数日前――
黒井響一郎は、間近に迫ったレースに向けて調整を続ける傍ら、余計な緊張を残さない為に、外で食事を摂った。
その後で、埠頭に立ち寄った。
汽船の音が聞こえる。
ぼぉー、
と、間延びした、肉を震わせるような音が、黒井の身体に染み込んでいた。
黒いコートのポケットに、冷たい両手を入れて、黒井は、コンクリートと水面の境界を、眺めている。
月が冴えている。
黒々とした海面に、半分が欠けた、銀色の、円やかな形が浮かんでいる。
黒井響一郎――
毎朝、早く起きて、ランニングや、補強運動をする。
バランスの良い食事を摂る。
ジムへ行き、身体を鍛える。
栄養になるものを、昼食として食べる。
少し休んだ後で、又、運動をする。
夕食は、妻の奈央の手料理だ。
小学校入学を控えた息子と一緒に、遊んでやる。
風呂に入った後は、入念に身体をほぐす。
そういう事を、三日程、続ける。
四日目は、柔軟体操や、ウォーム・アップは行なうが、激しい筋力トレーニングは控える。
酷使した筋肉を休める為だ。
その間に、チームのメンバーと、マシンの調子を見る。
実際にマシンを走らせる事は、何日か間を置いているが、シミュレーションだけは、毎日、続けている。
格闘家そこのけの肉体が、黒井響一郎であった。
普通の人間ならば――少なくとも、何事かに狂う程に打ち込む事なく、なあなあに過ごしている者ならば、すぐに逃げ出してしまいたくなる日常である。
勝利――
黒井の胸に、常にある言葉であった。
勝利者でなければ、意味がない――
戦前の生まれである。
第二次世界大戦。
若く見えるが、その子供時代は、軍歌を誇らしげに歌い上げていた。
欧米という大国に、小さな島国ながらも挑む日本は、黒井の中で、堪らないものであった。
多くの少年が――それ所か、物事の真贋を見極めるべき大人たちでさえ、熱くなっていた時代だ。
日本の勝利を、疑わなかった。
真珠湾攻撃。
海戦での勝利。
眼を輝かせたものばかりであった。
しかし――
敗けた。
大日本帝国が――である。
“耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……”
ラジオから流れる、大仰な言葉を、初めは理解する事が出来なかった。
大人たちが、泣き崩れていた。
何があったのか。
敗けたのだ。
日本は、戦争に、敗けたのだ。
それから、黒井の眼の輝きは、失われた。
闊歩する異国の兵士たち。
それは、まだ、許せた。
敗けるとはそういう事だ。
しかし、黒井が許せなかったのは、敗けた者たちの態度であった。
今までは、散々、
“鬼畜米英”
“米兵撃滅”
などと、声高に叫んでいた大人たちが、その鬼畜共に、媚び諂っている。
“ギブ・ミー・チョコレート”
黒井と同じ年頃の子供たちは、下手な英語で、ガムをくちゃくちゃと噛んでいる白人や黒人に、手を差し伸べていた。
敗ける事は仕方がない。
勝負とは、そういうものだ。
別に、戦争だけではない。
柔道だって、剣道だって、スポーツだって、遊びにだって、勝者と敗者がある。
勝者は敗者を見下ろす資格がある。
だが、敗者は、いつまでも敗者である必要はない。
敗北という理不尽に克己する事が出来るのだ。
しかし、それをしなかった。
復興という意味で、それを行なった者たちはいる。
それでも、取り戻せなかったものはあった。
誇りだ。
一度、自らの意思で頭を下げてしまった者は、もう二度と、顔を上げられない。
敗北はきっかけに過ぎない。
敗北しても、顔を上げる事は出来るのに、それをしなかった。
醜い――
日本の勝利を信じて、大和の男として生まれて来た誇りを持って生きて来た黒井にとって、敗者たちが浮かべる卑しい笑みは、そのように映った。
醜い事を、悪と、断じた。
敗ければ、悪……。
では、勝者は何だ。
正義――
正義とは何だ。
正しい事だ。
正しい事とは?
黒井が辿り着いたのは、生きる事であった。
しかし、生きると言っても、それは単に生命を長らえる事ではない。
生きた証しを残す事。
人生に誇りを持つ事。
例え生命を断たれたとしても、誰かがその人間の事を語り継げば、それは死ではない。
生きている事になる。
そうやって生き残る事が、正しい事だ。
勝てば、生きる。
勝てば、正義。
敗ければ、悪。
歴史が証明している通りだ。
江戸幕府の事は、今でも学ぶ事になっている。
徳川家が勝利したからだ。
だから、語り継がれている。
織田信長は、明智光秀に敗れた。
明智光秀は、豊臣秀吉に敗れた。
豊臣秀吉は、徳川家康に敗れた。
それでも、秀吉は光秀を破り、光秀は信長を倒している。
だから、名前が残っている。
正義とは、そういう事だ――
黒井は、そう思っている。
狂気があった。
感受性豊かな少年時代に受けた、敗北の痛みが、黒井響一郎に、勝利への異常なまでの執着を与えていた。
その狂気があったからこそ、黒井は、普通の人間ならば逃げ出してしまいたくなるような生き方を、平然とやっていられるのだ。
「――」
黒井は、息を吐いた。
夜、独りになると、そういう事を考えてしまう。
普段、人前では、明るい優男を気取っているだけに、孤独の闇に包まれると、腹の奥底から、どろどろとしたものが湧き上って来るのだ。
黒井は、奈央や光弘に心配を掛けないよう、いつもの父親であるように、表情を緩めた。
帰路に着く。
踵を返した時であった。
黒井は、エンジンの唸りを聞いた。
オートバイであった。
六台――
何かと思っていると、黒井を包囲するように、黒いバイクに跨った、黒尽くめの男たちが、やって来たのである。
ぱっ、
と、ライトが、黒井の全身を染め上げた。
腕で光を遮る。
「何だ――」
最初は、流行りの暴走族か何かかと思った。
しかし、人を脅す為にクラクションを鳴らしたり、変にがなり立てる様子はない。
不気味な黒い影が、バイクから降りた。
「黒井響一郎だな」
一人が言った。
逆光で顔が見えない。
黒井は答えなかった。
「お前を連れて行く」
その男が言った。
「何?」
「捕まえろ」
その指示で、他の男たちが、黒井に迫った。
乱暴に腕を掴まれる。
咄嗟に、黒井のパンチが出た。
殴り倒す。
「抵抗するか⁉」
男たちは、殺気を剥き出しにして、黒井に掴み掛って来た。
「場所も教えずに連れて行く、だなんて、怪しいだろう」
黒井は、軽い身のこなしで、男たちの攻撃を躱し、逃げ出そうとした。
タックルを仕掛けて来る男がいたが、躱して、海に叩き込んでやった。
「何だ、お前たちは」
「黙って付いてくれば良いものを……」
最初に口を開いた男が、ヘルメットを取った。
光の中に歩み出して来る。
その顔が、裂けた。
「む⁉」
と、驚く黒井の前で、その男の顔が、べりべりと剥がれ落ちて行った。
「ぐにゃーっ!」
男が、甲高く叫んだ。
男の顔の内側から、猫のような形がまろび出た。
チーターの顔である。
しかし、頸から下は、先程までの男の――人間のものであった。
「ば、化け物――⁉」
黒井が思わず口走った。
「お前も、そうなるのだ……」
牙の間から、大量の空気が抜ける。
しゃがれた声が、チーター男の口から発せられた。
黒井が駆け出した。
「逃がすものか」
チーター男は、黒いとの距離をあっと言う間に詰めてしまう。
爪を立てぬように黒井の身体をホールドすると、地面に押し倒した。
「お前も、我がショッカーの一員となるのだ」
息が掛かる程の距離で、チーター男は言った。
黒井の顔が、恐怖に引き攣っている。
若々しい顔立ちが、怯えの為に、何歳か進んでしまったかのようであった。
チーター男は、黒井を引き起こしながら立ち上がり、他の黒尽くめの男たちに、黒井の身体を引き渡した。
「連れて行け」
黒尽くめの男たちは、黒井を引き摺って行こうとした。
その時である。
爆音を上げてやって来る、クリーム色の影があった。
仮面ライダー1・2号の時代、それと黒井を演じる及川光博さんの年齢、勝利への執着……などを考えてみると、この辺りは別に不自然ではありませんよね。しかも、及川さんの年齢よりは随分と若く設定されたみたいです(45なんだ、あの人……驚愕)。