尚、この物語はフィクションであり、実際の人物・団体・事件などとは一切関係なく、類似する所があったとしてもそれは偶然の一致である事をご了承下さい。
雨が降っている。
雷も、黒い雲の間から、時折その姿を見せていた。
天の響きが、地に降り注ぎ、大地そのものが振動しているかのようであった。
その音を、玄海は、布団の中で聞いている。
今夜は泊まるように言われて、布団を用意して貰ったのである。
すぐ横では、両親に挟まれた少女が、外の雨など気にしていないように寝息を立てている。
玄海は、うとうとしながらも、つい先日、樹海から聞かされた話を、頭の中で反芻していた。
それは、この一〇年間、樹海が隠し続けた、彼が守ろうとしていたものの事である。
かつて、樹海が大陸に渡った折、師である鉄玄から、無念無想と共に譲り受けたもの。
遥かなる龍の記憶――
それにまつわる秘事を、玄海は明かされたのである。
樹海に、玄海にその事を明かすと決意させたのは、玄海が赤心少林拳の奥義を自ら会得したからである。
樹海は、玄海と鉄鬼に、自らが完成させた赤心少林拳の殆どを教え尽した。
只二つの技を除いて、である。
それが、赤心少林拳の絶招であった。
何故、樹海はこの秘奥の伝授を躊躇ったか。
それは、玄海と鉄鬼の両名が、自らの中で編み上げた赤心少林拳が、全く異なるものであったからだ。それについては、既に述べている。
その秘奥は、全く異なる性質を持つ。
同じ所を基本としながら、全く異なる変化を遂げて来た弟子たちに、それらを完全に伝えてしまうという事を、樹海は躊躇したのであった。
それぞれが、それぞれの奥義を、受け入れる事が出来るのか――
そう思っていた樹海であったが、玄海は、その内の一つを、自ら体得してしまった。
“梅花”という技だ。
寒さに耐えて柔らかく――
玄海は、境内に咲いた梅の花を眺める内に、その奥義を会得していたのである。
それを見た樹海は、実際に玄海と立ち合ってみて、その完成度の高さに驚愕した。
その驚愕が、玄海に、鉄玄から受け継いだ“龍の記憶”を明かす後押しをしたのであった。
玄海は、雷鳴を聞きながら、樹海から伝えられた、その事に思いを馳せた。
この日本、中国だけではない。
遥かなる時の流れの中で、脈々と受け継がれて来た、大いなる一族――
歴史の闇に呑まれた、遥かなる龍の記憶――
雪が降っている。
煌びやかな夜を、尚、白く彩ろうとする結晶の群体を、黒井は眺めていた。
ホテル・プラトンのスウィート・ルームだ。
マヤが予約したものである。
克己がトライサイクロンを運転し、アポロクルーザーを牽引して、駐車場に止めた。
その最上階の、ツー・ベッドルーム・スウィート。
中心にリビングがあり、その両脇に一つずつベッドルームがある。
黒井は、窓を右に見る形で配置された、二人掛けのソファに腰を下ろし、ルーム・サービスで頼んだ赤ワインを口に含んでいる。
クラッカーとチーズが、肴として出ている。
それを、黒井の隣に座ったガイストが、ぽりぽりと抓んでいた。
ワインのボトルとグラス、平皿の載ったテーブルを挟んで、同じように二人掛けのソファがある。その向かって右側に、克己が座っていた。
三人とも、大浴場で風呂に入り、着替えている。
黒井は、バス・ローブ。
ガイストは、トレーナー。
克己は、着流しであった。
「お待たせ」
と、シャワーを浴びたマヤが、リビングに戻って来る。
薄桃色の、何処となく子供っぽさを感じさせるネグリジェに着替えていた。
昼間、町を巡っている時に、何を思ったか、マヤは西洋人形を一つ買った。
それのようなネグリジェであった。
とは言え、そこは豊満な身体を持つマヤの事であるから、成熟した肉体と、子供っぽい衣装の間にある差が、見る者を惑わせてしまいそうだった。
マヤは克己の左手に腰掛ける。
「飲むかい」
ガイストがグラスとボトルを取って、マヤが小さく顎を引いたのを見て、赤い液体を注いだ。
グラスの底を、指でつぅと押して、テーブルの上を滑らせる。
マヤはグラスを持ち上げると、少量口に含んだ。
「良い葡萄ね。流石、プラトンだわ」
そう言ってから、焼肉屋で途中になった話を再開させた。
「先ずは、“火の車”について、説明してしまいましょう」
と、マヤは言った。
「その正体は、アークよ」
「アーク? 方舟?」
黒井が訊き返す。
マヤは頷いて、
「貴方たちも、失われたアークの事は知っているでしょう」
「確か、ユダヤ教の秘宝を収めた、聖櫃だったか」
ガイストが言う。
「そう。ユダヤの秘宝である、アロンの杖・十戒石板・マナの壺を保管する為の櫃で、エルサレム教団と共に、イスラエルから姿を消したわ」
ユダヤ教――今から三〇〇〇年程前、エジプトから奴隷となっていたイスラエル人たちを脱出させたモーセが、神からの啓示によって開いた宗教である。
アロンの杖とは、エジプトの神官と繰り広げた魔術合戦を勝利に導いた杖の事だ。
十戒石板とは、モーセがシナイ山で神より授かった律法を刻んだ石版である。
そしてマナの壺とは、荒野で飢えたイスラエル人たちに、神が与えた甘露であるマナを保存する為の壺であった。
聖櫃にはこれらが収められており、エジプトを脱出してヨルダン川を越え、神によって約束された地カナンに至ったイスラエル人たちが、イスラエル王国の王の一人、ソロモンによって建造された神殿に祀ったものである。
彼らイスラエル人は、民族内での分裂や、周辺諸国からの侵略に晒されて来た。
二世紀頃のユダヤ戦争の最中、エルサレムのソロモン神殿から、忽然と姿を消してしまった為に、それは、“
これをパレスチナから持ち出したのは、エルサレム教団と言うべき、原始キリスト教徒たちである。
本来のユダヤ教とは、カバラを中心とした教えであった。
カバラ――万物は、神の属性の流出であるとし、頂点に戴かれた神の力から、全てのものは下界に降って来るというものだ。
カバラは、一〇のセフィラから成り、世界樹として表現される。
さかしまの樹である。
しかし、南北朝に分裂し、他国からの侵略を受ける、一〇〇〇年にも及ぶ過酷な歴史の中で、モーセの教えは、律法を守る事にのみ執着し、人間を蔑ろにするものに変わってしまった。
ここに、原始ユダヤ教、即ちカバラを蘇らせたのが、救世主ヨシュア――イエス=キリストである。
イエスは、カバラを知らない、保守派のユダヤ教徒たちによって邪教の謗りを受け、ゴルゴダの丘で磔刑に処される。
その三日後に復活したイエスは、カバラの正当性を証明し、十二使徒らに自らが伝えたカバラの教えを、エルサレム神殿にて、彼らイスラエル人だけで守るように言い残して昇天した。
このエルサレム神殿での信仰を守った人々が、原始キリスト教徒である。
尚、イスラエル人は何れも有色人種である。
昨今、キリスト教は白人の宗教であると思われているが、これは、イエスを殺させたのがユダヤ教徒であるという事から発展した誤解であり、イエスを殺したユダヤ人そのものが、呪われた民族であると解釈された事による。
イエスはイスラエル人だけでカバラを守るように望んだが、ローマ帝国などの異邦人にもカバラを広めるべきだと言う布教使たちによって、キリストの教えはラテン人たちにも伝えられ、上記の誤解から、ユダヤ教徒のみならず、同じくイスラエル人であった原始キリスト教徒らにまで迫害の手が伸びたのであった。
これが、現代まで続く、ユダヤ人迫害の歴史である。
「で、“火の車”がアークだとして、それが何故、日本にあるのだ?」
ガイストが訊ねた。
「勿論、ソロモン神殿から姿を消したエルサレム教団が、日本にやって来たからよ」
「何⁉」
「エルサレムを去った原始キリスト教徒たちは東へ進み、アークを携えて、ペラという町に入った。このペラというのは、シリアまで解釈を広げる事が出来るわ。そして、シリアはシルク・ロードの要衝だったのよ」
「シルク・ロード?」
「ええ。エルサレム教団は、二世紀頃、シルク・ロードを経て中国に入り、朝鮮半島を経由して、日本にやって来たわ」
「――」
「その証拠が、この京都という町よ」
「京都?」
「
秦氏とは、四世紀から五世紀に掛けて、大陸からやって来たと言われる渡来人たちの事であり、彼らが齎した農耕や土木の技術を得る事で、日本は大きく発展した。
「彼らが、そのエルサレム教団なのよ」
「え?」
「渡来は、四、五世紀と言われているけれど、最初の秦氏がやって来たのは西暦で二〇〇年代、弓月君、或いは、
「融通王というと……」
黒井が言った。
「大酒神社に祀られていた人物だな」
大酒神社とは、太秦にある神社である。
元は、近くにある広隆寺の境内にあったものだが、神仏分離令によって、今の場所に移された。
そこで、中国を初めて統一した秦始皇帝や、聖徳太子のブレーンであった秦河勝と共に、融通王は祀られている。
「そうよ。そして彼は、太秦の第一号だったわ」
「うずまさ?」
「ええ。秦氏の族長の事を、太秦と呼ぶのよ。あの地名は、その太秦が由来なの」
秦氏は、山背国――今の京都を中心に暮らしていた。
桓武天皇が遷都の勅令を発した際、長岡や葛野に手引きをしたのは、彼らであった。
その事を示すように、京都御所の建っているのは、かつて秦河勝の邸宅であった場所だ。
「それで、この“はた”とか、“うずまさ”とか、どう考えてもそうは読めない漢字だけれど、これはヘブライ語で解釈すると、すぐに分かるわ」
「ヘブライ語……」
「旧約聖書――ユダヤ教の経典が書かれた言葉よ」
“はた”とは言うが、本来、彼らはこの日本で“
“秦”の字は、彼らが新羅の前身であった“秦韓”を作った流離いの異民族“秦人”であった事、又、彼らを支配していたローマの地域を、中国からは“大秦”と呼んでいた事による。
“はだ”の読みは、“
八幡と言えば、九州の八幡神社が最初であるが、この八幡とは“弥幡”の事であり、“いやはた”とは“イエフダー”、即ちヤハウェの事である。
大秦の出身故にその文字を、ヤハウェを信仰していた故にその読みを、原始キリスト教徒たちは日本に於いて名乗ったのである。
太秦についても、そうだ。
“うずまさ”に近い言葉をヘブライ語から探すと、“イシュ=メシャ”という言葉に突き当たる。これを、ローマの言葉、ギリシア語に直すと、“イエス=キリスト”である。
自らの族長に、自分たちを教え導いてくれた救世主の名を冠させたのであった。
「それに、木嶋神社の鳥居があるわ」
京都三大鳥居の一つに数えられるものだ。
三本の柱の間に梁が渡された形状で、上から見ると三角形を作っている。
これは、キリスト教でいう三位一体説を表しているという。
「まさか、古代日本に、キリスト教が伝わっていたとはな……」
むぅ、と、黒井が唸った。
しかし、マヤは、
「それは、少し違うわね」
と、言う。
「違う?」
「ええ。何故なら、この国は、カバラの思想の下に生まれたからよ」
「カバラ――という事は、原始ユダヤ教の⁉」
「そうよ」
「どういう事だ?」
「失われた十支族――」
イスラエル人のルーツは、旧約聖書によれば、預言者アブラハムにある。
彼の息子の一人、イサクが、父に次いで預言者となった。
このイサクから預言者の系譜を受け継いだヤコブには一二人の息子がおり、彼らはそれぞれ一族を形成する。
ヤコブは、神の使いと格闘して勝利した事で、イスラエルと名乗るように告げられ、その一二人の息子から生まれた支族であるから、イスラエル十二支族という。
モーセが啓示を受けるまで、エジプトに隷属していた彼らは、イスラエル王国で南北朝に分裂する。
その内、南朝ユダ王国を形成したユダ族とベニヤミン族が、後のユダヤ人である。ヨシュアもこの王国の出身である。
一方、北朝イスラエルの十支族は、アッシリア帝国に滅ぼされ、捕囚となる。アッシリアは後に倒れる事になるが、解放されたこの十支族は、未来に於いてエルサレム教団がそうするように、自分たちの故郷から姿を消してしまっている。
その足取りは、歴史には残っていないが、やはり、シルク・ロードを越えたのであろうと言われている。
そして、朝鮮海峡を渡り、日本列島にやって来た。
「そうして彼ら失われた十支族は、自らを“神の民”と称した」
「神の民?」
「ええ、“ヤ・マト”とね」
「ヤマト⁉」
「正確な発音は、“ヤ・ウマト”――ヘブライ語で、“神の民”という意味よ」
「では……」
「古代イスラエルの失われた十支族は、先住民族であった弥生人と合流して、この日本列島に、ヤマト国を創り上げる事になる訳よ」
ヤマト国――
或いは、邪馬台国。
日本列島に初めて成立した国家である。
「日本人の祖は、イスラエル人であるという事か?」
黒井が、前屈みになりながら、マヤに確認した。
マヤは、静かに顎を引く。
「神道のベースも、勿論、彼らにあるわ」
「イスラエル人に? だが……」
ガイストの言いたい事は、黒井にも分かる。
どのような変質を遂げようとも、モーセから続く系譜は、常に一神教だ。
神道では八百万の神々がいる。
神を、造物主唯一柱しか認めないイスラエル教とは、対立する存在であるように思われた。
「思想としては、受け入れられる筈だけどなぁ」
「――」
「根源神という事よ」
「根源神?」
「ええ。全ての神々は、唯一人の神から生まれた――その原初の神、根源の神の事よ」
『古事記』『日本書紀』に記されている無数の神々――
例えば、国常立尊、天照大御神、大国主命、倭建命。
これらは、何れもその本体は別にあり、その本体の別の姿が彼らであるという事だ。
「本地垂迹に似ているな」
黒井が言った。
これは、神道に変わって仏教が国教として広められた際、仏教の優位性を示すのに使われた説だ。
それまで崇められていた日本神話の神々は、仏教の神々が化身したものであるという説である。
「真言にも、そういう仏がいたな」
「ああ。確か――」
「大日如来だ」
ガイストが思い出し、黒井が継ぎ、克己が答えた。
大日如来とは、その名の通り、太陽の仏である。
全ての仏、全ての菩薩、全ての明王 全ての天部、そして全ての衆生は、突き詰めればこの大日如来に行き付くとしている。
太陽の顕現であり、全ての源を太陽に求めようとする意志が感じられる。
「それと、あの曼陀羅……」
ガイストが、マヤが描いたという黄金と漆黒の螺旋を戴く、進化の系譜図を脳裏に浮かべた。
「アヴァターラ……」
ヒンドゥー教でいう正義の神ヴィシュヌが、世界を災いから救う為に、自らの属性を何らかの形で地上に降臨させるものである。
日本神話の神が、全てイスラエルの神ヤハウェに行き付くのは、
本地垂迹説に於ける、八百万の神=仏教の仏菩薩、
真言密教に於ける、全ての仏菩薩=大日如来、
ヒンドゥー教に於ける、ヴィシュヌ神のアヴァターラ、
これらと同じである。
「それ自体は、不思議な事ではないでしょう」
「と、言うと?」
「仮面ライダースーパー1は、仮面ライダー第一号がいなければ生まれていなかったという事よ」
「――」
この例えには、黙らざるを得ない。
惑星開発用改造人間S―1を造り出す技術だけならば兎も角、“仮面ライダー”という称号は、本郷猛が“仮面ライダー”の名前を得なければ、受け継がれなかった筈である。
極論すれば、全ての“仮面ライダー”は、仮面ライダー第一号・本郷猛のアヴァターラであると言う事が出来よう。
八百万の神とは言え、その多くは自然現象を神格化したものであり、自然現象とてこの地球が存在しなければ、そこに人間がいなければ知覚されなかったものであり、その地球を含めた全生命を創造したサムシング・グレートがいなければ、この世界は虚空のみであった。
そのサムシング・グレートを、根源神と呼ぶ事には、何の違和感もない。
「まぁ、こうした、日本人のルーツをイスラエルに求める論を、“日ユ同祖論”なんて言うわ」
「日ユ――日本と、ユダヤか」
「ヤ・ウマトとヤマト(大和/倭/日本)の他にも、ヘブライ語と日本語には、発音や意味の上で重なるものが多いの。それ以外にも、禊に水と塩を用いたり、成人の儀式を一三歳で行なったり、六芒星を家紋にしていたり、そういう共通点があるの」
禊とは、身体を清める事であり、“糺”ともいう。
木嶋神社に、三柱鳥居がある事は先に記しているが、この鳥居は“元糺の池”に建っている。かつて禊が行なわれていた場所である(現在は、下鴨神社に“糺の池”がある)。
この“糺の池”の形態が、イスラエルにある
又、下鴨神社で行なわれている“御手洗祭り”は、イエスが弟子たちの足を洗った事に由来するという説もあった。
六芒星については、京都の町を意味する紋章でもある。そして、イスラエルでは、ダビデの星である。
「アークも、この論の一つの根拠となっているわ」
「アークも?」
「御神輿よ」
マヤは、メモ用紙に、言い伝えられているアークの絵を描いてみせた。
箱の屋根にケルビムと呼ばれる天使が乗り、櫃の下には二本の棒が通されている。
その二本の棒の前後を、肩に担いで運ぶのである。
ケルビムとは、天使の九階級に於ける第二番目のクラスであり、四つの動物の顔と、翼を持つ奇怪な姿で現される。
このケルビムを、誰もが想像するであろう“天使”――翼の生えた人間の姿に置き換えて、その天使の象徴である翼だけを残し、翼を持つに相応しい生物であり、そして、聖なる箱の屋根に乗るのに礼を失しない姿に描き直してみる。
「鳳凰……」
黒井が呟いた。
「神輿の屋根には、鳳凰が乗っている。あれは、ユダヤで言えば天使という事か?」
「ぴんぽーん」
と、マヤは、自分で描いたアークの絵のケルビムの翼を、丸で囲んだ。
「それに、ケルビムの上には火焔そのものであるセラフィムが、下には、無数の眼と翼を持つ車輪型のスローンズという階級の天使たちがいるわ」
『エノク書』でいう、天使の九階級の内、上位の三階級である。
“火の車”のイメージと、充分に重なる所である。
「そして、“火の車”は龍の姿をしていると、伝承にはある」
現実で言う“龍”の名を関する生物は、恐竜だ。
鳥類は、その巨体に耐えられなくなった恐竜たちが、小型化を選択した結果であるという。
天使の翼は、猛禽類の翼である。
“空飛ぶ火の車”――これがアークであるかは兎も角、ユダヤの秘宝と、共通のイメージで造られたものである事は、納得出来る。
雨が降っている。
風が吹いていた。
雷が鳴っている。
光が落ちていた。
闇が凝っている。
一九五五年、秋田県玄叉山、赤心寺――
その堂内に於いて、黒沼鉄鬼と、樹海が向かい合っていた。
鉄鬼は、道衣を脱ぎ捨てて、上半身を晒している。
当時の日本人としては、かなり背が高く、筋肉も見事に発達していた。
その皮膚に、汗が浮かんでいた。
冷や汗、脂汗……
太い頸に、顔の横から、赤い蛇が這い落ちる。
鉄鬼の顔には、逆袈裟に包帯が巻かれており、右眼が隠れていた。
その右眼は、マヤの
眼球を視神経ごと引き摺り出されたその傷口が、激しい動きの為に開き、恰も血涙の如く吹き出しているのであった。
又、右腕にも、蚯蚓腫れのように走り抜ける傷があった。
その肉の裂け目から、マグマのように、鮮血が滴り落ちている。
眼の前には、樹海が立っている。
若い頃、世界に羽ばたいた柔道家である前田光世に敗れ、再び巡り合う時を信じて自らを鍛え、中国に渡り、様々な拳法を学び、最後の師・鉄玄禅師より赤心少林拳として独立する事を許された、大塚松士である。
全盛期は、とうに過ぎている。
少林拳と言われて誰もが思い描く、アクロバティックな動きは、もう、出来ない。
恰幅は、この歳にしては良い方だが、それでも修行時代よりは細くなっていた。
だと言うのに、二〇代後半――まさに脂の乗った最盛期である鉄鬼を相手にして、衣さえも全く乱していない。
袈裟も付けたままである。
当然、汗も掻かず、息も乱していない。
「ぬぅぁっ!」
鉄鬼が吠え、樹海に躍り掛かった。
左足で踏み込んでゆき、左の直突きを繰り出す。
巨体が風のように動き、モーションの少ないパンチは、樹海の頭を打ち砕いた。
と、見えた。
しかし、鉄鬼の拳は、樹海の耳の脇を通り抜けただけだ。
蓄えられた樹海の白い髭が、ふわりを浮かび、汗で湿った鉄鬼の腕に張り付く。
「ぬむっ」
身体を引き戻そうとする鉄鬼の腹に、樹海の掌が当てられた。
刹那、鉄鬼の巨体は、嘘のように後方に吹っ飛んでしまう。
樹海の掌に、強力なばねでも仕込まれているかのようであった。
堂内の床を、ごろごろと転がる鉄鬼。
すぐに立ち上がるも、片膝を着いてしまう。
発勁――
鉄鬼の肉体には、表面的にはどのような傷もないが、樹海による度重なる発勁が、鉄鬼の身体を蝕んでいた。
「鉄鬼……」
樹海が、小さく呼び掛けた。
「誰に唆された」
ゆったりとした動きで、近付いてゆく。
「――しっ」
鉄鬼は、樹海が間合いに入った所で、身体を低い位置から回転させ、足刀で蹴り付けた。
イルカの如く跳ね上がる鉄鬼の蹴りは、常人相手ならば充分に絶命し得る。
所が、その蹴りが樹海を貫くと見えた瞬間、鉄鬼の身体は、今度は天井に向かって跳ね上げられていた。
足を外に振り出して、身体がぐるぐると縦に回りながら、舞い上がる。
鉄鬼の全力の蹴りに、樹海がタイミングを合わせて、手で跳ね上げた。
鉄鬼のパワーに加えて、樹海が僅かに加えた力、そして両者の気が合一して、全てのエネルギーが鉄鬼に注がれ、彼の巨体を宙に浮かせたのだ。
赤心少林拳の極意、鉄玄の許で学んだ無念無想は、自らと大気の一体化にある。
それは即ち、敵対する者であっても、自らの一部とするという事に他ならない。
拳法という、自身の身体を思う通りに動かす術。
禅道という、自身の精神を意のままに動かす理。
即ち、拳禅一如の境地であった。
「鉄鬼よ……」
床にしたたかに打ち付けられ、それでも自身を睨み付ける背反の弟子に、樹海は問う。
「何故、主が、“空飛ぶ火の車”の事を知っておる」
「さてな……」
鉄鬼は、道場に唾して、立ち上がった。
唾には、血も混じっている。歯が折れ、口の中も切れていた。
「だがよ、誰だって欲しいもんじゃねぇか」
「何⁉」
「世界を支配し得る、超古代のパワー……」
「お主……」
「大量の黄金なんざ、眼じゃねぇ。俺がずっと欲しかったのは、それだ」
「それを得て、どうする⁉」
「分からぬか、じじい」
「何だと⁉」
「誇りの為よ。満足が為よ! 俺の心を満たす為よ!」
「――」
「樹海、あんたは、それで良いのか」
「む」
「分かるだろう、樹海。あんたの身体が、どれだけ弱っているのか」
「――」
「どれだけ身体を鍛えた所で、時の流れには勝てぬ……」
「――」
「無念無想? 悟りの境地? ……莫迦な、肉体は滅びるものだぜ」
「――」
「このまま、山の奥で、俺や、玄海に、たかだか一人の人生如きで学んだ拳法だけを残して、死んじまう気か……」
「――」
「くだらねぇ人生だなぁ」
「鉄鬼……」
「俺があんただったら、こんな所を死に場所に選ぶのは、ご免だぜ」
「……鉄鬼」
「ならば、その強大な力とやらで、この世界に君臨するのが良いさ……」
「……では、鉄鬼、お主に一つ、訊こう」
樹海が言った。
「主は、死して眠るなら、何処で眠りたい」