「ここは?」
花房治郎が訊いた。
近くの宿で一晩を過ごし、翌朝早くから、玄叉山に上ったのである。
樹海と共に、黙々と、道なき道を上る事、数時間。
次第に、人や獣が通ったらしき跡を確認出来るようになり、やがて、その場所へと辿り着いた。
山頂――
小さな、寺社の本殿の類であろうものが、木々に囲まれて、ぽつんと鎮座していた。
治郎の質問に、樹海が答えるより先に、本殿の正面の扉が、静かに開き、内側から、のっそりと、一人の男が顔を出した。
「何者か」
東北――と、言うよりは、アイヌの言葉に近い訛り方であった。
それも正確ではない。
アイヌ語と、東北の訛りがミックスされた独特の言語を、無理矢理標準語に直しているように聞こえた。
だから、ここに記すのは、治郎が聞き取る事が出来た内容であり、実際に交わされた会話ではない。
「樹海と申す者です」
樹海は続けて、
「大陸の、鉄玄赤脚より、“ひつぎ”の守護を賜り申した」
と、言いながら、荷物の中から、小振りな巾着袋を取り出し、その中身を見せた。
それは、五つの宝玉であった。
赤
蒼
白
黒
黄
と、それぞれの輝きを放つ、星のような丸い石である。
「おぅ……」
本殿から出て来た男は、つぅと涙を流し、両手を胸の前で組み、その場に跪いた。
そうして、開いた両手と額をも、地面に押し付けた。
五体投地――
仏教に於ける最上級の礼である。
両肘と両膝、そして額の五点を地に着け、自分の全てを投げ出す事から、そのように呼ばれる。
五体投地をする直前、彼がしてみせた合掌は、キリスト教のものに近い。
仏教で言えば、外縛拳という形があるが、五体投地という礼拝をしたという事から考えるに、意味合いとしては、やはり“帰依”を意味する合掌なのであろう。
建物から出て来た男は、存分に礼拝を終えると、すっくと立ち上がり、樹海の手から、恭しく宝玉を受け取った。
「では、我らは、この地を去る事に致します」
「後の事は、私にお任せ下さい」
「我ら“火の一族”の秘宝を、よろしくお願い申し上げます」
「畏まりました」
男は、建物の中に戻った。
樹海は、近くの石に腰を下ろすと、一つ息を吐いた。
「治郎よ」
「はい」
「儂は、これから先、死ぬるまで、この地を離れる事は出来ぬ」
「――」
「だからの、治郎。若しかしたら、お主は、お主が求めるものを成し遂げられぬかもしれぬ」
「――」
治郎が樹海に付いて来たのは、赤心少林拳を学ぶ為である。
赤心少林拳を学ぶ理由は、武道を日本の文化として残す為、少林拳から優れたものを取り入れようという事である。
治郎が、赤心少林拳を学ぶのであれば、それは、世間に対して公表してゆくものでなければならなかった。
樹海が、ここで一生を終える決意をしているのならば、それは、治郎の考えの真逆に位置するものである。
「では、老師が亡くなってから、私は、私の夢を追う事と致します」
治郎が言った。
「ほ――」
「人はいつか死んでしまいます。ですが、夢は、どれだけ歳を取ってからでも追う事が出来ます。ましてや、私は、拳法を学んで誰よりも強くなろうというのではありません。私は、今まで受け継いで来た日本人の心を、後の世代に伝えてゆきたいのです。その為には、例え老いさらばえようと、何ら問題はありません」
とん、と、治郎は、自分の胸を叩いた。
「我が生命が尽きる前に、我が心を誰かに伝えられるのならば、この身体が動かなくなろうと、構う事はないのです」
そういう治郎を見て、樹海が眼を細めた。
と――
玄叉山の山頂に立つ本殿の周囲には、適度に木々が生えている。
その隙間から、標高二八〇メートルの、蒼い空が覗いていた。
ふと、その木々の間に立っていた治郎の姿が透けて、その奥の、何処までも続いてゆく空が、樹海の視界に飛び込んで来た。
緑の平野までも、ぐんぐんと迫って来るようであった。
樹海の中で、赤い血がぐつぐつと燃えたぎった。
黄金の太陽の光が、スポット・ライトのように、樹海を照らしている。
ふと樹海が我に返ると、そこには、治郎が、月光のように澄んだ、銀色の光を湛えた眼で、樹海を見つめている所であった。
純粋にして自然体の、花房治郎という青年は、既に、無念無想の境地へと達しているのかもしれなかった。
「――遅いですね」
自分が樹海を見つめ、樹海も自分を見つめている事に気付いた治郎は、何となく照れ臭くなって、本殿の方に眼を向けた。
ここから去る――そう言っていた男が、いつまでも、出て来ない。
それに、“我ら”と言っていたから、彼の他にも何名かいるのであろうが、その様子もなかった。
「既に、裏から出て行ってしまったのであろうさ」
樹海が言った。
「所で、老師が渡したあの宝玉や、“火の一族”の秘宝とは、何の事なのです?」
「その内、話して差し上げよう」
樹海は石から立ち上がり、本殿に向かって近付いてゆく。
「これからの事も、しっかりと話し合って置かねばな」
「はい」
治郎が頷いた。
「さて――と」
黒沼陽子は、拳銃を仕舞うと、腕を組んで、眼の前に広がる黄金の洞窟を眺めた。
その足元には、腹を撃ち抜かれた氷室五郎の巨躯が、転がっている。
陽子は、氷室を騙して、父親の黒沼大三郎を襲わせ、その父を救う形で、氷室を射殺した。
元から、大三郎たちは、氷室を殺す心算であった。
これだけの黄金を、大三郎たちだけで独占する為である。
「これから、どうするか、ね」
「取り敢えずは、幾らか持ち出して潰して、運搬する為の銭を作らねばなるまい」
言ってから、大三郎は、むむ、と、唸った。
手には、鳥人と思しき金の像がある。
人のプロポーションながらも、頭部は鳥、背には孔雀のような羽、そして脚は逆関節の、鋭く大きな爪を持ったものだ。
「勿体ないわ、そんなの……」
陽子が呟いた。
黄金を眺めるその眼は、欲情したように蕩けている。
仰向けに倒れた氷室の横を通り、黄金の林を、眺める。
「ここにある黄金は、全て、私たちのものなのよ。それなのに、その黄金を私たちのものにする為に、誰かにくれてやらなければならないなんて……」
親指の爪を噛む陽子。
その娘の背中を、大三郎が、呆れたように眺めていた。
黒沼陽子は、単なるお転婆娘ではない。
お転婆な上に、凶暴で、欲の皮の突っ張った女である。
昔からそうであった。
氷室には、自分がじゃじゃ馬になったのは、父の厳しい教育の所為だと言っていたが、それは、嘘である。
実際には、大三郎は娘を散々甘やかし、かなり我が儘に育ってしまった。
自分を華美に飾り立て、自分のみを愛ずる。
金品にはがめつく、どうしても欲しいとなれば人から奪う事も厭わない。
若さ故の奔放さというのではなく、老獪な生き汚さを、二〇歳を過ぎる前に持ってしまったのである。
しかし、単に甘やかされ続けたというだけで、こうなる事も珍しい。
元よりその性質が備わっていたとしか思えない程の、屈折っぷりであった。
それについて、大三郎は、娘は自分に似たのであると思っている。
大三郎も、子供の頃から、暴れん坊で、自分勝手な方であった。
人を傷付ける事に、特別に罪悪感を抱く事がないのである。
「しかしな、陽子、何をするにも、銭が掛かる――」
と、大三郎が言い掛けた時であった。
振り向いた陽子が、くわっと眼を見開いていた。
「父さん!」
陽子が鋭く叫んだ。
刹那、大三郎の後頭部を、風が叩いた。
その風に気付くのが、一瞬でも遅れたならば、恐らく氷室の頭蓋骨は陥没していたであろう。
横に飛びずさった氷室は、右の耳を、背後から繰り出されたパンチで、削ぎ飛ばされていた。
「ぐぉ」
と、地面に転がる大三郎。
拳を放ったのは、氷室であった。
「な、何故……」
陽子が、右手の指に、肩からの出血を伝わらせる氷室を見て、おののく。
鬼気迫る表情をしていた。
大三郎の右耳を削ぎ飛ばした左の拳を持ち上げ、国民服の前を開く。
陽子に撃たれ、生地に穴の開いた部分だ。
懐から出て来たのは、蔵の木箱から取り出して以来、持っていた金の仏像である。
その中心に、鉛玉がめり込んでいた。
お蔭で、貫通を免れたのであった。
氷室は、耳を千切られた痛みに悶えている大三郎の身体を蹴り飛ばすと、近くの地面に転がっていた、黄金で造られた一振りの剣を、拾い上げた。
刃が潰れているので、最初からその目的で造られたものではない。
だが、氷室の巨躯から繰り出される膂力を持ってすれば――
「ひぃ」
陽子は、その場に尻餅を付き、迫って来る大男を見上げながら、後退った。
「や、やめて、氷室さん……」
陽子が、震える声で言った。
氷室は答える事なく、左手で握り、右手を柄に添えた剣を、振り被った。
ぎらりと、黄金の輝きを放つ刃。
「ぬ――」
氷室が呼気を吐くと共に、黄金が唸った。
切断能力のない刃は、陽子の白い頸の半分まで、一息に潜り込んだ。
「ぐぎぇえええっ!」
陽子の口から、血液と共に、女とは思えない絶叫が迸った。
氷室は、そのまま陽子に体重を掛け、押し倒しながら、柄を捻った。
陽子の咽喉の中を、黄金剣がこじり、頭骨と脛骨の隙間に、刃を喰い込ませた。
陽子の身体が倒れ、突き抜けた剣の切っ先が地面に付くと、角度を更に変えられ、剣が陽子の肩と平行になる。
氷室が陽子に馬乗りになる形で彼女を倒した時には、氷室の全体重が剣に、ひいては陽子の頸骨に掛けられ、頭部と頸部を分断していた。
ごろりと、陽子の頭部が地面に落ちる。
限界まで見開かれた瞼から、ぐりりと蛙のように飛び出した眼球。
鼻孔は開き、喰い縛った歯の間から漏れたのと同じよう、血を噴いていた。
長い髪が放射状に散らばり、顔を中心とした、赤と黒の花となっていた。
「氷室ォ……」
大三郎が、立ち上がりつつ、地面から器の形をした黄金を持ち上げた。
それを、氷室の背後から、後頭部に振り下ろした。
金の展性故にか、氷室の頭蓋を破壊するというような事は出来なかった。
「ぬがぁっ!」
それでも、脳をたっぷりと揺さぶられてしまった氷室は、倒れる以外にはなくなっている。
最後の抵抗とばかりに、振り向きざまに、剣を振り上げる氷室。
黄金の放物線が駆け上がり、大三郎のもう一方の耳まで、落としてしまった。
大三郎は、頭を抱えて、その場から逃げ出した。
氷室は追おうとするが、立ち上がれない。
その場で、ばったりと、倒れ込んでしまった。
黄金郷に、狂気を運命付けられた男と、狂気を遺伝された少女の身体のみが、転がっていた。
いや――
すぅと、黄金のトーテムの陰から、姿を現した者があった。
カーキ色の軍服の胸元を、ぱんぱんに膨らませている、女であった。
生地は同じものだが、どうにも似つかわしくない、ミニ・スカートと、太腿の中頃まである靴下との間の素肌を、露出している。
垂らした黒い長髪の上に、
日本人よりも僅かに皮膚の色が濃い。
通った鼻梁、ぼってりとした唇が、ぞっとする程の美貌を創り上げている。
前後に膨らんだ胸と尻に挟まれた胴体は、程良い肉付きながら、括れを殺していない。
マヤ――
時期的には、ドイツから来日したイワン=タワノビッチ――後の死神博士が、バカラシン=イイノデビッチ=ゾル大佐の依頼で、松本克己によって、富士山麓の浜名湖下にある、日本軍の基地へ案内されたのと、前後する位である。
その為、この時のマヤは、まだ、ショッカーの大幹部という訳ではなかった。
ショッカーすら、まだ誕生していなかった。
しかし、このマヤは、強化改造人間第一号・本郷猛の脱走の数日前、まだ強化改造人間第零号であった松本克己に対して、強化改造人間計画によって誕生する戦士の名を
仮面ライダー
と、呼んだ、あの頃の妖艶な姿であった。
仮に、一九七一年四月時点での彼女の年齢を、容姿から二、三〇代と推測するならば、終戦直後のこの頃、まだ少女であらなければならない。
そのマヤは、どうやら、黒沼親子と氷室との一件を見ていたものらしく、濡れた瞳を細めて、楽しげに微笑んでいた。
「面白い事になってるわね」
鼻に掛かった甘い声――五〇年もすれば、アニメ声などと称されるであろう声で呟いて、マヤは、横たわった氷室の鞄から、二冊で一冊の『景郷玄帖』を取り出すと、懐に仕舞い込んだ。
そうして、転がった陽子の頭部を抱え上げながら、氷室を一瞥し、
「それじゃあ、また、その内に、ね」
と、唇の端を持ち上げる。
陽子の生首を左手で持ち、マヤは、右手に握った鞭を、ひゅぉん、と、鳴らした。
すると、頭部を失くした陽子の身体が、強力な酸でも掛けられたかのように、皮膚を、筋肉を、臓器を、そして骨までも、どろどろに溶かされ、跡形もなくなってしまった。
マヤは、陽子の生首と共に、トーテムの奥に掻き消え、そのまま現れる事はなかった。