小屋の中で、治郎が組んで来た水を飲んだ。
美味かった。
乾燥していた咽喉が潤い、刺々しく粘る粘液が、ゆるやかに流れてゆく。
腹が、空っぽである事を訴えた。
治郎は、
「少し待っていて下さい」
と、そう言って、小屋から出てゆくと、食べられる野草を幾らか積んで来た。
それを食み、又、水を飲んだ。
「ありがとう」
治郎に礼を言った。
治郎はにこりと微笑んで、頷いた。
それから暫く、二人は沈黙を続ける。
口火を切ったのは、
「訊かないのか?」
治郎が、きょとんとした顔をしていると、
「俺の事さ」
「貴方の?」
「ああ」
「――記憶が、ないのでしょう?」
「そうらしい。……黒沼大三郎、という名前しか、憶えていない」
「――失礼とは思いましたが、お荷物を拝見させて頂きました」
治郎が視線を向ける。
そこには、鞄があった。
「けれど、身元が分かるものは入っていませんでした」
「――開けてみてくれ」
言われて、治郎が、鞄の中身を床に出した。
空っぽの竹筒。
干し肉。
干し飯。
塩。
小刀。
小さな薬箱。
その程度のものであった。
――足りない。
と、思うものの、何が足りないのか、分からなかった。
記憶のない自分が、このような所に放り出されている理由に、思い当たる事がない。
名前を思い出せたのが、奇跡のように感じられた。
いや、その名前が、自分のものであるとは限らない。
「この傷は?」
治郎に訊いた。
右肩と、頭の事だ。
「右肩は、どうやら、銃で撃たれたもののようです。傷口が焼けていました。頭は、恐らく鈍器で殴られたものでしょう」
治郎は言った。
肩の傷は兎も角、頭の事については、その凶器を発見してもいる。
だが、樹海に黄金の様子を見にゆくように言われた時、あの黄金についてはなるべく人に話さないようにと、念を押されていた。
樹海がやって来て、彼の事を相談するまで、治郎は黙っている積もりであった。
「銃か」
ぽつりと呟いた。
「何か、物騒な事に、巻き込まれてしまったようだな」
ふけだらけの、ごわごわに固まった髪の中に指を突っ込んで、ぼりぼりと掻いた。
頭の傷に触れて、
「痛てて」
と、小さく呻く。
そうしてふと、思い出したように言う。
「なぁ、あんた……治郎さんって言ったか」
「はい。花房治郎です」
「あんたがやっていた、あれは、何だ?」
「あれ?」
「武道の、型のようなものだ」
「あれは、套路です」
「とうろ?」
「中国拳法で言う、型ですよ」
「中国拳法?」
「ええ。赤心少林拳といいます」
少林拳という事について、少しはその存在を知っていた。
記憶と一口に言うが、記憶は、エピソード記憶と知識に分けられ、前者は自分が体験した事、後者は学習した事である。
例えば、仏教という事に関して言えば、開祖がガウタマ=シッダールタで、仏陀と呼ばれ、悟りを得る為の教えであるという事は、知識である。
その仏教に対して、素晴らしいと思っていた、逆に、まやかしだと思っていた、他の宗教と似ている・全く違うと思った、回峰行をしたり、坐禅を組んだり、一晩中経典を読誦し続けたりした事がある、というのは、エピソード記憶である。
少林拳の情報については、知識に当たる。
中国禅宗発祥の寺、少林寺で、達磨が創始したという武道だ。
本来は、僧侶たちの身体を鍛える為のものであったが、やがて僧侶たちは、拳法家として、様々な場所に駆り出されるようになったという。
臨済宗の僧侶、釈宗演が、それについて記している書を、ちらりと眼にした事がある。
しかし、赤心と名の付くものは、初めて耳にした。
「あんた、拳法家って奴なのか」
「始めたばかりです。元は、柔道をやっていました」
「柔道を? では、何故、中国拳法を?」
「役に立つと思ったからです」
「役に立つとは?」
「中国拳法から、日本の武道に足りない所を、補う事です」
「それで、どうするんだ?」
「日本人の誇りを、守ってゆきたいのです」
治郎は、樹海に対しても語ったような事を熱く論じた。
きらきらと輝く治郎の瞳は、ブラック・アウトした記憶の中にあるのと同じような、眩いばかりの金色を放っていた。
「あれは……」
と、言い掛けた時、小屋の扉が叩かれた。
「はい」
治郎が返事をすると、
「儂じゃ」
樹海の声がした。
治郎は樹海を招き入れ、樹海は治郎が敷いた座布団の上に、腰を下ろした。
「樹海という者じゃ」
「黒沼、大三郎――と、取り敢えずは、そう呼んで下さい」
その名前だけを憶えていたらしいが、自信なさげである。
「赤心少林拳の老師です」
と、黒沼――と、仮に呼んで置く事とする――に、
「記憶を失くされているそうです」
と、樹海に、それぞれ治郎が伝えた。
樹海は、むむと唸りながら、何事かを思案しているようである。
治郎は師が何らかの決断を下すまで、黙っている。
「その……先生」
黒沼が、樹海に対して言う。
「先生?」
「彼……治郎さんから、赤心少林拳というものについて、聞きました」
「――」
「で、その、套路というのですか。あれを、見ました」
頭の中で、言葉を整理し切れていないままに声にしているかのように、黒沼は、途切れ途切れになりながらも、思いを紡いだ。
「それで、とても……美しいな、と」
照れたように、歯切れ悪く、黒沼。
「そんな。勿体ないお言葉です」
治郎が言った。
「それで、先生、俺……あ、いや、私にも、ご教授願えませんか」
「赤心少林拳を?」
「はい」
黒沼が、胡坐を掻いていた足を正座に直し、両手を床に着いた。
「それは、構わぬが――」
樹海は、自分が、この山の中で一生を過ごす心算であると、治郎にも説明した事を、黒沼に言った。
治郎は、それを分かって尚、来ている。
「記憶がないのでしょう? ならば、山を下りて、身内の方を探した方が」
樹海がそう勧めると、黒沼は眉を寄せて、
「確かに、自分の事が分かりません」
「――」
「ですが、どうにも、私という人間は、余り良い人間ではなかったかもしれないのです」
黒沼は、治郎の表演を見ている時の事を思い出した。
治郎の表演を見、美しいと思うと同時に、黒沼の心の中に、黒々としたものが浮かび上がって来たのである。
それは、彼自身を責め立てる、声なき声であった。
治郎の演武は、太陽であった。
或るものが太陽に照らされると、その足元には影が出現する。
その影が、黒沼の事を、ちくちくと突いて来たのであった。
何かに追い立てられているような気分になり、唇を噛み締めた。
必至に動悸を抑え込んで、笑い始めた膝を固めて置くのが、精一杯であった。
自分は、何か大きな罪を犯した人間なのではないか――治郎の真っ直ぐな眼を見ていても、同じように思い、自然と眼を反らしてしまっていた。
「私には、それらと向き合う事が出来ません。ですので、ここで、あの拳法を……治郎さんが言ったように、私の、心を育てる為のものとして、きちんとした人間に成りたいのです」
と、いう事であった。
「老師――」
治郎が、樹海を見た。
「分かりました」
樹海は頷き、
「今から、ここにいる治郎と、幾らか話して来ます。それで、黒沼くん、君の処遇を決めましょう」
と言って、治郎と共に立ち上がり、小屋の外で話し合う。
弟子入りの事と言うよりは、主に、地下空間の黄金の事についてであった。
「彼は、その事を、憶えていたのかね」
「いいえ。教えた方がよろしいでしょうか」
「言わずとも良いじゃろう」
「分かりました。老師がそう仰られるなら」
そういう事になった。
二人は小屋の中に戻り、黒沼に、弟子入りを認める事について話した。
「記憶が戻ったら、又、話しましょう」
その時点で山を下りるか、それとも、樹海の弟子を続けるか、である。
こうして、黒沼大三郎は、樹海の下で赤心少林拳を学ぶ運びとなった。
しかし、樹海が黒沼に隠していた黄金と、それ以上の、樹海が守り続ける事を決意していた或るものが、未来、大量の血を流させる事について、誰もまだ知り得なかった。
次回から、漸く本編の時間に戻れそうです。