浜名湖畔――
イワンは、克己と共に、静岡までやって来た。
富士を臨む、大きな湖である。
夏の陽光を浴びて、水面が煌めいていた。
その向こうに、そびえる巨山があるのである。
克己は、イワンを、目立たない場所にある洞窟まで案内した。
「ここは?」
イワンが訊いた。
「俺も、良く、分からないんですよ」
と、克己が言う。
克己は、イワンに連絡を取った者からの、使いであった。
しかし、浜名湖までイワンを連れて来るように言われてはいたが、それが何者であるかという事は、聞いていないようであった。
暫く、食事と寝床を提供するので、イワンを案内するように、言われたらしい。
二人が、洞窟の前に立った。
洞窟と言っても、人が二人、腰を屈めて入る位の入口であった。
背の高い克己とイワンであれば、通り難い事、この上なかった。
しかし、入り口を過ぎて少し行くと、広く削られていた。
人の手が、明らかに入っている。
入り口の方を、中から岩で防いでしまえば、洞窟がある事も分かるまい。
外は、暑い。
陽射しが、ぎらぎらと降り注いで来る。
しかし、洞窟の中は、ひんやりとしていた。
上から、水滴が落ちて来る場合もある。それらが、水溜りを作っていた。
「恐らく――」
と、克己が言った。
声が反響する。
「日本軍の基地でしょうね」
「基地?」
「ええ。完成する前に、終戦を迎えたようです」
「――そんな所に、何故、私は呼ばれたのだ……?」
「さぁ?」
そんな話をしている内に、突き当りにやって来た。
扉が設けられている。
鉄の扉だ。
克己は、扉の中心に設けられているボタンを、何回か、タイミングを分けて押した。
モールス信号であった。
か
つ
よ
し
と、打っている。
かつよし――
何らかの暗号であろうが、日本語だろうと、海外の言葉だろうと、その意味する所を、イワンは分からないでいた。
扉が開錠された。
横に開いた。
扉は、壁の内側に引っ込んで行った。
「ほぅ……」
イワンが、声を上げた。
鉄の扉の向こうには、白い電球に照らされた廊下が、あったのである。
床は、コンクリートであった。
壁は、赤い。
通路も、決して広くはなかった。
一本道である。
廊下を行くと、又、扉があった。
そこには、鷲が翼を広げた紋章が、大きく描かれていた。
取っ手や、スイッチの類はなかった。
「どうするのだ?」
イワンが訊く。
「確か、こうやるそうです」
克己が、鷲の紋章に、顔を近付けた。
鷲の胸の辺りに、孔が開いていた。
硝子がはめ込まれている。
そこに、右眼を近付けて行く。
と、ロックが解除された。
網膜で、克己の事を認証したのである。
すると、扉が、先程と同じように、横にスライドした。
克己、イワンの順で、足を踏み入れた。
そこは、壁中に、液晶やキーボード、種々のスイッチが埋め込まれた部屋であった。
ドアから続く形で階段が下に伸びている。
その階段を、視線で辿って行くと、下のフロアの中心に、テーブルが置いてあった。
椅子が、三基。
手前に二つだ。
奥にある一つの椅子の傍に、男が立っていた。
カーキ色の軍服を着た、左に眼帯をしている男だ。
イワンよりも少し若く、一〇代の克己よりは歳を重ねて良そうな男であった。
しかし、そこはかとなく、ダンディな雰囲気を持っている。
軍服の男は、軍靴を鳴らして足を揃え、深く礼をした。
「ようこそおいで下さいました、イワン=タワノビッチ博士――」
軍服の男は顔を上げた。
モンゴロイド系の顔立ちであった。
「バカラシン=イイノデビッチ=ゾル――と、申します」
「ゾル……」
イワンは、その名に、憶えがあった。
「閣下の……」
「ええ。若輩ながら、お傍付きをさせて頂いておりました」
言いながら、ゾルは、右手に持った鞭を振り上げた。
「これは、閣下より賜ったものです」
二人の言う閣下というのは、ナチス・ドイツの総統である、アドルフ=ヒトラーの事だ。
面識はなかったが、どちらも、ナチスに従軍している。
ゾルに至っては、若いながら、大佐の地位に就いていた。
「お会い出来て、光栄です、博士」
「――君が、私を、呼んだのかね?」
「いいえ。唯、私は、ヘル・カツミに、貴方をお連れするよう、依頼したのみです」
“ヘル”というのは、ドイツ語で、英語の“ミスター”に当たる言葉だ。
「あの方は、人前には滅多にお姿を見せません。ですが、我々の言動を、逐一、把握していらっしゃいます」
「――」
「先ずは、どうぞ、お掛け下さい。ヘル・カツミも」
ゾルが、二基の椅子を手で示した。
イワンが、階段を下りる。
その後に、克己が続いた。
ゾルから見て、イワンが左、克己が右に腰掛けた。
克己は、浅く足を組んで、背もたれには寄り掛からなかった。
二人が着席すると、ゾルも、椅子に座った。
「私を呼んだのは、何者なのかね」
「我々にとっては、閣下に代わられるお方です」
ゾルが言った。
「そして、ヘル・カツミ」
「む――」
「貴方にとっては、この国に代わられるお方ですよ」
「何?」
「博士、カツミ――」
と、ゾルが、イワンと克己に顔を向けた。
真っ直ぐな瞳であった。
そして、妙な貫禄を持っていた。
イワンも、その背の高さと、疲労の為ではあるが削げた頬や、炯々とした眼から、凄まじい圧力を感じさせる。
恐怖を煽る。
敵意を持って睨まれれば、気の弱い者なら、糞便を垂れ流すかもしれない。
だが、それとは違うパワーを、ゾルは眼の内に溜めていた。
紳士的でありながら、凶暴。
圧倒的でありながら、寂静。
例えるなら、それは、満ちた月を背負い、崖の上に孤独に佇む、金の毛皮を纏った狼だ。
そのようなエネルギーが、ゾルの視線から感じられた。
克己でさえ、息を呑む。
「単刀直入に言います。我々の同志となって頂きたい」
「同志⁉」
「我々――?」
イワンと克己が、少し、訝しげな顔をする。
「ええ」
ゾルは頷いた。
「世界に平和を齎すのですよ」
「平和だと?」
「はい。その為に、博士の技術と、カツミのような若者が、必要なのです」
「――」
「新世界の建設です」
「新世界?」
「ええ。その為の組織に、貴方がたが欲しい」
「組織?」
「博士、カツミ――」
ゾルが、二人に呼び掛けた。
「この戦争は、終わりました」
第二次世界大戦の事である。
「しかし、争いがなくなるという事はありません。きっと、すぐに、次の戦争が起こるでしょう」
「――」
「だろうな……」
イワンが頷いた。
「争いは人間の本能です」
ゾルが言う。
「人間の歴史は、戦争の歴史と言っても良い。どんなに小さなものであっても、戦争の火種は消える事がありませんよ」
「――」
「但し――」
「ああ」
と、イワンが、ゾルの言葉を代弁した。
「次の戦争は、起し難くなるだろう」
「――」
「原爆だ」
「原爆?」
克己が訊いた。
広島と長崎に落とされた、たった二発の爆弾である。
しかし、そのたった二発が、無数の人々の生命を、無慈悲に奪い取ったのだ。
国民皆兵を謳ったとは言え、実際には戦う力などなかったに等しい人々でさえ、核の炎を浴びる事となった。
「只の二発で戦争を終結させる兵器――欲しくない訳がない」
ゾルが言った。
「これからの兵器開発は、それが主になって来るでしょうね」
「原爆が⁉」
「それは、そうでしょう。人は、常に、より良いものを求めます。戦争――人を殺し、領知を占領するに当たって、あれ程優れたものはない……」
「だが、あれを使うという事は、環境を著しく汚染する事になる」
「環境を?」
「左様――」
「つまり、人類は、自らの頸を、自らの手で絞め上げる事になるでしょう」
ゾルが、自分の首筋に、手を這わせていた。
「それだけは、防がねばならない」
「――それで、“世界に平和を”、か」
「はい。醜い争いに明け暮れている世界中の人々に、心の平和を与え、仲良く新世界の建設に協力させる――博士、カツミ、貴方たちは、その使命を為すべく、選ばれたのです」
「――何故だね」
自らの言葉に、恍惚としているようなゾルに、イワンが訊ねた。
「何故、私……たち、なのだね?」
「その優れた、頭脳と、肉体故に――」
ゾルが、イワンと克己を、それぞれ眺めた。
「頭脳?」
「肉体?」
二人が首を傾げると、ゾルが、このように言った。
「お話ししましょう――我らショッカーの、世界平和の為の計画を」