「おぅ、城ってのはお前さんかい」
秋口の、寺の境内である。
廃寺であった。
それなりの寺ではあるのだが、人も滅多に訪れない所に立っている。
廃棄されてから、随分と、立っているらしい。
本堂の正面の扉が、風化して、ぼろぼろになっている。
その奥に、金と黒の配色が五分五分になっている、阿弥陀如来の像が立っていた。
向かって右に立つ観音菩薩、左側の勢至菩薩は、腕がもげたりしている。
瓦も、殆ど落ちていた。
参道を挟むように、樹が並んでいる。
葉っぱは、見事なまでに赤く染まっていた。
涼しい風が吹いていた。
夕暮れの事である。
赤い空に、引き千切られた紅葉が舞い上がり、同じ色に溶けてゆく。
城茂は、ススキを口に咥えたまま、本堂の廊下から上体を起こした。
裾を詰めた学ランの下に、赤いシャツを着ており、胸の真ん中にはSの字が染め抜かれていた。
黒革のテカる学生帽を、頭の半分に引っ掛けるようにして、被っている。
鍔の下には、狼のような鋭い光を放つ眼があった。
本堂の中の仏像の、金箔の剥げていない部分を、真正面から夕陽が照らしている。
その沈まんとする太陽を遮るように立っている男が、茂の名を呼んだのだ。
背の高い男であった。
一八五から九〇位はあるのではないだろうか。
頸が太く、肩幅が広い。
裾が、脛まで届きそうな学ランを、素肌に直に羽織っている。
ゴムタイヤのように発達した大胸筋。
胴体には、サラシを巻いているが、ナイフ程度なら内臓まで届くまい。
学ランは特注である。にも拘らず、袖はぱんぱんに張り詰めていた。
ボンタンも、普通の学生が穿く学生ズボンと、何ら変わってないように見えた。
逆光で見え難いのだが、美男子とは言い難い顔である。
太い筆に、思い切り墨を浸けて引いたような、黒々とした眉。
鼻が潰れて、膨らんでいる。
耳が、餃子のようによじれ、カリフラワーのように膨らんでいた。
唇はぶ厚いが、かさついていた。
顎が、岩を削り出したように無骨である。
さらりとした黒髪と、鋭い眼光を持つ茂と並べてみれば、多くの異性は茂を選ぶ。
しかし、茂には存在する都会的なスマートさがないのに対して、その男には、茂にはない、人間の野生に訴えかけるようなものがあった。
その男が、夕暮れの廃寺で寝転がっていた茂に対して、呼び掛けたのだ。
「ええ、そうですよ」
茂は、慇懃な口調で言った。
しかし、インテリぶっていても、何処となく、人を莫迦にした色がある。
「姓は城、名は茂。尤も、何処のどなたさまが付けてくれたのかは知りませんがねぇ」
ふふん、
と、卑屈な笑いを浮かべて、茂は言った。
「で、おたくはどちらさんで?」
「沼田という者だ」
男は言った。
「沼田?」
「お前さんに、仲間を一人、ぶちのめされている」
「仲間⁉」
「最近、城北高校の学生と喧嘩をしただろう」
「――」
沼田と名乗った男に言われて、茂は思い出した。
茂は、城南高校で、不良グループのリーダーみたいなものをやっている。
正確には、リーダーよりも、用心棒の方が、それに近いかもしれない。
どこぞの高校と喧嘩をする事になった。助っ人をしてくれ――
そう言われれば、喜び勇んで喧嘩に加わってゆく。
そうした立ち位置であったのだが、いつの間にか、茂がリーダーのように慕われるようになっていったのである。
その件の一つが、沼田の言った事なのであろう。
「ふぅん」
と、茂が言った。
「で、おたくは、俺に何の用だい」
「分からないか?」
「おいおいおい」
茂は、薄ら笑いを浮かべて、言った。
「今日日、意趣返しなんて流行りませんぜ。良く言うじゃあありませんか、“復讐は何も生まない”なぁんて事をさ」
「――それもあるがな」
沼田が、静かに言った。
「ほぅ?」
「お前さんの話を聴いて、興味が沸いた」
「俺に?」
「ああ」
「へぇ。そいつぁ、どのような?」
「只の暴れん坊なら、もう、とっくに喧嘩を売っている所だぜ」
「俺が、只の暴れん坊じゃないって事かい」
「ああ。城南高校で、五本の指に入る秀才と聞いている」
「――」
「普段は、授業になんか顔も出さんくせに、毎日毎日、小学校からの日課で、遊びに出る前にお家に籠って勉強するような坊ちゃんなんかより、ずぅっと頭が良いってな」
「照れますねぇ」
「その上、腕っぷしまで強いっていうじゃねぇか」
沼田が、厚めの唇を、つぃと持ち上げた。
綺麗に並んだ白い歯が剥き出される。
「そんな、ツッパリとしちゃ半端な奴が、どんな面かと思ってね」
「――何?」
茂の眼が、更に、細められた。
「何と言った、貴様」
茂の口調が変わっている。
「半端だと⁉」
茂が吠えた。
「半端も半端さ。良いかい――」
沼田が、このように言う。
「俺たちはよ、勉強なんか、さらさら出来やしねぇんだ。親の言う事だって、一度も聞いた事がねぇ。だから、こいつで、どうにかしようとしてんのさ」
沼田は、拳を突き出した。
元より大きな手なのであろう。その太い指の付け根が、平らになっている。
拳胼胝――空手家のような、素手でものを叩く人間の手に顕著なものである。
喧嘩に慣れている男であった。
「勉強出来ない奴なんかな、今の大人たちは必要としてねぇんだよ。だからな、折角だ、世界で一番強くなって、そういう連中を、見返してやりたいのさ」
「――」
「だのに、お前さんと来たら、どうだ。勉強も出来る。その上、ツラも良い。だのに、こっちの世界に入って来ようとしやがって」
「――」
「いつでも向こうに帰る場所があるお前さんなんか、半端ものって事さ」
「――」
「半端もののくせして、一丁前に他人さまをぶん殴ってんじゃねぇよ、ええ?」
「――」
「そういう事を言いに来たのさ」
沼田が、鼻を鳴らして、言い終えた。
茂は立ち上がると、本堂の屋根の下から、参道に足を下ろした。
咥えていたススキを、ぺっ、と、吐き捨て、学生帽を放り投げる。
「上等じゃねぇかよぅ」
茂が、拳を掌で包んで、指の骨をばきばきと鳴らした。
「あんた、人の事を、半端半端と言う割にゃ、随分と頭が回るんだな」
「む⁉」
茂が、にぃ、と、牙を剥いた。
「要するに、この俺さまに嫉妬してるんだろう。おたくよりもずぅっと頭が冴えてる上に、喧嘩にも強い、この俺さまによぅ」
「何だと⁉」
「だから、ぐだぐだと御託並べて、俺に、やめて欲しいんだろう」
「むぅ」
「俺とタイマン張っちまったら、余計に不細工な面になっちまうなァ」
そう言いながら、茂は、沼田に向かって歩み寄った。
茂の歩みには、既に、充分な闘志が溜まっている。
間合いに踏み込んだ瞬間に、蹴りなり、パンチなりを打ち込める。
そのような気配が、茂には纏わり付いていた。
「へ――」
沼田は、前方から叩き付けられる、茂の気配を浴びながら、笑った。
猛獣が、獲物を前にした笑みである。
「話が早いじゃねぇの」
沼田も、近付いて来る茂に対して、真っ直ぐに歩を進め始めた。
参道の真ん中で、二人は向かい合った。
茂は、身長一七四センチ、体重六八キロ。
沼田は、身長一八五センチ、体重九九キロ。
「城茂だ」
「沼田五郎だ」
言うなり、二人の拳が、互いの顔に向かって打ち出された。
茂の右のパンチが、五郎の左の頬に駆け上がった。
沼田の右の拳は、茂の左の頬に打ち下ろされてゆく。
肉が肉を打ち、骨が骨を打つ、鈍い音がした。
パンチの威力で言えば、体重のある沼田の方が、ある。
しかし、茂は沼田のパンチを受けても、その場から引くような事はしなかった。
又、沼田の方も、茂の一撃でぐらついていた。
「けぇっ」
茂が、すぐさま体勢を立て直して、左の拳を打ち付けて来た。
沼田の、サラシを巻き付けた腹に、である。
腹筋を固めて、沼田が堪える。
それでも、内臓に響くような一発であった。
次の瞬間、茂の右のアッパー・カットが、沼田の顎に打ち上げられた。
歯と歯がぶつかり、火花が散るような音が走る。
「だ――!」
茂は、仰け反る形になった沼田の腹に蹴りを叩き込んだ。
じり、と、沼田の足が僅かに下がる。
「しゃっ!」
茂が、場を掴んでいた。
打つ。
打つ。
打つ。
茂は、滅茶苦茶に、沼田の身体を叩き捲った。
顔?
叩く。
腹?
殴る。
腕?
打つ。
脚?
胴体?
頭?
背中?
脛?
手?
足?
頸?
打つ。
打つ。打つ。
打つ。打つ。打つ。
打つ。打つ。打つ。打つ。
沼田五郎と名乗った男の、眼に見える部分を、全力で殴った。
素早い連打であった。
狙いは、粗い。
しかし、威力だけは、何発打ち込んでも、衰えなかった。
打撃系格闘技の定石――
それは、急所を狙う事だ。
武道・格闘技とは、極端な事を言うのなら、人を殺す為の技だ。
素手で人間を殺す手段が、武道・格闘技なのである。
しかし、打撃で人間一人の命を奪う事は、余程の体重差がなければ難しい。
だから、急所を狙うという発想になる。
頭部には、
天倒
鳥忠
人中
こめかみ
などがある。
胴体には、
村雨
秘中
檀中
水月
電光
釣鐘
などがある。
それらの部位に打撃を加える事で、頭蓋骨の縫合を外すだとか、内臓に直接ダメージを与えるだとか、そういう事が可能となる。
茂は、それをしない。
唯、殴る。
唯、叩く。
唯、打つ。
当たる場所が何処かなど、考えてはいなかった。
当てた箇所がどうなるかなど、考慮しなかった。
人体というものは、思っているよりも、ずっと丈夫だ。
その丈夫なものを、拳で叩くというのが、どういう事か。
樹の幹に、木刀を叩き付けるようなものだ。
その幹が、細く、脆いものであれば、打ち砕く事も出来るだろう。
しかし、その幹が、かなりの頑丈さを持っているのなら、木刀の方も只では済まない。
特に、茂が主に狙っているとも言える顔面は、皮膚のすぐ下に骨がある。
下手な殴り方をすれば、頭蓋骨を殴った方が、逆に拳を壊してしまう。
手の甲の骨や、指の付け根が、イカれてしまうのだ。
そのような事を、鑑みないやり方であった。
滅茶苦茶に叩く。
思いっ切り叩く。
茂は、沼田の身体に散々、拳を叩き付けて行った。
――どうだ⁉
汗を流しながら沼田を殴る茂の表情に、そんな感情が見えて来る。
腹の底に溜まった何ものかを、一斉に吐き出すような顔である。
黒々とした、鬱憤や不満を、拳に乗せて全て吐き出そうとしているようにも見える。
獣の咆哮のようなものだ。
暗雲を裂く稲妻のようなものだ。
空気をつんざく雷鳴のようなものだ。
一発のパンチと共に、城茂が叩き付けられて来る。
一発の拳と共に、城茂の存在が打ち込まれて来る。
執念――
怨念――
憤怒――
鈍器のように重く、刃のように鋭い感情であった。
その中に、僅かな哀切が込められている。
胸の中に抱いたもどかしい思い。
巧く言葉に出来ない何か。
それでも燻ぶっているもの。
人が人である限りは抱かずにはいられない――城茂が城茂たるべく為には保持せずにはいられず、同時に、城茂が城茂である為には切り捨てなければならないもの。
自らを維持するものであり、自らを破壊するもの。
大いなる矛盾。
その矛盾を持ち続けなければならないという不条理。
その不条理を抜け出したくても抜け出せぬという現実。
それらへの嘆き。
それらへの悦び。
城茂の叫びである。
人間・城茂が持つ慟哭である。
これらのものを、拳を繰り出すという行為の動力へと、変換していた。
だからこそ――
圧倒的な暴力の中に、一筋の哀しみがある。
莫大な哀しみの中に、仄かな暴力があった。
その、城茂を受け止めながら、沼田が動いた。
茂のパンチを受けるのみであった沼田が、一歩、前に出ようとした。
茂は止まらない。
しかし、茂の頭の中で、眼の前にあった沼田のイメージが、一変した。
今までは、眼に見えるままの沼田であった。
だが、足を僅かに前に出した刹那、茂が叩いていたものが、生ゴムを被せた巨岩へと変貌を遂げていた。
ぬぅ⁉
茂はパンチを止めなかった。
沼田が、拳を大きく引いた。
茂の身体に、どん、と、気配が浴びせ掛けられた。
まるで、眼の前でヒグマが立ち上がったような、肉の圧力。
茂の拳が叩く沼田の身体が、鉄のように硬くなった。
矢を射るように引いた右腕に、血管が浮かんでいる。
今にも切れそうな管は、込められた力の量を表していた。
――やば……
茂がそう思った時には、巨岩の矢が放たれていた。
一八五センチの高度から、九九キログラムの重量が、茂の顔面に向かって落下して来た。
鉄の砲弾が、水牛の突撃のような猛威を以て、襲い掛かって来た。
バーバリー・シープが、高所から頭突きを繰り出すように。
茂の鼻頭に、巨岩が触れた。
みり、と、鼻の皮膚が内側にめり込んでゆく。
骨が嫌な音を立てた。
血管が、一本一本、毟り取られてゆく。
その後に、衝撃が襲って来た。
茂は、自分の頭が、頸から吹っ飛んだような錯覚に陥った。
暗転した視界。
自分が、鳥か何かになったかのように感じた。
ぶっ飛ばされていた。
反り返った後頭部が、参道に触れ、すぐに離れた。
茂は、石畳の上で跳ね、賽銭箱に背中からぶつかっていた。
腐っていた賽銭箱が崩れ、茂は、本堂の階段の所で、何とか止まった。
「ふん」
と、沼田は、茂に折り曲げられた鼻頭を、指で元の向きに戻した。
片方の鼻の孔を押さえ、息を吐くと、空いた孔の方からゼリー状の赤いものがまろび出た。
鼻の粘膜が剥離されたのである。
張りのある肌の表面に、幾らか打撃の痕があるだけで、沼田は、ぴんぴんしていた。
「やっぱり、大した事ないなぁ」
沼田が言った。
「こんなんじゃ、俺の方が、よっぽど強ぇや」
「――っだらぁぁっ!」
茂が、叫びながら、賽銭箱から立ち上がって来た。
すぐさま、沼田に駆け出してゆく。
鼻血を吹いたままだ。
「――しゃあ、来い!」
沼田も、大きく、構え直した。