松士が、少林寺に入る以前まで、最も良く修していたのは、八極拳である。
八極拳は、河北省滄州南部に伝わる武術であり、孟村を発祥地とする。
質実な風格を持ち、表演を目的としたような動作はなく、実用本位に編まれたものだ。
その一撃は、
などと表現される。
その歴史を辿ると、孟村出身の回族の
呉鍾は、“
“神槍”李書文に師事した時に学んだものである。
李の許で、松士は八極拳の套路(型)の初めである、八極小架を特に学び、全ての拳の基本となるこの型を覚えた事で、少林寺での拳法修行でも、見る見る内にその術理を体得して行った。
この八極拳と少林拳は、良く、
内家拳
外家拳
と、いう風に分類される。
内家拳とは、八極拳の他、太極拳などに代表される、ゆったりとした動作と、身体の内面への働き掛けを旨とする拳法だ。
一方、激しい動きと、肉体の表面を破壊する事に特化した技術が外家拳と呼ばれ、翻子拳や通背拳、蟷螂拳などが、こちらに含まれる。
とは言うものの、八極拳のベースにもなっている弾腿・査拳などは、どちらかと言えば外家拳に位置するし、少林寺の中でも、“気”を扱う為の鍛錬――内功を行なう。
少林寺としても、伝統的に“剛”を重んじた外家拳系の技を修してはいるが、武術の総本山たる少林寺が、中国国内の武術を見落としている筈がないのである。
少林寺での修業は、三年四期一二年を一つの区切りとしており、
手足を鍛える三年間
筋骨を鍛える三年間
眼の配りと気合法を学ぶ三年間
拳法の技術を学ぶ三年間
と、なっている。
この一二年を経て、命懸けの試験が行なわれ、そこで認められて初めて下山が許され、この試験で不合格となれば、少林寺の名を汚す恐れがあるとして、まだ寺に留まらねばならない。
内功の鍛錬は、呼吸法を中心に行われている。
呼吸で取り入れた気と、自らの精神エネルギーを、下丹田に集中させ、それを全身に及ぶ神経の網へと張り巡らせてゆくのである。
外功、又は硬気功というものもあり、こちらでは、頭部を鉄のように硬くし、岩を切る程の掌を作り出し、刃さえ弾く皮膚を作り上げる事を目的とする。
どれをとっても、常人には想像を絶する程の過酷さを誇るものである。
そして、これら内外の功を合致させた“勁の力”と、それらを培う中で育まれた察知力や判断力といった“意の力”、この二つを自在に扱う“技術”の三位一体を達成する事が、中国武術で言う所の功夫なのである。
松士は、他の中国拳法を学んだ時、かつて自分の覚えた本格克己流の事は全て忘れて、師の教えに従った。その上で、中国拳法と柔術の和合を試みていた。
その、自身の工夫を加えた新たな拳法をも、ここではかなぐり捨てて、少林拳の修行に邁進したのであった。
自分を倒し、海外へと飛び立った榮世に勝る力を得る為、全ての武術を統合する事を目論んでいたのである。
所が――
松士が少林寺に入って、一一年後の事である。
少林寺は、軍閥の抗争に巻き込まれて、焼失する事となった。
軍閥とは、清朝末期から中華民国成立に掛けて、袁世凱の根拠とした軍事力を起源に、政権を争った中国の地方軍閥、即ち北洋軍閥の事である。
元々は、清朝末期に李鴻章が結成した地方軍・准軍が主体である。
一九〇一年に、北洋通商大臣に就任した袁世凱は、西洋式の軍隊(北洋軍)を設立し、その鎮守する範囲を拡大してゆく中、一九一一年から翌年に掛けて起った辛亥革命に際し、革命軍に協力。清朝は打倒され、袁世凱は、樹立された中華民国の臨時大統領となった。
一九一六年、松士青年が少林寺に入る一年前、袁世凱が死去。北洋軍閥は四派に分裂し、その分派間、又は同一派内でも有力者同士の権力を巡った抗争が、一九二四年に張作霖が政権の実権を握るまで、繰り広げられた。
一九二五年には、辛亥革命の発起人・孫文が没し、国民党を国民政府と改めて、広東に組織する。
翌年には蒋介石を中心とした国民革命軍が北伐、つまり、北京政府や各地軍閥に対して宣戦を布告する。所謂、第一次北伐である。
この軍閥に、
釈宗演らの一行を出迎え、松士の少林寺入山を認めた恒林は、一九二三年、急逝する。
恒林は、少林寺の麓の村が匪賊に荒らされた頃、武僧たちで治安隊を結成し、匪賊たちの頭目を追い詰め、壊滅させたとか、日本軍に対して少林保衛団の団長として果敢に抗戦したという。
その一方で、仏法修行も怠る事なく、法話も巧みな徳のある人物でもあった。かつての敵でもある日本人の松士を受け入れたのも、この点が大きかったのかもしれない。
しかしながら、軍務と寺務とを一手に引き受け続けた過労の為に、六〇歳で入寂した。
その後を継いだのが、妙興であった。
羅漢像の姿勢を取り入れた羅漢拳を得意とする武僧であり、その極意は、『羅漢拳訣』に、次のように記されている。
“頭は波浪の如く 手は流星に似たり
身は楊流の如く 脚は酔漢に似たり
心の霊より出でて 性の能に発す
剛に似て剛に非ず 実に似て而して虚たり
久練して自ずから化し 熟極まりて自ずから神たり“
武術と禅の調和を見るような、玄妙な文である。
その妙興を、軍閥の呉佩孚が配下として加えた。
北洋軍閥は、既に述べたように四派に分かれたが、その一つ、直隷派の有力指導者であったのが、呉佩孚である。
妙興は、一九二七年、河南を転戦中に不運にも戦死してしまい、その遺骸は少林寺に返され、恒林の墓の傍らに埋葬された。
そして翌年、少林寺は、軍閥の抗争に巻き込まれて火を放たれ、堂宇は灰塵と帰す事となったのである。
焼け崩れた堂宇を眺めて、壮年の松士は途方に暮れていた。
ぱちぱちと、堂宇を構成していた木材が、火を孕んで音を立てている。
凄惨たる光景であった。
建物の中から逃げ遅れた、炊事役の僧たちを、戦闘で怪我をした僧侶たちが運び出している。
生きているものばかりではない。
全身が黒く焦げ付いて、誰だか分からない者もある。
修行の際に生命を落とす――
それについては、覚悟している面々であった。
例えば、
全身を、刀を弾く程に硬くする鍛錬である。
先ずは布で全身を擦る事から始め、次いで木の板で身体を打ち据え、高所から跳び下りて砂場に身体を打ち付ける。その鍛錬の間には、秘伝の漢方薬を飲んで気功を兼行するというのが、定法である。
又、内功にも、鉄砂掌というものがある。
瓶に詰めた砂に、指先を突き入れるという鍛錬だ。
手を鉄の如く鍛える荒行であると同時に、指の先端から気を放つ稽古でもある。
どの練功でも、自らの肉体と精神を、ぎりぎりまで擦り減らし、下手をすれば死に至る。
それらを知っているから、修行の中で、死する事も、覚悟の上で立っている。
だが――
いや、そもそもが、武術とは戦争の技術であるのだから、こうして戦火に焼かれる事も、或いは覚悟して置かねばならないのかもしれない。
しかし――
そもそも俺は何の為にここにやって来たのか。
五〇を間近にした松士は、若い心のまま、自らに問うた。
榮世を、倒す為だ。
しかし、榮世を倒すというのは、榮世を殺す事ではない。
殺される覚悟と、殺してしまうかもしれない可能性は、頭に入れて置くべきだ。
しかし、目的は、殺す事ではない。
戦争ではないのだ。
そんな風に迷う松士に、ふと、声を掛けて来た者がある。
見れば、知らない顔の、しかし、恐らくは武術を学ぶ者であろう老人であった。
少林寺の武僧ではない。
と言って、寺に火を点けた一派でもあるまい。
「お主は、日本人じゃな」
と、老人は言った。
「そうだ」
と、答えると、
「儂の所に来ぬか」
老人は、そのように誘った。
「何故?」
松士が問うと、
「日本人のお主に、渡したいものがある」
「それは?」
「ここでは話せん。付いて来たならば、教えよう」
「――」
「二つ、ある」
「二つ?」
「おう」
「――」
「一つはな、拳法よ」
「拳法⁉」
「この少林寺が、まだ知らぬ……」
「何‼」
「――魅力的じゃろうて」
からからと、老人は笑った。
しかし、松士は、まだ老人を信じ切れない。
「来なさい……」
そう言って、老人は、松士を人気のない場所まで案内した。
そこで、
「立ち合おうぞ」
と、言ったのである。
何を――
この老人は、何を言うのか。
松士の、四九歳という年齢は、格闘家と言うのであればピークを過ぎている。
しかし、武術家として練功を続けた肉体は、働き盛りの若者にも敗けない。
寧ろ、寺の中での功夫を練り続ける生活が、本人から、年齢の概念を忘れさせていた。
気持ちとしては、まだ、榮世への再戦の志を持った、青年期のままである。
狂気を孕んで武の道を進み続けた自分に、この老人は、立ち合いを所望して来た。
何が目的なのか。
日本人の松士に、渡したいものがあると言った。
それは、立ち合ってでも、渡さねばならないものなのか。
そして、
“拳法よ”
“この少林寺が、まだ知らぬ……”
その言葉が、引っ掛かっている。
それは、何なのか。
既に、少林寺の中に伝わる拳法を学び尽しているという自負はある。
そこに加わっていない拳法……
ぞくりとした。
それは、老人に対する恐怖であると共に、その拳法を知りたいという好奇心であった。
気付けば、
「是非……」
と、答えていた。
老人は、皺だらけの顔で、にんまりと笑い、
「安心したぞい」
そう言って、松士の胸を、軽く叩いた。
――あッ⁉
松士は、咄嗟に飛び退いた。
何故なら、松士が立ち合いを了承した時、老人はまだ、間合いに入ってはいなかったからだ。
“是非……”
と、答えてから、
“安心したぞい”
と、老人が言うまで、僅かの間もあるまい。
だのに、老人は松士の心臓の位置を、軽く手で叩いていたのだ。
若し、刃物でも持っていたなら、既に胸を貫かれている。
いや、素手であったとしても、松士が八極拳を学んだ李書文であれば、既に死んでいる。
李書文の絶招――中国拳法で言う奥義――は、猛虎硬爬山である。
牽制の突きを出し、肘でとどめを刺す技だ。
しかし、李書文は、最初の牽制の突きのみで、あらゆる相手を斃している。
その為に付いた、
“李書文に二の打ち要らず”
という呼び名である。
この老人が、その心算で自分を打っていたなら、松士は、既に死んでいた。
「お、おぅ……」
感歎の息を漏らしながら、松士は、
「もう一手……」
と、告げた。
老人から、全く意識を外す事はしなかった。
その一挙手一投足を、全て見逃すまいとした。
「今度は、そちらから来なさい」
老人が言い終える前に、松士は動いていた。
蹴りを出してゆく。
腹をぶち破る威力の蹴りだ。
鍛えていない人間ならば、内臓が破裂する。
鍛えていても、腹筋は貫かれ、激痛に悶絶する。
すぅ、と、老人が横に逃げた。
「怖いのぅ」
老人が細めた眼を追って、松士が脚を動かす。
とん、と、振り上げた右足で踏み込んでゆきながら、縦にした拳を打ち下ろした。
起落把――
少林拳の心意把の一つである。
八極拳では、硬開門と呼ばれる技が、これに似ている。
心意把というのは、少林拳の内功の一つで、門外不出の秘伝である。
動作としては、腕と共に膝を振り上げ、震脚(猛烈に足を踏み下ろす)と同時に、腕も相手に打ち下ろすというものである。
動きは単純であるが、その震脚の威力は、石畳を砕く程であり、正しい方法によって学ばないと、膝や腰は勿論、肺や脳さえも痛めてしまう。
その威力の根拠となっているのは、気である。
気と言うと、どうにも神秘的なイメージが先行するが、武術的な事を言うのならば、そのパワーは、物理的なものである。
武術に於ける気は、勁――端的に言ってしまえば衝撃力――を加増するものであり、勁を生み出す動作の連携によって生じるものだ。
この時、松士が使った動作は、
螺旋
展開
沈墜
である。
螺旋と言うのは、老人が横に逃げるのを追って、軸足を捻った力だ。この力を、膝と腕を持ち上げるのに利用したのである。
又、展開と言うのは、打撃に使う腕を前方に伸ばすように使った事だ。
そして、沈墜は、身体を沈める事、地面に踏み込み、拳を打ち下ろす事だ。
捩じり、開き、沈める――これらの動作の連携が、気というパワーを発生させ、打突時にそれらを複合させるのである。
このような技術を、発勁と、呼ぶ。
その発勁を用いた心意把が、老人に直撃すれば、攻撃を受けた部位が完膚なきまでに粉砕され、その衝撃は老人の肉体を貫いて爆発する事であろう。
しかし、拳が老人を捉えると思った刹那、松士の視界から、老人が消えていた。
「ぬ――」
轟!
と、地面が大きく陥没し、松士の踏み下ろした足を中心に、蜘蛛の巣状のひびが入る。
空振った拳の唸りが大気を震わせ、辺りを揺るがした。
「ほ――」
老人の声は、松士の頭上から聞こえた。
見れば、老人は、松士の打ち下ろした腕に、ちょこんと爪先で立っている。
「ほーれ」
老人は、何処となく間の抜けた声で言うと、松士の頭を掌で撫でた。
瞬間、松士の心から闘志が萎えてゆき、そして、意識さえも闇の中に落ちて行った。
心意把は本当にちょっとかじっただけの素人がやって良い事じゃないです。