ガキの時分――
親父の事が嫌いだった。
先ず、自分の名前からして、俺は、大嫌いだった。
呪――
そんな名前を与えられて、良い気分なんか、しよう筈もない。
しかも、名前と言ったって、下の名前じゃないぞ。
苗字だ。
姓だ。
名前の方なら、幾らでも、変えてやれる。
しかし、苗字となると、中々変えてやる事が出来ない。
婿養子にでもなれば別なのだろうが、特別な事情がない限り、俺は、いつでもそう呼ばれる。
呪さん。
呪くん。
呪さんの所の。
その字が持っている、余り好ましくないイメージから、人は、俺を避ける。
しかも、音が良くない。
のろい。
ノロい。
のろまだと莫迦にされた。
のろまというのが、俺のあだ名だった。
そんな事を言われるから、俺は、初対面の人間にも、どんくさいのだと思われた。
俺が駆けっこで一等賞になると、そんな事は払拭してやれる。
けれど、俺がそう呼ばれている事を気にした先生が、
“普段から、皆、呪くんに酷い事を言っているけれど、全然そんな事ないからね”
とか、俺を庇うような事を言うと、俺は寧ろ惨めったらしくなってしまう。
ノロいくせに一等賞だなんて生意気だと、そんな風に言われる事もあった。
それは、良い。
そんな事は、どうだって、良いのだ。
そんな事は幾らでも我慢出来た。
我慢出来ないのは、親父だった。
研究ばっかりに没頭していて、俺や、母さんの事は相手にしてくれなかった。
母さんは、良い女性だった。
“お父さんの事、悪く思っちゃだめよ”
そんな事を良く言っていた。
俺が、親父が遊んでくれない事を愚痴った時だ。
頭でっかち。
がり勉。
研究バカ。
そういう事を言うと、母さんは、いつだって親父の事を味方した。
或る時、学校から帰ると、母さんが、顔に痣を作っていた。
どうしたのか、と、俺が訊くと、何でもないとか、そこら辺にぶつけただけとか、そういう事を言った。
嘘だ。
本当は、俺は、知っているのだ。
親父に殴られたのだ。
親父は、いつもは大学の研究室に籠っている。
けれど、偶には家に帰って来て、論文を読み漁ったり、小難しそうな理論を組み立てたりしている。
そういう時に、母さんは、茶や飯を運んでやるが、親父の機嫌が悪い時に出くわすと、ぶん殴られたりする。
お盆に載せた湯呑みを引っ繰り返されて、太腿に火傷を作ったのを、俺は知っている。
親父はそれを謝りもしない。反省もしない。
だのに、お袋は何でもないと言い張ってしまう。
それが気に喰わなくて、俺は、一度、親父に言った事があった。
何で母さんを殴るのだ。
何で母さんに暴力を振るうのだ。
“五月蠅い”と、一蹴された。
親父は俺をぶん殴り、蹴っ払い、棒で引っ叩いた。
その夜、親父は、お袋を犯した。
“お前、××に言ったな”
と、親父の言う低い声を、俺は聞いている。
全身、ぶっ叩かれた痛みにやられて、布団の上でダウンしている時だ。
襖の向こうから、親父が、母さんに詰め寄っているのが分かる。
母さんは何を言う機会も与えられずに、親父に荒縄で縛られて、先端をササラにした竹の棒で叩かれていた。
一通り、その暴力が終わると、今度は、尻を高く掲げさせられていた。
尻の外側から両手をあそこにやり、自分で開いて、脚の間から顔を出して、親父に向かって、卑猥な言葉を強要されていた。
親父は、生ゴムか何かで成形したらしいもので、母さんを貫いた。
親父が自分のものを出す事は、なかった。
親父は不能だった。
只の一度だけ、それが使えるようになり、その時が、俺が出来た時だった。
それ以降は、ずっと、親父は役に立たなくなった。
親父は、自分の不能を、母さんの所為にした。
自分は出来ないのに、俺が生まれた事が、益々、母さんへの負の感情を膨らませた。
あの一度だけで、息子が出来るものか。
きっと、他に男を作っていたのだ。
親父はそんな風に思い込んで、母さんや、俺を、決して好いてはいなかった。
俺は、中学で、柔道部に入った。
剣道や空手もやった。
親父が、母さんや俺をぶん殴るのを知っていたからだ。
自分と母さんの身を守る為に、俺は、空手を習い始めた。
高校が決まり、中学卒業を間近に控えた頃、親父が、母さんを殴っている現場に出くわした。
よせ――と、俺は、親父を母さんから引き剥がした。
親父は、元から身体が強い方ではない。
痩せ細った親父の腕が、お袋の肉をぶっている所は、正直、想像が付かない。
俺は、武道だけではなく、色々なスポーツにも手を出していた。
陸上でも、野球でも、アメフトでも、一番だった。
それも、親父が、俺を、自分の子供ではないと疑う原因だった。
その日が契機だった。
親父は、俺に対して、今までの不満を全部ぶち撒けた。
お前の母親は浮気をしていたのだ。
お前は俺の子供ではないのだ。
そのくせ俺の金で学校へ行っているのだ。
俺は、頭の中で、何かが切れる音を聞いた。
俺は親父をぶん殴った。
何発も殴った。
親父が母さんをぶん殴った時よりも、親父が俺をぶん殴った時よりも、ずっとずっと、拳を落とし捲った。
親父の顔はぶくぶくと膨れ上がった。
親父は、俺が胸倉を掴んでいる手を両手で包み込み、
俺が悪かった。
許してくれ。
許してくれ。
と、涙ながらに懇願した。
手を離すと、土下座までしくさった。
顔を上げろと言ったら、余計に縮こまってしまった。
まるで虫のようだった。
こんな虫の為に、殴られ続けていたのか――
俺も、母さんも。
酷く空虚な気分だった。
こんな――
こんな愚劣な男を、俺は恐れていたのか。
出て行け、と、言った。
二度と、俺と、母さんの前に、顔を出すな、と。
親父は、自分の書斎にあった本などを纏めて、その日の内に、家から出て行った。
母さんは、その少し後で、病で臥せり、死んだ。
俺は、独りだった。
高校へ入った。
学費は、自分で稼いだ。
親父の研究は、それなりに人の役に立っているらしく、その印税みたいなものが、家にはちょっとばかし残っていた。
それは、使いたくなかった。
だから、毎夜毎晩、すぐに給料の貰える仕事をやり、自分の金を稼いだ。
何故、警察官になろうと思ったのか。
親父が、この世のゴミだったからだ。
ああいうゴミが、きっと、世の中を悪くするのだろうと思った。
それを片付けられるのが、警察という組織だと、思っていた。
人間がゴミばかりじゃない事を、俺は知っている。
俺の母さんは、菩薩のような女だった。
親父にどれだけ乱暴されようが、いつでも良い妻、良い母親であろうとした。
そんな女が、尽した相手に犯されて、病気になって、決して幸せではないままに死んでしまうなんて、間違っていると思った。
そんな間違いを正せるのが、警察なのだと。
だが――
しかし。
やっぱり、人間はゴミだ。
俺が警官になってから、一体、幾つの手首に手錠を掛けてやってのか。
何度、人に向かって引き金を引いたのか。
悪い奴らをぶん殴り、極悪人の血を飛沫かせて、白いスーツを赤く染めても。
世の中は、ちっとも、良くなりやしない。
ゴミだ。
屑だ。
あれと同じだ。
空を汚す煙と同じだ。
海を汚す油と同じだ。
それだって、元はと言えば、人間が作り出したものだ。
人間の中に、時に、俺の母親のような善人が生まれる事は分かる。
それが人間の本質――俺が思う本当の人間だ。
けれど、その本質が、全く以て押し潰されているような世の中だ。
だから、決して悪ではない人間の本質が、捻じ曲げられているのだ。
そうでなければ、自分の身勝手で、人の子供を殺すような連中が、長い間、のさばっていられる訳がない。
人間は、ゴミだ。
人間は、屑だ。
アポロガイストと黒井は、地面に転がりながら絡み合いのた打ち回りながら戦っている。