ざんばらの髪の男であった。
刃物のような光を、眼に湛えていた。
血走った、狂犬の眼であった。
「格好悪いぜ」
もう一度、言った。
日本語であったから、まだ、通じていないようであった。
イワンに馬乗りになった白人兵士が、ざんばら髪の男を睨んでいる。
「幾ら勝った側だからって、そういう事を、お上は認めてないだろう」
今度は、英語であった。
意味が通じた。
「その兄ちゃんの上から退きな」
「誰に向かって口を利いてるんだ?」
イワンの上から、白人兵士が言った。
声に、こわいものが潜んでいる。
「あんただよ。さもないと、酷い事になるぜ」
男が、軽い調子で言った。
しかし、決して、眼は笑っていなかった。
少しつつけば、破裂してしまいそうな危うさがあった。
「どう酷い事になるんだい」
もう一人の白人の男が、訊いた。
ざんばら髪の男は、唇を吊り上げて笑うと、自分の鼻を指差した。
「おたくの高いここが、潰れる事になる」
「――」
「次に、その白い肌が、赤く染まるだろうさ」
「――」
「その上、もっと白いものが、出て来る事になろうぜ」
「何――」
「骨さ」
強烈な台詞であった。
ざんばら髪の男は、見るからに屈強なこの兵士たちに向かって、解放性の骨折をさせる事を、宣言していた。
「面白い小僧だな」
イワンの上から、退いた。
「へい、ジム――」
その後ろで、ガムを噛んでいた白人兵士が、笑い掛けていた。
「ぼうやの言う通りだぜ。やり過ぎは良くない」
「――」
「でも、向こうから喧嘩を売って来たんなら、身を守る必要があるな」
それを聞くと、ジムが、嬉しそうに顔を歪めた。
「ああ。何せ、向こうは、最初から俺に怪我をさせる心算なんだからな……」
ジムはそう言うと、ざんばら髪の男に向かい合った。
若干、前傾して、両方の拳を顔の前に持ち上げた。
ボクシングの構えであった。
「ぼうや、やるんだろう――」
「――」
「もう、引き返せないぜ……」
そう言いながら、ざんばら髪の男に、間合いを詰めて行くジム。
その姿を、イワンが眺めていた。
見事に整った構えである。
少しばかり、武道を齧った程度の人間では、打ち込む事は出来なかった。
それに、ジムと、ざんばら髪の男では、体格が違い過ぎた。
ざんばら髪の男も、当時としては高身長である、一七〇センチ。
国民服の内側の肉体は、八〇キロ位はあるだろう。
筋肉が、良く発達して、引き絞られていた。
薄らと、脂肪を載せている。
ジムは、身長で、一八五センチはあった。
体重は、九〇キロを越えている。
ヘヴィ級だ。
一〇キロの体重差は、格闘に於いて、大きな壁である。
打撃の威力というものは、質量×速度である。つまり、同じ速度のパンチを出す二人であっても、片方が八〇キログラム、もう片方が九〇キログラムであれば、後者に一〇キロ分の威力がプラスされる事になる。
ジムと殴り合いになれば、ざんばら髪の男の不利は、否めなかった。
ましてや、ジムはボクサーである。
人を殴る事には、慣れている。
イワンを殴っていた時は、それでも、かなり手加減していたのであろう。
しかし、今度は、本気で相手を殴りに掛かっている。
「行くぜ、ぼうや――」
ジムが言った。
ざんばら髪の男は、自然体のままであった。
両手を、体側にだらんと垂らしている。
足は、肩幅に開いているだけだ。
狂犬のような眼だけが、ジムを眺めていた。
ジムが、フット・ワークを使って、男に接近して行く。
そうして、
「――ひゅっ」
と、呼気を吐くと共に、左足で踏み込みながら、左の拳を飛び出させた。
ジャブ――
本来ならば、間合いを測る目的で使われる技だが、ヘヴィ級のボクサーが、それ以下の階級の相手に使う時、それは必殺の威力を誇る。
しかも、牽制の意味も込めて打ち出される為、素早い。
打ったら、すぐに引き戻す。
そして、すぐに打つ。
まるで閃光である。
ざんばら髪の男と同じ程の身長体重の人物が、それなりに腰を入れた突きを、何発も叩き込まれるようなものであった。
だが――
すぅ、
と、ざんばら髪の男の身体が、沈んだ。
ジャブが、男の頭上を擦り抜けて行く。
ぶつり、と、髪の毛を幾らか引き千切って行った。
次の瞬間、ジムの顎を、男の軍靴が打ち上げていた。
上下の歯が噛み合い、そのまま、砕けてしまう。
ジムが、膝から崩れ落ちた。
顎を叩かれる事で、脳が、頭蓋骨の中で激しく揺れたのである。
暫くは、立ち上がれない。
ボクシングのリングの上であれば、テン・カウントを鳴らすまでもなかった。
見事な一撃であった。
膝を抜く事に因り、自然落下する身体を急激に持ち上げ、その動作で、落下エネルギーを攻撃に加えたのである。
自らの反射を基盤とした蹴りは、ジャブよりも速い。
「糞ッ」
と、黒人兵士が唾を吐いた。
ざんばら髪の男に向かって、タックルを仕掛ける。
こちらは、ボクサーの男よりも、更に一回り、身体が大きかった。
もろにぶち当てられれば、ざんばら髪の男でも、川に吹っ飛ばされてしまうであろう。
しかし、ざんばら髪の男は、冷静であった。
両脚を狙って来る為、体勢を低くしていた黒人兵士の頭を両手で押さえて、跳び上がった。
両脚は脇に振り出している。
跳び箱の要領であった。
黒人兵士が、川の中に、頭から突っ込んだ。
小さな水柱が上がり、米軍服はびしょ濡れになってしまったが、ざんばら髪の男の国民服は、その飛沫さえも浴びていないようであった。
「笑わないのかい――」
残った、もう一人の白人兵士に、ざんばら髪の男が言った。
白人は、有色人種を下に見ている気配がある。
日本人だけではない。黒人たちに対してもそうだ。
だから、無様に川の中に頭から突っ込んだ黒人兵士を見て、心の中では、嘲りたい情動に駆られている筈である。
しかし、一応は、自分たちの同胞であった。
しかも、そうさせたのは、敗国の敵兵なのである。
どれだけの差別的感情があっても、今だけは、笑える筈がなかった。
ふふん、
と、いった顔をするざんばら髪の男の後ろから、黒人兵士が立ち上がった。
瘤のように、全身を盛り上げている。
黒人特有の、素晴らしい筋肉が、ざんばら髪の男を倒す為に、総動員されていた。
「るるぁっ」
黒人兵士が、拳を叩き付けて来た。
ボクシングの、精錬されたパンチではない。
喧嘩っぽい。
しかし、それだけに、実戦向きな一発であったと言えるだろう。
ざんばら髪の男は、それに、冷静な対処を下す。
ダッキング。
膝を使って、頭の位置を変えた。
黒人兵士のパンチは、男の顔の横をすり抜けて行く。
ざんばら髪の男は、黒人の右側――つまり、振り出した腕の外側に位置していた。
とっ、
と、ざんばら髪の男の左足が跳ね上がった。
弧を描いて、背足が、黒人兵士のこめかみに直撃する。
先程のボクサーと、同じ事が、彼の脳内で起こっていた。
廻し蹴り――
使う部位や、足の運び方など、異なる所はあるが、近年では、空手、キック・ボクシング、テコンドー等々で、見た目の派手さもあり、決め手として使われる事が多い技だ。
しかし、この当時の日本には、廻し蹴りはなかった筈である。
空手が琉球から伝来したのは、大正時代であるが、それにしても、廻し蹴りは存在しない。
今で言う前蹴りとか、横蹴りのようなものしかなかった。
ざんばら髪の男が、最初に使ったのは、こちらに近い蹴りだ。
だが、このざんばら髪の男は、それと同じような自然さで、廻し蹴りを使ってみせた。
これから先、或る空手家がタイに武者修行に出て、そこで取り入れて、初めて日本で開発される筈の、背足での廻し蹴りである。
「あんたもやるんだろう?」
ざんばら髪の男が言った。
残った白人兵士は、顔を真っ赤にしていた。
決着は、すぐに付いた。
ざんばら髪の男が、襲い掛かって来た相手の襟を掴み、腰に乗せて投げ飛ばした。
下は、砂利の敷き詰められた地面であった。
一発の投げで、かたが付いた。
「大丈夫ですか」
ざんばら髪の男が、イワンが立ち上がるのに、手を貸した。
「ありがとう……」
イワンが、擦過音の混じった声で、答えた。
歯が折れており、そこから、空気が漏れるのだ。
「大変でしたね」
男の口調が、丁寧なものに代わっていた。
「いや――」
イワンは、首を横に振った。
思えば、こうして殴られても、仕方のない事をして来たのである。
ドイツで、何人の人間の身体にメスを入れた事か。
彼らの中に、その親類縁者がいないとは、限らない。
「強いな……」
イワンが言った。
「ええ」
「――助かったよ、私は……」
と、言い掛けて、イワンは口を噤んだ。
若し、外国人という事がばれれば、この男も掌を返すかもしれなかった。
「イワン=タワノビッチ博士――」
と、ざんばら髪の男が言った。
「え?」
「貴方を、迎えに来た者ですよ」
ざんばら髪の男は言う。
「俺は、松本克己といいます」
……あ、宣言通りの事をやっていない。