第一節 暴発
風を切る。
クリーム色の車体が、唸りを上げて、コーナーを曲がった。
タイヤのゴムが擦れる。
おー!
おー!
観客たちが、声を張り上げていた。
アナウンサーが、マイクを使っているとは言え、それに負けじと、大声を出す。
無数の、機械の群れの轟きが、サーキットを支配していた。
フラッグが振られる。
先頭を走るマシンが、ぶっちぎりの一位でゴールしたのである。
黄色い歓声が上がる。
女性のファンが多いレーサーであった。
「ひゅーっ」
と、その男は口笛を吹いた。
ベレー帽を被り、ツナギを来た男だった。
赤いスカーフを巻いている。
頸からはカメラを提げていた。
「大したもんだな――」
男は、観客席から去って行くと、ヒーロー・インタビューを受けているであろう優勝者の許へ、駆けて行った。
テレビのカメラも入っている。
その中のフラッシュの一つに、自分もなるのであった。
「ちょいと失礼」
すっ、すっ、と、人の群れを掻き分けて、男は、レーサーを囲むファンやインタビュアーの前の方に位置した。
シャッターを切る。
後からやって来た男に気付いたのか、レーサーは彼の方を向き、爽やかに笑んで見せた。
キザったらしいが、何でも許してしまえそうな、甘い笑みであった。
「
と、インタビュアーの一人が、マイクを向けた。
かなり興奮しているようであった。
「今回も見事な走りでしたが、勝因は何でしょうか」
似たような質問が、レーサー・黒井
黒井響一郎は、余裕のある表情で、それに答えようとする。
と、人波の脇の方から、一人の女性がやって来た。
花束を持っている。
足元には、五、六歳になるであろう子供が、女性の服の裾を掴んでいた。
黒井響一郎が、
「この二人です」
と、言った。
黒井の妻と息子であった。
妻・奈央は、頬を赤く染めながら、勝利を飾った夫に、花束を手渡した。
奈央の頬に唇を当て、黒井は、息子の光弘を抱き上げた。
家族の揃った所を、写真に撮る。
――家族か。
と、ベレー帽の男が、心の中で呟いた。
男には、家族がいない。
元から、天涯孤独の身の上であった。
美人な妻と、可愛い息子のいる黒井響一郎を、羨ましいと思わないではない。
「黒井さん――」
男が声を掛けた。
ドスの利いた声は、歓声の中でも、黒井の耳に届いた。
黒井が、男のカメラに眼を向ける。
にこりと、家族で微笑んだ。
彼らをファインダーに収めて、シャッターを押す。
そのタイミングで、男は、背中の方から押されて、バランスを崩した。
と――
どんっ、
と、大きな破裂音がして、コンクリートの地面が、大きく抉れていた。
「えっ――」
そのへこんだ地面を見て、男は、驚き、眼を剥いた。
一文字隼人のカメラから、小さな爆弾が投下されたのである。
「こ、こうしちゃおれん!」
と、立花藤兵衛は、お気に入りのキセルを口から放り出しながら、立ち上がった。
立花レーシングクラブの事務所で、テレビを観ていたのである。
フォーミュラ・カー・レース――今で言う、F1グランプリである。
藤兵衛の場合、レースと言っても、モトクロスの方である。
一緒にテレビを観ていた滝和也や、今はいないが本郷猛など、優秀なライダーを育てている。
バイクに乗るのが、余り巧くなかった一文字も、彼のお蔭で、今では飛行機乗りをこなしてさえいる。
そんな藤兵衛が、フォーミュラ・カー・レースにチャンネルを合わせていたのは、
“隼人兄ちゃん、今日、このレースの写真を撮りに行くんだってさ”
と、楽しそうに言う石倉五郎の為だ。
それで、中継を観ていると、滝和也もソファに座り込んで来た。
「あの黒井さんって人、格好良いわねぇ」
「お嫁さんになりたいなぁ」
「でも、もう結婚してるみたいよ」
と、マリ、ユリ、ミチらが言っていた。
スナック“アミーゴ”で働いていたひろみの友人であり、立花レーシングの会員である。
最初は、
“五〇CCをすこーし”
とか、
“私は空手!”
“アタシはフェンシング”
などと言っていて、クラブの未来を憂えていた藤兵衛であったが、憎めない子たちであった。
「へぇ、まだ、若そうなのに、綺麗な嫁さん貰うじゃないの」
と、滝が言った。
「何言ってんだい、滝兄ちゃん」
五郎が声を上げた。
「滝兄ちゃんだって結婚してるだろ」
「とと……」
「そーよ、滝さん」
「偶には、奥さんに顔出して上げたら?」
「こんな所にばっかり入り浸っていないでさ」
と、三人の女の子たちから、刺々しい視線を向けられる。
こんな所とは何だ――と、今にも言い出しそうな藤兵衛の傍で、滝は困ったように頭を掻いていた。
洋子という妻が、いるにはいるが、その結婚には些か複雑な事情がある。
「しかし、この黒井っての、お前さんよりも年上だって言うじゃないか」
藤兵衛が、キセルから煙を吐き出していた。
「本当ですか」
「ああ、らしいぞ」
「あッ」
五郎が、画面を指差した。
黒井がヒーロー・インタビューを受けている所だ。
画面の端の方に、見慣れた顔が出て来た。
「あーっ、隼人さん」
と、マリが言った。
「お、どれどれ」
藤兵衛も、画面に見入った。
そうしていると、あの事件が起こったのである。
一文字のカメラから、小さな爆弾が飛び出して来て、黒井の足元で爆発したのだ。
「えッ⁉」
ぎょっとして、立花レーシングの一同が、声を上げた。
画面の中で、一番驚いているらしい一文字隼人を、警備員たちが取り押さえた。
黒井が、妻子を庇いながら、一文字を唖然とした顔で眺めていた。
そうして、冒頭の台詞である。
「おい、滝、行くぞ!」
「あいよ、オヤジ!」
藤兵衛と滝が立ち上がり、店の外に飛び出して行った。
「滝兄ちゃん、俺も」
と、五郎が腰を持ち上げるのだが、
「莫迦野郎、子供が来る所じゃねぇ」
と、滝に一喝されてしまう。
その二人と擦れ違うようにして、キッチンでコーヒーを淹れていたひろみが事務室にやって来たのだが、鬼気迫る顔の男二人に気圧されてしまった。
「どうしたの?」
「あ、大変なのよ、ひろみ。今、隼人さんがね」
と、ユリが説明しようとする。
すると、ミチが、ひろみが持っているものに気付いた。
「ねぇ、ひろみ、それって――」
「え? ああ、これ……」
ひろみは、そのカメラを持ち上げて、ユリたちに見せた。
「今日、隼人さんお仕事だって言ってたけど、これを忘れたら、何も出来ないじゃない」
一文字隼人の愛用のカメラであった。
「むぅ……」
街頭テレビで、その様子を見ていた男は、低く唸った。
くせ毛に、濃い目の顔立ち。
紺色の、ダブルのジャケットに、白いパンタロン。
カメラマンのカメラが暴発し、地面が爆発したのである。
決して大きな爆発ではなかったが、普通の人間を殺すには充分な威力であった。
そうして、輪を掛けて驚いていたようなカメラマンを、警備員たちが取り押さえる。
アナウンサーが、この異常事態を、早口で伝えていた。
男の傍で、同じようにテレビを観ていた人々が、ざわついていた。
今の爆発は、故意なのか。
事故で、カメラがあんな風に爆発するのか。
故意だとしたら、何の為なのか。
それが分からない。
分からないから、色々と、憶測をする。
しかし――
その男だけは、分かっていた。
そこに、何ものかの策略が絡んでいるという事だ。
そのカメラマンが、一文字隼人が、嵌められたという事を、男は分かっていた。
「ショッカー……」
男――本郷猛は、ぽつりと呟いた。
ヨーロッパから、舞い戻って来た男であった。