第一節 暗黒
月の光の届かない、森の中の事であった。
湿り気を帯びた、草木や、土の匂いが、辺りに充満している。
都会の空気に慣れた人間が、そこに放り込まれ、肺いっぱいまでその香りを吸い込んでしまうと、それだけで、身体の中の何かが書き換えられてしまいそうだった。
ねっとりと、夜の空気が、皮膚に張り付いて来る。
泥の匂いが持ち上がり、身体を覆ってしまいそうである。
温い風が奔ってゆく。
木葉や枝を撫でて、音を立てる風である。
それは、樹木の呼吸であった。
うろの間から、息が吐き出されているように思ってしまう。
無数の樹が、同じように呼吸をして、その積み重なりが、風の音のようにも思えてしまう。
その中で――
がつ、
がつ、
と、硬い音がしていた。
太い枝を切り出し、それで、樹の幹を叩くような音。
石で、石を打ち付けるような音。
暗闇の中に、そんな音が響いている。
その周辺には、森のそれとは違う匂いが、沸き立っていた。
血臭――
昏い森の中であるから、分かり難いかもしれないが、その周辺には血が撒かれている。
黒っぽい水溜りのようにしか、見えない。
だが、漂って来る鉄の匂いは、紛れもない血のそれである。
その匂いに導かれるようにして、一頭の犬がやって来た。
樹の陰から、すぅ、と、顔を出す。
元は、猟犬である。
人間に連れられて、山の中に入ったは良いが、ハンティングの最中に飼い主の傍を離れてしまい、そのまま置いて行かれてしまった。
そうして野生化する犬は、決して少なくはなかった。
その猟犬は、濃厚な血の匂いに誘われて、そこにやって来たのである。
少し開けた場所であった。
そこを覗き込んだ時、犬の眉間に向かって、何かが跳び掛かって来た。
犬は、それに頭蓋骨を貫かれ、脳を傷付けられて、絶命した。
どさり、と、倒れる犬の遺体に、血の香りを纏った男が歩み寄る。
開けた場所の真ん中に腰を下ろして、
がつ、
がつ、
という硬い音を鳴らしていた男である。
男は、左手に棒状のものを持っていた。
男が握っている所から、先に向かうに従って膨らんでゆき、その先は途切れている。
先端から、白っぽいものが覗いていた。
脚だ。
獣の後ろ脚であった。
それを、股関節から引き千切っていた。
男の口元からは、血が垂れており、どうやら、その脚を喰っていたらしい。
硬い音の正体は、男の歯が、犬の骨にぶつかる音であったのだ。
男は、左手に持っていた犬の脚を口に咥え、倒れ込んだ犬を左手で持ち上げて、さっきまで自分が座っていた場所に放り投げた。
脳から溢れた血液が、そこに積み上げられた、他の犬の死体の上に、どぶりと垂らされた。
男は、既に何頭もの犬を殺しており、それを喰らっていたらしい。
元の場所に腰を下ろすと、男は、犬の頭に刺さったままのものを引き抜いた。
それは、巨大な、鉄の鉤爪であった。
男は左手でその鉤爪を持ち上げると、手首から先のない右腕に被せた。
義手――と、言うには、余りにも禍々しいそれは、赤黒い錆が浮かんでいる。
男は、口に咥えた犬の脚を咀嚼しながら、右腕の巨大な鉤爪で、今、殺した犬の身体を解剖し始めた。
腹の中に爪を潜り込ませて、肉を裂いて、そこに顔を突っ込んでゆく。
血の滴る音を、顔中で聞きながら、男は、犬のはらわたを喰わっていた。
その歯が、肋骨などに当たって、
かつん、
と、硬い音を立てている。
内臓をあらかた喰い終わった男は、新しい犬の脚を切り落とした。
その太腿に、かぶり付いてゆく。
最初に咥えていたものと交互に、その肉を喰らっていた。
と――
ざぁ、
と、梢の鳴る音がした。
男は、眼を細めて、音の方向を向いた。
今のは、自然の風ではなかった。
何者かが、森の中で動いた音であった。
そして、それは、この猟犬のような、獣の立てる音ではなかった。
男はその場に立ち上がり、暗闇の奥を睨んだ。
湿った泥の上を踏み、落ちた小枝を踏み折る音がした。
男は、右腕の鉤爪を、緩く持ち上げた。
森の闇の中から、ぬぅ、と、顔を出して来たものがあった。
人間であった。
夜、しかも、真っ暗な森の中だというのに、サングラスを掛けている。
闇に溶け込むような、黒いコートを着ていた。
「旨そうだな」
コートの男が言った。
「俺にも、少し、分けてはくれないか」
「――」
鉤爪の男は、警戒を解かない。
こんな時間、こんな場所に、こんな格好で人間が来られる訳がない。
とすれば――
「――じゃっ!」
鉤爪の男は、コートの男に向かって、犬の死骸を蹴り飛ばした。
物言わぬ獣の骸は、コートの男に向かって飛来した。
コートの男は、樹の陰に隠れた。その樹の幹に、犬の死骸がぶち当たった。
その間に、鉤爪の男は、反対側の木々の隙間から、走り去って行った。
「ふん」
コートの男は、小さく鼻を鳴らした。
鉤爪の男は、逃げている。
あの黒いコートの男が、偶然、ここにやって来たのではない事は明らかだった。
若し、何かの目的があるならば、それは自分であると思った。
そして、そうならば、自分にとって良い事ではない筈だ。
だから、鉤爪の男は、逃走を図った。
情けない事ではある――
そう思っているが、死ぬタイミングも場所もなくなった自分は、こうして逃げて、生き延びる他にはないのだとも思っている。
男は、泥を踏み締め、木々の間を駆け抜けた。
常人ならば、この暗闇の中で、獣と同じか、それ以上の速度で走り抜ける自分に、追い付ける筈がない。
仮に、常人ではなかったにしても、この場所にすっかり慣れ切っている自分を、昨日今日、この森に足を踏み入れた人物が追って来るのは、難しい。
その僅かな難しさが生む僅かな時間で、鉤爪の男は、逃走を考えていた
だが――
追って来ている。
自分を追う者の存在を、男は感じ取っていた。
まるで猿のように素早く、この森の闇を駆け抜ける者がいるのだ。
男は、何度か方向転換をして、相手を撒こうとしたが、全て読まれてしまっている。
それ所か、何処かしらの場所に誘導されている可能性もあった。
「むぅっ!」
鉤爪の男は、足を止めた。
森を抜けて、川原に出ていたからだ。
昏い水面に、白い流れが見えて、月が映り込んでいる。
対岸に、男が立っていた。
白いスーツを着た男だ。
白いスーツの男は、持ち上げた右手の指先に火を灯すと、咥えた煙草の先端に近付けた。
森の中に、煙が吐き出される。
煙草の先で、赤い光が小さく燃えていた。
白いスーツの男の眼が、ぎらりと光り、鉤爪の男を睨んだ。
背筋に、ぞくりとしたものが奔った。
鉤爪の男は、男が川を渡って来る前に逃げ出そうとしたが、振り向いた先には、森から抜けようとしている黒いコートの男の姿を見付けてしまった。
黒いコートの男を避けて、別の道から抜けようとした鉤爪の男であったが、ふと、月が翳った。
見上げてみれば、恐らく、高い樹のてっぺんから跳躍し、鉤爪の男に向かって落下して来る人物があった。
それは、革のジャケットを羽織った、ざんばら髪の男だ。
ざんばら髪の男は、空中で身体を捻りつつ、鉤爪の男の前に着地した。
猫のような――と、言うよりは、飛蝗が、草むらから草むらへと飛び移るのに似ていた。
「う」
と、鉤爪の男は呻いた。
明らかに、この男たちは、常人ではない。
「糞ぅ」
と、叫ぶと、鉤爪の男は、右腕の爪で以て、眼の前のざんばら髪の男に切り掛かった。
ぎらり、と、月光を反射して光る巨大な爪。
しかし、ざんばら髪の男は、左腕の腕刀で鉤爪の男の手首を打ち上げ、爪での攻撃を止めた。
そうして、右のパンチを繰り出して、鉤爪の男のボディを叩く。
「ぐぃ」
身体をくの字に折り曲げる鉤爪の男。
ざんばら髪の男の左足が跳ね上がり、更にその鳩尾に吸い込まれて行った。
前蹴りは、普通、中足を返して蹴り込むが、ざんばら髪の男は、前蹴りの軌道を取らせながらも、ブーツの爪先で、鉤爪の男の腹に蹴り込んで行った。
倒れ込む、鉤爪の男。
「ひぃぃっ」
と、鉤爪の男が、身体を丸めた。
鉤爪の男に向かって、三人の男たちが歩み寄ってゆく。
と――
「よし給え、ユーたち……」
暗闇の中から、声が聞こえて来た。
三人の男たち――黒井響一郎、松本克己、呪ガイストが足を止めた。
見れば、いつからそこに立っていたものか、一人の老人が、三人と、鉤爪の男を眺めていた。
白い髪と髭が、茫々と伸びている。
黒いマントに身を包んでいた。
身長は、黒井やガイストと同じく一七五センチ程である。
「何者だ、あんた」
黒井が訊いた。
「俺たちの邪魔をするのかい」
「であれば、容赦は出来んぞ」
克己とガイストが、続けて言った。
「退きなさい――」
と、森の中から、姿を見せた女が言う。
マヤであった。
豊満な身体を、無理に、男物のタキシードに押し込んでいた。
タイを結んだ胸元が、今にも弾けそうになっている。
肩まである黒い髪は、頭の上で結わえていた。
「その人は、私たちの同志よ」
マヤが言う。
と、老人は、愉快そうに笑った。
「成程、では、ユーたちがそうでしたか」
「――こいつはどうする?」
黒井が、鉤爪の男を見て、マヤに問う。
「彼に任せるわ。私たちは、退きましょう」
「――分かった」
マヤが森の中に消えてゆくと、それに、黒井たちも続いた。
残ったのは、白髪の老人と、鉤爪の男だけであった。
「無事かね、ミスター」
と、鉤爪の男に歩み寄る老人。
差し伸べられた手を、左手で握ろうとした鉤爪の男だったが、
「ぎゃああっ!」
と、声を上げた。
老人が手を伸ばす時に、マントが自然と開かれたのだが、その隙間から見えたものに対して、悲鳴を上げたらしい。
老人の腰にはベルトが巻かれており、そのバックルには、曲がりくねった蛇の紋章が刻まれていた。
「ご心配なさらず、ミスター」
老人は、にこやかな笑みを浮かべて、後退る鉤爪の男の傍に膝を着いた。
「私は貴方の味方ですよ」
「――し、信じられるか……」
鉤爪の男は、絞り出すようにして、言った。
「貴様らの事など、信じられるものか!」
「――ほぅ」
「わ、我々を裏切った奴らの事など、誰が信じるものか⁉」
「――」
「デルザーめ……!」
鉤爪の男の顔に、さっと筋が浮かんだ。
白髪の老人は、その姿を見て、立ち上がると、自らのマントを開いた。
そうして、腰を飾っていたバックルを引き千切ると、川原に投げ捨て、踏み砕いてしまった。
鉤爪の男は、その様子を見て、呆気に取られている。
「これで、信じて頂けますかな?」
「――あ、あんたは?」
まだ、完全に信じ切ってはいないようであったが、鉤爪の男には、老人の行為がどれだけのものであるのか、分かっているらしかった。
「ミーは、暗黒大将軍」
老人はそう名乗ると、
「ミスター・デッドライオン、貴方を迎え入れに来ました」
と、鉤爪の男――デッドライオンに、手を差し伸べた。