克己が眼を覚ました。
ベッドの上であった。
天井の様子からすると、恐らく、あの基地の別室であろう。
身体を起こそうとしたが、全身を鎖で拘束されているかのように、動かない。
意識が覚醒するに連れて、タールのような疲労が、込み上げて来た。
時計の音が鳴っている。
針が、一秒を何度も刻んでいた。
ベッドの右側に、扉があり、それが開いたのは、五分程してからであった。
「眼が覚めたかね?」
イワンであった。
初めて会った時より、さっぱりと小奇麗になっている。
服も、真っ白な、スリー・ピースのスーツになっていた。
イワンは、ベッドの傍にあった椅子の背もたれに、上着を掛けてから、腰を下ろした。
「私が分かるかね、カツミ……」
「――お、俺は……」
克己が口を開いた。
「や、奴は、どう、なった……?」
「奴?」
「よ、よも、よもつ……」
咽喉に、血の味を感じていた。
舌が巧く回らなかった。
空気が、折れた歯の隙間を通り抜けて行く。
「あの、ヨモツヘグリかね」
イワンが問うと、克己は頷いた。
「死んだよ……」
「死んだ⁉」
「憶えていないのかね」
「――」
克己には、ヨモツヘグリと戦っていた記憶はあるが、その結果が頭の中に残っていない。
いや、まだ、戦っている最中であるような気もして来た。
それなのに眠っているとは、どういう事か、と。
だから、死んだと聞いて、驚いたのである。
「君が、あれの、腹を突き破って、倒したのだよ」
「――」
右腕に、嫌な感触が蘇った。
臓腑の温もり。
その奥にあった柔らかさ。
返り血の温度。
ヨモツヘグリの、おぞましい悲鳴。
「女……」
ぽつりと、克己が呟く。
「あれは、女、だったんだな」
「ああ」
「子を、孕んでいたな……」
「そうだ」
「俺は、その、子供を……」
「――“生きてるんだろう”……」
「え?」
克己が、イワンの方に、顔を向けた。
「君は、そう言っていたよ」
「だ、誰に?」
「ヨモツヘグリにだよ」
「――」
思えば、確かに、そういう事を、言ったかもしれなかった。
だが、何故、そんな事を言ったのか。
「ヨモツヘグリが、抵抗をやめたのだよ」
イワンが説明を始めた。
「何?」
「君と戦うのを、やめようとしたのだ」
「――」
「しかし、彼が鞭を鳴らすとね、君に向かって行くのだよ」
「彼?」
「ゾル大佐さ」
「――」
「そうして、また、君らは戦った。けれど、少しして、ヨモツヘグリはまた、戦うのをやめようとする。すると、大佐が鞭を鳴らすのだ……」
そういう事を、繰り返したらしい。
その最中に――
“――生きてるんだろう⁉”
克己は、そう言ったらしい。
そう言って、泣いていたらしい。
そう言って、泣きながら、殴っていたらしかった。
「ああ……」
思い出した。
克己は、その時、自分が何故、そんな事を叫んだのかを、思い出したのだった。
「ゾルの、命令で……」
と、語り始めた。
「あいつが、俺から逃げようとするのを、やめるのが、分かった」
イワンは、それを静かに聞いていた。
「あの鞭の音で、あいつは、自分の恐怖心を、失くすんだ。でも、でも、それは、あいつ自身の意思じゃない。あいつと、実際に戦っていた俺には、それが、分かった……」
「――」
「だから、思ったんだ……」
「――」
「どうして、お前は、生きている筈なのに、自分の意志を押し通さないんだ――」
「――」
「子を孕んでいるのも分かった。それを守る為に逃げようとしたのも――」
「――」
「それなのに、あいつは……」
「カツミ……」
イワンが、静かに言う。
「君が、彼女の腹から、赤子を取り出した後……」
ヨモツヘグリは、それでも、まだ動いたという。
克己に襲い掛かった。
まるで、赤ん坊を取り戻そうとするかのようであった。
克己は、しかし、そのヨモツヘグリを返り討ちにした。
その一発の迎撃で、克己は倒れた。右手には、赤ん坊の胴体を掴んだままだった。
臍の緒で、ヨモツヘグリと克己は繋がっていた。
ヨモツヘグリが、這って、又、克己に襲い掛かった。
しかし、克己を叩いたヨモツヘグリの手が、赤ん坊に伸びた。
異様に太い腕が、赤子を抱き締めた。
すると、その凄まじい腕力が、自らの子供を絞め殺してしまったのであった。
ヨモツヘグリは、悲鳴を上げて、そのまま倒れた。
ゾルが、克己の戦闘力に、満足したように笑っていた。
彼が鞭を鳴らすと、何処にいたものか、黒尽くめの集団がやって来て、闘技場に入った。
疲弊した克己を助け出すのと、ヨモツヘグリを回収するのに別れた。
ヨモツヘグリを回収する黒尽くめの男が、彼女の手から、赤子を取り外そうとした。
肩を貸されて立ち上がった克己は、その光景を見て、眼を剥いて叫んだ。
“駄目だっ!”
“離しちゃだめだ!”
と、先程までの負傷などなかったかのように駆け出し、黒尽くめの男たちを、ヨモツヘグリから引き剥がしたのである。
克己は、真っ赤な眼で、男たちを睨み付けながら、ヨモツヘグリと、その赤子を抱き締めた。
ゾルが、克己の意思を尊重して、ヨモツヘグリと、その子の遺体を、決して別れさせる事なく運ぶよう、命じた。
「意外だったな……」
イワンが言った。
「君が、ああいう事を言うとはね」
「――俺じゃない……」
「――」
「空襲のあった、次の、日だ……」
克己の眼が、遠くを見つめていた。
その日――
隅田川に、遺体が溢れた。
空襲警報が鳴らされた。
人々は、自宅から、我先にと逃げ出そうとした。
川に飛び込んだ。
その川に、爆弾が落っこちて来た。
そのまま焼け死んだ。
そういう屍が、ごろごろと、脂の浮いた水の中に転がっていたのである。
遺体を回収する作業の指揮を、克己は執らされた。
その途中で、聞こえて来たのだ。
克己が言った通りの言葉だ。
“だめだ!”
“離しちゃだめだ!”
見れば、一人の少年兵が、川の中から引き上げた遺体を、抱き締めていた。
血涙を流さんばかりの凄い眼で、憲兵を睨み付けていた。
彼が抱いている遺体は、女であった。
女である事が、辛うじて分かる程度の膨らみを帯びるだけだ。
皮膚は真っ黒に焦げ、嫌な匂いが持ち上がって来る。
その遺体は、胸に、子供を抱いていた。
勿論、焼け焦げた遺体の腕の中で、子供が生きている筈もない。
それでも――
その親子の遺体を引き剥がそうとした者たちを、少年は睨み付けていたのである。
その時の光景が、克己の脳裏に焼き付いていた。
だから、ヨモツヘグリが我が子を抱く姿が、それに重なり、あの少年と同じ台詞を、克己に言わせていたのである。
「そうか……」
イワンが、静かに頷いた。
そうした所で、部屋のドアが開き、ゾルがやって来た。
「体調は如何ですかな、カツミ」
「――充分、休ませて貰った」
むすっとした様子で、克己が言った。
「それは良かった。こちらも、充分、君の力を知る事が出来ました」
「そうかい」
「首領も絶賛されていました」
ゾルが言った。
「あの男こそ、我らがショッカーに相応しい男だ、と」
「――」
「カツミ、君を、ショッカーに迎え入れたい」
ゾルが、悦に入ったような表情をしていた。
「……イワン……」
克己は、ベッドの傍のイワンに声を掛けた。
「あんたは、どうする?」
「私かね……」
イワンは、溜め息を吐くように言った。
「私は、彼らに与する事にした。あの技術を見せられてはね」
「――そうか」
「私は、どうしても、ナターシャを取り戻したい……。その為には、あの、ヨモツヘグリを、死人を再び動かす技術が必要なのだ」
「――」
「仮に、ショッカーが、悪魔であったとしても、私は、きっと同じ事を言う……」
「――」
「私には、他に、何もないのだ。博士号など、それで得られる名誉など、財産など、何の意味も持たない。傍で、ナターシャが、笑い掛けてくれなければ、そんなもの、ゴミだ」
「……そうか」
克己は、眼を閉じて、頷いた。
そうして、再び瞼を持ち上げると、イワンに眼を向けた。
「同じだな……」
「同じ?」
「ああ」
克己は、次に、ゾルの方に視線をやった。
「ショッカーに、協力しよう……」
「ほぅ!」
ゾルが、喜色を浮かべる。
「俺も同じだ。イワンと同じで、何もない。いや、イワン以上に、何もないと言って良い。何せ、俺には、愛する人もない。俺にあるのは、この、身体だけだ。けれど、何もしないのであれば、その身体さえも意味を為さなくなってしまう」
「ふむ」
「俺は、死人だ……」
「――」
「ゾル、イワン……」
克己は、言葉を一旦止めて、深く息を吸った。
そして、蒼い炎のように、その口から言葉を吐いた。
「俺を、生き返らせてくれ……」
克己がそう言った時であった。
「克己よ――」
と、いきなり、そんな声が聞こえて来た。
思わず、上体を起こす。
イワンや、ゾルが入って来た時は、誰もいなかった筈の空間から、その声は響いて来た。
それ以降に、ドアが開いた様子もなかった。
見れば、そこには、一人の僧が佇んでいた。
僧――と、言っても、日本でいう僧侶とは違う。
裸の身体に、オレンジ色の布を巻き付けているだけであった。
右肩を出している。
チベットの修行僧などは、このような姿をしている。
頭を剃り上げていた。
整った顔立ちだが、どう表現する事も難しい。
その眉間に、ぽつりと、デキモノのように膨らんだものがあるのは、見て取れた。
ゾルは、その僧を見て、両足を揃え、右腕を高く掲げた。ナチス式の敬礼であった。
「あ、あんたは……」
克己が問い掛けた。
「ヘールカ」
と、僧形の男は言った。
「――と、一応は、名乗っている」
「一応は?」
「イワン博士、私の事が分かるかね」
ヘールカは言った。
「ああ」
イワンが頷いた。
「私に、連絡を取った男だね」
イワンは、ドイツで、その男から様々な条件を提示され、日本へ来るよう言われた。
克己は、ヘールカを見て、それから敬礼のポーズを採ったゾルを見て、彼の事を察した。
どうやら、このヘールカという僧が、ショッカーの首領らしい。
と、不意にヘールカは克己を見て、
「その通りだよ、松本克己――」
と、言った。
克己の心の中を読んだかのようであった。
「克己、私が、君の生き甲斐となろう――」
ヘールカは言った。
「生き甲斐⁉」
「そうだ。人類の為に、我々ショッカーに、手を貸してくれ給え」
ヘールカは、克己の傍に寄ると、右手を差し出した。
克己は、
「生き甲斐、か……」
と、小さく呟きながら、ヘールカの手を握った。