克己は先ず、一文字隼人として、黒井響一郎の写真を撮りに行った。
フォーミュラ・カー・レースで、彼が優勝した時、既に一文字は捕らわれており、その後、立花レーシングに出入りしていたのは、全て克己であった。
黒井を殺害する事が目的ならば、この時に行なう事が出来たが、必要だったのは、一文字隼人に対する不審を彼の中に留めさせる事だ。だから、小型爆弾を仕込んだカメラを持ってレース場へ赴き、敢えて、暴発させたのである。
時を同じくして、本郷猛がヨーロッパから日本へ戻るとの情報をキャッチしたショッカーは、本郷から立花レーシングへの手紙を作成した。
炙り出しで、如何にも、“本郷がショッカーを警戒している”風を装ったのである。
その炙り出しに用いたのは、改造人間にしか分からない程、臭気を薄めた液体だ。立花藤兵衛や、滝和也には、只の白紙としか思われない。
それを、一文字に扮した克己が、教えてやる。この事で、後々、本郷から不信感を抱かれる事になるが、それが目的である。
マヤは、一文字(克己)が、滝のFBI権限で釈放される――前例があった――と、黒井を誘拐する為に動いた。マンションへ乗り込み、ハリケーン・ジョーと共に彼の身柄を確保する。
その際に本郷と擦れ違ったのは、マヤの狙っていた通りである。本郷が、立花レーシングに向かう為のルートを予想していたのだ。
ショッカーのマークの付いた車で走っていたのも、その為である。若し、その時に本郷と出会わなければ、車をぐるぐると走らせる心算であった。
本郷が、チーター男とハリケーン・ジョーと戦っている所に、仮面ライダー第二号に扮した克己を向かわせる。ハリケーン・ジョーは、偽物の仮面ライダーである克己が始末しようとしたが、本郷が打ち倒してしまった。結果として、情報を守る為に、ハリケーン・ジョーは自害した。
本郷と共に立花レーシングに向かった克己は、敢えて、小瓶を落とした。炙り出しに使った液体を入れた瓶である。
一文字が新しいアパートに引っ越したという情報も、勿論、知っていた。その上で、自分は一文字隼人ではないとアピールして、本郷に、変装である事を見破らせた。
ショッカーのバイク部隊を潜伏させていたモトクロスのコースに、本郷を誘き出して、そこで、克己は、通常の戦闘員の振りをして、本郷に斃される芝居を打つ。
本郷がライダーに変身するとほぼ同じタイミングで、一文字が覚醒するように、マヤは、彼に打ち込んだ毒の量を調整していたらしい。
その一文字の傍には、黒井を眠らせて置いた。
一文字と本郷は連絡を取り合って、滝に黒井を救出に行かせる。
この時に意外と作戦の肝となるのが、チーター男であった。
“我々ショッカーは、そんな卑劣な真似はしない”
一文字の前で、一文字ではなく黒井響一郎に、そう言い聞かせた。
変身する事なく、一文字と戦った。
混乱している黒井に、ショッカーが筋の通った者たちの集団であると、少しでも刷り込む為であった。
黒井が滝と共に去り、入れ違うように本郷ライダーがやって来て――
つまり、克己を含む戦闘員たちを、全て斃し、サイクロン号で本郷が去ってからの、モトクロスのコースで――
克己は、蘇生した。
死神博士と、二言、三言交わした後、克己は、黒井響一郎の顔を付けて、無事であったバイクで、その場を去った。
行き先は、黒井のマンションであった。
マヤからの最後の指令を――
黒井の妻子を、殺害する命令を、実行する為であった。
立花藤兵衛が、マンションを見張っているようであったが、今の克己にとって、黒井の部屋の前に侵入する事は、容易かった。
今の克己の身体は、チーター男のそれである。
超柔軟筋肉と、蛇腹の骨格。
全身の関節を外し、五体を一本の肉縄に造り変える事が出来るのだ。
バイクを、適当な所に停めた克己は、黒井響一郎の顔をした蛇となり、藤兵衛からは死角になる通風孔から建物の中に入り込んだ。
肉が、狭い、人の為の通路ではない通路で、ぐねぐねとうねっていた。
暗闇は問題にならない。
マンションの設計図は、頭に入っているし、仮にそうでなくとも、改造人間としての感覚が、目的の場所へと導いてくれる。
肉の螺旋が、黒井の部屋の前に辿り着くのは、すぐであった。
通風孔から出た克己は、関節を填め直し、黒井響一郎の姿になった。
片方の口角と、同じ方の肩を、同時に持ち上げてみせる。
黒井の癖であった。
チャイムを鳴らした。
閉まっていた鍵が、内側から開いた。
「はい――」
と、奈央が顔を出した。
「ただいま、奈央」
克己が、黒井の声で言った。
「響一郎さん――」
ほっとしたような顔で、奈央が言った。
「どうしたんだい」
「さっき、変な人たちが……」
「変な人が?」
「ショッカーとか、何とか……貴方が、攫われたって」
「攫われた?」
玄関に上がりながら、克己が笑った。
「部屋が、荒れていたものだから……」
「ああ――実は、派手に転んでしまってね。それで、少し怪我をしたんだ」
「え?」
「それで、薬を買いにね……」
ハリケーン・ジョーが荒らしたらしいリビングは、片付いていた。
そこに、光弘が玩具の車で遊んでいる。
と、その光弘が、克己の方を向いて、首を傾げた。
「だぁれ?」
と、訊いた。
奈央が、驚いたような顔をしていた。
克己は、
「どうした、ミッチ? お父さんだぞぅ」
と、膝を着きながら、笑った。
だが、光弘は、それが父親ではない事を、見抜いてしまったらしい。
子供らしい無垢な眼が、普段の父とは違う僅かな点を、理屈ではなく理解したのだ。
「もう、光弘ったら、何言って……」
そうして、奈央が、光弘の傍に腰を下ろそうとした時――
克己が、ぬぅ、と、ナイフを抜き放っていた。
「正解だぜ、坊や」
克己が、克己自身の声で言った。
ぎらりとしたナイフの輝きが、奈央の顔に映り込んだ。
「キャーッ!」
奈央は、咄嗟に、振り下ろされるナイフの前に身を投げつつ、息子を抱き締めた。
克己の手が素早く動き、奈央の顔を持ち上げると、その白い咽喉に、刃を滑り込ませたのであった。
仮面ライダー・本郷猛が、奈央の悲鳴を聞き付けて、部屋にやって来たのは、直後であった。
克己の内に変化が生じ始めたのは、それから暫く経ってからの事であった。
克己は、チーター男のボディから、通常の戦闘員と同等の肉体に戻っていた。
しかし、戦闘員と言っても、その改造された身体を動かしているのは、克己の脳なのであるから、人間の数倍に跳ね上がった身体能力の為、他の多くの改造人間にも劣らな
い。
死神博士と共に行動する時は、大体、その身体を基本としている。
そんな克己が、身体の不調を訴えたのである。
克己の日課は、トレーニングと実験で構成されている。
普段から、感覚を鈍らせないように、戦闘訓練を積んでいる。その傍らで、死神博士の造る改造人間の、実験体となっているのである。
その日は、実験がなかった為、何名かの戦闘員と共に、格闘訓練を行なっていた。
その際に、克己は、戦闘員の攻撃を喰らってしまったのである。
いつもの克己なら、起こり得ない事であった。
克己に一撃を入れた戦闘員は、もう少し鍛錬を積み、センスを磨けば、上位の改造人間にして貰える。
それを、戦闘員同士で喜び合っていた。
克己は、ショッカーの戦力の増強になるのならば、自分が攻撃を入れられる事も悪くないと思ってはいたが、その時ばかりは、驚きが勝っていた。
感覚が、働かなかった――
向けられた拳が、直後に消滅したのである。
気付けば、顔に一発、貰っていた。
そのような現象が、何度か起こった。
不意に、全身の感覚が消えてしまうのである。
酷い時には、足場がなくなったと感じ、何もない所で転んでしまった。
明らかな不調であった。
しかし、死神博士にチェックをして貰っても、異常は見られないと言うのである。
どうしたのか――
俺の身体は、どうなってしまったのか⁉
克己は、死神博士が日本から南米に異動しようという時、そんな悩みを抱えていた。
克己の悩みは、彼だけのものではなかった。
死神博士――イワンも、長年、伴侶のように連れ添った克己の身体の異変を、訝しんでいた。
二十数年も、一切の変調をきたさなかった身体である。
それが、どうして、今になって――
そういう思いがある。
流石に限界が来たのか?
しかし、脳と、そこから伸びる神経――克己のオリジナル部分に、損傷はなかった。
実験に耐えられなくなっているという事は、なかったのである。
――あの女が何かしたのか?
と、思わなかったではない。
マヤの事だ。
彼女に言われて、克己の身体にチーター男の筋肉と骨格を与え、暫くしてから、克己は不調を訴えるようになった。
しかし、仮にも大幹部である。ショッカーの有能な兵士である克己を、死神博士を蹴落とす為だとしても、潰そうとする訳がない。
では、本郷?
彼との接触が、何か、克己に変化を齎したのか?
そうとも思えない。
以前――本郷が基地から脱走を図った時、克己は本郷と一戦交わっている。
と、言っても、本郷の手刀の下に倒れ伏しただけだ。
あの時の克己は、本郷と殆ど同じ肉体であった。
強化改造人間の身体である。
あの時に、何らかの、肉体同士の共鳴が起こり、それが今になって――
だが、二度目に本郷と対峙し、斃される振りをした時には、克己の身体はチーター男と同じ規格のものであった。
強化改造人間に近いと言っても、完全に仮面ライダーと同じシステムではない。
何が原因なのか……
南米へ向かう為、ショッカー基地内の一室で、資料を纏める死神博士。
そこに、
ぐ、
ふ、
ふ、
と、低い笑い声と共に、現れた人物があった。
見ると、資料室の入り口の所に、妙なシルエットの男が立っている。
金色の、三角形の被り物を付けたような、全身に蛇腹を張り付けた男だ。
マントを羽織っている。
その内側に、蛇の尻尾と、その傍に小さな肉茎を突き出したような、異形の左腕が見えた。
「地獄大使……」
死神博士が言った。
南米へ赴く死神博士と擦れ違う形で、ショッカー日本支部の指揮を任される事となった、新しい最高幹部である。
うっ血したように赤い顔に、蒼い刺青が奔っていた。
「あの男の事ですな」
地獄大使が、いきなり、言った。
「何の事だ?」
「貴方のお気に入りの男の事ですとも」
「カツミの事か」
「そう――」
「カツミが、どうか、したのかね」
「あの男の不調の原因……」
「――」
「分からないものですかなぁ、死神博士――」
「何⁉」
「何ならば、あの男、私が、再び使いものになるようにしてやりましょうぞ」
「――お前に、カツミを、治せるのか?」
「治す……?」
地獄大使は、牙を剥いて笑った。
「治すのとは、ちと、違う事になるかもしれませんな」
「――ふん」
死神博士は、鼻を鳴らす。
「地獄大使、お前の言いたい事は分かる」
「ほぅ?」
「――お前に任せよう……」
「――」
「最後に、カツミの顔を見て行く事にする」
死神博士が、資料室を出た。
地獄大使が、にやにやと、蛇の笑みを浮かべていた。
夜――
克己は、浜名湖の畔に建てられた遊園地の中にいた。
独りであった。
明かりは点いていない。
どのような遊具も、動きを止めていた。
凍て付いた時であった。
克己と同じである。
克己も、動きを止めた時計の針であった。
いや、最初から、壊れた時計であった。
望まれて、宿った命ではない。
望まれて生まれたかもしれないが、生きる事を望んでくれた人は、いなかった。
そうであるなら、陽が昇れば、再び動き出すこれらの遊具たちの方が、克己よりは価値がある。
今は、眠っているだけだ。
だが、克己は、起きていながらも、死んでいた。
只の実験動物となる日々。
望んだ事だ。
いや、望んだ訳ではない。
自分が望んだように思い込んでいるだけだ。
それが生き甲斐だと――それを生き甲斐にして、生きている事を実感しろと、ショッカー首領から命じられていた。
抜け殻である。
虚空である。
その抜け殻を、ショッカーが動かしているのだ。
善悪は、克己には関係がなかった。
克己には何の生きる意欲もなかったのだ。
奪われるばかりの日々であった。
奪うばかりの日々であった。
それであっても、克己は、只虚しさだけを抱いて、虚しさの中で生きていた。
俺は、死人だ、と、思う。
生きている。
生きてはいるが、呼吸をしているだけだ。
目標はない。
願望はない。
快楽はない。
苦痛はない。
忿怒はない。
悲嘆はない。
ショッカーに従っていれば、その命令をこなしていれば、生きている心算にはなれた。
だが、結局、それはショッカーだ。
ショッカーが、松本克己という器を使って、自分の思う通りの事をしているだけだ。
克己は、何もしていない。
自らの意思は、虚空に、捨ててしまっていた。
ヨモツヘグリ――
ふと、思い出す。
俺は、あいつと同じだな。
生体兵器として戦場に出る前に、終戦を迎え、非道な人体実験の痕跡を抹消する為に閉じ込められ、ショッカーに回収された。
あの連中と、俺は、何が違う。
同じだ。
同じじゃないか。
“――生きてるんだろう⁉”
自分の言葉が蘇って来た。
自分に、真っ直ぐに帰って来た。
生きている――?
生きているとは何だ。
俺は、生きているのか⁉
生きていると言えるのか⁉
分からない。
分からなかった。
“だめだ!”
ふと思い出される声。
少年の、涙の混じった声――
“離しちゃだめだ!”
全身の血液が、脈打った。
血管の中で、全ての鉄分が刃となって、襲い掛かって来たような気がした。
克己の腹の底から、喰ったものがせり出して来る。
ショッカー戦闘員たちと一緒に喰う、改造人間用の強化細胞だ。
宇宙食みたいなものである。
味は、余り良くない。
プラスチックのような味だ。
“旨くないな”
死神博士が、イワンが、そんな事を言っていたように思う。
“旨くはないさ”
ゾル大佐も、同じような事を言っていた。
俺は――
克己は、確か、どうとも思わずに、喰ったのだ。
口に入れたものであったから、喰ったのだ。
それだけの事だ。
味など、知らない。
母がくれた、あの血肉の味しか――
吐いた。
克己は、胃の中のものを全て、地面に吐き出した。
馬の味がした。
馬の血と肉と糞の味だった。
ここ何十年も、喰った事のないものの味だった。
吐くものがなくなっても、吐いた。
胃液……胃液を再現したものを吐き出した。
それもなくなった。
咽喉が裂けて、血が……血の代わりを為す液体を吐き出した。
それもなくなったら――?
「……やはりな」
声が聞こえた。
死神博士であった。
その隣に、地獄大使がいる。
「イワン……」
思わず、その名で呼んでいた。
酸っぱい筈の胃液が、馬の血肉の味がした。
「カツミ……」
死神博士は、その場で四つん這いになっていた克己の傍に、膝を着いた。
「黒井奈央と光弘を殺した事が、大分、響いているようだな……」
「――」
「昔、聞かせて貰ったな……」
「――」
「子を抱いたまま、死んだ母親の話を……」
死神博士の背後で、地獄大使が、握っていた鞭を、地面に叩き付けた。
「下らんな……」
「カツミ……」
死神博士が、右手に持っていた杖の先端を、つぅと浮かせた。
克己の眼の前に、突き出す。
「お前は、ショッカーにいるには、甘い男だ……」
「――な、に?」
「これから、お前の脳を改造する――」
死神博士が、克己の前で、杖を振るった。
克己の意識は、暗闇に消えた。
“だめだ!”
子供の声。
“離しちゃだめだ!”
脂の匂い。
腐った肉。
焦げた身体。
川。
死の蔓延する川。
“だぁれ?”
首を傾げる子供。
“キャーッ!”
悲鳴を上げる女。
白い咽喉に滑り込むナイフ。
小さな背中に潜り込む刃物。
怒りに打ち震える赤い瞳。
哀しみに打ちひしがれる赤い瞳。
血。
死。
肉。
声。
“――生きてるんだろう⁉”
いや……
克己が眼を覚ました時、眼の前に、いきなり突き出して来たのは地獄大使の顔であった。
赤い顔の中にある、ぎょろりとした眼と、視線が合った。
「う⁉」
起き上がろうとしたが、四肢を拘束されていた。
ここが、何処であるのか。
自由になる頸を動かして、辺りを見回した。
ショッカー基地だ。
改造手術室である。
克己が寝かされているのは、その手術台であり、四肢を拘束しているのは頑丈な鎖だ。
「これは、どういう事だ⁉」
「カツミ――」
死神博士が、ぬぅと、克己の顔を覗き込んで来た。
「イワン……」
克己が言った。
「俺の、脳を、いじるのか」
「そうだ」
「――」
「あの日からだ……」
獣が唸るように、死神博士が言った。
克己も、分かっている。
黒井奈央と光弘を殺したあの日を境に、克己の身体に変調が訪れた。
何が原因か、克己にも、分かっていた。
光弘を腕の中で庇おうとした奈央が、空襲から逃げ切れなかった親子の遺体に重なり、赤子を引き摺り出されたヨモツヘグリに重なっている。
その為に、堪らない罪悪感のようなものが、克己の中に生まれてしまっていた。
「地獄だぞ、カツミ……」
死神博士が言う。
「今のお前に、ショッカーにいる事は、地獄だ……」
「――」
「お前を、私は、第三の男たるべく傍に置いていた。だが、ショッカーのやり方に疑問を持つお前を、このままショッカーに置いておく事は出来ない……」
「――」
「しかし、お前を手放すと言うのは、ショッカーにとっても、大きな損失だ」
「――」
「このまま、お前がショッカーに留まる事は、只傷付き、只苦しむだけだ。長年、連れ添った身としては、心苦しい事だ……」
「だから、俺の脳を、改造するのか」
「――」
死神博士が、無言で、顎を引いた。
克己は、納得したように、頷いていた。
「構わないさ……」
「――」
「俺は抜け殻だ。生きる意味が分からない。このままショッカーにい続けても、俺が、生き甲斐を見出す事は出来ないだろう。その為に苦しむなら、いっその事、そうしてくれた方が良い……」
「――だ、そうだ」
死神博士が、地獄大使に言った。
その死神博士に、克己が、不意に問うた。
「イワン……あんたは、ショッカーが正しいと思うか」
「む――?」
怪訝そうな顔をする死神博士。
「時々、考える事があったんだ……」
「――」
「ショッカーは、人類に戦争を仕掛けている。改造人間を造る為に人間たちを誘拐し、洗脳し、環境を破壊する事なく、密かに人間社会に侵略を行なっている……」
「――」
「それが必要な犠牲である事は分かる。最後には、ショッカーの下で、争いのない平和な世界が創られる事も分かる……」
「――」
「けれど――」
克己が、つぅと、視線を頭の上にやった。
逆さまになった、鷲のレリーフが、翼を広げている。
「母と子の絆を引き千切ってまで得る平和に、俺は価値を見出せないのだ」
克己は訊いた。
「イワン、あんたは、ショッカーを正しいと思っているのか?」
「――」
死神博士は、僅かに沈黙した。
その後で、静かに口を開いた。
「正しいか、悪いか――善か悪かで言えば、決して、善ではない……」
「――」
地獄大使が、死神博士の横顔を、細めた眼で眺めた。
「しかし、それが何だと言うのかね」
「――」
「私はね、カツミ――ナターシャが再び私に笑い掛けてくれれば、それで良いのだよ」
そう言うと、死神博士は、手術室を去って行った。
手術台の上の克己と、地獄大使、コンピュータの管理を行なっている科学者グループだけが、その場に残っていた。
地獄大使は、着々と克己の脳改造手術の準備を進める科学者戦闘員の一人から、頭蓋骨を穿孔する為のドリルを奪い取り、克己の顔の上に、頭を突き出した。
「全く、彼には冷や冷やさせられる」
と、死神博士の事を愚痴る。
克己は、もう、何かを話す気分ではないようであった。
地獄大使は、そのような態度を取る克己を見て、愉快そうに笑った。
「カツミくん、君は、これから頭の中をいじられて、まさに我々ショッカーの操る人形となる訳だがね――」
「――」
「君たちにとっては、それが、幸せであろうね」
「幸せ?」
「悩まなくて良いのだからね」
そう言いながら、地獄大使は、電動ドリルのスイッチを入れた。
螺旋を描く鉄の棒が、音を立てて、回り始めた。
銀の本体に刻まれた溝が、回転の中に白く浮かび上がっている。
空気を巻き込んで、唸りを上げていた。
「麻酔はしないよ、カツミくん。何せ、これが、君が最後に経験する痛みだ」
「――」
「地獄を楽しみ給えよ、カツミくん」
地獄大使が、電動ドリルの先端を、克己の頭部に向けて、ゆっくりと突き付けて来た。