蔵の地下の闇の中で、油燈の火を揺らしながら、三人の男女が座している。
氷室五郎は、未だ、両腕を腰で縛られている。
しかし、その顔に浮かんでいるのは、不敵な表情である。
彼の前に、陽子と、その父が、木箱に腰掛けていた。
男は、黒沼大三郎と名乗った。
大きな呉服店を経営しており、明治維新の際に成功して、財を成した先祖からの商売を続けている。
軍への被服技術などの提供で、様々な面で便宜を図って貰え、衣食住に困るという事はなかったが、爆撃を受けて、屋敷が崩壊した。
この蔵だけは何とか残っており、地下室の存在は、彼らからの供出を免除していた群でさえも、知らない。
大三郎は三〇歳で、陽子は一五歳であった。
元服後に間もなく妻を娶り、娘を生んだ。
妻は、早くに流行り病で倒れてしまったらしい。
それから、男手一つで育てて来た娘は、かなりのお転婆に成長した。
忍ばせた短刀を、躊躇いなく人に向けられる程の、じゃじゃ馬であった。
その黒沼親子と、氷室五郎が、向かい合っている。
「話を聞こうか……」
大三郎が言った。
「君は、何故、その事を知っているのかね」
氷室が告げた、
“龍が誘う北の地”
という言葉を、大三郎も知っているらしいのである。
しかも、単に知っている、耳に挟んだ事があるという程度ではなく、氷室がその後に続けた黄金――それも、この地下の木箱に仕舞われていたものと、どうやら、無関係ではないようであった。
「おたくはどうなんだい」
氷室の方から、逆に問う。
「質問しているのは、こっちなのだがね」
「或る書物に、眼を通したとでも言おうか」
「書物?」
「さ、今度はこっちの質問に答えてくれ」
「その書物とは何だね」
「――ま、酒と飯の駄賃って所か」
氷室は諦めたように笑い、言った。
「『景郷玄帖』……」
「むぅ!」
がばりと、大三郎が立ち上がった。
「そ、それを、知っているのかね」
大三郎が、興奮した様子で訊いた。
「次は、今度こそ、あんたの番って事でどうだい」
「――むむ」
唸りながら、大三郎は腰掛け直し、渋々口を開いた。
「同じものだ……」
「但し、その半分って所だろう」
「むむ……」
全てを見透かしているような氷室の言葉に、又、大三郎は獣の声を出した。
氷室は、明らかに不利な自分の状況を、一息に覆そうとしている。
「安心しな、俺も、読んだ事があるのはその半分だ」
「――」
「もっとも、その顔では、肝心な場所の事が、俺の読んでいない半分には書かれていなかったようだがな……」
くっくっく、と、氷室は笑う。
大三郎は、観念したように溜め息を吐くと、
「陽子、彼の縄を解いてやりなさい」
と、言った。
「はい、お父さま」
お転婆、じゃじゃ馬と言われる割には、案外素直に、父の言う事に従う娘であった。
陽子に腕を縛る縄を解いて貰い、氷室は、近くの木箱に腰を下ろす。
そこに置かれていた金の像をむんずと掴み上げた。
「物分かりの良いとっつぁんで助かるぜ」
「――」
「こいつを何処で手に入れたんだい?」
「……次は、君の話を聞こうか」
大三郎が言う。
「君は、何処で、その書を読んだのかね」
「何処だと思うね」
氷室に訊き返され、大三郎は少し考えるような仕草を見せた後、
「東寺――などという答えは、どうかね」
と、言う。
東寺とは、京都にある真言宗の根本道場の事である。
一般的には、東寺、教王護国寺と呼ばれているが、正式には、
金光明四天王教王護国寺秘密伝法院
と、いい、その別称に、
弥勒八幡山総持普賢院
というものもある。
本尊を薬師如来とするその寺院は、平安京鎮護の為に建立が始められ、七九六年に創設される。その後、八二三年、嵯峨天皇より弘法大師空海に下賜され、伝法院の名前が示す通り、真言密教の道場として栄えた。
金堂、五重塔、御影堂、蓮花門、真言七祖像、不動明王坐像などが重要文化財とされている。
特に、金堂には、顕教としての本尊である薬師如来と、日光月光両菩薩、十二神将像が並び、講堂には、『仁王経』と金剛法界に基づいた、五智如来像、五大菩薩像、五大明王像、梵天、帝釈天、四天王像などが、密教彫像として、立体曼陀羅を構成している。
「何故、そう思うね」
氷室が訊く。
「君の言葉には、西の訛りがある」
大三郎は、荒い口調で隠している氷室の方言を、見抜いたらしい。
「そして、『景郷玄帖』は、空海の記したものだ」
空海は、真言宗の開祖である。
「どのような記録にも残っていない、空海の『景郷玄帖』が、京都にあるとすれば、東寺だろうからね……」
「惜しいな」
「惜しい⁉」
「叡山さ」
「叡山⁉」
大三郎が、驚いた顔を作る。
叡山とは比叡山延暦寺の事である。天台宗の総本山だ。
天台宗の開祖は伝教大師最澄であり、空海とほぼ同時期に、遣唐使船に載って、朝廷からの命を受けた還学生として、唐に渡っている。
氷室たちが言っている『景郷玄帖』は、真言宗の空海が記したものであるらしいから、それが、天台宗の総本山である比叡山延暦寺にあったという情報は、氷室にとっては、少々驚きであった。
というのも、最澄と空海、この高僧たちは不仲であったというのが、定説である。
既に述したように、最澄は、朝廷からの命令で唐に渡った。これは、最澄自身が、国家に認められた僧侶であったからである。
一方、空海が正式に出家得度したのは、暴風の為に出向に失敗した遣唐使船の欠員を補充する為の留学生として入唐が許可される、その直前であった。
ここでの最澄と空海の立場は、最澄の方が遥かに上である。
だが、この二人の僧が唐へ渡った目的というのが、大きく異なっていた。
後に最澄が開く事になる天台宗であるが、開宗に当たって参考にした法華三大部などの典籍を、唐に渡る以前に、彼は既に眼を通している。その為、最澄が開宗をする根拠となるものは、国内で済んでおり、唐へ渡ったのは自らに箔を付ける目的であったと言える。
それに対して空海は、正式な出家を得られなかった青年期、都を離れて山林修行をしつつ、道教・儒教・仏教を比較して、仏教が最も優れているとした『三教指帰』などを記し、インド仏教の究極の到達点である密教を求めて、唐へと渡った。
還学生は、通常、帰朝までは三年の月日を要するが、最澄は天台山にて中国天台の灌頂を受けて一年で帰朝した。
留学生には二〇年間、唐に留まる事が定められているが、長安の青龍寺にて密教を伝授された空海も、最澄の帰国の一年後に、再び日本の地を踏んでいる。
最澄も密教の伝授は受けており、彼が帰国した折には桓武天皇が病臥しているという状況であったから、密教の加持祈祷という事については、大きな期待を受けていた。その事を足掛かりとして、最澄は自らの存在を朝廷に認めさせ、天台宗の開宗を国家から認めさせた訳である。
だが、翌年、予定されていた期間を大きく削って帰朝した空海は、その為に入京を認められなかったが、彼が持ち帰った目録などは朝廷に献上され、それを見た最澄は、自分が学んだ密教が不完全なものであると知った。
それは、最澄が学んだ密教が、『大日経』を基とした胎蔵界のものだけであったのに対し、空海は胎蔵界と共に、『金剛頂経』の世界観を図示した金剛界曼荼羅の相伝を――即ち、金剛胎蔵両部の相伝を受けていたという点である。
最澄は、自らの宗派を完璧なものとする為、空海から金剛界の密教の受法を望むも、国家に認められたエリートとして、スタートでの立場が遥かに下であった野良の沙門に頭を下げる事など、出来よう筈もなかった。
その為、最澄は弟子の泰範などを空海の許に派遣し、金剛界の灌頂を受けさせようとする。
しかし、最澄が要請した『理趣経釈』の借覧を空海が拒否し、且つ、泰範が空海の許に留まってしまい、比叡山に帰ろうとしなかった事などが原因で、平安時代を代表する二人の僧侶は交友を断裂する事となる。
こうした経緯が、ある。
だから、空海の記したであろう書物が、最澄が天台宗を開いた比叡山にあるという事は、意外と言えたのである。
そうした事を分かったであろう大三郎に、氷室はふふん、と、笑ってみせた。
「何も、空海が日本でこれを書いたとは決まっておらぬさ」
「では――」
「おうよ、唐さ」
「むむ……」
天台宗の密教が、空海のそれと比べて不完全であった事は、最澄も自覚している。
その密を完全なものとする為に、円仁という僧侶が、唐へ渡っている。
後に、慈覚大師という諡号を贈られる僧侶である。
円仁は、短期留学生として遣唐使団に加わり、天台山を目指すも、在留期間の短さの為に、訪問の許可が下りなかった。そこで、不法滞在という形で遣唐使船に乗る事なく、中国に残り、優れた天台僧の多い五台山へ向かう事となった。五台山を後にすると、長安に入り、大興善寺で金剛界、玄法寺で胎蔵界を学び、空海も学んだ青龍寺では胎蔵界と蘇悉地の伝法を受けた。
空海の密教は、胎蔵界と金剛界の両部から成るが、蘇悉地はそれらを統合するものであり、東密という真言密教に対して、台密という天台密教の特徴となっている。
この頃の唐の様子を、仏教だけではなく、政治や語学、風俗などについて事細かに記した『入唐求法巡礼行記』は、唐代中国に関する第一級の資料として知られている。
「恐らくは、青龍寺で、発見したものだろう」
氷室が言う。
空海が唐で記した書物を、彼が伝法を受けた青龍寺で、円仁が発見し、密教と共に持ち帰って来た。
そのようなものを、氷室は、比叡山で発見したのであるという。
氷室は単なる悪童ではなく、知識に対しても貪欲であったから、回峰行さえも修そうと考えていた時期があるのだ。
しかし、空海が唐で記した『景郷玄帖』の半分しか、氷室は閲覧していないという。
その半分を、大三郎は読んだというのだ。
「で、お宅は?」
今度は、大三郎が、話す番である。
比叡山からなくなっていた、『景郷玄帖』の残り半分を、何処で見たのか――
「天海さ――」
「ほぅ……」
天海も、氷室が挙げた円仁と同じく、天台宗の僧侶である。
徳川家康のブレーンとして活躍した事から、“黒衣の宰相”の異名を持っていた。
家康、秀忠、家光と、徳川三代に渡って、権力をほしいままにし、一三〇歳まで生きた怪僧であった。
天台宗の総本山である比叡山が、織田信長に焼き討ちされたという事は有名である。
戦国大名たちが両国を経営してゆく中、寺社を保護し、且つ、統制してゆく事で、平安から鎌倉に掛けて大きな勢力を誇っていた大寺院は、その勢力を失う事となった。
しかし、東大寺や興福寺、比叡山、高野山などは、その勢力を保持したままに、僧兵の拠点とされ、他の教団や時の権力者らとの抗争に備えていた。
これらは、織田信長としては眼の上のたん瘤に他ならず、比叡山の領地を自らのものにしようとして、座主から朝廷に働き掛けられ、対立を深めてゆく。
そんな中で、一五七一年、信長軍は比叡山に総攻撃を加え、焼き払う事に成功した。
その比叡山を復興させたのが、この南光房天海である。
徳川家康に見出された天海は、宗教家としてのみならず、政治や軍事顧問としても活躍した。
この当時からGHQの為に公園となってゆく上野の一帯であった寛永寺は、この天海が、関東に於ける天台宗の拠点となった寺である。その為、東叡山と呼ばれている。
又、家康の死後、遺骸を久能山から日光東照宮へ移し、東照大権現として祀る事を主張したのも、この天海だ。
そして、天海という僧侶が、明智光秀であったという説も存在している。
本能寺の変で、信長を討った、あの明智光秀である。
信長の仇討として、豊臣秀吉に攻められ、天下を三日で手放す事となった光秀は、しかし逃げ延びる事に成功し、比叡山に落ち延びた。
比叡山を焼いた信長に対して怨みを抱いていた叡山の僧侶たちは、信長を討った光秀を、手厚く保護した事であろう。
そうして僧侶天海となった光秀は、豊臣から天下を奪い取った家康に近付き――本能寺の変が、家康と光秀との共謀であったとする説もある――、宰相として幕府に迎え入れられた。
そのような話もある天海が、江戸に持ち込んだ『景郷玄帖』の半分を、大三郎は見たというのである。
そして、この『景郷玄帖』には――
「莫大な黄金の場所が記されている……」
どちらともなく、言った。
景とは、光とか、仕切られた場所での光、転じて影の事を差す。
その郷であるから、景郷とは、“仕切られた光り輝く郷”――黄金郷の事であると分かった。
「この像は?」
「寛永寺に、厳重に保管されていたものだ」
数年前、寛永寺から、黒沼の家に、古い衣の修復の依頼があった。その際に寛永寺を訪れた大三郎が、それを発見した事が、同時に『景郷玄帖』の閲覧に繋がったのだ――と、言った。
天海が、『景郷玄帖』と共に東に持って来たものか、それとも、彼が、幕府に掛け合って探しにゆかせたものか、その記録はなかったが、『景郷玄帖』の記述と照らし合わせてみるに、隠された黄金の一部である事に間違いはないようである。
「君は、その場所を知っているようだね」
「あんたは、隠されている所を知っているのだな」
互いに言う。
同じ事を言っているようだが、二人が言葉に込めているニュアンスを、共に察していた。
氷室は『景郷玄帖』から、黄金が何処に隠されているかを知っている。
大三郎は、『景郷玄帖』の半分を読み、どのような形で隠されているか、知っている。
例えば――
アメリカの人間が、日本の文書から、莫大な財宝が隠されている事を知ったとする。
その場所が日本国内であると分かっても、富士山であるとか、夕張であるとか、那覇であるとかがせめて明確にならねば、探しにゆく事は出来ない。
又、その財宝が、洞窟に隠されているとか、湖の下に厳重な金庫があるとか、その場所に入る為の暗号が解読されているとかしても、それらが何処であるのか分からねば、解いた暗号にも意味がない。
大三郎は前者であり、氷室は後者であった。
「協力は出来ないかね」
大三郎が持ち掛けた。
「あんたも、黄金を探しているのかい」
「勿論だ」
「何の為に?」
「そうだな……」
大三郎は、呟くようにして、
「この国の為、とでも、言おうかね……」
と、言った。
「国の?」
「この日本国の現状は、分かっていよう――」
「――」
「これから、日本はアメリカに吸収されてしまうだろう。それは、日本が敗けたからさ。しかし、莫大な資源があるとなれば、敗戦国とても、少しばかりはその権威を守る事が出来よう」
照れたような顔をして、大三郎は言う。
その様子には余り興味がなさそうな氷室であったが、
「俺も、そこへゆきたいでな…」
と、言った。
「あんたと協力するのは、構わんよ」
「そうかね!」
「これの記述によるのなら、一生遊んで暮らせてなお余る。そこまでの金は、特に必要とは思わないんでね……」
氷室が笑う。
何ならば、どのような職業に就こうと、それで喰ってゆける自信があった。
「変わった男だ……」
感心したように大三郎。
氷室は、小さく鼻を鳴らし、
「ゆこうか」
「おう、ゆこう」
そう言って頷き合う二人の男を、陽子が、面白そうに眺めていた。