風が狂っていた。
冷たい冬の風と、温かい春の風が、蛇の如く絡み合っている。
山の中だ。
薄い桃色の花びらが、その狂った風の中を、鳥の羽根のように舞っていた。
乱立する木々から、風によって引き千切られ、舞い落ちてゆく桜花。
その中に、香しく立ち昇る梅の花が、幾つか見られた。
狂っていた。
冬と春との境目に、桜花と梅花が共に咲いている。
狂ったように風が吹き、狂ったように花が咲いていた。
その狂った風の中に、更に狂ったように動き回る男がいた。
大柄な男である。
男は、森の中で、樹の幹に向かって、拳や蹴りを繰り出している。
手の皮はずり向け、脚の甲や脛は、赤黒く爛れていた。
その拳で、その足で、地面を蹴り、樹の幹を叩いている。
男の周囲には、表面をごっそりと削られた樹が、幾つもあった。
男の足元には、その為に枝から落ちざるを得なかった花が、幾つも散らばっている。
男は、桜を踏み躙り、梅を踏み付けて、傷付いた拳と脚を繰り出してゆく。
黒い、ズボン状の下衣を穿き、白くささくれた黒帯を締めていた。
上半身は、裸である。
鍛え上げられた身体には汗が浮き、花びらや、樹の表皮、土の汚れなどがこびり付いている。
鬼気迫る顔付きであった。
髪と髭は茫々と伸び、頬がげっそりと落ちている。
しかし、その双眸ばかりは、決して光を失っていなかった。
男は、只管に身体を動かしているようであったが、しかし、その動きには一定の法則があった。
余りにも素早い為、知識のない者には判断が付かないやも知れないが、それは、套路である。
套路――
中国拳法で言う、型である。
型とは、一定の順序で、決められた動作を行なう事により、実戦の術理を身体に身に着けさせるものだ。
男はその套路を、無数の木々に対して、実際に使うように、行なっていた。
男の見せる套路は、拳も、掌も、蹴りも、肘や、膝も、使っていた。
動作の中には、関節を決めているような動きもある。
投げを打っている様子もあった。
その動作の一つにも、数多くの種類がある。
拳に限って言うのなら、拳を横にした打ち方、縦にした打ち方、拳の親指側、又は小指側を使うもの、裏拳、弧拳……それを、打ち出すにしても、更に分類されている。
一つの技の中に、何種類もの形があり、その何種類もの形の中に、複数の方法があった。
又、同じ打撃を繰り出すにしても、その威力が明らかに異なっている場合もある。
一つは、樹の表面を削ったり、幹を大きく抉ったりするだけの打撃。
もう一つは、表面にはこれと言ったダメージはなくとも、遠くの枝から葉が一斉に落ちたり、打撃された面の反対側が削れたりする打撃。
それらを、素早く、舞を躍るように、男は繰り出していた。
狂った風。
狂った花。
それらに包まれて、狂ったように、武が吹き荒れていた。
男の周囲の樹から、全ての葉が、花が、枝が落ちてしまった。
男は、周囲を吹く風に舞う花びらを振り払って、又、別の場所へ向かおうとする。
と――
「ふぅん」
梅の香りに混じるような、甘い声が届いて来た。
男が、血走った眼を向けると、枯れた樹の間から、その女が姿を現した。
美しい黒髪を、乱雑に散らしている。
細められた黒い眼。
通った鼻。
ぽってりとした唇。
日本人よりも、少し肌の色が濃い。
マヤである。
マヤは、蒼い道衣を着ていた。
生地のぶ厚さから、柔道や、柔術のそれに似ているものと分かる。
袷の上衣に、黒い帯を締めていた。
裸足で、桜と梅の花に彩られた地面を踏んでいた。
「それが、赤心少林拳……」
「――何だ、貴様は……」
マヤの言葉に、男が言った。
マヤは薄く微笑むと、
「立ち合いたいのだけれど」
と、言う。
「立ち合い⁉」
「ええ」
「俺と、か」
「貴方とよ」
「――」
男は、ふん、と、鼻を鳴らした。
「随分と、莫迦な女が増えたものだな……」
「へぇ?」
「見た所、多少は心得があるようだが、余り調子に乗らない方が良い」
「女だから、かしら?」
「そうだ」
「そんな事、言わないで欲しいわぁ……」
そう言うと、マヤは、
すぅ、
と、右足を前に滑らせた。
花びらが、風に流されるような、緩やかな動きであった。
「ぬ⁉」
男は、ぎょっとなって、地面を蹴った。
マヤが近付いた分だけ、男は後方に飛びずさっていた。
マヤが話し掛けた時には、自然体だった男が、既に構えている。
右腕を立てて、肘を左手の甲で支えている。
マヤは、くすり、と、微笑んだ。
「ね――?」
「――」
男が眉を寄せた。
男が後退した理由は、あのままでいれば、マヤが自分の懐に入ってしまうのを、許してしまうと思われたからだ。
若しも、その状態でこの女が刃物を握っていたら、自分は、その刃先が腹に潜り込む事さえ、自然と受け入れてしまったであろう。
そして、マヤに対して構えを採った今、分かった事がある。
“立ち合い”――つまり、戦いを所望している訳だが、このマヤという女からは、殆ど戦意と呼べるものが感じられなかった。
普通、自分からでも、相手から挑まれたでも、戦うという空気が作り上げられたならば、自然と、その場に対する意識が、全身に満ち溢れる筈である。
その意識が、顔や、身体の何処かに、現れて、他の相手に伝わるのだ。
だが、それがない。
まるで花のように、マヤは、そこに立っているだけだ。
自然とそこに生じ、自然とそこで死んでゆくだけの花――
彼女の接近を躱せたのは、あの一瞬、マヤの方から僅かに殺気を飛ばして来たからだ。
――ほぅら、御覧なさい。
このまま、何にもしないで良いのかしら?
じゃないと、食べられちゃうわよぅ?
巨大な蛇に、眼の前で牙を剥かれたような感覚であった。
それがあったからこそ、男は、マヤから遠退く事が出来たのである。
「……良いだろう……」
男が頷いた。
「立ち合ってやる」
「ありがと」
マヤはそう言うと、右足を出した。
両拳を持ち上げる。
上体は、軽く反らした。
一昔前の、ボクシングの構えにも似ているようであった。
「マヤ――取り敢えずはそう呼んで頂戴」
「む……」
「柔術よ」
「――赤心少林拳」
男は、マヤに向かって、言った。
「
狂った風と、狂った花の中、男と女が、狂い合おうとしていた。
同じ頃――
同じように、桜の舞いと、梅の香りに包まれた寺が、あった。
人も通わぬ山奥に、ひっそりと佇む寺である。
この頃、多くの寺には、墓地が設けられていた。
しかしながら、寺院と言うのはそもそも、僧侶が修行をする場所である。
死人が出れば、葬式を出すという制度は、江戸時代に、幕府が作ったものであった。
徳川家康が、寺院を取り立てて、僧侶たちに戸籍の管理を任せたのである。
子供が生まれた、人が亡くなったという事で、寺に届けを出させていた。
そうした意味では、人が寄り付かないこの寺は、江戸時代以降の寺院の体裁を為していない。
大きめの堂宇だけが、そこにある。
本堂の前の庭は、桜と梅の樹に囲まれており、花びらが風になぶられている。
一人の僧侶が、その庭に立っていた。
梅の樹の前である。
つん、と、突き出した枝の先に、白い花弁の重なった、梅の花が咲いていた。
その梅の花を、僧侶はじぃと見つめている。
綺麗に頭を剃り上げた、穏やかな顔の男であった。
まだ少年期のあどけなさを残しているようにも、歳を経る事で得られる落ち着きを宿しているようにも見えた。
流石に、五、六〇代ではないと分かるが、一〇代とも、四〇代とも言える、不思議な雰囲気を持った男であった。
僧形である。
黒衣に、袈裟を身に着けていた。
足袋を、草履に潜らせている。
右手と、数珠を掛けた左手を胸の前に持ち上げて、眼の前の梅の花を、掌の中に包もうとしている。
緩やかな呼吸を繰り返していた。
吸っているとも、吐いているとも分からない、しかし、確かな呼吸である。
微動だにしないその中に、しかし、強いパワーがあるように見えた。
僧侶の両手が、梅の花びらと同じ形を作っていた。
いつしか、僧侶の双手は、中心に戴いた梅の花と同化している。
僧侶の姿は、風に掻き消されてなくなり、そこには、梅の花があるだけであった。
梅花は、生命力を注がれたかのように生き生きと輝き、咲き誇っている。
その前を、風と、桜の花びらが通り過ぎて行った。
と――
「
声を掛けられて、僧侶は我に返った。
梅の花は同じように咲いていたし、その僧侶も変わらずにそこにいた。
治郎と呼ばれた僧侶は、後方を振り向いた。
本堂の方から、老僧が歩み寄って来る。
禿頭に、見事な真っ白い髭を伸ばした老人である。
「
治郎は、老僧――樹海に向き直ると、合掌をして、頭を下げた。
樹海は、
「見事じゃの」
と、小さく言った。
「は……」
「この花ぞ」
樹海が、空を見上げた。
治郎も、その視線を追う。
蒼い空が、眼いっぱいに広がっていた。
その蒼い風に、花が舞い上がってゆくのである。
「おぅ……」
治郎は、深く息を漏らした。
きらきらとした輝きが、その眼の中に見える。
陽光を照り返す、海のようである。
あらゆる生命の生まれた場所であり、あらゆる生命の死をも呑み込んでゆく大洋さながらのおおらかさ、その鷹揚さが、見たもの全てに感歎出来る純粋さとなっているのである。
「主もじゃ」
樹海が言った。
「私も?」
「応」
「――」
「あそこまで大気と一体化出来る者がいるなどと、思わなんだ」
梅の花を見ている治郎の姿が、不意に消失してしまった事だ。
確かにそこにいる筈の治郎は、しかし、空気に溶けてしまったのである。
「無念無想――」
「はい」
「儂がようやっと体得したものを、お主は、平然と越えてゆきよるわ」
からからと樹海が笑うと、その眼の前で、治郎が小さく俯いた。
照れているようであった。
樹海は、そんな治郎を眺め、又、空に眼をやった。
「桜か……」
「桜で御座います」
「思い出すの」
しみじみと、樹海が言う。
「弘前の桜じゃ……」
「老師の、故郷で御座いますね」
「おぅ、治郎、お前にも、話した事があったの」
「はい」
そう頷いた後、ふと思い出したように、治郎は、少し不満げな顔をした。
「それよりも、老師」
「む――」
「いつまで、私をそのように呼ぶのですが。そもそも、私に――」
治郎は、言葉を一旦そこで止めてから、言った。
「
俗名は作中には登場しなかったレギュラー予定だったキャラより拝借しました。