終戦後――
大塚松士、六七歳。
戦争が終わって漸く、松士は再び日本の地を踏む事が出来た。
少林寺の堂宇が焼失した一九二八年、松士は、鉄玄と共に小さな寺へと赴いた。
寺の名は、赤心寺。
鉄玄が住する他には何もない、掘っ立て小屋のような寺である。
そこで、松士は、鉄玄が辿り着いた無念無想の境地を手に入れる為に修行を続け、そして、鉄玄が渡したかった或るものを受け取って、終戦を機に、帰国した。
その直前に、少林寺に戻り、樹海という僧名と、独立して自らの流派を立ち上げる事を、許可されている。
身体に少林拳、心は赤心――樹海は、赤心少林拳と、自らの流派に名付けた。
かつて日本を離れた東京の港から、荒れ果てた町を見た樹海は、故郷に思いを馳せた。
既に、家族も、友の多くも、その生に幕を下ろしているだろう。
樹海は、故郷に戻る前に、講道館に顔を出した。
戦後、ダグラス=マッカーサーを長とするGHQは、敗戦国たる日本から誇りを奪い取る為に、日本文化の様々な良い所を封じようとしていた。
柔道も、その一つである。
しかし、柔道は、自らを武術ではなく、心身を鍛える為のスポーツであるとする事で、後の世まで残ってゆく事になるのであった。
それはそうと、樹海は講道館へ赴き、同郷の友人・榮世の事をそれとなく聞こうと考えた。
若し、道場にいるようならば、何処かに呼び出して再戦をするも良い。
無念無想を得てから、樹海の胸に燻ぶり続けていた戦いの炎は弱まり、友人である榮世と、単に、再び会いたいという気持ちの方が強くなっていた。
心の中に、僅かばかり、余裕が出来ていたのだ。
そうして、いざ講道館の門を潜り、講道館の門人を呼び止めた。
「私は樹海という者です。榮世という者が、おらんでしょうか。弘前の松士――そう言って下されば、分かると思います」
そのように訊いた。
榮世と訊いても、若い門人は心当たりがないようであったが、樹海が、
「前田榮世といいます」
と、問うと、
「前田七段の、ご友人ですか」
と、驚いたように頷いた。
「いらっしゃるのですか」
「いえ、実は、四年前に亡くなっているのです」
「え⁉」
「ブラジルで……」
樹海は、その門人から、榮世――否、前田
榮世は、渡米の前に光世と改名して、アメリカを始めとした様々な地で、柔道を、大和魂を広める為に、多くの格闘技と対戦し続けた。
異種格闘技戦を繰り返し、そのたった一度たりとも敗北をしなかったという。
コンデ・コマというのは、前田光世の名前が、強者として余りにも広まり過ぎて、誰も対戦相手がいなくなった所で、名前を変えれば挑戦者が出て来るのではないか、という事から考えられた名前である。
対戦相手がいなくなって“こまって”いるから、“前田コマル”はどうであろうか、という事になったが、それでは格好が付かないので、縮めて、又、伯爵を意味する“コンデ”を付けて、コンデ・コマ――と、そういう事になった。
その前田光世は、辿り着いたブラジルの地で、アマゾンを開拓し、ベレンで息を引き取った。
一九四一年、六三歳で、ブラジルに帰化したコンデ・コマは、腎臓の病により、永眠。
最後の言葉は、
“柔道衣を持って来てくれ”
で、あったという程、柔道に自らの生命を懸けた男であった。
「そうですか……」
樹海は、榮世――前田光世の記憶を引っ張り出し、今は亡き友人の冥福を祈った。
樹海は、榮世がいないのであれば、講道館に特に用事があった訳ではないので、早速、弘前へ戻る為の手段を探しにゆこうとした。
「所で――」
と、踵を返しそうになった樹海に、門人が声を掛けた。
「樹海殿も、前田七段と同じく、本覚克己流を学ばれたのですね」
「そうです」
「その他、中国で、拳法を学んだと」
「はい」
「是非、教えて頂く事は出来ないでしょうか」
「教える――?」
「はい」
門人は、真っ直ぐに、樹海の眼を眺めた。
曇りのない、綺麗な、純真と言って良い程の眼であった。
「中国拳法を、ですか」
「はい。是非」
出来る事ならば、他の門弟たちにも――と、門人は言った。
「いや、しかし……」
言い淀む樹海に、門人は食い下がる。
「これからは、武術が必要になってゆく時代です」
と、言った。
「いえ、武道、と、言いましょう」
「武道?」
「はい。戦争が終わり、これから、日本は益々西洋に吸収されてゆくでしょう」
「――」
「それは、日本の精神の消滅だと、私は思っています」
「――」
「それを防ぐ為に、武道が必要なのです」
「ですが、私が学んだのは、中国拳法です」
樹海は言った。
「柔道も、元を辿れば、中国に行き付きます」
柔道――柔術の起源については、既に述べた通りである。
「私は、柔道に、中国拳法でも、西洋のレスリングでも、ボクシングでも、何でも取り入れて、武道という大きな括りの中で、日本人の心を守ってゆきたいのです」
門人は、樹海を見つめて、熱っぽく語った。
その思いは、かつて、嘉納治五郎が講道館を創設するに当たって抱いたものと、非常に似通ったものであった。
明治維新を経て、自らの手で西洋化してゆこうとしていた日本。
敗戦国となり、その誇りを奪われてゆきそうになっている日本。
それを憂えての事であった。
「――武道で、日本人の心が、守れますか」
樹海が質問した。
「守れます」
門人は頷いた。
怖くなる程、無垢な眼であった。
無念無想を体得した樹海であっても、この瞳に魅入られると、どうもしようがない。
「ふむ……」
樹海は小さく唸り、
「良いでしょう」
と、言った。
「但し、私は、これからゆかねばならない所があります。そして、恐らく、町に下りる事はないでしょう」
「――」
「私が今まで学んで来たものを、君に教えるとして、君は、世間から暫く姿を消さねばなりません。それでも、よろしいか」
矛盾を突き付ける問いであった。
門人の青年の目的は、樹海が学んだ中国拳法を柔道に取り入れ、広めてゆく事で、日本人の心を守る事である。
しかし、樹海は、俗世を捨てた生活をせねばならないと言う。
それに、門人は、
「分かりました」
と、首を縦に振った。
「元より、貴方から全てを学ばねば、人の前には立てません。何処へでもゆきます」
「――ほ」
樹海は、感心したように息を吐いた。
「では、私は、師範にその旨を告げてまいります」
門人は頭を下げて、早速道場に戻ろうとした。
その背に樹海は声を掛ける。
「まだ、名前を聞いておらんかったの」
「治郎――」
門人は、振り返りながら、言った。
「花房治郎と言います」
後の赤心少林拳伝承者の一人である玄海、その青年期の姿であった。
それと、ほぼ時を同じくして――
京都から出奔した氷室五郎も、東京にやって来ていた。
あちこちが焼け爛れた街並みに、流石の氷室も驚きを隠せない。
そして、それと同じ位、混乱した様相を楽しんでいる、歪んだ自分を見つめてもいた。
氷室は、腹が減ったので、混雑する人混みの中で出ていた屋台に寄った。
雑炊は、不味かった。
煙草の吸殻が入っていたのである。
かっとなった氷室は、店主を殴り倒した。
忽ち憲兵がやって来て、氷室を取り押さえようとするのだが、氷室はその見事な体格から繰り出される剛力で、本業たる彼らさえも簡単に片付けてしまった。
しかし、これは不味いと判断するだけの思考を、氷室が持たない訳ではない。
氷室はすぐさまその場を逃げ出して、人気のない場所へ向かった。
その途中、どうにも外国人らしい、やつれた男と擦れ違ったが、互いに気を払う事はなかった。
氷室は、空襲で焼け落ちた屋敷を発見し、その門を飛び越えて、敷地内に侵入した。
裏手には大きな蔵があった。
屋敷があのようなぼろ状態であるから、住民などはいるまい。
食糧が備蓄されている――と、考えないではなかったが、その可能性は低いだろうと思った。
若し、屋敷の住民たちが空襲から逃れているならば、蔵の中から食べ物などは持ち出している筈である。
死んでいれば、幾らかは残っているかもしれない。
仮にどっちであったとしても、軍に供出させられていて、すっからかんに近い状態であるという事も考えられた。
氷室は、蔵の扉を開けて、中に入り込んだ。
むっとするような匂いが、籠っていた。
空っぽの棚が並んでいる。
氷室は、蔵の中を一通り見て回った後、床に扉があるのを見付けた。
地下室だ。
内側から、施錠されている。
鍵を探すのも手まであったので、踏み抜く事にした。
ばり、と、大きな音を立てて、木の板が落下した。
かなり広い空間であった。
梯子が掛かっていたので、下りてみる。
扉の傍に、油燈があった。
火を点けて、明かりを確保する。
蔵の地下には、大きめの木箱や瓶が、ずらりと並んでいた。
片っ端から開けてみると、野菜や、米、調味料、魚の干物、干し肉などが保存されていた。
「こいつぁ良いや」
氷室は暗闇で一人ごちると、適当な所に腰掛けた。
横手に油燈を置く。
乱雑に干し肉を掴み上げ、喰った。
油燈の火で、芽を穿ったジャガイモを炙り、塩を振り掛けた。
奥の方には、焼酎の瓶もあった。
地面に置き、片手で頭を押さえると、手刀で瓶の頸をすっ飛ばした。
がぶがぶと、酒を飲んだ。
「暫くは、隠れられていそうだな」
腹がいっぱいになって、ひと眠りしたい気分であった。
思えば、京都からこちらまで歩いて来るのに、まともな睡眠を摂っていない。
埃臭さを我慢すれば、心地良く眠れそうであった。
ごろりと箱の上に横になる。
昏い天井を見上げ、氷室は、懐に手を入れた。
そこに入っているものを撫で上げて、にぃ、と、唇を曲げる。
暫くここで休息したら、すぐに、目的の場所へ向かう心算であった。
その場所で自分を待っているものに、大きな期待を抱いている。
と、眠るに当たり、油燈の火を消そうと、寝返りを打った時である。
赤く燃えている火の先に、妙にきらりと光るものが見えた。
何かに、火が反射しているのだ。
氷室は立ち上がり、油燈を持って、光が反射した傍まで歩いてゆく。
そこにあったのも木箱であったが、荒く組まれたその隙間に、光を反射させるものが見えた。
氷室は木箱を開け、藁に包まれたそれを、取り出した。
それは、仏像のようなものであった。
小刀程の大きさの、豪奢な王冠や宝珠を身に付けた像――
しかも、それは、金で造られている。
金箔ではない。
純金の仏像であった。
――これは⁉
大三郎がぎょっとする。
「何をしているの⁉」
背後から声を掛けられたのは、そのタイミングであった。
振り返ってみれば、地上からの梯子から下りて来る途中の、若い女であった。
国民服のズボンに、タンクトップ。
刃のような、切れる美貌を持っている。
「そこで何をしているの、貴方……」
女が、梯子から下りて、言った。
ポケットから短刀を取り出して、氷室に切っ先を突き付けた。
氷室は、黄金像を持ったまま、半身になって女と向き合った。
「何故、それを……」
女は、黄金像について、言っているらしい。
「この蔵は、あんたのものか?」
氷室が訊いた。
「答えなさい、貴方、ここで何をしているの?」
女は、氷室の質問に答える心算はないようであった。
しかし、氷室の方も、女の問いに答える様子はない。
「これは、あんたのか?」
と、黄金像を突き出してみせた。
女は黙った。
短刀を構え、氷室との距離を、測っている。
氷室は、ふん、と、鼻を鳴らすと、
「肝っ玉の据わった女のようだがな、喧嘩を挑む相手を間違えているぜ」
と、呟き、油燈の火を吹き消した。
一瞬にして、地下に暗闇が訪れる。
「え⁉」
驚きの声を上げる女に、氷室は襲い掛かった。
記憶に残っている、短刀を握る女の手を叩いた。
硬いものが舞い、壁にぶつかる音が聞こえた。
「きゃあ!」
女が悲鳴を上げる。
氷室は、女を地面に押し倒し、服を毟り取ってやった。
「莫迦な女だ」
ぽつりと呟く氷室。
と――
「そこまでだ!」
稲妻のような一喝が、地下に響いた。
強烈な光が射し込んで来る。懐中電灯の明かりだ。
氷室が顔を覆った。
光に眼が慣れて来ると、“そこまでだ”と叫んだ男が、光の中で拳銃を構えているのが見えた。
又、男の顔も、次第に見えて来た。
上等なスーツを着た男である。
やけに強い光が眼に灯っていた。
少し顔に墨を引くだけで、歌舞伎の壇上にでも上がれそうな迫力である。
「娘から離れなさい」
男は、氷室に言った。
氷室は、娘を人質に、銃撃から身を躱す事も考えたが、若しも娘が打たれて死んでしまったのならば、あの男は哀しみに暮れる前に次の弾を撃つであろうと思われた。
氷室は女の身体の上から退き、両手を持ち上げた。
「物分かりの良い賊だ」
ふふん、と、笑いながら、氷室に歩み寄る。
「陽子、無事かね」
「ええ、お父さま」
陽子と呼ばれた女は、立ち上がり、父が渡した上着を羽織った。
「こちらに背中を向け、両腕を出し給え」
「――」
氷室は、男の言葉に従った。
「下手な事はするなよ」
男は、陽子に言って、氷室の腕を縛らせ、地面に腰掛けさせた。
「さて、君は、何処の何者かね」
男が訊いた。
氷室が黙っていると、陽子が、氷室の顔を蹴り付けて来た。
「黙っていないで、答えなさい。この薄汚い木偶の棒が」
ぎらぎらとした眼で、氷室を見下ろして、陽子が吐き捨てる。
「氷室五郎――」
と、氷室は言った。
「で、その氷室五郎くんが、ここで何をしていたのかな」
男が訊く。
「そうさなぁ……」
氷室は、後ろ手に縛られ、銃口を突き付けられているにも拘らず、薄ら笑いを浮かべた。
そうして、彼が発した次の言葉に、陽子とその父は驚愕する事になる。
「これから、龍が誘う北の地に、黄金を探しにゆこうと思っていてね」
「な――」
運命の悪戯かのような奇跡的なこの出会いが、彼らの人生を狂わせてゆく事となる。
ジャガイモを炙って塩で食べたい。