からりと晴れた日曜日であった。
その日は稽古もなく、暇があれば、結局、空手衣を着ている事になるさくらであったが、後輩からの誘いがあり、オートバイで出掛けようという事になった。
二五〇CCのバイクを、二台並べて、さくらは、二人の後輩と一緒に、神奈川県に向かった。
後輩の後ろに、もう一人、乗っている。
相澤というのが、バイクの免許を持っており、その後ろに乗っているのが吉塚だ。
事件の事に加え、呉割大学の学生たちの乱入で、神経質になっているさくらを気遣って、この二人が計画したのである。
向かっているのは、海沿いの美術館であった。
三崎美術館――
さくらは、詳しい事は聞かなかったが、建てられてからそれなりに経っているらしい。
その美術館が閉館するという事で、特別なイベントが設けられていたのである。
滅多にお目に掛かれない美術品が展示されているらしい。
さくらは、余りその手のものに興味がなかったのだが、後輩が自分に気を遣ってくれた事と、偶にはそのような場に足を運んでみるのも良いかと思った事、そして、港町で食べられる新鮮な魚介類に惹かれたからである。
東京から、バイクで神奈川県に入り、城ヶ島の方までやって来た。
朝早く出て来た為、閉館セレモニーまでは、まだかなりの時間があった。相澤と吉塚が、チケットを取っているというので、さくらは、少し付近を走り回ってみる事にした。
蒼い空に、白い雲が悠然と浮かんでいる。
潮の香りを含んだ風が、吹き付けて来た。
何かに誘われるようにして、さくらのバイクは、海の方へと向かってゆく。
島の中心を抜けて、崖の方までやって来た。
路肩にバイクを停めた。
アスファルトの道から、一歩踏み出すと、草の茂る地面が、海と空との境に向かって広がっている。
海鳴りと、風の音が、同時に聞こえて来た。
蒼い空と、碧い海と、青い地面を、同時に眺める事が出来た。
紺碧の天地の冥合に、さくらが心を奪われていた為、その景色に気付くのに遅れた。
海に臨む崖っぷちに、二つの人影を見た。
そこには、木を削り出したらしい塔が立っていた。
男の一人が、その塔の根元にしゃがみ込んでおり、もう一人の男は、しゃがみ込んでいる男の傍に佇んでいる。
何事かを話しているようだったが、さくらは、しゃがみ込んでいる方の男に、憶えがあった。
蒼いデニムの上下。
上着の背中には、赤い薔薇の花が縫い込まれている。
城茂と名乗った、あの青年であった。
さくらは、思わず、二人の男の方へと歩み寄ってゆく。
そこで、風になびく草を生やした地面が、崖の方へ近づくに連れて、変化している事に気付いた。
道路に近い部分では、健康的と言っても良い草の蒼さが保たれているのだが、海に近付くに連れ、生える草に腐敗の為らしい変色が見て取れた。
塔の中心に近い場所程、草の変色は進み、遂には草の姿さえ見えなくなり、土の色すらも、毒々しいものを放っているように見えた。
自分たちに近付いて来るさくらに、茂と、もう一人の男が気付いた。
「君は」
と、茂と、もう一人の男は、同時に言った。
さくらは、茂だけではなく、もう一人の男の方にも、見憶えがあった。
神敬介である。
さくらがやって来るより前に――
城茂は、近くの花屋で白百合を買い、オートバイを走らせ、この崖までやって来た。
草を枯れさせている中心に立った木の塔――
岬ユリ子之墓
に、花を供える為である。
前日にも、茂は、この場を訪れていた。
その前の日にも、茂は、やはり花を供えに来ていた。
更にその前の日にも、同じように、茂はこの場に足を運んでいる。
茂は、フロントに火花のような飾りのついた、赤い、派手なバイクを停めると、ユリ子の墓に向かって歩いてゆく。
と、茂が来るよりも先に、その墓の前に立っている男がいた。
それが、神敬介であった。
「よぅ」
と、声を掛ける敬介に、小さく頭を下げ、茂は、墓の傍にしゃがみ込む。
つい昨日、墓の根元に植えた花は、何週間も放置されていたかのように、腐り果てていた。
茂は、それを掘り出す作業に掛かった。
黒いグローブで土を掻き出してゆくと、地面の下から、凄まじい悪臭が立ち上がって来る。
噎せ返るような、甘い匂いは、その有毒性を物語っていた。
茂が、掘り起こした花の代わりに、純白の百合を供える。
しかし、ビニール袋から取り出したばかりの花は、すぐさま、泥の色に変わり始めるのだ。
一日も経てば、その花びらは、ずくずくと崩れ落ちてしまうであろう。
茂は、白い皮膚に、ねっとりと泥を塗られてゆくような花の姿を、努めて無表情に眺めていた。
本当ならば、その顔に浮かぶべきは、哀しみである筈なのだが、それを押し殺しているのだ。
「ここに――」
敬介が、ぽつり、と、言った。
「彼女が、眠っているのか」
「ええ」
茂が頷いた。
まだ、そこにしゃがみ込んでいる。
「おやっさんから、聞きましたか」
「うむ」
「――そう」
「お前と一緒に戦った、仮面ライダー第八号……」
岬ユリ子――
その墓に眠っているのは、城茂――仮面ライダー第七号・ストロンガーと共に、ブラックサタンやデルザー軍団と戦った、改造人間・タックルであった。
タックルは、ブラックサタンに自らを改造させ、自分が沼田五郎の仇を討つ事を高らかに宣言した城茂が、ブラックサタンの基地から脱走する際、出逢った少女である。
彼女も亦、ブラックサタンの非道な人体実験の犠牲者であった。
沼田五郎が、拉致され、強化改造人間突撃型に改造されようとしたように、岬ユリ子も、ブラックサタンにかどわかされ、電波人間として改造されたのである。
その改造人間としての名前が、タックルであった。
タックルは、脳改造の直前にストロンガーと出逢い、共にブラックサタン基地から脱出。
以降、ブラックサタン壊滅の為に旅を続けるストロンガー・城茂の相棒として、戦ったのである。
だが、ブラックサタンが瓦解した後に現れたデルザー軍団の猛攻の前に、決して能力が高い訳ではなかったタックルは、ストロンガー以上に苦戦を強いられる事となった。
タックルも、ストロンガーや、その試作型であったスパークと同様、強化改造人間に分類される。
しかし、その改造は未完成であった。故に、ブラックサタンが造り上げようとした、電波人間としてのフル・スペックを発揮する事が、終ぞ出来なかったのである。
そんな岬ユリ子・タックルは、デルザー軍団の一人である、ドクター・ケイトの持つ猛毒・ケイトガスに侵され、生命の危機に陥った。
自らの死期を悟ったユリ子は、最後の力を振り絞り、ドクター・ケイトを道連れにして逝く事を決意する。
体内の電気エネルギーを振動波に変換し、打ち込んだ相手の肉体を、超振動を用いて内部より破壊せしめる、タックル最強の技――ウルトラ・サイクロンの解禁である。
この技を用いる事で、ブラックサタンの奇械人にすら劣るタックルであったものの、大幹部クラスのドクター・ケイトの撃破を可能とした。
しかし、病に侵された上、改造が完全ではなかったタックルの肉体は、自らが引き起こした超振動の影響を受けて、同じだけのダメージを負う。
そうして、岬ユリ子・タックルは、その短い人生の幕を下ろした。
「――違いますよ」
茂は言った。
「え?」
敬介が問い返す。
茂が“違う”と言ったのは、敬介が、岬ユリ子・タックルの事を、
仮面ライダー第八号
と、称した事だ。
人類の自由と平和を脅かす組織と戦う者たちの、精神的な潮流を、
仮面ライダー
と、呼ぶ。
それは、ショッカーに改造された本郷猛と一文字隼人であり、そのダブルライダーに依って改造された風見志郎であり、彼らと同じシステムを発展させた肉体を持つ神敬介や城茂である。
更に、人類をないがしろにした力を求め、帝国を打ち立てようとしたゲドン・ガランダーから、人間を守る為に戦ったアマゾンも、仮面ライダーの名前で呼ばれている。
又、デストロンが敢行しようとした、プルトン・ロケットを用いた東京壊滅作戦を、命を懸けて阻止した結城丈二・ライダーマンも、仮面ライダー第四号の称号を、贈られている。
その事で言うのなら、ブラックサタンやデルザーとの戦いに殉じた岬ユリ子・タックルは、八人目の仮面ライダーの称号を与えられて、しかるべきであった。
「岬ユリ子は、仮面ライダーになる事はない」
茂は言った。
「もう、戦う必要はないんですよ、ユリ子は」
「――茂」
敬介が、小さく、彼の名を呼んだ。
「ユリ子は、只の女として、眠ったんだ」
「――」
敬介は、自分たちが背負った、“仮面ライダー”の名前の重さを、改めて思い出した。
始まりの男――本郷猛より数えて、七人の仮面ライダーがいる。
その肉体は、何れも、人間のものではない。
身体を機械に挿げ替えられ、他の生物の遺伝子を捩じ込まれている。
拡張された感覚が捉える、莫大な量の情報を、瞬時に捌き切れる脳を持っている。
普通の人間と、同じレヴェルで生活する事は出来ないのである。
進化した超人という意味では、仮面ライダーたちは、今まで人類に対して密かなる戦いを挑んで来た秘密結社たちと、何ら変わらない異形であった。
そんな自分たちが生きられる場所は、改造人間や獣人たちの跋扈する戦場でしかない。
異形のものたちから、人類を守る事でしか、人間に近い場所で生きてゆく事は出来なかった。
人間ではない身体で、人間を守り続ける。
人間ではない絶望を以て、かつて自分たちの身体が持っていた希望を守る――
それが、仮面ライダーという精神、仮面ライダーという生き方である。
異物の中で、息を潜めて、身体の内側の機械の軋みを聞きながら生きてゆくという事が、どれだけ厳しい事なのか、敬介にも、分かっている。
かつて、敬介は、GOD機関の策略で混乱した大人たちに襲われる少年を、守ろうとした事があった。
その時、突き出されたナイフを掌で受け止めたのだが、常人を凌駕する力を持つ敬介は、そのナイフを圧し折ってしまった。
その光景を見た少年から、
“人間じゃない”
“お前は、ロボットだ”
と、罵られたのである。
結果として、GOD機関の計画を阻止した敬介は、大人たちに折り曲げられてしまった、少年のフルートを、強化された腕力で元に戻してやったのだが、その際に呟いた、
“人間じゃないというのも、悪くはない”
という言葉が、敬介の中には残っていた。
人間ではないという事は――人間を超える能力を持つという事は、確かに、悪い事ではない。
人間が対応出来ない状況であっても、人間性を持って活動する事が出来る。
しかし、それは、人間の心を持ったまま、人間ではない何ものかへと至る事だ。
いっその事、人間ではなく、ロボットのように、或いは、今まで敬介たちが斃して来た改造人間たちのようになってしまえるのなら、その方が幸せであったかもしれない。
人間としての幸せも、超人としての祝福もなく、それでも人類の為に戦う。
仮面ライダーの名は、そのような精神に刻み込まれた、一種の束縛なのである。
本郷も、一文字も、敬介も、その名前を身体に宿している。
茂は、それが、より強い。
何故ならば、茂は――仮面ライダーストロンガーは、自ら、その言葉に依る束縛を施したのである。
ブラックサタンや、デルザーと戦う時、茂は、このように名乗りを上げていた。
“天が呼ぶ”
“地が呼ぶ”
“人が呼ぶ”
“悪を倒せと、俺を呼ぶ”
“俺は正義の戦士”
“仮面ライダーストロンガー”
人類社会を転覆させんと暗躍する秘密結社から、人間を守る為に戦う異形の戦士・仮面ライダーという都市伝説を、ブラックサタンに復讐する自分になぞらえての命名であった。
だが、岬ユリ子・タックルは、そうではない。
人の心。
機械の身体。
この二つの螺旋を背負って生きてゆける程、少女の精神は、強くはなかった。
そんな岬ユリ子に、
仮面ライダー
の名前を贈り、死せる後にも戦い続けさせる事が、茂には出来なかった。
その為、茂は、あのように言ったのである。
「――」
それを聞いて、敬介は、少しの間、沈黙した。
茂は、まだ、ユリ子の墓の傍にしゃがみ込んでいる。
「茂――」
敬介が、何らかの意を決したように、訊いた。
「何ですか?」
「若し、また、戦わねばならないとしたら――」
「――戦いますよ」
敬介が問いを終える前に、茂は答えた。
その場に座り込んだまま、敬介の方に顔を向けて、にぃ、と、笑った。
「戦いますよ」
「――」
そう言った茂の顔に浮かんだ笑みは、酷く、虚ろであった。
さくらがやって来たのは、そのタイミングであった。
明る過ぎても良くないし、ナイーブ過ぎても茂っぽくない……加減の難しい所です。