黒井響一郎は、チーター男に襲撃された夜の事と、昨日のカメラの暴発の事を思い返していた。
自宅のリビングで、くつろいでいる。
黒井は、この二つの事件に、明らかなつながりを感じていた。
先ず、チーター男の事だ。
一人でいる所を、いきなり襲われた。
チーター男は、黒井を何処かに連れて行こうとしたらしい。
その時は、バイクに乗った何者かの助けで、逃げ伸びる事が出来た。
次に、レース直後の、カメラの暴発。
あれの詳しい事情は、聞かされていなかった。
あのカメラマンが、カメラに仕込んだ小型爆弾で、黒井を狙ったという事は聞いていたが、それ以上の事は、誰も話してくれなかった。
黒井には、狙われる理由が分からなかった。
何故、俺が?
チーター男が、自分を連れ攫おうとするのも、カメラマンに爆殺されそうになるのも、だ。
カメラマン・一文字隼人の件に関しては、彼の事も分からない。
あの、強く、大きく、太い、何処か安心する笑みを浮かべる青年が、自分を殺そうとするという事が、どうしても想像出来ないのだ。
それに、一文字隼人は、カメラが爆発した時、かなり驚いていた。
これから、眼の前の相手を爆破してやろうという者の顔ではない。
まるで、何ものかに嵌められてしまったかのような……
何故、自分が狙われたのか。
自分を攫おうとした怪物は、何ものなのか。
怪人と、カメラの爆発に関係があるとして、それは何なのか。
誘拐が失敗したから、殺そうとしたという事だろうか。
だとすれば、何故――
考えても、分からない事ばかりであった。
黒井は、ソファから身体を起こした。
一人であった。
奈央は、買い物に出ている。
光弘は、幼稚園だ。
黒井本人は、今日は、ゆっくりと休むように言われた。
長い間、準備して来たレースである。
そこで優勝したは良いが、妙な事件に巻き込まれてしまった。
肉体・精神の両面を、しっかりと休める必要があった。
この日は、いつもよりも軽く、ランニングや柔軟などをやっただけであった。
それ以外は、こうして、ソファに寝そべっている。
一人でいると、色々と、考えてしまった。
それこそ、自分を狙った二つの事件の事だけではなく、次のレースや、車の調子、今日明日の食事、子供の事、妻の事、戦争の中の子供時代の事、自分にとっての勝利と敗北の哲学など――
と、チャイムが鳴ったのは、そんな瞬間であった。
いつもは、奈央が出るのだが、いないものは出ようがない。
居留守を使う程、子供ではない。
黒井は、覗き穴から、マンションの廊下にいる尋ね人の姿を確認すると、鍵を開けた。
「こんにちは、黒井響一郎さん」
と、その女は言った。
黒髪の、ぞっとするような美しさを持った、豊満な身体の女であった。
眼鏡を掛けており、黒いスーツを着ている。
会社勤めという感じだったが、ボタンがしっかりと閉められている為に寧ろ胸の大きさが強調され、スリット・スカートから覗くむっちりとした太腿から尻に掛けて持ち上がるラインが、男を堪らなくさせてしまう。
妻子持ちの黒井でも、思わず、どきりとなってしまう。
「――僕に、用かな?」
黒井は、平静を装って、訊いた。
片方の口角を、片方の肩を竦めると共に持ち上げる。
それが、黒井の癖であった。
「マヤ――」
「まや?」
「私の名前よ、黒井さん」
マヤが、一歩、部屋に踏み込んで来た。
黒井が後退る。
マヤの動きの、何と自然な事か。
「ねぇ、黒井さん」
マヤが言った。
発音はしっかりとしてるが、何となく舌っ足らずな声であった。
現在であれば、“アニメ声”と称されるような声だ。
「私、貴方の事、好きだわ」
「――」
「ねぇ、して欲しいの……」
「何?」
マヤが、玄関で、靴を脱いだ。
爪先が、猫のようなしなやかさで、廊下に落ちる。
黒井は、何故か、マヤが歩いて来るのに対して、後退していた。
「分からない?」
「――」
「プレイ・ボーイでしょ、貴方……」
ねっとりとした口調で、マヤが言っていた。
気付けば、黒井は、リビングのソファにまで追い詰められてしまっていた。
丁度、膝の裏側をソファに押される事になり、倒れてしまう。
その上に、マヤが覆い被さって来た。
「ヒーローなら、奥さんの他に、一人位、女を作っても良いんじゃない?」
マヤの掌が、黒井の股座に触れていた。
びくん、と、黒井のそこが反応してしまう。
「ねぇ……?」
マヤの黒い瞳に魅入られて、黒井は、女の肩を抱いた。
「終わりましたか」
と、男が言った。
髪の短い、体格の良い男だった。
鋭い眼付き。
ハリケーン・ジョーだ。
ピラザウルスの一件で、マヤに協力した、改造人間のトレーナーを務める幹部である。
改造人間という訳ではないが、優れた実力者である。
ハリケーン・ジョーは、スーツを着直したマヤに言った。
ソファには、服を肌蹴させた黒井が、ぐったりとしている。
「ええ。堪能したわ」
にこりと微笑んで、マヤ。
唇が艶を帯びている。
ハリケーン・ジョーが、持って来ていた大きなトランクに、黒井を詰め込んで、持ち上げる。
二人は、何事もなかったかのように、マンションを出た。
駐車場に、黒塗りの乗用車が止まっている。
運転席と、助手席に、それぞれ男が座っている。
助手席にいるのは、チーター男に変身した男であった。
「さ、行きましょ」
マヤが、後ろに乗り込む。
ハリケーン・ジョーは、トランクを積み、マヤの隣に腰掛けた。
運転手が、車を走らせる。
マンションから、遠く離れて行った。
その途中で、一台のバイクと擦れ違った。
マヤが、硝子越しに、その搭乗者に目線を送った。
と、その視線を、バイクの男も受け取ったらしい。
通り過ぎて少し行った所で、ターンした。
紺色のブレザーと、白いパンタロンの男であった。
その男は、走行中の車から投げられたマヤの視線を受け止めたばかりではなかった。
「ショッカー……」
ぼそり、と、呟いた。
ナンバーの脇に、小さくではあるが、翼を広げた鷲のマーク――ショッカーの紋章があるのに、気付いたのである。
男は、マヤたちの乗った車を追った。
車内では、マヤが、愉快そうな笑みを浮かべている。
「どうしました?」
ハリケーン・ジョーが訊いた。
「魚が釣れたわ」
「魚?」
「今の男よ」
「今の?」
「チーター男、後ろを見て御覧なさい――」
マヤに言われて、人間態のチーター男が、バック・ミラーに眼をやった。
と、小さく、追跡しているバイクの姿が見える。
「むぅ⁉」
チーター男は、その男の顔を見て、声を上げた。
「あれは、本郷猛⁉」
「本郷⁉」
ハリケーン・ジョーが、驚いて、言った。
マヤだけが、にぃ、と、唇を吊り上げている。
「チーター男、本郷猛を誘導なさい」
と、指示を出した。
ショッカーの車を追う本郷は、自分が誘導されている事に気付いている。
人気の少ない住宅街を抜け、辿り着いたのは、お化けマンションであった。
骨組みだけは造られたものの、以降の工事が注意されてしまったマンションだ。
最初から最後まで、人が住む事はなくなってしまったのだ。
ショッカーの車は、お化けマンションの前の空き地で停まった。
本郷も、バイクを停めて、ヘルメットを取りながら、降車した。
車から、ハリケーン・ジョーと、チーター男、最後にマヤが降りて来る。
「初めましてね、本郷猛さん」
マヤが言った。
「お前は――」
「ショッカーの大幹部・マヤ……」
「大幹部だと?」
「ええ」
「あのマンションに、一体、何の用があった」
「素敵な男性を、デートに誘ったのよ」
「何だと?」
「――チーター男、ハリケーン・ジョー」
マヤが、二人に言った。
「後は任せたわ」
そうして、車に乗ると、再び走り出させた。
「待てっ」
本郷が追おうとするものの、その前にハリケーン・ジョーが立ちはだかる。
「ぬぅわっ!」
と、剛腕を叩き付けて来た。
本郷は、頭を狙って来たパンチを、左手で弾いた。
ハリケーン・ジョーの左拳が唸り、本郷のボディを狙う。
本郷の右腕が、ハリケーン・ジョーのパンチを外側に払い、同時に、本郷自身の拳が、ハリケーン・ジョーの顔面を打ち抜いていた。
ぐらつきながらも、ハリケーン・ジョーは、不敵な笑みを浮かべて、本郷に殴られた部分を、掌で撫で上げた。
改造人間である自分のパンチを受けて、平然としているハリケーン・ジョーを不審がる本郷に、チーター男が背後から躍り掛かった。
両腕を取られる。
本郷は、肩を敵の胸元に打ち付け、横蹴りで、チーター男の腹を突き飛ばした。
後退するチーター男の顔に、ひびが走った。
人間の皮が剥がれ落ちて、チーターの顔が現れる。
「ぐにゃーっ!」
と、吼えると、チーター男は身体の部分の擬装皮膚を、自らの爪で切り裂いて、本郷に襲い掛かって来た。
パンチ――
本郷が身体を沈める。
フックの軌道を描いたチーター男の一撃は、本郷の頭の上を通り過ぎる。
縮れた本郷の髪の毛が、かなり、切り落とされてしまった。
爪を、何度も突き出して来るチーター男。
本郷はそれを捌きながらも、もう一人の敵を警戒している。
ハリケーン・ジョーが、蹴り付けて来た。
チーター男の向けて来るパンチを、前転で躱して、腕の下を通り抜ける。
と、チーター男の爪は、本郷を蹴り飛ばそうとしたハリケーン・ジョーの顔面を引っ掻いてしまう事になる。
「し、しまった!」
と、赤く染まった爪と、顔を押さえて蹲るハリケーン・ジョーを見比べていると、チーター男は、本郷の姿を見失っていた。
「ど、何処だ⁉」
辺りを見回す。
本郷が姿を現したのは、お化けマンションの上の方であった。
吹き上げる風に、髪が揺れている。
剃刀のように細められた眼が、チーター男を睨んでいた。
その服装が――
変わっていた。
紺色のブレザーも、白いパンタロンも、着ていない。
黒いライダー・スーツに、深い緑色のプロテクターや、レガートを纏っている。
赤いマフラーが、炎のようになびいていた。
露出したその顔に、改造手術の痕が、くっきりと浮かび上がって来た。
明王が、怒りに顔を歪めるように、無数の筋が、本郷の顔の中心に向って駆け上がる。
本郷の横に、彼のバイクが来ていた。
こちらも、姿を変えている。
クリーム色の、滑らかな装甲を纏った、六本のマフラーを持つマシンだ。
サイクロン号――
そのシートの下から、飛蝗を模した仮面が現れる。
頭蓋骨にも似た不気味なヘルメットを被り、牙を取り付けた。
楕円の複眼が、深紅の輝きを帯びた。
本郷猛の中で、彼に埋め込まれたメカニズムが起動したのである。
「とぉっ――」
本郷が、マンションから飛び降りた。
コンバーター・ラングが開き、本郷の肉体に、風を送り込む。
ベルトのバックルに設けられた風車・タイフーンが回転する。
その回転数が増している。
本郷の肉体に取り込まれたエネルギーの量を示している。
空中で回転しながら、本郷猛が着地した。
地面が陥没する。
半身になって、構えた。
ぎゅうぅぅん、
ぎゅうぅぅん、
と、タイフーンが唸りを上げていた。
風は、本郷猛の、エネルギーだ。
風は、本郷猛を、別のものに変える。
風は、本郷猛を、敵に許へ運んでいた。
否――
既に、本郷猛ではない。
ショッカーの手で、五体を切り刻まれ、骨を鋼と変えられた。
筋を、
脈を、
肉を、
毛皮を――
強靭なものに、造り変えられた。
その身体は、兵器と成り果てた。
人間の自由を奪い、世界を独裁支配しようとする組織の為に。
それでも、本郷猛の肉体には、魂だけが残された。
ショッカーという組織に逆らう男の肉体には、向かい風がぶち当たる。
その風を力に変えて、戦う嵐に、なる男。
「来い、ショッカーの改造人間――!」
本郷猛――仮面ライダー第一号は、声を張り上げた。