太陽が、頂点に達している。
その白い光を、木の葉が遮り、防ぎ切れなかった光が、地面の影を貫いている。
風が鳴き、時折、枝から木の葉が千切れ落ちて行った。
氷室、大三郎、陽子の三人は、昨日、あの儀式が行なわれていた場所に立っていた。
今は、この三人以外には、誰もいない。
龍の石像と、それを囲む七つの石が並べられているだけである。
とぐろを巻いた龍を、大三郎がじっくりと観察した。
その傍で、氷室が、『景郷玄帖』を開いている。
「表記と差異はないな」
「うむ」
氷室が言い、大三郎が頷いた。
書には、
“地の龍が頭を上げ、七つの法輪が輝く”
と、ある。
“地の龍”というのは、この石像である。
大地を螺旋状に見る思想から、とぐろを巻く龍を、大地とみなしているのである。
又、七つの法輪というのは、ヨーガでいうチャクラに当たる。
人体の背骨に沿って存在する、七つのエネルギー・ポイントであり、下から
ムーラダーラ(会陰)
スワーディシュターナ(陰部)
マニプーラ(臍下丹田)
アナーハタ(心臓)
ヴィシュッダ(咽喉)
アージュナー(眉間)
サハスラーラ(頭頂)
である。
チャクラとは、サンスクリット語で“車輪”の意であり、このチャクラに沿ってクンダリニーというエネルギーを上らせ、チャクラを回転させてゆく事で、心身共に能力を強化する事が出来るという。
七つの石には、それぞれ、蓮華の絵が刻み込まれていた。
とぐろを巻く龍に、若しチャクラが存在するのであれば、螺旋を描く龍の身体のチャクラの位置は、このように円形になる筈である。
狩猟民族であるというこの山に棲む者たちは、この羅龍と、その法輪の中に於いて、神々と一体化する儀式を行なうという。
それが、氷室たちの見た光景である。
そして、この羅龍の像の下に、黄金の隠された場所への道があるとの表記が、あった。
氷室が、龍の石像と地面との間の僅かな空間に太い指を差し込み、ぐっと持ち上げた。
ずりずりと、横に引っ張ってゆくと、地下へと続く孔が開いている。
石の階段が作られていた。
「ゆくか」
「うむ」
懐中電灯を持った氷室を先頭に、陽子、大三郎の順で、地下へと降りてゆく。
通路は、入り口の方こそ、大柄な氷室では通るのに苦労する程であったが、下ってゆくに連れて、広くスペースが確保されているようになっていた。
そうなって来ると、もう、外の明かりは入って来ない。
三人は、黙々と、地下へ進んだ。
進みながら、氷室は、昨晩の陽子との会話を思い出していた。
大三郎が、氷室を殺そうという企みの事である。
その大三郎を逆に殺して、黄金を、陽子と氷室の二人だけで独占するという計画の事であった。
陽子が言うには、只単に私腹を肥やしたいだけの父に嫌気が差し、それならば、黄金自体には大した興味がない氷室と共に、黄金を、実質的に占有したいという事であった。
それ自体は、構わぬ事である。
構わぬ事であるが、陽子を信じても良いものか、と、思う。
父を殺す――そのような事を、本当に、この陽子が考えているのか。
今まで抑え付けられて育って来たから、その反動でじゃじゃ馬娘になったと言うが、その反動というのは、殺意にまで昇華するものなのであろうか。
氷室も、かっとなり易い性質であるから、人に対して殺意を抱く事は少なくない。
やくざの親分であった父に対しても、それは例外ではない。
だが、年頃の娘が――とも、思う。
若しかしたら、それは、自分を騙す為の嘘かもしれない。
陽子は、大三郎が氷室を殺そうとしている事を、知っている。
それは何故かと言えば、陽子も亦、氷室を殺そうとしていたからだ。
この事を明かす事で、逆に、氷室の信頼を勝ち取り、その信頼を利用して、氷室を陥れる心算ではないのか。
又は、大三郎は本当はそんな事など考えておらず、陽子が一方的に父を悪役に仕立て上げようとしているだけなのではないか。
考えようは幾らでもある。
幾らでもあるが、どれが真実であるかは、その時になるまで分かる筈もなかった。
となれば、結局、その真実が実行される瞬間まで、判断を見送らざるを得ない。
見送ったとしても、氷室の腕ならば、男と少女を撃退する事など、難しくはない。
蔵の地下の時だって、大三郎が拳銃を持っていなければ、簡単に切り抜けられた。
そうしている内に、階段が終わった。
眼の前に、大きな土の孔が、口を開いている。
ここからは、真っ直ぐな道である。
道を進んでゆくと、懐中電灯の明かりなしでは進めない程の暗さが、暗順応ではなく、薄れて来た。
ここから先は、明かりがなくても進める程である。
やがて、金色に縁どられた洞窟の入り口が、見えて来た。
氷室がそこを潜ると、手にした懐中電灯の光が、周囲のものに向かっては跳ね返って来て、眼を晦ませる。
黄金――
そこは、三方を一〇メートル程の壁で囲われた空間であった。
そこに、黄金が敷き詰められていた。
形状は様々である。
仏像のようなものや、武器、器などの形をしている。
獣の顔が刻まれた柱。
刀や槍、矛を構えた多臂の武人。
チャリオット。
棺。
そのような形をした黄金が、曼陀羅の如く、広がっていたのである。
「おぉ!」
大三郎が声を上げた。
その声が、黄金から跳ね返って来るようであった。
洞窟の中に、大三郎の声が反響している。
「凄いわ!」
陽子も、興奮を隠し切れないようであった。
大三郎が、地面に寝かされていた、手頃な大きさの像を手に取った。
「素晴らしい……」
大三郎は、高笑いを上げながら、子供のように、黄金の立体曼陀羅の中を駆け回った。
その大三郎を冷ややかに見つめる氷室。
氷室に、頬を黄金の照り返しで染めた陽子が擦り寄った。
「分かっているわね」
と、囁く。
氷室は、まだ、陽子を信用した訳ではない。
しかし、これから氷室が大三郎に問う事への返答如何では、陽子を信用する事になる。
「黒沼さん」
氷室は、黄金獣のトーテムを見上げる氷室に、言った。
殺すとすれば、先ずは懐中電灯で頭を強打し、怯んだ所に組み付き、迷いなく頸を折る。
それが出来る距離にまで、近付いた。
「おお、見給え、氷室くん」
興奮を抑え切れないと言った様子で、大三郎が言う。
「これは、単に黄金というだけの価値ではないぞ。歴史的にも、素晴らしいものがある」
「そのようだな」
「これを」
手にした金塊を、氷室に見せた。
それは、何らかのレリーフのようにも見えた。
身体をくねらせる蛇。
その開いた顎の先に、林檎らしきものが浮かんでいる。
「智慧の実だよ」
「『旧約聖書』か」
ユダヤ教の聖典にある、『創世記』の事である。
全知全能なる創造神は、七日で世界を創り上げた後、人間の創造に取り掛かった。
土から生まれたもの、アダム。
そのアダムから生まれた、イヴ。
最初の男性原理と、最初の女性原理である。
神は、アダムとイヴに、エデンの園で暮らすよう命じた。
但し、エデンの園の樹に生る、黄金の果実だけは食べてはならない。
そう警告されていたイヴであったが、蛇が彼女を唆し、黄金の林檎を食べさせてしまう。
アダムにも同じく、である。
智慧の実を得た事により、自分たちが裸である事に気付き、恥じらいを覚えた二人を、無垢なものを好む神はエデンから追放した。
神の警告を破った罰として、アダム、つまり男性は労働を、イヴ、つまり女性は出産の際の痛みを、与えられる事となった。
そして、イヴに林檎を与えた蛇は、神により、四肢を切り落とされる事となった。蛇の身体に前後の肢がないのは、その為であるとしている。
その蛇と智慧の実だ。
この事から考えるに、少なくともこの蛇の金塊については、ユダヤ教、ないしはキリスト教の文化圏で形成された事になる。
「氷室くん、これを」
更に大三郎が見せたのは、仮面である。
黄金の仮面は、二つの頭を持った蛇である。
同じ蛇をモチーフとしたものであっても、これは、ユダヤ・キリスト教文化圏のものではない。
マヤとか、アステカ文明のものだ。
蛇は大地を意味すると共に、天空への梯子である。
双頭の蛇は、天空と大地を繋ぐ、即ち神と人間とを繋ぐ神官王を意味する。
ユダヤ・キリスト教では原罪の要因である邪悪な蛇は、しかし、マヤ・アステカ文明でいうのならば、王を象徴する聖なる生き物である。
他にも、獣の形をした金の像は、幾つもある。
獅子。
鷲。
水牛。
それらが融合した、奇怪な生物のものもある。
ライオンの顔と胴体に、ハヤブサやイルカ、牛、カメレオンの頭が、各所に突き出している。
人の形をしてはいるが、犀の仮面に、ゴリラのような巨大な腕、象のような脚をしたもの。
そして、龍。
龍は、恐らく世界で知られる、最も有名な合成獣であろう。
その龍にしても、洋の東西を分ける形状で、共に造られている。
西洋の龍は、蜥蜴の身体に、蝙蝠の翼が生えたものだ。これは、『創世記』の蛇の逸話からも分かるように、悪の象徴である。
対して、東洋の龍は、四神(四方を守る聖獣。東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)に見るように、聖獣である。蛇の胴体に、鹿の角、虎の脚、鯉の髭、といった姿のものが、確認出来た。
それら黄金曼陀羅の中心となっているものは、特に巨大であった。
それは、樹だ。
黄金で造られた、大樹の像。
根と根が絡み合い、天へと伸びてゆく様子が、金色に輝いている。
世界樹――
「素晴らしい発見だぞ、これは」
「――その素晴らしい発見を」
氷室が、些か覚めた様子で、問う。
「黒沼さん、あんたは、どうする気だ?」
「どうする、とは?」
「これだけの黄金を得て、あんたは、何をするのかって事さ」
「――前にも言ったと思うが」
大三郎は、少し冷静さを取り戻したようであった。
「これから、日本は、アメリカから支配されてゆく事になるだろう。文化は奪われ、生活が変わる。それを、この黄金で、どうにかしたいのさ。これだけの財力があれば、大国とて、そう好き勝手は出来ない筈だ」
「それは、あんたの、真意なのか?」
「――それは、どういう事かな」
「あんたの本心が聞きたいと言ったのさ。あんたがこの黄金を欲する、本当の理由」
「――」
大三郎は、一つ溜め息を吐いた。
「氷室くん、君が、一体どうしてそんな事を言い始めたのかは分からないが……」
大三郎が、氷室に対して、半身になった。
氷室の眉が、ぴくりと動く。
「私の真意が、そこにないとしても、逆に、あるとしても」
「――」
「君は、もう、要らないな……」
「――しぇっ!」
大三郎の言葉が終わる直前に、氷室は、手にした懐中電灯で、殴り掛かって行った。
大三郎は、恐らく反応し切れまい。
回避したにしても、それを追って打撃を叩き込む事は、出来る。
だが――
ぱぁん、
と、乾いた音が黄金に響き、氷室の手から、懐中電灯が吹っ飛んで行った。
「な――」
氷室の顔の右側を、赤い色が、尾を引いて飛んでゆく。
熱。
痛み。
硝煙の匂い。
右肩を、銃撃されていたのである。
振り返ってみれば、陽子が拳銃を構えており、その銃口からは白い煙が上がっていた。
陽子は、氷室の胸に、もう一発、銃弾を撃ち込んだ。
氷室はその場で大の字に倒れた。
「……ひやっとさせるな、陽子」
大三郎が言った。
陽子は、父に対して片眼を瞑ってみせ、銃口から上がる煙を、ふぅと吹いた。
「そっちの方が、楽しいじゃない」
「……とんだ、お転婆娘だ」
大三郎が笑った。