一九八一年――
男の名は、香坂健太郎と言った。
山彦村の村長である。
山彦村は、三、四〇年程前、自然とこの辺りに興って来た村だ。
村人は、合わせて二〇〇名といった所か。皆が皆、顔見知り以上の付き合いがあった。
生業としているのは、農耕と、狩猟である。
小さな村の中に、畑を作って、野菜を育てている。
山の中に入って、動物を狩り立てて、食卓に並べる。
村の中には、通貨がなかった。
金銭で何かをやり取りするという商売が、存在しない。
自分が持っていないものを、相手が持っている時は、言えば、くれる。
貰った側は、特に何かを代償として要求されずとも、後で何かを手渡す。
貨幣と呼べるものがあるのならば、それは品物である。
物々交換が、基本的な流通の手段として、成り立っていた。
彼らには、戸籍がない。
色々と、好き勝手に苗字を名乗っているが、それは国から許されたものではない。
仮に、香坂が、自分は今日から“佐藤”“田中”又は“高橋”である、と言うのならば、佐藤、田中、又は高橋健太郎という名前になる。それが許されている。
国の管理の外にあるので、税金も納めていないし、就労の義務もない。
その代わりに、何か問題が起こった時、政府が彼らを助けてくれるという事もない。
問題があれば、自分たちで解決する。
自力救済の観念が、彼らの内には備わっていた。
若し、村の中だけで賄えないもの――例えば、狩りに使う銃などが手に入らない場合は、幾つかのグループで、町に出る。
町に出て、踊りや唄を披露して、金を貰う。その貰った金で、必要なものを買う。
そのような生活をしていた。
彼らには独特の宗教があり、現代から見れば、邪教とも思える教義を、密かに伝えている。
狩猟の前などには、数人の男女が集まり、狩りを行なうリーダー格の男と、その妻が、性行為を行なう。
身体に、興奮作用を持つ薬を塗って、楽器を掻き鳴らし、そのリズムに合わせて踊り、代表者たちは彼らに囲まれながら、くながい合う。
自然の中で交尾をする事で、自然と一体化し、神の与えた生命を頂く事への、赦しを得る。
彼らの神は、この世界そのものであり、行為の最果てのエクスタシー、それに伴う意識の空白を、神との合一の瞬間と考える。
祀っているのは、龍だ。
羅龍――とぐろを巻いた龍である。
龍の像は、人が座れるように作られており、そこに、女が腰掛ける。
男の方は、身体に、羽毛を思わせるペイントを施して、女に覆い被さる。
その龍の像の周囲には、七つ、或いは五つの法具を飾る。
七つの場合は、龍のぐるりに等間隔で設置して、地面に線を引き、円を描く。
五つの場合は、円は作らずに、石の内側に五芒星を描く。五芒星の中心に、龍の石像が来る形である。
何故、そのような儀式が行なわれるのか――
この説明は後に回すとして、今は、物語を進めたい。
ドグマにより、夜襲を受けた山彦村の長である香坂健太郎は、本殿の隠し扉を通って、庫裡の方へ走った。
不穏な空気に気付いたのか、息子のシンタと、娘のチエが、布団から起き出して、重い瞼を擦っている所であった。
「どうしたの、父ちゃん」
歳の頃で言えば、どちらも、一〇つ程度である。
遅く出来た子供たちであった。
「シンタ、チエ、これを持って、村から逃げるんだ」
香坂は、戸棚から、厳重に封印された巾着袋を取り出して、子供たちに渡した。
「良いか、お前たちはここへゆき、そこにいる人に、それを渡すんだ」
香坂は袋と共に取り出した地図を開き、或る場所を指差した。
「子供の足では辛かろうが、すばしっこいお前たちの事だ、逃げ仰せられる」
シンタもチエも、今、何が起きているかは兎も角、このような事態にあって何をすべきかは、既に心得ているらしい。
力強く頷いて、庫裡の裏手から出てゆこうとする。
と――
庫裡の窓を壊して、室内に入り込んで来た者たちがあった。
「ぬ⁉」
忍び装束のようなものを纏った、五人であった。
「貴様らは⁉」
香坂が問うと、その内の一人が前に出た。
女であった。
「地獄谷五人衆、鷹爪火見子」
次いで、
「同じく、蛇塚蛭男」
「同じく、大虎竜太郎」
「同じく、熊嵐大五郎」
「同じく、象丸一心斎」
と、名乗りを上げた。
「地獄谷五人衆⁉」
驚いた表情を見せる香坂に、恐らくはその集団の頭領の役割を持つのであろう、鷹爪火見子が、
「この村に伝わるという、空飛ぶ火の車を頂きに参上した」
と、告げる。
「三〇〇〇年前の古代中国の兵器――」
「お前たちの一族が、その守護の任を任されている事は分かっているのだ」
蛇塚と、大虎が、香坂に詰め寄った。
「大人しく渡せば良し、さもなくば――」
熊嵐は咽喉を鳴らして笑い、香坂に、その先を言わせようとした。
「どうなるというのだ」
「この村は全滅する事となる。我らが支配下に入れば、貴様らをドグマ王国の住人として、我らが王テラーマクロに推薦してやろう」
象丸が言った。
「誰か貴様らなどに、渡すものか。あれは、永遠に封印されるべき兵器だ」
「ならば仕方がない。やってしまえ!」
火見子の命令の下、四人の男たちが香坂に襲い掛かった。
「ひゅーっ」
鋭く息を吐きながら、蛇塚が拳を走らせた。
ぐっと腰を落として、構える香坂。
しかし、蛇塚の突きは、急角度に折れ曲がり、香坂のガードを突き抜けて、胸の中心を狙って来た。
咄嗟に両腕を交差したから助かったものの、判断が僅かに遅れれば、胸骨を陥没させられていたであろう。
蛇塚が、乱打を繰り出す。
眼にも止まらぬ速度で打ち出される拳は、何れも奇妙な軌道を描く。
まるで、関節が手首・肘・肩だけには留まらないかのような、不規則な軌道であった。
恰も蛇の如く――
香坂はあっと言う間に全身を叩きのめされ、壁際に追い詰められてしまう。
「じゃっ!」
蛇塚が後退すると、代わりに象丸が出て来た。
象丸は、畳を踏み抜きながら、腕をぶぉんと振るった。
拳の小指側――空手で言う鉄槌を、踏み込みと共に横薙ぎに振るう。
ガードした香坂の両腕の、尺骨と橈骨が、ぐちゃりと拉げた。
「お、ぉぉ⁉」
前腕の内側の中頃から、肉を突き破って、白っぽいものが見えていた。
手の甲が、肘についてしまいそうである。
「お父ちゃぁん!」
チエが、甲高く悲鳴を上げる。
妹の手を引いて、シンタが、父を見捨てる痛みを堪えながら、家を出ようとした。
「女子供とても、逃がさぬぞ!」
大虎が、猫のような俊敏さで、狭い室内を駆け、兄弟の前に立ちはだかる。
それを追って、両腕が使えぬながらも、我が子たちを守ろうとする香坂。
「ちぃ」
大虎の左の掌底が、香坂の顎を狙う。
香坂が顔を反らして躱すと、ぐんと大虎の頭が沈み、香坂の膝を、真横から掌底で叩いていた。
脚の中で、鳥の手羽を千切るかのような音がして、香坂がバランスを崩す。
刹那、香坂の腋の下から、大虎の脚が回り込み、頸に絡み付いた。
「ひゅらっ」
大虎が、肘に付きそうになっていた香坂の手首を握りつつ、もう片方の足で跳ぶ。
香坂の身体に大虎の全体重が掛かり、床に叩き付けられると共に、くたりと折れ曲がった香坂の前腕が、ねじ切られてしまった。
「――っ」
悲鳴をどうにか押し殺すものの、香坂は、もう立てない。
眼の前に、自分の身体を離れた腕が、ぼとりと落とされる。
「俺の役割を取りやがって」
熊嵐が、不満そうに言いながら、香坂の、無事な方の足首を握った。
そうして、ぐっと腕に力を籠めると、骨を掌の中で潰してしまう。
「どうします、頭領」
熊嵐が訊く。
「あの餓鬼と娘、喰ってやりましょうか」
「あんなチビ共に何が出来る」
火見子は、冷徹に言った。
「ファイター共に追わせれば良い」
「は」
「それよりも、剣を探せ」
五人は、部屋の中を荒らし回り、奥の方にあった物置の、更に奥の壁に、五振りの剣が掛けられているのを発見した。
本殿に祀られていたのものと、見た目は同じである。
真打ちだ。
火見子は、その内の一振りを手に取り、鞘から抜いた。
窓から射し込む月光に照らしてみれば、直刀の刃には、めらめらと燃えるような刃紋が揺れている。
「ゆくぞ」
「は」
地獄谷五人衆らは、五振りの剣を携え、庫裡を後にした。
村が、赤々と、燃えている様子が見えた。
樹海の死後――
治郎は野に下り、赤心少林拳で日本人の心を伝えてゆく事を、考えていた。
黒沼は、記憶が戻ったのならば山を下り、そうでないのならば、治郎に付き合ってゆこうと考えていた。
しかし、ここに来て、分派という案が出て来た。
麓の村や町で、赤心少林拳を学びたいという人たちが、増えて来たからである。
治郎たちは、山籠もりばかりをしているのではなく、時には、村に下りて、山の中だけでは得る事の出来ない食糧を、調達しにゆく。
托鉢行でもある。
仏教の興ったインドでは、出家修行者は、農作業などを行なってはいけない。畑を作るという事は、子孫の為にする行ないであるから、出家者はSEXをしてはならないという不淫戒に、農作業の為に畑に住む害虫などを殺す事は、不殺生という戒律に違反するからである。
又、沙門(修行者。サンスクリット語のシュラマナの音写)が剃髪をするのは、生産活動が許されない層に位置する人間であると、明かしている為だ。
自分で食糧を生産する事が出来ないから、一般の人々から、施しを受ける。
インドに於けるカースト制度では、バラモン(宗教者)が最も上位にあり、敬われていたから、そのような事が可能であり、施しを受けた沙門らは、食べ物などの代わりに祈祷などをする。
この、修行者たちを敬う風習は、上座部仏教の伝わっているタイやスリランカなどに顕著であり、沙門らは厳しい戒律を守ると共に、それ以外の人々から多大な尊敬を受けている。
中国や日本では、農作業なども含めて修行の一環であるとしており、そこまで言われてはいないが、山林に籠るばかりでは現代社会に追い付けなくなってしまうという事で、托鉢をして、俗世の様子を見る目的がある。
そのような事をしている内に、自然と、治郎や黒沼の修している赤心少林拳の事が知られてゆき、又、戦後暫くして宗道臣が興した少林寺拳法(少林拳とは異なる)が広まって来た事もあり、弟子入りを願う人々が増えたのである。
更には、同じ師を持った治郎と黒沼が、その修行の中で見出して行った拳の種類が、全く逆のものである事が、分かって来た。
治郎は、柔拳。掌をメインに使い、流れるような動きを得意とする。
黒沼は、剛拳。拳や蹴りなどの直接的な打撃を、鋭く放ってゆく。
これらを統合するには、二人の性格は正反対であった。
柔和で、あらゆるものを受容してゆく治郎と、激情家で、自らの意志を押し通してゆく黒沼……一〇年間も、同じ場所で修行を続けられた事が、奇跡のようであった。
仮に、彼らが総帥として弟子に教えるとして、それは樹海から教わった赤心少林拳ではなく、花房治郎流、黒沼大三郎流の、赤心少林拳でしかない。
それらを同時に学ぼうとする事は、拳法家としては正しい事ではあろうが、そこまでの正しさを、今まで一般の社会で生活して来た者たちに強いる事は、難しい。
それならばいっその事、このまま流派を分けてしまおうという事になった。
人々の教化を願う、治郎の赤心少林拳。
失くした自分を求めた、黒沼の赤心少林拳。
樹海が、二人に立ち合いを命じたのは、二人の実力が拮抗しており、ベクトルの異なった二人の拳法に、勝劣が見られない事を確認する為であった。
結論は、樹海の思った通り、二人の拳は互角であった。
「では――」
と、立ち合いを終えた治郎と黒沼を前に、樹海が言った。
「治郎、お主はこれから“玄海”と名乗るが良い」
「玄海……」
治郎は、合掌して頭を下げた。
「大三郎、お主には、“鉄鬼”という名を授けよう」
「――鉄鬼」
黒沼も、同じく合掌して礼をする。
「これより、治郎は赤心少林拳“玄海流”の師範として、大三郎は赤心少林拳“鉄鬼流”の師範として、弟子たちに、流派を伝えてゆく事とせよ」
と、そういう事になったのである。