仮面ライダー Chronicle×World   作:曉天

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仮面ライダーも怪人も、本当に暫く出ません。それでも、書いているのは『仮面ライダー』の心算です。


第三節 樹海

「ほったしても、ゆぐのか――」

「ゆぐ――」

 

桜吹雪の中で、男たちは向かい合っていた。

どちらも、背が高く、見事な体格をしている。

 

“ゆく”と、答えた方の男は、荷物を幾つか持っていた。

最初に問い掛けた方の男は、ぎらぎらとした眼で、もう一人の男を睨んでいる。

 

()は、お前()ば、止まなぐさ来た……」

「止まなぐらの」

 

津軽弁であった。

五月の弘前――桜の季節である。

 

榮世(ひでよ)……」

 

先に問うた男が、言った。

もう一人の男、榮世は、相手の眼を真っ直ぐに見つめている。

 

()の事は、何んぼすら」

「――」

「なが、いのぐなたきや、なの父ちゃや、(あちゃ)は何んぼのら⁉」

「――それだば、わは、ゆぐ……」

「ゆかせね」

 

男は、半身になって、構えた。

 

「腕か、(よろた)の、一つ折ってだば、なば、連れてけぇる……」

「――」

 

榮世は、荷物を置くと、男と同じように、構えた。

 

最早、両者共に、言葉ではどうにもならない事に、気付いていた。

 

二人の男は、互いに間合いを詰めると、襟を掴み、袖を取り、相手を投げよう、相手を極めようと、攻防を繰り返した。

 

そして、

 

「――じぇあっ!」

 

榮世の右手が、男の右手を掴み、榮世の身体が沈んだと共に、左手が男の脚の間に潜り込んでいたかと思うと、男は、榮世の右肩に乗せられる形で、投げ飛ばされていた。

 

男は、背中から、硬い土の地面に投げ落とされて、その場でぴくぴくと痙攣し、意識を失った。

 

榮世は、哀しみの籠った眼で、倒れた男を眺め、自分の荷物を持って、去って行った。

 

 

 

明治二九(一八九六)年の春――

大塚(おおつか)松士(まつし)――若き日の樹海が喫した敗北であった。

 

 

 

松士が生まれたのは、青森県の船沢村である。

 

幼少期は、相撲で身体を作り上げた。

小学校を卒業すると、青森県尋常中学校に、受験を経て進学。

その間に、日清戦争が勃発し、高まる気運の中、青春時代を過ごした。

 

有り余るエネルギーをぶつけたのは、柔術である。

 

尚武奨励――そのような気風の中で、町に、様々な武術の道場が創設された。

 

松士少年は、仲の良かった榮世らと共に、その内、旧津軽藩の藩校であった、“稽古館”より、一人の柔術家を、中学校に顧問として迎え入れ、柔術部を設立した。

 

その柔術家の名を、斎藤茂兵衛といった。

彼が伝えていたのは、本覚(ほんかく)克己(こっき)流である。

 

本覚克己流は、津軽藩御家流の柔術であり、創始は添田儀左衛門貞俊である。

 

儀左衛門、幼名虎之助は、当時の津軽藩主に天稟を見出され、小姓として召し抱えられた後、武者修行の為に諸国を回る事を許され、帰藩した後に武術師範となり、修行で学んだ幾つかの柔術の流儀と、自らの工夫を体系化した。

 

即ち、総合武術本覚克己流の成立である。

 

儀左衛門は、添田弥兵衛貞和に二代目を譲り、以降、理兵衛貞嘉、定兵衛貞和、伝九郎貞栄、斎藤茂兵衛と伝わってゆく訳である。

 

この斎藤茂兵衛を師として、少年たちは、溢れ出る力を、柔術にぶつけて行った。

 

それから、一〇年程前になるであろうか。

東京に、一つの武道が誕生し、日本最強の名を授かったのは――

 

 

 

 

明治一八年の事である。

 

本郷向ケ丘に、弥生神社が建てられた。

警視庁の殉職者を祀ったものである。

 

それに際して、警視庁が、武術の奉納試合を主催した。

剣術や弓術、相撲――そして、柔術。

 

柔術に関してのみ、ここでは記す事となるが、この武術大会に於いては、四つの流派が出場し、四つの試合が行なわれている。

 

起倒流

良移心頭流

揚心流戸塚派

講道館

 

の、四流派である。

 

起倒流とは、数ある柔術の流派の中でも、特に投げ技に優れた流派である。

 

良移心頭流は、柔術王国と呼ばれた久留米藩の、柔術指南役であった。

 

揚心流戸塚派は、長崎で起こった楊心流の流れを汲んでいる。

 

講道館は、言わずと知れた、柔道の事だ。東京大学を卒業した学士でありながら、古流柔術を学んだ、嘉納(かのう)治五郎(じごろう)が興した流派である。

 

尚、現在では、柔術と柔道とを違うものとして思われる事があるが、そうではなく、柔術という大きな括りの中に、柔道はある。何故ならば、講道館を興した嘉納治五郎は、柔術を学んだ柔術家であり、講道館は、嘉納流柔術と呼ばれていたからである。又、嘉納が“柔道”と名付ける以前から、柔道と名乗っていた柔術流派も、存在している。

 

そして、起倒流と良移心頭流から一人ずつと、揚心流手塚派からの二人の、合わせて四人が、講道館から出場した四人と、対戦した。

 

その結果、講道館から出場した四名、即ち

 

 山下(やました)義韶(よしつぐ)

 宗像(むなかた)逸郎(いつろう)

 横山(よこやま)作次郎(さくじろう)

 保科(ほしな)四郎(しろう)(後の西郷四郎)

 

らが、勝利した。

 

この結果から、講道館柔道は、警視庁の柔術世話係として、取り立てられる事となった。

 

警視庁の柔術世話係と言えば、日本で一番強いという事である。

 

この事は全国に伝播し、松士たちの過ごした東北にまで響いたのである。

好奇心旺盛であった榮世は、その柔道を学ぶ為、上京したのであった。

 

 

 

 

 

榮世の家は、江戸時代から続く名家であった。

 

子供は、榮世の他には、姉が一人いるだけだ。

跡取りを、みすみす東京へゆかせる事は、避けたかったであろう。

 

だから、幼い頃から交流のあり、又、柔術の腕でも榮世と互角であった松士に、彼の説得――それが出来ないようならば、負傷させてでも引き止めて欲しいと、依頼したのである。

 

だが、実力行使に出た松士を、榮世は瞬く間に倒してしまい、そのまま東京へ向かった。

 

松士は、榮世に敗れた事を悔い、狂ったように、稽古に明け暮れた。

 

そして、榮世が再び故郷に帰って来た八年後、松士は、榮世から、彼が渡米するとの報告の為に帰郷したと、聞かされる。

 

曰く、講道館で、目覚ましい速度で段位を取得した榮世は、嘉納治五郎の推薦で、柔道を、ひいては大和魂を世界に広める為に、海外へゆく事を決めたという。

 

それでは、と、松士も、その場での再戦を諦めるしかなかった。

だが、榮世と決着を付ける事を、諦めた訳ではなかった。

 

“わも、ゆぐ……”

 

松士も、海を渡る事を決意した。

 

だが、榮世を追って、ではない。

 

松士は、榮世がゆくのとは反対の、中国で修行する事を決意した。

その理由は、二つである。

 

一つは、榮世の背中を追って、彼の後を付いてゆく事では、彼に勝つ――榮世を超える事が出来ないと思ったからだ。

 

一つは、中国には、日本人の知らない武術が、まだまだ眠っていると考えたからである。。

 

柔術のベースにあるのは、中国――明から渡って来た、(ちん)元贇(げんぴん)が伝えた柔法であるという。

 

後に帰化した陳元贇は、柳生門下の福野七郎衛門などに、“人を捕ふる術”を教え、これが、柔術の始まりだとされている(『本朝武芸小伝』)。

 

関口流の開祖である関口柔心も、やはり、柔術の祖であるとされているが、彼も、長崎に於いて“唐土の拳法を習った”と残している(『柔話』)。同様に、長崎で“拳法”を習ったとされているのが、小栗流の小栗正信であり、拳法とは柔術の異称であると同時に、中国拳法という意味も持っている。

 

先に出た揚心流の基になった、楊心流を開いた三浦楊心も、医術修行の為に渡った中国で、突きや蹴りなどを用いる拳法を学んで帰国したと言うし、その系譜の一つであり、嘉納流にも取り入れられた天神真楊流の磯又右衛門は、弟子と共に一二〇名の相手と戦い、尽くを当て身を用いた、中国拳法で言う点穴(ツボ)に対する攻撃で、勝利を収めている。

 

これらを伝えた中国には、まだ隠された拳法があるのではないか――そう思ったのである。

 

そうして、松士は中国へと渡った。

 

 

 

 

 

松士は、中国で、何人もの武術家に教えを乞い、様々な中国拳法を習い覚えた。

 

その中には、“神槍”“二の打ち要らず”と呼ばれた、八極拳の李書文(りしょぶん)も含まれていたという。

 

松士は、中国拳法の奥深さに感歎した。

 

特に、日本の武術には伝わり切っていなかった、“気”の概念――発勁などの技術には、驚かされるばかりであった。

 

松士が中国に渡ったのが、榮世が渡米した殆ど直後であるから、中国での拳法修行が、一三年目に入った時であった。

 

民国六(一九一七)年の秋、三九歳の松士は、日本人の旅団と邂逅する事となる。

 

釈宗演(しゃくそうえん)を隊長とする、日本禅宗の僧侶たちの一行であった。

中国の寺院を巡礼する目的であった。

 

釈宗演らと合流した松士は、彼らと共に、嵩山へと赴いた。

 

少林寺――

 

中国禅宗の祖である達磨が修行した寺である。

だが、恒林と名乗る和尚に迎えられた宗演たちは、そこで驚くべき光景を見る。

 

その時の様子を、宗演は、自著『支那巡錫記』にて、このように記している。

 

 

“午後、寺衆の拳法を演ずるを観る。抑も少林は、我が祖の根本霊場たり。而して寺衆坐禅せず、読書せず、只拳法小技を周し、稼穡(かしょく)是れ事とす、驚概す可きなり”

 

 ※稼穡=農耕

 

 

日本で言えば、臨済宗や曹洞宗の有名な禅宗とは、他の多くの仏教の目的がそうであるように、悟りを得る事を目指す宗派である。

 

その方法は、天台宗・真言宗などが密教である所、禅道修行である。

 

これは、仏教の開祖であるガウタマ=シッダールタが、苦行の末に、中道を見出してブッダ――覚者(真理に目覚めた者)となった事に起因し、その人生をトレースする事で、同じく悟りを得られると考えた為である。

 

その発祥となったのが、この少林寺であり、達磨(だるま)であった。

 

達磨は、洞窟の中で壁に向かって九年もの間、坐禅を続け、手も脚も失ってしまったが、悟りを開いたという。

 

これらの逸話が、日本に、禅宗の修行方法と共に伝わって来たのであるから、嵩山少林寺が、達磨ゆかりの、禅宗の聖地として認識されるのは、当然の事であった。

 

しかし、少林寺で行なわれていた易筋行――肉体を鍛える修行としての拳法については、日本では殆ど知られていなかった。

 

宗演らが見た武僧たちの演武は、殊更、珍しく映ったものであろう。

 

何故、このような事になっているのか――宗演たちは、無論、このように問うた事であろう。

 

それに対して語られた歴史は、次のようなものである。

 

少林寺――先ず、この寺は、四九五年、インドからの渡来僧・跋陀(ばつだ)禅師の為に、北魏の孝文帝が創建したものである。

 

その少林寺に、後に、インドから南海経由で梁に入り、武帝と問答した後、北魏の頃、少林寺にやって来たと言うのが、菩提達磨である。この達磨に、自らの腕を切り落としてまで、弟子入りを懇願したのが、中国禅宗で言う二祖の慧可(えか)である。達磨は、慧可を指導して、『正法(しょうぼう)眼蔵(げんぞう)』を伝えて、インドに帰ったという。

 

その『正法眼蔵』と共に、達磨がインドから持ち込んだインドの拳法が、身体を鍛える為の修行として残り、少林拳となった――これが、少林拳発祥の伝説の一つである。

 

もう一つは、少林拳境内の、白衣(びゃくえ)殿に残された壁画である。この壁画には、黒々とした牛に跨り、棍を振り回す武神が、武僧と共に暴徒たちを制圧する様子が描かれている。

 

この武神こそ、もう一人の少林拳の開祖とされる、緊那羅(きんなら)王である。

 

緊那羅王は、元は少林寺の炊事役だった僧侶が、寺の宝物などを狙う群賊から身を守る為に拳法を開発し、その活躍によって神格化されたものである。

 

が、何れにしても、これらの逸話は、神話の域を出ない。

 

しかしながら、六一七年、少林寺が群賊の為に堂宇を焼失し、以後、僧侶たちが武装をするようになったという事は、史実である。

 

少林寺の名前が、史上に初めて現れたのは、六二一年である。

 

王世充の乱に際し、後の太宗皇帝である李世民に、少林寺の僧兵ら一三名が、唐の建国に協力し、武功を上げたのだ。

 

それから暫く、武に関する記録は途切れるが、明代に入って、再びその名前が出て来る事となる。この頃の武というのは、棍法――即ち、棒術の事である。その事は、『武備志』中に、

 

 

“諸芸は棍を宗とし、棍は少林を宗とす”

 

 

と、記されている。

 

又、『日知録』や『寧波府志』などの史書には、倭寇の討伐に、少林寺の武僧が駆り出され、活躍したという記録もあった。

 

少林寺に関しては、

 

 

“天下の功夫、少林より出づ”

 

 

と、言われているが、『少林武僧志』には、方丈の福居によって、各地から様々な武術家たちが集められ、少林寺の地にて、それらが統合されたという事もある。

 

それらの歴史は、兎も角として――

 

禅宗の霊地であると同時に、武術の聖地でもある少林寺は、拳法修行を続ける松士にとって、何よりも魅力的な場所であった。

 

松士は、恒林に頼み込み、少林寺への入山を許可された。




津軽弁は、と或るサイトを利用して変換致しました。修正箇所が御座いましたら、お教え下さい。

又、この物語はフィクションであり、実際の人物・事件・団体等とは、一切関係御座いません。

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