治郎は、山頂から、中腹の辺りまで下り、上って来た道を逸れて、樹海に教えられた場所へと向かった。
そこは、山の中の開けた場所であり、七つの石に囲まれた、とぐろを巻く龍の石像が設置されていた。
龍の石像は、“火の一族”たちの儀式の場であり、又、石像の下には黄金が隠された洞窟が掘られているという。
樹海は、そこの様子を見て来るように、治郎に言った。
樹海の言う通り、治郎は、龍の石像を確認した。
だが、その龍の石像の位置がずらされており、地下への階段が見えていた。
しかも、階段から山を下りる道へと向かうように、ぽつぽつと血の雫が垂れていた。
何があったのか。
治郎は、不気味なものを感じながらも、樹海から確認するように言われた地下洞窟の黄金宮への階段に、足を踏み入れて行った。
明かりは必要ではなかった。
松明を持ってきてはいたが、治郎は、火を点けなかった。
東京から玄叉山までの道すがら、折にあっては赤心少林拳の技術を教えて貰っていた治郎であるが、彼は、まるでスポンジのように、赤心少林拳を吸収して行った。
赤心少林拳の特徴を上げるとすれば、それは、大気との一体化である。
自らの存在を空っぽにし、大気と融合する。
すると、自分自身の中に、自分が立っている世界が作り出され、その中に又、自分が立っている。その立っている自分の中に、更に世界が生み出されて、その世界の中に――と、自身の内側に、無限の世界と自分自身を見出す事が出来るようになる。
それは、仏教で言う蓮華蔵世界に近しいものである。
蓮華蔵世界とは、『華厳経』に説かれる、毘盧遮那仏の国土である。
それによれば、太陽の仏、光明遍照とも言われる毘盧遮那仏が座す蓮台に、一〇〇〇枚の花びらがあり、その一枚一枚に大釈迦がおり、教えを説いている。その第釈迦の座す蓮台にも、同じように一〇〇〇枚の花びらがあり、この花びらには、中釈迦が一人ずつ座して、説法している。中釈迦の一〇〇〇枚の花びらを持つ蓮台でも、小釈迦が座しているという。
釈迦の存在は、一つの世界の存在であり、世界が一〇〇〇存在する事で小千世界、小千世界が一〇〇〇存在する事で中千世界、中千世界が一〇〇〇存在する事で大千世界が形成され、毘盧遮那仏が蓮華蔵世界に内包する三千大千世界が創られている。
図で表される場合には、須弥山という古代インドの世界観の地球が七つ(『梵網経』)、又は一〇つ(『華厳経』)が、水中の蓮華の中に描かれ、三千大千世界に相当させている。
尚、七というインドでの聖数や、一〇、一〇〇〇、三〇〇〇という表記が用いられるが、これらは何れも無限を意味する数字であり、表しているのは一つの銀河系宇宙である。
そのようなものを、自らの内側に創り出すというのが、無念無想に近い。
この境地に完璧に至れたとするのならば、それは悟りに近しいものである。
流石にそこまではゆかないにしても、自らが存在する空間を、自分の肉体を含めて把握する能力は、格段に跳ね上がる筈である。
人間が周囲の情報を得るのに、最も割合を裂いている器官は眼であるが、無念無想を得て大気と一体化したのならば、機能を抑えている他の感覚器官を鋭敏とする事で、身体に周囲の状況をフィード・バックする事が出来るようになる。
治郎は、ほぼ無意識化で、そのような事をやってしまえた。
気付かぬままに、明かりを持たず暗闇を進む治郎は、無念無想に至る為の、純粋さという才能を持っていたという事であろう。
と、治郎以外の人間であっても、明かりが要らない程度の光量が、確保される場所に出た。
樹海の言っていた黄金の洞窟だ。
「――凄い……」
思わず、治郎は声を漏らしていた。
黄金で造られた様々な像は、多種多様な文化圏を感じさせた。
黄金色の洞窟を、見て回る治郎。
と、治郎は、黄金の傍で倒れている男を発見した。
「大丈夫ですか⁉」
治郎は、血溜まりの中で倒れているその男に駆け寄り、抱き起こした。
かなり、大柄である。西洋人もかくやという程であった。
肩から流れ出た血が、腕の表面で凝固している。
後頭部に大きな瘤が出来ていた。
近くには、血塗れの黄金の剣と、銃弾がめり込んだ人型の黄金像。
「ぅ……」
男が、小さく呻いた。
「無事ですか⁉」
治郎が訊いた。
「何故、こんな所に……」
そのように問う治郎。
だが、その大柄な男は、そのまま意識を沈めてしまった。
薄らと眼を開け、眼球をきょろきょろと動かした。
その眼に移るのは、四方を木の板で囲まれた、小さな部屋であった。
決して上等とは言えない布団の上に、身体が載っている。
敷布団も、掛け布団も、二枚分使っていた。
身体を起そうとすると、頭と右腕が、鈍く痛んだ。
頭を置いていたのは、濡らした布巾を重ねたものであるらしかった。
右肩の傷に
暫くそのままでぼぅっとしていたが、意識が覚醒し、五感が戻って来るに連れて、外から聞こえて来る、風とは違う音に気付いた。
布団から立ち上がると、どうやら小屋らしいそこの扉を開けて、外に出た。
すぅと、冷たい風が身体を撫でた。
その小屋の前に、一人の男がいた。
ゆるりとした動作を、留まる事なく続けている。
空に浮かぶ雲のように動いたかと思えば、草原の草のように揺れる。
砂塵のようにぱっと飛んだかと見ると、刃のように鋭く手足を走らせた。
それらは、金の光芒を纏っているかのように映った。
どうやら、武道の動きらしい。
上半身は、裸である。
膝の辺りまである下衣を吐き、帯を締めているだけだ。
その男が、ゆらり、ゆるりと動くたび、決して大柄ではないが、良く作り込まれた筋肉が、波のように盛り上がり、引いてゆく。
舞を踊るかのようであった。
どれだけ高額な舞妓を呼んでも、このような美しさを醸す事は出来まいと思われた。
それでいながら、その繰り出される拳、掌、肘、膝、足……どれを取っても、人を殺してしまえるような、おどろの気配を感じさせた。
それも含めて、美しいと感じていた。
何が、その武を美しく感じさせるのか。
その型を演じている男の心が、この上なく澄んでいるからだと思った。
その男は、足を出し、腰を捻り、肩を持ち上げ、拳を打ち出し、指を曲げ、膝を折り、掌で押し、踵で踏む――それらのあらゆる動作を、その動作のあるがままの意味を、実行している。
例えば、今のように、膝を持ち上げ、踵を踏み下ろすというこの動作に、男はそれ以上の意味を込めていない。
込めてはいないが、そこから流れるように振り出された腕の動きに、繋がってゆく。
意味があるとすれば、動作それ自体ではなく、動作と動作の連携だ。
これが武であるとすれば、動作の連続性に、向かい合った相手を攻撃するというものが込められている。
一つの動作を連続する事で、何か意味が生まれ、次なる動作への連携に、又、新しい意義が生じて来る。
二つの波が交差した時、その交差点での力が大きくなるように――
動作と動作の交錯が、二つの力を和合させ、更にそれが別の動作と絡み合ってゆく事で、パワー・アップしてゆく。
仮に、一つの動きのエネルギーを一〇として、そこに次の同等のエネルギーの動きが交錯すれば、それは二倍ではなく、二乗倍だ。
それが更に連鎖してゆくから、三乗倍、四乗倍、五乗倍……と、次から次へとエネルギーを増してゆく。
その男の表演は、無限に等しいエネルギーを孕んでいた。
動作の中で蓄えられた男のエネルギーが、男の身体から溢れ返り、その力が、太陽のように煌々と輝いて、人の第六感へと訴え掛けて来るのであった。
と――
「あ」
不意に、その光が消えた。
蝋燭の火が、消える直前にぽっと大きく煌めき、そして、闇が訪れるように。
男――花房治郎が、表演をやめたからだ。
しかし、それにしても、さっきまではぐんぐんと成長していた膨大なエネルギーが、瞬間移動でもしたかのように、全く感じられなくなってしまった。
風が、洞窟を駆け抜けてしまったかのようである。
道を塞いでいる大岩を、必死に退かそうとしたのに、向こう側からひょいと持ち上げられて、こっちが肩透かしを喰らってしまった感覚だ。
「お目覚めになられましたか」
治郎が、にこやかに笑った。
年齢の掴み難い男だった。
一〇代とも、二〇代とも、三〇代とも、これは流石に雰囲気だけの話ではあるが、七、八〇程の、老成した空気さえ、纏っているように見えた。
「あ、ああ……」
治郎が持っていたエネルギーの行方と、彼が持つ不思議な落ち着きに困惑しながらも、問いに頷いた。
「ここは?」
訊く。
小屋は、山の中に、ぽつんと建てられたものであった。
生活感はなく、少し腰を落ち着けたり、雨を凌ぐ為だけの場所のように見えた。
「玄叉山です」
「くろ、また……?」
眉を寄せた。
「秋田?」
「はい。秋田県の玄叉山です」
「俺は……」
ずきずきと痛む後頭部を押さえながら、治郎に訊いた。
「どうして、そんな所に……?」