「しかし、不思議な事だ」
ガイストが腕を組んだ。
「不思議って?」
「龍への信仰さ。『創世記』では、人間が原罪を背負う事になったのは、蛇の所為だというじゃないか」
エデンの園で暮らしていたアダムとイヴに、智慧の実を与えたのは、蛇である。
蛇と言っても、その時点では、前後の肢があった。
現代で言えば、蜥蜴のような姿であったのだろう。
西洋でのドラゴンのイメージは、蜥蜴の身体に蝙蝠の翼を持ったものだ。
そして、アジアでは聖獣、霊獣と思われているのに対して、キリスト教圏では恐怖や嫌悪の対象となっている。
「蛇は、女ね、きっと……」
マヤが薄く笑った。
「え?」
「それは置いておくとして――と、蛇の話ね。別に、蛇を信仰する事は変ではないわよ。それが、カトリックやプロテスタントなら兎も角、少なくともエルサレム教団は、蛇を信仰していてもおかしくないわ」
「そうなのか」
「メシアの象徴だからね、蛇は」
そう言ってマヤは、モーセがエジプトの神官に対して挑んだ魔術合戦について述べた。
「アロンの杖――」
「ユダヤの秘宝の、一つだな」
「ええ。モーセはこの杖で、蛇に変身した古代エジプトの神官を呑み込んでいるわ」
「え?」
「アロンの杖は、蛇に変身して、魔術で変身した神官を呑み込んだのよ」
「――」
「それに、モーセは神の命令で、青銅の蛇を旗竿に掛けたのよ。蛇に咬まれた者でも、その青銅の蛇を見上げれば、蛇の毒は消えたと言うわ」
「――」
「御霊信仰のようなものね」
「御霊信仰というと、菅原道真や、早良親王、平将門のような……」
黒井が言った。
菅原道真は、大宰府に祀られる天神である。
早良親王は、クーデターの失敗によって追放され、憤死した。
平将門は、京の都から独立しようとした行ないが謀反と見なされ、処刑された。
何れも、この世に怨みを残して死んだ者たちであり、彼らは悪霊と成って、現世に災いを齎す。
その祟りを防ぐ為に、怨霊を神として祀り、怒りを鎮めるというのが、御霊(怨霊)信仰である。
呪われた動物を、却って神として祀る――そのような事であろう。
「それに、智慧の実を与えた蛇を、人類の味方とする意見もあるわ」
「ほぅ?」
「蛇が、サタンという事は知っているでしょう?」
サタン――
悪魔の中で最も有名な存在である。
ダンテの『神曲』では、地獄の最下層で、神への裏切りの罪で凍て付かされている。
このサタンが、元々は天使であったと言われているのだ。
大天使の長にして、全ての天使を率いるミカエルの双子の兄弟、最も美しい天使、明けの明星ルシフェルが堕天したルシファーが、サタンであるという説だ。
その堕天の原因は、神の意向に逆らい、人間に智慧の火を与えた事であるという。
原罪の基本的なスタンスは、人間が智慧を得た事をなじるものであるが、人間が智慧を得た事を罪過ではなく進化であると主張する者たちが、蛇は悪魔ではなく飽くまでも堕天使、元は善なる存在であり、無垢ならぬ無知な人間に同情したメシアであると言っているのだ。
「この話を出来て良かったわ」
マヤが、メモ用紙のアークの隣に、三つの絵を描き加えた。
一つは、一本の軸から、六つの枝が突き出た形の、杖。
一つは、二つのプレートが一つになった、石版。
一つは、上部が角張り、下部が丸い、壺。壺の中に、幾つかの丸を描いた。
「アークは、これら三種の神器を収めるものよ」
「三種の神器……?」
黒井が眉を顰めた。
「ええ、三種の神器よ」
マヤは、アークに収められていたそれらを、一つ一つ指差して行きながら、名を告げた。
「草薙剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉――」
「――それは、日本の……」
と、言い掛けて、ガイストはやめた。
代わりに、次のように言い直した。
「日本神話は、イスラエル教がベースであるという事だったな。つまり、日本で言う所の三種の神器は、ユダヤの秘宝という事か⁉」
「そういう事よ」
マヤは、草薙剣と言って指差した絵に、又、手を加えてゆく。
「草薙剣が、どうやって手に入れられたか。はい、響一郎」
「須佐之男命が、八岐大蛇の尾から取り出したのだろう」
「その通り。じゃあ、八岐大蛇とは何かしら。はい、ガイスト」
「大蛇――ヲロチってのは、“奇怪な生き物”だったな。で、ヤマタは大きな……つまり、巨大な怪生物、怪獣って奴だな。神性云々で言えば、草薙剣という鉄器を持った異民族、という事だったか」
「八〇点って所ね。正確には、世界樹――生命の樹よ」
マヤが、絵を描き終えた。
草薙剣に、三回り半に蛇が巻き付いている。
中心軸に四つ、左右に突き出した計六本の枝にそれぞれ、セフィラが描かれていた。
カバラで言うセフィロトである。
「それと、北斗七星」
「北斗七星?」
「七支刀よ」
マヤが、左右のセフィラと、軸のてっぺんのセフィラを、ペンでつついた。
七支刀とは、七つの切っ先を持つ剣で、実戦ではなく祭祀用のものだ。
魔を封じる北斗七星の力を持っているとされている。
「序でに言えば、チャクラね」
チャクラとは、ヨーガで言うエネルギーの中継ポイントだ。
人体の正中線に位置する七つの法輪で、尾骶骨の位置にあるムーラダーラから、シャクティを利用してクンダリニーの力で法輪を回してゆく。
七つの法輪を、螺旋状に駆け上がってゆく力が、クンダリニーだ。
釈迦の説法を、転法輪というが、これは、七つのチャクラを回転させる事は、悟りを意味している為である。
「更に、八岐大蛇が八つの頭を持っているのなら、“股”は七つの筈――」
「七支刀の七つの剣先という事か」
ガイストが言った。
「そう。そしてこの剣、又は杖――霊剣は、“火の車”に於いては、イグニッション・キーの役割を果たすわ」
「鍵?」
「“火の車”の封印を解く鍵よ。それによって、封印されていた聖櫃の力が蘇るの」
「ほぅ……」
「それと、鍵には、鍵穴が必要よね」
マヤのペン先が叩いたのは、八咫鏡だ。
二枚一対の石板は、ユダヤの秘宝に対応させれば、十戒石板である。
「これが、その鍵穴。言わば、エネルギーの中継を行なうわ」
「中継?」
「さっき、霊剣を鍵と言ったけれど、剣は同時にアンテナでもあるの」
「アンテナ?」
「エネルギーを集めるアンテナよ。大気のエネルギーをね」
「――」
「“火の車”は、キリスト教の教義で言えば、聖霊によって動き出す。聖霊というのはこの世界に遍満するエネルギーの事よ、それは、貴方たちにも教えているでしょう」
「うむ……」
「そのエネルギーを、“火の車”に注ぎ込む為の石版よ。エネルギーは、それ単体では無害なもので、どのような力も持たない。それを、“火の車”を動かす為のエネルギーに変換する役目を、石板は持っているの」
「では、勾玉は?」
ユダヤの秘宝では、これはマナの壺に当たる。
が、勾玉と壺では、杖と剣、石版と鏡のようには対応しないので、壺ではなく、その中身――マナが対応する存在であろう。
卵にとって重要なのが、殻ではなく中身であるように、マナの壺が秘宝とされるのは、その内にマナを収めているからに他ならない。
マナとは、天が流離い人たちに授けた甘露である。
甘露という言葉は、アムリタの訳語としても使われる。
アムリタとは、サンスクリット語で“不死”の事であり、転じて、ヒンドゥー神話でいう不死の妙薬の事だ。
神々は、悪神と協力して乳海を攪拌して造り出したアムリタを呑み、不死を得た。
一方、悪神たちはそれを口にする事が出来なかった為に、神に倒される宿命を背負う。
尚、アムリタを管理するのは、月神ソーマである。
ソーマは、神の名であると同時に、アムリタの別名でもあり、更にはヒンドゥー教の司祭が神との交信をする際に、トリップする為に飲む、酒のようなものもであった。
又、アムリタを造り出す乳海は、丹生でもあり、これは水銀の事である。
水銀は、道教の錬丹術に於いては丹砂と言われ、金丹、即ち黄金を造り出す材料であると言われていた。
中国であれ、イスラエルであれ、エジプトであれ、ヨーロッパであれ、常に黄金に対する信仰が世界にはあり、それは、この地球に降り注ぐ永遠の輝きである太陽信仰に通じる。
永遠の太陽を模した黄金が、不老不死の霊薬であるとされたのだ。
しかし、水銀の服用によって、身体に影響が出る事は、現代では当然の事である。
ともあれ、甘露であるマナが、インドで言うアムリタにして、丹生であるとすれば、八尺瓊勾玉である事に、おかしな点はない。
勾玉と言えば、水晶で造られているというイメージがあるかもしれないが、少ないながらも金属製のものが発見されている。
更に推測してしまえば、八咫鏡が日・陽を表すのに対し、八尺瓊勾玉は月・陰を表しているという説があり、勾玉がマナであり、アムリタであるとすれば、月神ソーマが守っているという事で、奇妙な符合を見る。
日本神話で言えば、太陽は天照大御神であり、月は月詠命であり、そして三種の神器のもう一つ、草薙剣を手にしたのが須佐之男命である事を考えると、この三柱が、ユダヤの秘宝に相応していると考える事も出来るかもしれない。
「勾玉は、“火の車”の安全装置と言われているわ」
「安全装置?」
「ええ。“火の車”――アークは、オーヴァー・テクノロジーによって造られた超兵器よ。それが、悪人の手に渡ってしまえば、大変な事になるでしょう。そんな時の為に、マナ・勾玉――霊玉によって、“火の車”に注がれるエネルギーをロックする事が出来るのよ」
「悪人、ねぇ」
ガイストが小さく笑った。
それを無視して、マヤは、
「ドグマは、これらを手にして、この地球に彼らだけの帝国を築こうとしているわ」
と、言った。
「それは、ショッカーの理想に反するものよ。だから、彼らを叩かねばならない」
「……聞いても良いか?」
黒井が口を開いた。
「その“火の車”を、ドグマのテラーマクロに探させていたのは、ショッカーなんだろう」
「ええ、そうよ」
「それは一体何故なんだ?」
「それには、先ず、“火の車”の事を首領が知った、その時の事を話さなくてはいけないわ」
「そこから、頼む」
「――ドグマという組織を作らせたのは、二五、六年程前の事ね。表立った行動は、ここ一年の事だけれど、“火の車”――アークの捜索については、戦前から行なっていたわ」
失われた聖櫃を求めた人物と言えば、ヒトラーが有名である。
ナチスはショッカーの前身でもあり、ショッカー首領はヒトラーと繋がりを持っていた。
或いはナチスというのは、首領がアークを探す為に組織したのではないだろうか。
「そう考えて間違いはないわ」
「む――」
「“火の車”について、首領は、或る人物と出会った事で、初めて知ったと言っていた」
「或る人物?」
「ええ。その男の名は――」
マヤはそうして、首領が、ロスト・アークの行方を探るようになった経緯について、語り始めた。
窓から入り込んだ稲光が、釈迦像の顔を照らし上げる。
仏頂面――仏像の表情が変わらぬ為に、不愛想な人間を形容する際に使われる言葉だ。
しかし、実際に仏像に対面すると、動かない筈のその表情に、微妙な変化を感じる時がある。
優しく微笑んでいるようにも、哀しく嘆いているようにも、怒りに震えているようにも――
東北赤心寺の仏像は、地元の村人たちが寄贈してくれたものである。
無名ではあるが、腕の良い仏師が、わざわざ伐採した木から彫り出してくれた。
ミノによって、写実的に彫り込まれた顔の影と、白い稲光のコントラストが、その場の人間の怒りと悲しみを体現しているようであった。
石畳の上に、巨躯が転がっている。
黒沼鉄鬼だ。
鉄鬼は、幾度も樹海に挑み掛かっては、気を合わせられ、弾かれている。
その都度、鉄鬼の肉体には、樹海が放つ気が蓄積され、じわじわとダメージを与えている。
呼吸に合わせて、真綿で全身を絞め上げるかのように、じっとりと浸透して来る痛みである。
その積み重ねられたダメージが、今、鉄鬼を地面に転がしていた。
樹海は、倒れ伏した鉄鬼に歩み寄り、仰向けになった弟子を見下ろした。
鉄鬼が、残った左眼で、樹海を睨み上げる。
刹那、樹海の足刀が、鉄鬼の太い咽喉首に叩き付けられた。
「げほぁっ」
鉄鬼が血の混じった唾を跳ね上げた。
樹海は、もう一度、同じ部位に蹴りを打ち込んだ。
三度。
四度。
五度。
足刀を用いた、咽喉への踏み下ろしが、六度目を数えようとした時、鉄鬼の右手が、ゆるゆると持ち上がった。
「や、やめ……」
樹海が、足を止めた。
「もう、やめ……許し……老師……」
掠れた声で、鉄鬼が命を乞っていた。
顔の包帯が緩み、窪んだ眼窩に溜まった血液が、涙のようにこぼれる。
「黄金も……“火の車”も……要らない……」
そのように言っていた。
樹海は、訝りながらも踏み付けをやめ、後方に下がった。
鉄鬼が、寝返りを打ち、樹海の方に頭を向ける。
「す、済まなかった……老師」
「――」
「あ、あの女に唆されたんだ。俺は、俺は……」
鉄鬼が、言葉に詰まったように嗚咽した。
樹海は、哀れみの籠った眼で鉄鬼を眺める。
「何者じゃ、その女とは」
と、訊いた。
「分からない。唯、外国人だった」
「――むぅ……」
鉄鬼が唸った。
“空飛ぶ火の車”の事を知る外国人――
その個人を特定する事は出来ないが、心当たりがあるともないとも、言い難かった。
「老師……」
思案する樹海に、鉄鬼が声を掛けた。
「俺は、死にたくない……」
「――」
“主は、死して眠るなら、何処で眠りたい”
その問いに対する答えであった。
それは、事実上の死刑宣告であったと言えるだろう。
これに対して、鉄鬼は、死にたくないと言ったのだ。
「だから……」
鉄鬼は、震える膝に力を込めて、両手を床に突いて立ち上がり、樹海に向かい合った。
血塗れの顔で、にたりと笑い、
「死ねッ⁉」
と、叫んで駆け出して行った。
丹田から絞り出した最後のエネルギーで、樹海に向かって突撃してゆく。
樹海は、ゆっくりと振り向くと、最早処置なしと判断して、鉄鬼からカウンターを取る為に、気を右手の指先に集中し始めた。
突っ込んで来る鉄鬼の勢いと気を利用して、鉄鬼の肉体を貫く発勁を放つ心算であった。
鉄鬼が、樹海の間合いに入り込んで来た。
このまま腕を突き出せば、樹海の貫手が、鉄鬼の心臓を抉る。
吼!
稲妻が迸った。
鉄鬼の肉体を破壊する気のスパークの奔流のようであった。
だが、鉄鬼は寸前でブレーキを掛け、上体を後方に反らした。
ぬ⁉
樹海が、顔を引き攣らせる。
カウンターを見抜かれた。
鉄鬼は、しかし、それだけに留まらなかった。
樹海の貫手は、鉄鬼の胸の寸前で止まり、そのタイミングで鉄鬼は、一度は掛けた急制動を、前方への加速に転換させた。
反らした上体が、倍以上の勢いで、引き戻され、突っ込んでゆく。
血の絡まった鉄鬼の右腕が、気を蓄えた技を外され、一瞬とは言え放心していた樹海の心臓に向かって駆け抜けてゆく。
鳥が海面を薙いでゆくように、虚空が唸りを上げ、気の波が螺旋を描く。
鉄鬼の貫手の先端に集中したエネルギーが、強く鋭く一点に、樹海の胸のど真ん中に激突して行った。
鉄鬼⁉
樹海の眼が、かっと見開かれた。
鉄鬼の腕が、肘の辺りまで、樹海の身体の中に潜り込み、貫通していた。
樹海の背中まで突き抜けた貫手の先に、腐った果実のような臓器が弱々しく脈動していた。
「――桜花‼」
鉄鬼は、自らを貫く歓喜に絶叫した。
雷が、降る。
雨が、落ちる。
風が、吹いていた。
嵐が、ゆっくりと収まり始めていた。
色々と考察厨。