城南大学――
約七〇〇〇人の学生を擁するキャンパスの一角に、風道館と呼ばれる建物があった。
空手部、柔道部、剣道部、合気道部が、活動の場として使っている。
華道部や茶道部などが使う和室も設けられている。
裏手には、城南大学寮も建っていた。
風道館は三階建ての建物で、一階に剣道部と柔道部の、板間と畳を半分にした道場、二階には、空手部と合気道部がそれぞれ使う、マットと畳の道場、三階が、華道や茶道などの和室と休憩室になっている。
その空手道場では、夕刻の現在、組み手の稽古が行なわれていた。
自由な相手を見付けて、決められた時間、実戦形式で行なう稽古だ。
柔道で言えば、乱捕りに当たる。
試合では、主に伝統派のルールに則るが、部内での稽古であれば、フル・コンタクトで行なっている。
空手のルールには、大別して、
伝統派
フル・コンタクト
の、二種類がある。
学生の部活などでは、伝統派の方が多い。
伝統派ルールというのは、実際には相手の身体に攻撃を当てずに、勝敗を決める。
空手家の、鍛え上げた拳が、顔面に思い切り突き込まれてしまったなら、頭蓋骨が陥没し、脳に損傷が齎される危険性がある。
それを防ぐ為の、寸止めルールであった。
しかし、それでは、実際に町中で暴漢に襲われた時など、実践性を損ねるという事で、フル・コンタクトが提唱された。
完全接触の名前が意味する通り、相手の身体に、拳や蹴りを当てる。
勿論、先の理由で、顔面への手での攻撃は認めなかったり、サポーター、或いは、顔への攻撃自体は許すが、剣道の面のような防具を装着したりする。
城南大学の風道館空手部では、拳や脚にサポーターを付けて、顔への打撃は足技のみに絞るというルールで、組み手を行なっていた。
道場には、季節の事もあり、むわりとした熱気が籠っている。
見学をしているだけで、皮膚に汗が湧いて来そうであった。
組み手をしている中には、女子学生の姿もあった。
その内、体格の大きく異なる男子学生とも、平気でやり合えている学生がいた。
以前、夜道で、神敬介に声を掛けられた、あの女であった。
黒帯に、
前田さくら
と、刺繍がしてある。
ぎらぎらとした色が、まだあどけなさを残した顔に浮かんでおり、繰り出す技というのが、又、剃刀のように鋭いものばかりであった。
稽古を終えて、道衣から着替える。
さくらの格好は、前と同じ、露出度の高いものであった。
「前田先輩、まだ、続けてるんですか?」
と、後輩の一人が訊いた。
「うん」
「余り、無茶しちゃ、駄目ですよぅ?」
「分かってるってば!」
さくらはそう言って、荷物を持って、道場から出て行った。
残った後輩たちは、さくらの話題で、盛り上がっている。
曰く――
最近、頻発している行方不明事件を解決しようと、前田さくらは奔走しているらしいのだ。
わざわざ、露出の多い格好で、夜道を歩き、犯人を炙り出そうとしているのである。
正義感――と、いう事もあるだろうが、それ以上に、彼女の友人が、事件の被害者であるという事も、関係していた。
さくらの友人である彼女が、その事件の中で、犠牲となっているのである。
大学からの友人であるが、奔放な性質のさくらと、おっとりとした深雪は、出会った当初から意気投合したらしかった。
その彼女が、無残な、辛うじて人と分かる程度の姿で発見された時から、さくらは、この事件の犯人を許しては置けないと、独り、解決を目指そうとしていた。
と言うのも、警察の、この事件に対する意欲が、殆ど見て取れないからである。
表面上は、犯人逮捕に尽力するなどと言って置きながら、一向にその動きを見せない。
そうした体制から、さくらは、自らの力だけで、犯人を白日の下に晒し上げようと考えていた。
若い女一人で、無茶ではないか――と、思われるだろうが、城南大学風道館空手部の中では、或いは、前田さくらならば、という思いがあった。
さくらは、幼い頃から武技百般を習い修めており、その実力たるや、成人男性にも劣らない程である。
流石に、ヘヴィ級のボクサーと同じパンチ力などを出せる筈もなく、グローブを填めて、四本のロープに囲まれた四角いマットの上に立たされれば、それはとても放送出来るような映像にはならないが、ルール無用の街頭での戦い――早い話が喧嘩であれば、例え、体重に四〇キロ近くの差があろうと、最後に立っている事が出来る。
主に用いるのは空手ながらも、柔術にも精通しており、
打
投
極
これらの連携に、恐らく、この七〇年代後半の日本に於いて、最も早く回帰した一人であっただろう。
深雪とも、そこで話が合ったのだ。
ブラジルに留学していたという深雪は、日本の武道が、地球の反対側で脈々と受け継がれている事を知っていた。そこでは、“バレツウズ”なる格闘技が行なわれており、深雪が話したそれについて、さくらは、その“バレツウズ”が、柔術である事を理解した。
深雪の話では、“バレツウズ”は、パンチや蹴りなどの打撃、相手を斃す為の投げ技、倒した相手を押さえ込んで関節を極める――と言うだけに留まらず、相手に馬乗りになって、相手がギブ・アップをするまで、拳を落とし続ける事が可能なルールであるらしかった。
深雪が出会った“バレツウズ”を教えるコーチは、“バレツウズ”が、ブラジルの中でも治安の悪い町で、弱者が素手であっても身を守る事の出来る技術である事を教えてくれた。
そして、“バレツウズ”は、明治の頃に日本からやって来た柔術家が伝えてくれたものだとも、言っていた。
さくらの理想としていた格闘技は、その“バレツウズ”の知識を取り入れる事で、完成へと近付いてゆこうとしていた。
深雪が殺されたのは、そんな折であった。
深雪の仇を討つ為、さくらは、猟奇殺人に立ち向かうのである。
しかし、深雪の仇を探せども、すぐに見付かる訳ではなかった。
他に殺された人たちと比べて、かなり挑発的な格好で歩いている。
すぐにでも乗って来るだろうと、さくらは考えていたのだが、思いの外、アクションが掛かって来ない。
あったとするならば、先日のような、下心丸出しの――少なくとも、さくらにはそう見えた――男たち位のものである。
隙だらけの格好が、寧ろ、犯人を警戒させてしまうのであろうか。
さくらは、いつまでも仕掛けて来ない犯人をもどかしく思いながら静まり返った、夜の町を歩いている。
不気味な程の静寂に包まれた町並みである。
温い風が、ゆらゆらと漂っている。
じっとりと皮膚の底から塩分が染み出して来る。
その汗の不快感が、さくらのささくれた心情を、更に煽っていた。
独りであった。
たった独りの道であった。
と――
「ぎゃ――ッ!」
悲鳴が、聞こえて来た。
さくらは、顔を上げると、声の方向へ向かって走り出した。
どうやら、この日、犯人が現れたのは良いが、その魔手が伸びたのは自分ではなかったようだ。
さくらは声のした方向へと駆けてゆく。
五分程走った所で、曲がり角に差し掛かり、さくらは転倒した。
何かと思うと、地面がぬめりとした液体で濡れていた。
立ち上がり、転んだ際に液体の付着した、露出した脛の辺りを拭ってみると、暗闇に翳った黒々とした液体は、血液であった。
それが、向こうの道へと延びていた。
視線を前に向ければ、そこには、女の顔があった。
顔を思い切り反らして、顎を天に向けている。
髪の生え際が、アスファルトの地面を擦っていた。
その頬に、赤い筋がだらりと垂れ下がり、血の油脂が、ぎょろりと剥かれた眼球を覆っていた。喰い縛った歯の奥から、溢れ出した鮮血である。
暗闇に浮かび上がった、赤く縁どられた蒼い頭が、逆さまになって、引き摺られてゆく。
その奥を見てみれば、脚が持ち上がっていたのだが――つまり、片脚を何者かに引っ張られている――、さくらの方から見るその脚は、膝の裏が見えていた。
仰向けになっている身体を引っ張ったなら、見えているのは膝頭の筈である。
掴まれているのは足首らしいが、さくらには、脹脛が見えている。脛ではない。
よくよく地面に近い所を見てみれば、頸の辺りにねじれた肉があった。
女は、頭を一八〇度捻転させられているのだ。
さくらは、背中を駆け上がるぞわりとしたものに、悲鳴を上げそうになった。
口元を両手で覆って、声を伸び上がらせるのを抑え込んだ。
しかし、その気配に気付いたのか、女の身体を引き摺っている犯人が、さくらの方を向いた。
さくらは、咄嗟に、曲がり角に引っ込んだ。
女を引き摺る音が止まる。
後方を、犯人が確認しているらしい。
さくらに気付いていなかったのか、それとも、気付いた上で見逃したのかは、さくらにはまだ分からなかった。
しかし、
ずり、
ずり、
と、女の身体を引き摺る音が再開した事から、現場から、遺体と共に去ろうとしている事が分かった。
さくらは、顔から手を外して、深く呼吸をした。
そうして、曲がり角から、そぅっと顔を出した。
犯人は、黒い姿であった。
黒いと言っても、服装ではない。
肌が黒い。しかも、それは地の肌の色ではない。黒い膜のようなものを、全身に張り付けている感じであった。
顔は良く見えない。
だが、振り返りそうになった一瞬の記憶を蘇らせると、仮面を被っていたように思う。
その姿を、脳内で反芻してみた。
仮面――
黒い……タイツか何かであろうか。
さくらの唇に、小さく笑みが浮かんだ。
何だ――と。
只の不審者か――と。
そう思った瞬間、さくらの心臓の中で、血液が業火の勢いで燃え上がった。
ごぅ、と、さくらの血流が鳴っている。
犯人だ。
友達を、無残な姿にした殺人者だ。
それを、見た。
見たから、何だ?
見ただけで終わるのか?
違うでしょ――
と、さくらが、自分に言う。
違うでしょ、そうじゃないでしょ、やるべき事があるんでしょ――
心の中で、何度も言う。
何度も思う。
何度も叫ぶ。
やる事は分かっている。
やる事は分かっているのだ。
――良し。
と、さくらは覚悟を決めた。
立ち上がる。
曲がり角から、顔を出した。
さっきよりも離れているが、まだ、走れば追い付く距離だ。
走って、後ろから声を掛けて、振り向いた瞬間に、蹴りをぶち込める。
いや、声を掛ける必要などない。後ろから襲い掛かって、その一撃で昏倒させてしまえば良い。
さくらは、その一瞬の為に、自らの気を高めてゆく。
ゆく――!
そう思って、曲がり角から足を一歩踏み出した時――
「――⁉」
後方で、アスファルトを踏む靴の音を聞いた。
振り返ったさくらの顔に向かって、黒い掌が突き出されて来た。