のお返シをしテるって所だヨ。君も悩みガあっタら、相談するトいいよ。まぁ、懺悔室の担当ハ別の人ダけどネ」

 

 3人は話しながら教会の中へと入っていく。後ろ手でゆっくりと扉が閉められた。

 木製の備え付けられた椅子が順に並び、赤いカーペットが伸びた先に、祭壇が備え付けられている。祭壇の前は柵と階段の仕切りがある。

 天井は中央部が一段高く、広がりを感じさせるためか外から見た時よりも広いと美良香は感じた。

 赤、白、緑、黄と様々な模様の入ったステンドグラスが照らし出す室内は、ここだけが外から切り出されたような静謐さで、美良香は不思議な緊張感に身を引き締める。

 

「あ、そンなに緊張しナくてイいよ。日本人(ジャパニーズ)はあマり教会にいかナいと聞くケれど、そんナにかしコまらなくてしなくテも神様は罰を下サないさ。」

「ミレラ?奥の掃除終わってないけど、なにやってんのよ」

 

 エスカテリーナに座る様に進められていると、奥からもう一人、修道女(シスター)

が出てくる。二人と同じく、白色の頭巾(ウィンプル)の上から暗く落ち着いた紺色フードを被っている。全身を覆っている修道服も同色である。

 全体的に小柄で、今いる四人の中では一番背が小さい。バートリー姉妹と美良香が女性としては高めの身長ため、四人目の修道女(シスター)はより小さく見えた。実際、美良香の胸あたりまでの身長しかない。

 ちょこちょこと歩いていくる様は小動物のような愛らしさを感じさせるが、眼尻が少し吊り上った三白眼のためか不満そうに見え、愛らしさを打ち消している。

 あるいは、本当に不満なのかもしれない。

 そして、それ以上に目立つ――。

 

「ちょウど良かったウィディア。少し相手ヲしていてあゲてくレないか? 年上が傍にいルと彼女も気が休まらナいだろう」

「ウィに仕事を押し付けてる間になにしてるのよ。また、困ってる人、連れ込んで」

「いヤ、ここは神ノ家。困っテる羊にハ手を差し伸べるサ」

「もう! それを言うんだったら、年下と一緒にされて困るじゃない」

「だいじょうブ、君は年下には見えナいよ」

 

 不満そうなウィディアにミレラが一部に視線を向けながら答える。その小さな背丈に反比例するかのようにその胸囲は豊満だった。それなりに大きい部類である三人よりも二回りほど大きく、全身を覆う修道女(シスター)服の下からもはっきりとふくらみを主張していた。

 

「ほんと……って、どこ見て言ってるの!」

「どこダろうネ?」

 

 しかし、それよりも美良香はウィディアの動く口に注目した。その可憐な、蕾のような唇に。白い皮膚に嵌めこまれたような鮮やかな桜色のそれは瑞々しく、目を惹かれる。それが喋るために開き結ばれることがなんとももったいなく感じ、美良香は不思議なもどかしさを感じた。

 そして、奇妙なものを見つめる三人の視線に美良香は白昼夢から覚めたかのように、はっとする。どうやら少し呆けていたようで、少しばつが悪かった。

 

「大丈夫ですか?気分が悪いようでしたら職員の方を呼んできますが……」 

「いえ、なんでもありませんよ。」

「ふフ、じゃ、(ボク)たちは残ッた仕事を片付けてクるからちョっとだけ待っててネ」

「あっ、はい」

 

 そうして、ミレラとエスカテリーナは祭壇の横にある扉を開いて奥へ行ってしまう。

 

「……」

「……」

「……」

「……」

「なんか喋りなさいよ。気まずいじゃない」

「えと、あの二人は姉妹なの……?」

「当たり前じゃない。うり二つじゃない」

「授業にあまり出てないって、何か事情があるかしら」

「見た通り体が弱いのよ。姉のエスカテリーナは目が見えてないしね。だから、あの二人は体調が悪い時は授業に出なくても特例として扱われるわ。他にも何人かいるみたいね、特例の生徒」

「ここでのお手伝いは大丈夫なの……?」

「基本的に体調が良い時にしてるだけだしね。修道女(シスター)はその健気さに心を打たれて、大変喜んでるわね」

「あと、特例な生徒としてここで遅れた分の勉強をしたりしてるわね。ここ静かだから負担が少ないみたいなの。」

「大変ね……」

 

 ウィディアの可憐な唇が言葉を紡ぐ。薄い桜色が形を変えるたびに、美良香の視線がそちらに誘われ、なにか罪悪感にも似た気まずさを覚えた。何か特別なものがあるわけではない。むしろ、唇以外にも目を引く要素はたくさんある。

 小さめな鼻。不満げに見える三白眼であるが、よく見ると、愛らしさをにじませたドングリ眼で、彼女に愛嬌を与えている。唯一露出している顔面の肌は落ち着いた白さで、シミひとつない。身長こそ低いものの、華奢な体格と反比例して女性らしい部分が豊満で、何か敗北感を美良香は感じた。

 所作はどことなく小動物っぽく、先ほどのパタパタと歩いてくる光景は、可愛らしかった。

 

「ところでさっきからウィの唇をじろじろ見てるけど、何かついてるの?」

「え、いや、…………あんまりにも可憐だったからつい」

「可憐って……、褒めてもなんにもでないんだからねっ」

 

 ウィディアがはにかんでいると、奥からミレラとエスカテリーナがやってくる。二人は修道女(シスター)服から白を基調とした制服へと着替えていた。

 

「さテ、行こうカ。せっカくだから、いロいロと教えてあゲるよ」

「せっかくなので一緒に食事しましょうか。」

「いいのですか……?」

「ここマで来たらイいもなニもなイさ」

「そんなにかしこまらなくてもいいのよ。気楽な話と思えばいいわ」

 

 片手の杖が地面を探る。ミレラがエスカテリーナの杖を持っていない方の手を導き、道を教えていた。

 

「ウィディアさんは……?」

「ウィディアはマた別の所で食べるサ」

 

 ミレラが楽しげな声で言う。ウィディアが少し泣きそうな顔でこちらを見ている。唇を結び、涙目だ。

 

「ジゃ、留守は頼んだヨ」

「ごめんなさい、寂しいとは思うけど……。何か買ってきてあげますね」

 

 エスカテリーナがウィディアの頭を撫でる。幾度か空を切った。

 撫でられたウィディアが気持ちよさげに目を細める。

 

「むぅ……、本当にウィに何か買ってきてね?」

「はい。ちゃんと買ってきてあげますよ。だから、いい子にしててくださいね」

「うん」

 

 こくりとうなずいたウィディアが奥へひっこんでいく。もし彼女に尻尾が生えていたのならパタパタと振っていたことだろう。そんな光景が幻視された。

 

 

 ミレラがエスカテリーナの手を引きながら食堂へ入る。その後ろを美良香がついては言った。

 温かな空気と共に様々な料理の匂いが漂ってくる。ふわりとくすぐるスープの香り、フルーツのそれは何ともいえない甘さを連想させる。肉と香辛料の芳醇な香りが喉を鳴らさせた。今はしないが、奥に見えるサラダに近づけば青い野菜の薫りもするだろう。

 

 食堂は今まで目にした中では――といってもまだあまり学校内は探索していないが――最も大きな部屋であった。

 縦長の大きなテーブルがいくつも整列と並んでいる。ほんのり赤みがかった白色のテーブル。薄く光沢を放つ。装飾もなにもないが、どこか落ち着いた印象を与える。

 その机に添えられた椅子は、薄く赤色を帯びた黒。テーブルと椅子は合わせて1つと思合わせる一体感であった。

 白いテーブルクロスの上には食べ物の零れ滓などはなく、生徒たちの行儀の良さを表していた。

 エスカテリーナはミレラに引かれ、右端に座る。姉妹は一言、二言、言葉を交わす。ミレラが席を立つ。美良香はミレラと共に食堂のバイキングへと進んだ。

 白い皿の上には各種の料理が盛り付けられている。

 キャベツ、ブロッコリー、コーンなどの生野菜。切り分けられた牛肉、手のひらサイズで飴色に焼かれ鶏、狐色に焼かれたから揚げ、赤みがかった魚の切り身、不思議なことにフィッシュ&チップスまである。

 空きっ腹で待たされた身としてはどれもおいしそうに見る。美良香は口の中に唾液が染み出てきていることを自覚した。唾をのみこむ。

 

 見ると、ミレラが片手にトレイを持ち、2人分の料理をよそっていた。

 食堂に歩いていて来るときもそうだったがミレラの足取りはどこか危なげである。

 不敵な雰囲気を持ち、エスカテリーナを支える姿から頼りになるように見えるが、彼女もエスカテリーナと同じく体が弱い。体を協調させる動きが苦手らしく調子が外れた発音もそのためらしい。

 

「少し持ちます」

「あァ、ありガとう。いつ言っテくれルかと待っテいたよ」

 

 茶目っ気。美良香の口が少しほころぶ。ミレラから皿をいくつか受け取ると、自分のトレイに乗せた。

 二人は自分の皿に料理を乗せていく。他にも生徒がいるため、いくつかの料理を取るまでは少し待ったりした。途中、ふらついたミレラが褐色のメイドにぶつかりかけたものの、相手が素早く避けたため事なきを得た。

 

「……小食ですね、それで足りるのです?」

「アぁ、(ボク)たチは食が細くテね。これで朝と夜を食べれば十分なんだ。」

 

 ミレラがエスカテリーナの隣に座る。美良香は姉妹と反対側の座席に座った。

 食堂内にはそれなりの生徒がいた。しかし、部屋の大きさから考えるとあまり多くの人数がいるとは言いづらかった。

 先ほどの褐色メイドが、料理を運んでいる姿が見えた。

 彼女は赤色の髪の少女の席まで料理を運び、音も立てずに丁寧に皿を置いた。そのまま流れる様に、フォークとナイフを用意した。

 

 別の所では二人の少女が戯れていた。

 一人は黒髪でおかっぱ頭の少女。市松人形のような容姿をした彼女は東洋人の様だ。隣には彼女と同年代らしき少女が座ってる。こちらは白色人種らしく、翳りひとつない白い肌に、緩やかに波打つ金色の髪が広がる様に椅子にかかっている。

 食べ方が下手な彼女の頬を、市松人形のような少女がナプキンで拭く。金色の少女は満面の笑顔でそれを受け入れ、お返しに自身の持っているリンゴを「あーん」と食べさせた。

 美良香は手を合わせ、姉妹は両手を合わせ合唱した。

 

「何から話しましょうか?」

 ミレラがエスカテリーナの口へパンを運ぶ。

 小鳥が啄むかのように、エスカテリーナはパンを小さく食んだ。

 

「えぇと……できれば、この学校のことについて全般的に教えていただけると……」

「ふム。そコらへんは明日のオリエンテーションで説明スるだろうカら、二度手間になルかな」

「明日の入学式の後に上級生が入学生の学校を案内する伝統があるんですよ。

でも、先に知っておいて困る事もないですしね」

 

 ミレラは自身が食事を行うかたわら、エスカテリーナにも食べさせていく。

 話を聞きながら美良香も白米を橋でつかんで口の中に放り込む。ふんわりとしたそれを噛むと、粘っこい触感へと変わる。まさか、船上学院で米を食べれるとは思っていなかったので嬉しい誤算である。

 ミレラとエスカテーナは船内の設備や授業、などについて一通りの説明を美良香に起こった。あまり授業に出ていないため、分からないところもただあったものの、何も知らない状態の美良香にとってはありがたいものだった。

 

「まァ、そンなとこロかな。見たとこロ、君は英語についテも問題ないよウだから、言葉に躓くこトはなさソうだね」

「本当に。聞くところ、とても丁寧ですが、日本以外に住んでいたことが……?」

「母方の家系が、外国の血が入ってるらしく、小さいころからちょくちょく外国に行ってたんですよ」

 

 リべトラ・ライラ船上女学院は様々な国の子女が来るため、公用語は英語となっている。そのため、先ほどから不都合なく会話を行える美良香に、バートリー姉妹は感心の表情をは浮かべていた。

 

「それでも、覚えるのは大変でしたでしょうね。本当、御足労、痛みいります」

「ま、ソれなラ。問題なさそうダね。しかし、血、か……」

「………、どうかしたのです?」

 

 血という単語に強く脈打つ。何かを言い当てられたような気分になって、少し気後れする。息を軽く吸って、美良香は気を紛らわせる。内心で、大丈夫。とつぶやく。

 美良香は両手を合わせて、「ごちそうさま」と言う。姉妹は既に食事を終えている。

 ミレラが肩肘をつき、手の甲に頬を乗せて美良香を見ていた。傍から見て行儀が悪いが、本人は気にしていないようだ。

 

 

「いヤ、最近、なんデも吸血鬼がデるって噂がアってネ」

「吸血鬼が出る……? なんですか、その物騒な噂は」 

「私も小耳にはさんだだけですが、なんでも夜な夜な吸血鬼が現れて生徒の血を吸っていくだとか」

「たダ、襲わレた生徒がいルとかいナいとカで曖昧なんだヨね」

「しかし、欠席している生徒もちらほらいるらしいですから、何かいないともいえないのですよね……」

「とりアえズ、夜は気を付けタほうがいイね。」

 

 言外に面白い事態に対する期待をにじませるミレラの声。エスカテリーナは真剣に身を案じてくれているようだ。

 ミレラがちらりと時計を見る、美良香もつられて視線を動かすと、既に夕方は過ぎ去って、夜と言っていい時間だった。

 

「そロそロ帰っタほうがいいネ。今かラ戻れば点呼の時間に間に合ウだろウ」

「あ、僕が持っていきます」

 

 美良香は三人分のトレイやお皿を重ねると、そのまま返却口まで持っていった。

 

 

 夜。

 入浴、身だしなみを整え、諸々の用意を済ませ、布団に入り、早一時間ほど経っただろうか。

 船に搭乗して今までは種々の整理や道順の困惑、先輩との交流などで行き着く暇もなかったが、改めて何もない時間が来ると、これからの不安が胸にのしかかってきて、なかなか眠りに入ることがことができなかった。

 目を閉じて、ときたま寝返りを打ってみるが、今の自分の状況とこれからの生活に対する不安が大きくなるばかりで、安らかな眠りなど夢物語である。 

 苦虫を潰したかのような顔で、むくりと起き上がった。

 

「眠れない……」

 

 ふとんを除けるとスリッパを履き立ち上がる。

 このまま横になっていても鬱々とした思いに悶々とするだけで寝付けそうにはなかった。

 気分を変えるためにシャワーでも浴びようかと思ったが、よりいっそう目が覚めそうだった。

 少し呆けたように窓の外を見る。

 安全上の都合の為、窓ははめ込み式で固定されており、開かない。

 思案の後、気分転換のために軽く外の空気を吸うことにした。

 

 

 薔薇が巻きついた十字架の紋章がついた懐中時計の蓋を開け、時刻を確認する。時針は午前零時を過ぎていた。懐中時計をポケットにしまう。

 着の身着のままで扉にまで近づく。ドアノブに手をかけようとしたところで、バートリー姉妹から聞いた噂を思い出し、開けるのをためらった。

 しかし、噂は噂、少し出るだけなら大丈夫、と自分に言い聞かせて、扉を開けた。

 

 

 消灯した部屋と違い廊下は昼間と変わらない明るさのままだった。

 もしも船内の廊下でずっと過ごせば一日の感覚がわからなくなるのではないか、と美良香は思った。

 完全に外に出には上に昇って別の階にいかなければならない。

 そこまでいくのは大変なため、ここら付近を散策することにする。

 

 来て一日も立っていないせいか、旅先の旅館に泊まっているかのような不思議な感覚である。何処か知らない場所を歩いている期待感が混ざった、地に足がついてないかのような感覚。

 少し歩くと大きな柱の周囲に、柱と一体化した椅子があった。

 量の廊下より少し歩いた先であるが、ここは灯が落ちており、仄暗い。

 全て昼間と同じと思っていたが、どうやら部分的に消灯しているところがあるようだ。

 椅子にすわり、一息つく。

 耳を澄ませるとなんとなく漣の音が聞こえた、気がする。波の影響を受けて船が上下するのを美良香は確かに感じた。空調により整った温度が実に丁度良い。

 いま来た廊下は昼と同じように照明がついたままで、この先に見える居住区も完全に照明が消えているわけではない。二か所の光源に挟まったこの場所も完全に真っ暗という訳ではなく、薄闇という具合だった。

 寮から続く赤いカーペットが柱の周りを囲むかのように敷かれており、それは途切れることなく別の区間へ続く4つの方向へ伸びていた。

 背もたれ代わりの柱によりかかると、少し冷たい。

 ふぅ、と一息ついた。

 なんとなく気持ちが落ち着いたところで、戻ろうと立ち上がる。

 ――瞬間。

 何かが、肩に触れた。

 驚き、猫のような機敏さで、美良香は後ろを振り向いた。

 

「消灯時間は過ぎてるよ、君。あんまり部屋の外に出るのは感心しないね」

 

 そこに立っていたのは紺の制服を着たリべトラ・ライラ船上女学院の警備員――通称、リべトラセキュリティだった。彼らはリべトラ・ライラ船上女学院の警備や校内風紀の取り締まり、トラブルの解決などを請け負っている。消灯時間後に出歩いている生徒を見つけたので声を掛けたのだろう。

 咎めるかのような視線で美良香を見ている。

 

「すいません……。」

「まったく。明日が楽しみなのはわかるけど、規則は規則。ちゃんと守りなさい」

「わかりました、すぐに部屋に戻ります。……あの」

「なにかな」

「最近、……いえ、なんでもありません」

 

 美良香は吸血鬼の噂について聞いてみようかと思ったが、一笑されるだけだと思い直す。そのまま会釈して、その場を去って行った。

 

 

 鼓動が落ち着かない。心臓がいつもより強く脈打っていた。まだ、完全には動揺から回復していないためか、周囲が気になる。

 周囲を確認するが特に変化はない。赤いカーペット。丸い手すり。それぞれの個室の扉。照明は十分のはずだが、縦長い廊下の閉塞感のせいか、少し暗く感じる。

 昼間は生徒が行き来して居る筈の廊下は今は美良香だけであり、皆、眠っているためか音もせず静かである。空調の音が大きく聞こえる。船が波に揺られる。

 ぽつんと、ここには自分一人だけしかいない隔離された場所であるかのような錯覚を美良香は感じた。

 不思議な静けさのせいか、吸血鬼の噂を思い出す。与太話にすぎなかったはずなのだか、何故だかとても気になっていた。

 吸血鬼。血を吸う鬼。血。

 血。

 美良香は思わず口を抑える。えずくのを抑えるように。

 気分を落ち着かせるために、その場で数回深呼吸した。後方に足音。 

 数は一つ。硬い靴底の音が響く。曲がり角の右側から聞こえてくる。

 少し驚くが、他のリべトラセキュリティの人かもしれないと思い直す。よくよく考えればいるかどうか怪しい吸血鬼よりもセキュリティの人間に出会う可能性の方が遥かに高いのだ。そう考えると、美良香はなんだか今まで吸血鬼の噂を気にしていたことが馬鹿らしくなってきた

 幾分か軽くなった足取りで美良香は歩いていく。

 

 

「あ、どうも」

「……」

 

 曲がり角。紺色の警備服。リべトラセキュリティである。

 

「こんな時間に何処へ行っていたのです?」

「少し外の空気が吸いたくて、ちょっとそこへ……。」

「ふむ。君は入って浅いのかな?」

「今日、入ったばかりです」

「となると、どこぞの賭場娘やレズビアンとは無関係か……」

「はっ?」

「いやいい、こっちの話だ。とりあえず、今回は見逃すからすぐに帰りなさい」

「はい、すいません……」

 

 会釈して、美良香は進みだす。懐中時計を確認してみると、一時を超えていた。

 早く戻らないと、明日の始業式の日に寝坊するかもしれない、と美良香は思った。

 二人は交差するように角を曲がり、互いが歩いてきた廊下を進んでいく。その後、何処かの扉が開いた音がした。

 先ほど別れたリべトラセキュリティの驚いたような声。

 何かが引き抜かれるような音。裂帛の声と共に、鈍く弾けるような響き。まるで殴りつけたかのような音だった。

 

「ははっ」

 

 楽しさをにじませたハスキーな声。重々しい打撃音。呻き声。少し間があいて、何が地面に放り出されたようだ。連続した短い呼気と苦しげな声が聞こえる。

 振り返った美良香は逡巡した。先ほどから脳内で警報が止まらない。本能的にこの場から逃げ出したくなったが、苦しげな声がそれを押しとどめた。

 曲がり角の向こうから足音が近づいてくる。なにかはわからないが、確実に何かが近づいてくる焦燥感が美良香の胸を焦がす。

 場違いな鈴の音が廊下に響く。何かが歩くたびに、その涼やかな音色は聞こえてくるようだった。

 

 現れたのは獣のような女性だった。

 手入れのされていない枝毛混じりの髪、化粧っ気のまったくない肌。そして、白いツナギで作られた拘束服。上下の区別がない一体化しており、脚先や手先は袋状となっている。しかし、手足とも鎖はついているものの先が途切れているため、まったく拘束具としての役割は果たしていない。頭上についている猫耳、後ろで振られている尻尾。

 それは美良香をみつけると楽しげに笑った。まるで肉食獣が獲物を見つけたかのよう。そこまでが美良香の限界だった。

 これは危険だ、今すぐ逃げなくてはいけない。その直感に体は素直に反応し、この場から脱兎のごとく駆けだした。角の向こうの光景などすでに頭の中にはない。いますぐここから逃げる事だけが全てだ。

 床を強く蹴る。体が軽くなっていく感じがする。飛ぶように進む。走りづらいスリッパは脱ぎ捨てた。後ろは振り返らない。

 鈴の音がせわしくなっている。背後から足音。早い。彼我の差がどんどん縮まってるのがわかる。

 粘りつくような空気と氷を詰め込まれたかのような冷たさを美良香は感じた。まとわりつくようにして離れない。

 このままでは、逃げきれないと判断して、進路を変更。次に見えた曲がり角を転がるように曲がる。速度を殺し損ねたせいか、体を壁にぶつけたが気にしない。気にしている暇はない。

 後ろを確認する。爛々と眼を輝かせた美女が見えた。口元には笑み。明らかに楽しんでいた。美良香は再び脚に力を込めた。

 どこか適当な部屋を叩いていれてもらおうかと考えたが、その間に追いつかれるに違いない。そして、部屋に入ったとしてもあの怪人が無理矢理入ってこないとも限らない。

 汗が流れた。息が上がる。腹部から捩れるような痛み。足裏とくるぶしが痛い。

 美良香はリべトラ・セキュリティが助けに入る事を期待して、大声で助けを呼ぶ。返答はないが、きっと聞こえたはずだ。

 淡い期待を胸に走る。

 

「腹へった。さっさと捕まえるか」

 

 脹脛に熱い感触。一泊遅れて鋭い痛み。転びそうになるのを美良香は必死に耐え、走る。地面を蹴るたびに傷口に響く。何か飛ばしてきたのだろうか。

 確認のために振り返ろうとしたところで、鋼を打ちこんだかのような重い音が背後で聞こえた。

 美良香が音の方へ視線を向ける。先ほどの女が跳躍しており、壁を足場に美良香へと飛びかかってきた。

 両手に手甲、手甲の先端部には4つの爪のような刃がついていた。

 爪刃が振り下される。美良香は咄嗟に倒れ込むようにして、紙一重で回避した。

 否、少しだけ掠る。背中に4本の赤い筋が刻まれる。苦悶の声が上がった。

 女は勢いを殺さず、器用にも宙で一転して、地に降り立つ。

 美良香はうつ伏せで、倒れている。

 

 詰みだ。

女が鍵爪で刺す。

 あるいは踏みつける。

 あるいはのしかかり動きを封じる。

 いずれかの行動であっても美良香は容易に抵抗する手段を失うであろう。

 では、どうするか。

 立って戦うのか。否。目の前の女性のような怪物に美良香の細腕では対抗できない。

 這いずって逃げるのか。否。少しだけ距離を取る事はできるが、それで終わりだ。

 助けを呼ぶのか。否。幾度か助けを叫んでみたが、周囲は不気味なほど静まり返っている。まるで、何も聞こえていないように。

 騒動に巻き込まれたくないので、見て見ぬふりをしているのだろうか。あるいは、リべトラセキュリティに丸投げしているのだろうか。

 いや、違う。何かが決定的にずれているから届いてないのでは、と美良香は直感する。

 証拠、というわけではないが、先ほどから怪物の足音以外はまったく聞こえない。

 ここらを巡回しているリべトラセキュリティは一人ではない、はずなのにだ。

 つまり、助けは期待できない。

 と、どこか冷静になった頭で美良香は考えた。あまりの窮地に何かが麻痺したようで、震える手足とは反対に頭だけはとめどなく思考が溢れていた。

 しかし、この場を切り抜けられる答えは出ない。

 ならば、回答は一つだけ。諦めるしかない。

 諦めるしかない?

 本当に?

 

「い、った……っ?」

 

 太腿に痛み。足のポケットに入れていた時計があたったようだ。

 女が美良香の後ろ襟首を掴み持ち上げる。女は大口をあけて、美良香の首筋に噛みつこうと唇を近づけてくる。鋭い犬歯が外気に晒される。

 既に美良香が打てる手は何もない。体を揺さぶって抵抗しても、女は意に介さないだろう。そのほっそりした腕に反して、万力のような力で掴まれ、外れそうにない。

 しかし、美良香は今、怒っていた。

 わけもわからずいきなり追いかけられ、あまつさえ、理不尽にも血を吸われようとしている。

 わからない悪夢のような状況に対して腹を立てていた。

 だから。

 ポケットに入っていた時計を持って、思いっきり女の頬を強打した。

 

 子気味良い音と共に、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような女の顔。

 平手打ちを喰らったこと自体ではなく、それで少しでも害を受けたことに驚いたようだった。

 女が美良香を放り投げた。

 咄嗟に受け身がとれず、床に体を打ちつける美良香。

 訝しげに想いながらも、なんとか立ち上がる。

 

「はっ、ははははは。いいね、いいねぇ。やっと会えたぁ……!」

 

 女が心底楽しそうな声を上げていた。目が爛々と輝いている。垂れ下がっていた尻尾が持ち上がり、耳が二、三度、ピクリと動いた。子供が楽しみにしていた玩具を手に入れた時のように嬉しそうだった。

 

「さぁ、出せよ。テメェのクルースニクス。何処だ?影の中に潜んでいるのか?いままでは様子見か?」

 

 事態の推移についていけず美良香が目を白黒している。

 目の前の怪人は何をいっているのだろか、意味が全く分からない。

 何を言おうか迷っていると、腹に熱い感覚。

 女が向けた鍵爪が一瞬で伸び、美良香の腹部を貫いていた。貫通した鍵爪に赤い液体がつたい、爪の先から雫が落ちた。爪の先には白い脂肪がついている。

 激痛。あまりの痛みに美良香は顔をゆがめ、咄嗟に鍵爪を掴んでしまう。指が切れた。

 女が手首を捻り、伸ばした時と同く目にもとまらぬ速さで鍵爪を元の長さに縮める。

 

「ほら、お前のご主人様が死んじまうぜ?さっさと来な。誰だ、強欲か?嫉妬か?まさか、怠惰じゃあるまいよな」

 

 美良香はしゃがみこみ、傷口を必死に抑えている。しかし、四本もの刃物により抉られた傷は拡く、背中の傷までは手が足りない。

 避けた皮膚の間からは赤い血が蛇口をひねったかのように溢れ、白身がかかった脂身が流れ出る血に赤く彩られ、痛々しい傷口を外気に晒していた。

 寒い。徐々に失われ行く生命に比例するかのように体の芯から寒く、怖い

 視界が歪む。輪郭がぼやけ、酩酊したかのように見えるものが曖昧となっていく。

 女の笑っている顔すらよく見えない。廊下の線が曲がりくねり、複雑な傾斜を描いているように見える。女が口を動かしたかのように見えたが、何を言ったか聞こえなかった。

 視界が暗く、ぼやけていく。恐怖すら朧げになってきた。

 身体が酷く疲れたように力が入らない。体を支える力すらつきて、床に倒れたような気がしたが、よくわからない。

 そして、床に倒れ込んだまま、美良香の意識は真っ暗闇の中に落ちていった。


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