仮面ライダー Chronicle×World   作:曉天

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第十二節 弟子

小屋の中で、治郎が組んで来た水を飲んだ。

美味かった。

乾燥していた咽喉が潤い、刺々しく粘る粘液が、ゆるやかに流れてゆく。

腹が、空っぽである事を訴えた。

 

治郎は、

 

「少し待っていて下さい」

 

と、そう言って、小屋から出てゆくと、食べられる野草を幾らか積んで来た。

それを食み、又、水を飲んだ。

 

「ありがとう」

 

治郎に礼を言った。

治郎はにこりと微笑んで、頷いた。

 

それから暫く、二人は沈黙を続ける。

口火を切ったのは、

 

「訊かないのか?」

 

治郎が、きょとんとした顔をしていると、

 

「俺の事さ」

「貴方の?」

「ああ」

「――記憶が、ないのでしょう?」

「そうらしい。……黒沼大三郎、という名前しか、憶えていない」

「――失礼とは思いましたが、お荷物を拝見させて頂きました」

 

治郎が視線を向ける。

そこには、鞄があった。

 

「けれど、身元が分かるものは入っていませんでした」

「――開けてみてくれ」

 

言われて、治郎が、鞄の中身を床に出した。

 

空っぽの竹筒。

干し肉。

干し飯。

塩。

小刀。

小さな薬箱。

 

その程度のものであった。

 

――足りない。

 

と、思うものの、何が足りないのか、分からなかった。

 

記憶のない自分が、このような所に放り出されている理由に、思い当たる事がない。

 

名前を思い出せたのが、奇跡のように感じられた。

いや、その名前が、自分のものであるとは限らない。

 

「この傷は?」

 

治郎に訊いた。

右肩と、頭の事だ。

 

「右肩は、どうやら、銃で撃たれたもののようです。傷口が焼けていました。頭は、恐らく鈍器で殴られたものでしょう」

 

治郎は言った。

 

肩の傷は兎も角、頭の事については、その凶器を発見してもいる。

 

だが、樹海に黄金の様子を見にゆくように言われた時、あの黄金についてはなるべく人に話さないようにと、念を押されていた。

 

樹海がやって来て、彼の事を相談するまで、治郎は黙っている積もりであった。

 

「銃か」

 

ぽつりと呟いた。

 

「何か、物騒な事に、巻き込まれてしまったようだな」

 

ふけだらけの、ごわごわに固まった髪の中に指を突っ込んで、ぼりぼりと掻いた。

頭の傷に触れて、

 

「痛てて」

 

と、小さく呻く。

そうしてふと、思い出したように言う。

 

「なぁ、あんた……治郎さんって言ったか」

「はい。花房治郎です」

「あんたがやっていた、あれは、何だ?」

「あれ?」

「武道の、型のようなものだ」

「あれは、套路です」

「とうろ?」

「中国拳法で言う、型ですよ」

「中国拳法?」

「ええ。赤心少林拳といいます」

 

少林拳という事について、少しはその存在を知っていた。

 

記憶と一口に言うが、記憶は、エピソード記憶と知識に分けられ、前者は自分が体験した事、後者は学習した事である。

 

例えば、仏教という事に関して言えば、開祖がガウタマ=シッダールタで、仏陀と呼ばれ、悟りを得る為の教えであるという事は、知識である。

 

その仏教に対して、素晴らしいと思っていた、逆に、まやかしだと思っていた、他の宗教と似ている・全く違うと思った、回峰行をしたり、坐禅を組んだり、一晩中経典を読誦し続けたりした事がある、というのは、エピソード記憶である。

 

少林拳の情報については、知識に当たる。

 

中国禅宗発祥の寺、少林寺で、達磨が創始したという武道だ。

 

本来は、僧侶たちの身体を鍛える為のものであったが、やがて僧侶たちは、拳法家として、様々な場所に駆り出されるようになったという。

 

臨済宗の僧侶、釈宗演が、それについて記している書を、ちらりと眼にした事がある。

しかし、赤心と名の付くものは、初めて耳にした。

 

「あんた、拳法家って奴なのか」

「始めたばかりです。元は、柔道をやっていました」

「柔道を? では、何故、中国拳法を?」

「役に立つと思ったからです」

「役に立つとは?」

「中国拳法から、日本の武道に足りない所を、補う事です」

「それで、どうするんだ?」

「日本人の誇りを、守ってゆきたいのです」

 

治郎は、樹海に対しても語ったような事を熱く論じた。

 

きらきらと輝く治郎の瞳は、ブラック・アウトした記憶の中にあるのと同じような、眩いばかりの金色を放っていた。

 

「あれは……」

 

と、言い掛けた時、小屋の扉が叩かれた。

 

「はい」

 

治郎が返事をすると、

 

「儂じゃ」

 

樹海の声がした。

治郎は樹海を招き入れ、樹海は治郎が敷いた座布団の上に、腰を下ろした。

 

「樹海という者じゃ」

「黒沼、大三郎――と、取り敢えずは、そう呼んで下さい」

 

その名前だけを憶えていたらしいが、自信なさげである。

 

「赤心少林拳の老師です」

 

と、黒沼――と、仮に呼んで置く事とする――に、

 

「記憶を失くされているそうです」

 

と、樹海に、それぞれ治郎が伝えた。

 

樹海は、むむと唸りながら、何事かを思案しているようである。

治郎は師が何らかの決断を下すまで、黙っている。

 

「その……先生」

 

黒沼が、樹海に対して言う。

 

「先生?」

「彼……治郎さんから、赤心少林拳というものについて、聞きました」

「――」

「で、その、套路というのですか。あれを、見ました」

 

頭の中で、言葉を整理し切れていないままに声にしているかのように、黒沼は、途切れ途切れになりながらも、思いを紡いだ。

 

「それで、とても……美しいな、と」

 

照れたように、歯切れ悪く、黒沼。

 

「そんな。勿体ないお言葉です」

 

治郎が言った。

 

「それで、先生、俺……あ、いや、私にも、ご教授願えませんか」

「赤心少林拳を?」

「はい」

 

黒沼が、胡坐を掻いていた足を正座に直し、両手を床に着いた。

 

「それは、構わぬが――」

 

樹海は、自分が、この山の中で一生を過ごす心算であると、治郎にも説明した事を、黒沼に言った。

 

治郎は、それを分かって尚、来ている。

 

「記憶がないのでしょう? ならば、山を下りて、身内の方を探した方が」

 

樹海がそう勧めると、黒沼は眉を寄せて、

 

「確かに、自分の事が分かりません」

「――」

「ですが、どうにも、私という人間は、余り良い人間ではなかったかもしれないのです」

 

黒沼は、治郎の表演を見ている時の事を思い出した。

 

治郎の表演を見、美しいと思うと同時に、黒沼の心の中に、黒々としたものが浮かび上がって来たのである。

 

それは、彼自身を責め立てる、声なき声であった。

 

治郎の演武は、太陽であった。

或るものが太陽に照らされると、その足元には影が出現する。

 

その影が、黒沼の事を、ちくちくと突いて来たのであった。

 

何かに追い立てられているような気分になり、唇を噛み締めた。

必至に動悸を抑え込んで、笑い始めた膝を固めて置くのが、精一杯であった。

 

自分は、何か大きな罪を犯した人間なのではないか――治郎の真っ直ぐな眼を見ていても、同じように思い、自然と眼を反らしてしまっていた。

 

「私には、それらと向き合う事が出来ません。ですので、ここで、あの拳法を……治郎さんが言ったように、私の、心を育てる為のものとして、きちんとした人間に成りたいのです」

 

と、いう事であった。

 

「老師――」

 

治郎が、樹海を見た。

 

「分かりました」

 

樹海は頷き、

 

「今から、ここにいる治郎と、幾らか話して来ます。それで、黒沼くん、君の処遇を決めましょう」

 

と言って、治郎と共に立ち上がり、小屋の外で話し合う。

弟子入りの事と言うよりは、主に、地下空間の黄金の事についてであった。

 

「彼は、その事を、憶えていたのかね」

「いいえ。教えた方がよろしいでしょうか」

「言わずとも良いじゃろう」

「分かりました。老師がそう仰られるなら」

 

そういう事になった。

 

二人は小屋の中に戻り、黒沼に、弟子入りを認める事について話した。

 

「記憶が戻ったら、又、話しましょう」

 

その時点で山を下りるか、それとも、樹海の弟子を続けるか、である。

 

こうして、黒沼大三郎は、樹海の下で赤心少林拳を学ぶ運びとなった。

 

しかし、樹海が黒沼に隠していた黄金と、それ以上の、樹海が守り続ける事を決意していた或るものが、未来、大量の血を流させる事について、誰もまだ知り得なかった。




次回から、漸く本編の時間に戻れそうです。

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